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 コナン・ドイルの心霊学
 コナン・ドイル 近藤千雄・訳 新潮選書
 
 
 死の直後

 死の直後について私がまず間違いないと見ているのは、次の諸点である。
 
「死ぬ」という現象には痛みは伴わず、いたって簡単である。そして、そのあとで、想像もしなかった安らぎと自由を覚える。やがて肉体とそっくりの霊的身体をまとっていることに気づく。しかも、地上時代の病気も障害も、完全に消えている。その身体で、抜け殻の肉体の側に立っていたり、浮揚していたりする。そして、霊体と肉体の双方が意識される。それは、その時点ではまだ物的波動が残っているからである。
 エドマンド・ガーニー氏の調査によると、その種の現象の250件のうち134件が死亡直後に発生していることがわかっている。物的要素が強いだけ、それだけ人間の霊視力に映じやすいということが考えられる。
 しかし上の数字は、蒐集された体験のほぼ半分ということであって、地上で次々と他界していっている厖大な死者の数に比べれば、稀なケースでしかない。
 
大部分の死者は、私が想像するに、思いもよらなかった環境の変化に戸惑い、家族のことなどを考えている余裕はないであろう。さらには、自分の死の知らせで集まっている人たちに語りかけても、身体が触れても、何の反応もないことに驚く。霊的身体と物的身体との波長の懸隔があまりにも大きいからである。
 光のスペクトルには人間の視覚に映じないものが無数にあり、音のスペクトルにも人間の聴覚に反応しないものが無数にあるということまでわかっている。その未知の分野についての研究がさらに進めば、いずれは霊的な領域へとたどり着くという考えは、あながち空論とは言えないのではないかと思うのであるが、いかがであろうか。
 それはさておいて、死者がたどるそのあとの行程を見てみよう。
やがて気がついてみると、自分の亡骸の置かれた部屋に集まっている肉親・知人のほかに、どこかで見たことのある人たちで、しかも他界してしまったはずの人たちがいることに気づく。それが亡霊といった感じではなく、生身の人間と少しも変わらない生き生きとした感じで近寄ってきて、手を握ったり頬に口づけをしたりして、ようこそと歓迎してくれる。
 その中には、見覚えはないのだが、際だって光輝にあふれた人物がいて、側に立って「私のあとについて来なさい」と言って出ていく。ついていくと、ドアから出ていくのではない。驚いたことに、壁や天井を突き抜けて行ってしまう。こうして新しい生活が始まるというのである。
 以上の点に関してはどの通信も首尾一貫していて、一点のあいまいさも見られない。誰しも信じずにはいられないものである。しかも、世界のどの宗教が説いていることとも異なっている。先輩たちは光り輝く天使にもなっていないし、呪われた小悪魔にもなっていない。人相や容貌だけでなく、強さも弱さも、賢さも愚かさも、たずさえた生前のその人のままである。

 そうした新しい環境での生活が始まる前に、スピリット(霊)は一種の睡眠状態を体験するらしい。睡眠時間の長さはさまざまで、ほんのうたた寝ほどの短時間の場合もあれば、何週間も何カ月もかかる場合もある。
 私の推察では、睡眠期間は地上時代の精神的体験や信仰上の先入観念が大きく作用するもののようである。つまりこの悪影響を取り除くための期間であって、その意味では、期間が長いということはそれだけの睡眠時間が必要ということになる。
 いずれにせよ、死の直後とそのあとの新しい環境での生活との間には、大なり小なり「忘却」の期間があるということは、すべての通信が一致して述べていることである。

 死者のスピリットは、他界直後はしばらく睡眠状態に陥るのが通例である。これは、地上に誕生した赤ん坊が、乳を飲む時以外は眠っているのと同じで、その間に新しい生活環境への適応の準備をしているのである。
 ところが、戦争や事故で、あっという間に死んだ場合など、怨みや憎悪といった激しい感情を抱いたままに死んだ場合には、その感情が邪魔をして眠れず、したがって霊的感覚も芽生えないので、いつまでも地上的波動の中でさまようことになる。これを地縛霊といい、その種のスピリットの出す波動が地上の生者にさまざまな肉体的ならびに精神的障害をもたらしていることが明らかとなってきた。
 
 
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