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 属国・日本論
 
副島隆彦・著  五月書房
 
 育てられた親イギリス派の日本人

  イギリスは坂本龍馬だけを工作者として使ったのではなく、五代友厚や伊藤博文をも別個に動かしている。前年8月の四国艦隊下関砲撃事件にしても、17隻の連合艦隊が一撃で長州藩の砲台を破壊して、陸戦隊を上陸させて占領したのである。フランス、オランダ、アメリカの軍艦と日を置いて交戦し、次々に砲台を占拠されている。それぞれたった半日の戦闘である。それぐらい日本の軍事力は弱かった。
  この事件の講和交渉を進めるために、あわてて伊藤博文と井上馨がロンドンからイギリス軍艦で帰国している。この2人は交渉用の人材として育てられたのだから、そのために帰国させられたと言うべきだ。
  薩摩藩の場合も、その前年の「薩英戦争」の処理のために五代友厚が育てられていたのだろう。イギリスはこの頃から日本人の若者たちを自国に招き寄せては、親イギリス派の人材として育成することを行なっていたのだ。
  イギリスはアヘン戦争で中国を屈服させて開国通商させるときにも、親イギリス派の中国人の人材を育てておいてから武力を行使した。そしてその後の中国にイギリスが植民地(租界)を開いてゆく様子を、日本人の高杉晋作のような人物を上海に連れて行って見せたのだろう。

 
兵器こそが薩長連合を成立させた

  この下関砲撃の翌年の7月に幕府による第一次長州征伐があったのだが、この戦争も実態は小競り合いに過ぎない。長州藩の方が近代火力や軍艦の点で幕府側よりも強かったから負けなかっただけのことである。
  このようにして、1865年には長州は坂本龍馬や伊藤博文を介してグラバーから船鑑弾薬を大量に受け取っている。この事実があってはじめて、翌年の薩長連合が成立したのだ。
  このあとの第二次長州征伐の際に、高杉晋作が組織した奇兵隊が強かったのは、やはりイギリスの日本戦略に従ってグラバーが大量に上海から輸入した鉄砲大砲の類があったからだ。進んだ軍事技術の前には、旧式の鉄砲大砲は太刀打ちできないのである。
  日本人は自分たちの力で国内改革をやってきたと思いたいだろうが、真実は、この幕末維新期でさえ、当時の世界帝国イギリスの描いたシナリオの通りに歩かされたのだとする方が正しいだろう。
  この時期から日本はイギリス及びアメリカの支配下に入ったのである。そのことを明瞭に自覚していたのは、五代友厚(後に大阪堂島の商工会議所を開き、株式市場などの資本主義国としての経済制度を作っていった人物)と大村益次郎と坂本龍馬と伊藤博文と井上馨である。だから、彼らはインナー・サークル(本当の秘密を知る人間たち)であった。その周辺に公家の岩倉具視やら木戸孝允やら西郷隆盛やら、それに大久保利通と後藤象二郎がいた。

 
最終段階で切り捨てられた坂本龍馬

  坂本龍馬が襲撃され暗殺されたのは、翌67年旧暦11月15日である。寄宿していた京都河原町の近江屋という醤油屋で、中岡慎太郎と一緒に殺されている。
  この前月の10月13日には、将軍徳川慶喜は「もう幕府はもたない」と自覚して先手を打って大政奉還を宣言し、翌14日に朝廷に奉請している。京都にいた40藩の代表を二条城に集めて、「自分がこのまま諸大名の頂点に立ち、諸侯会議という合議体制に移行させよう」としたのである。これに対して薩長の倒幕派は、公家たちを動かして同じ14日に、朝廷から「倒幕の密勅(秘密の勅許状)」をもらっている。これで薩長は一気に軍事クーデターを起こすことを決め、薩長出兵協定を結んで戦艦隊も関西に到着している。
  この動きの中で坂本龍馬は殺されたわけだ。どうも坂本龍馬は、この武力倒幕路線に最終局面で反対しており、「幕府が諸侯会議を開くというのだから、それでいいではないか」という考えだったようだ。それでこの緊迫した時期にインナー・サークルからはずされたのではないか、とも考えられる。
  既に坂本龍馬はイギリスにとっては切り捨てるべき段階に来ていた。67年4月には、高杉晋作も結核で死んでいる。
 
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