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 武士道
 なぜ「武士に二言はない」のか?
新渡戸稲造 奈良本辰也/訳・解説
三笠書房
 
 武士道は損得勘定をとらない

 軍事教練において、当然あるべきものとされていながら武士道の訓育に欠けているものに算術がある。しかしこれは封建時代の戦闘は必ずしも科学的正確さを伴うものではなかった、という事実により一応は説明がつく。だがそのことのみならず、サムライの訓育全体から見て、数の観念を育てるということは都合が悪かったのである。
 武士道は損得勘定をとらない。むしろ足らざることを誇りにする。武士道にあっては、ヴェンティディウスがいったように「武人の徳とされている功名心は汚れをまとった利益よりも、むしろ損失を選ぶ」とさえいう。
 ドン・キホーテは黄金や領地よりも、彼の錆びついた槍や骨と皮ばかりのロバに誇りをもっている。そしてわがサムライはこのラ・マンチャの誇大妄想にとりつかれた同志に満腔の敬意を払っている。彼は金銭そのものを忌み嫌う。金儲けや蓄財の術にたけることを嫌う。
 彼にとってはそれは紛れもない不正利得であった。
 時代の頽廃を述べるときの常套句は「文臣銭を愛し、武臣命を惜しむ」というものであった。黄金を惜しみ、生命を失うことを恐れる風潮はそれらを無駄に費やすことと同じく、非難の的となった。
 よく知られている格言は、「なかんずく金銀の欲を思うべからず、富めるは智に害あり」といっている。したがって、武士の子弟は経済のことをまったく眼中に入れないように育てられた。
 経済のことを口にすることは、むしろはしたないこととされた。そしてさまざまな通貨の交換価値を知らないことが育ちのよさのあかしとさえされた。
 数の知識は、出陣や陣立や恩賞、知行の際に欠くことができなかった。だが金銭の計算は身分の低い者に任された。
 多くの藩で藩財政は小身の武士かあるいは僧侶に任されていた。もちろん思慮のある武士は誰でも軍資金の意義を認めていた。しかし金銭の価値を徳にまで引きあげることは考えもしなかった。武士道が節倹を説いたのは事実である。だがそれは理財のためではなく節制の訓練のためであった。
 奢侈は人格に影響を及ぼす最大の脅威と考えられた。もっとも厳格かつ質素な生活が武士階級に要求された。多くの藩では倹約令が実行された。
 書物で知るところによると、古代ローマでは収税吏や財政をとり扱う官僚がしだいに武人の階級に昇進し、その結果、国家は彼らの職務や金銭そのものの重要さに対して重い配慮を払うようになった。このことからローマ人の贅沢と強欲が引きだされたと考えることもできよう。
 だが武士道にあってはそのようなことはありえなかった。わが武士道は一貫して理財の道を卑しいもの、すなわち道徳的な職務や知的な職業とくらべて卑賤なものとみなしつづけてきた。
 このように金銭や金銭に対して執着することが無視されてきた結果、武士道そのものは金銭に由来する無数の悪徳から免れてきた。
 このことがわが国の公務に携わる人びとが長い間堕落を免れていた事実を説明するに足る十分な理由である。だが惜しいかな。現代においては、なんと急速に金権政治がはびこってきたことか。

 
武士道は無償、無報酬の実践のみを信じる

 頭脳の訓練は今日では主として数学の勉強によって助けられている。だが当時は文学の解釈や道義論的な議論をたたかわすことによってなされた。前に述べたように若人を教育する主たる目的は品性を高めることであった。したがって抽象的な命題が若者の心を悩ますことはほとんどなかった。単に博学であるだけで人の尊敬をかちうることはできなかった。
 ベーコンが説いた学問の三つの効用、すなわち快楽、装飾、および能力のうち、武士道は最後のものに決定的な優先権を与えた。その能力は「判断と実務の処理」のために用いられることを目的とした。公務の処理にせよ、自制心の訓練のためであるにせよ、実践的な目的をもってその教育が行なわれたのである。
 教える者が、知性ではなく品性を、頭脳ではなくその心性を働きかける素材として用いるとき、教師の職務はある程度まで聖職的な色彩を帯びる。
 「私を生んだのは父母である。私を人たらしめるのは教師である」この考えがいきわたるとともに、教師が受けた尊敬はきわめて高かった。そのような信頼や尊敬を若者にいだかせるような人は必ずすぐれた人格をもち、学識に恵まれていなければならなかった。その人たるや、父のない者たちの父であり、迷える小羊たちの助言者であった。
 「父母は天地の如く、師君は日月の如し」とも説かれている。
 どんな仕事に対してもその報酬を支払う現代のやり方は、武士道の信奉者の間ではひろまらなかった。武士道は無償、無報酬で行なわれる実践のみを信じた。
 精神的な価値にかかわる仕事は、僧侶、神官であろうと、教師であろうと、その報酬は金銀で支払われるべきものではない。それは無価値であるからではなく、価値がはかれないほど貴いものであるからだ。
 ここにおいて武士道の、算術で計算できない名誉を重んずるという特質は、近代の経済学以上に、はるかな真実の教えを人びとに教えたのである。
 賃金や俸給は、その仕事の結果が明確で、形があり、計数で測定できる場合にのみ支払われる。しかしながら、教育における最良の仕事、あえていうならば精神の高揚にかかわる仕事(この場合、神官、僧侶の仕事も含む)は明確でもなければ、有形のものでもなく、また計数で測定しうるものでもない。計数で測定できないものに対して、価値の外面的な計量方法である金銭を用いることはきわめて不適当である、というのである。
 もっとも1年のうちのある時季に、弟子たらが彼らの師になにがしかの金銭や品物を持参する慣習は認められていた。だがこの慣例は支払いではなく、感謝の意を表わす献上の金品であった。そして、じつのところは、それらの金品は贈られた側にも大いに喜ばれた。というのは、彼らは通常、厳格さと誇りある貧乏で知られており、さりとて、みずからの手を用いて働くにはあまりにも威厳がありすぎ、みずから人に物を乞うには自尊心が強すぎる人びとであったからだ。
 彼らは逆境に屈することのない、高貴な精神の威厳ある権化であった。彼らはまた学問がめざすところのものの体現者であり、鍛錬に鍛錬を重ねる自制心の生きた手本であった。そしてその自制心はサムライにあまねく必要とされるものであった。

★なわ・ふみひとのコメント★
 
一般的に「大和魂」と呼ばれている価値観の根底に「武士道」の思想が流れていると見られます。その武士道は長年にわたってわが日本民族の精神を形づくってきましたが、幕末・維新と太平洋戦争(大東亜戦争)という2つの大きな破壊攻撃を受けて、今日では跡形もなく消滅しつつあります。昨今の世相を見ていますと、日本人はかつて美徳とされた「武士は食わねど高楊枝」という諺の意味さえ理解できない「拝金主義」の国民にされてしまったような気がします。それにしましても、ここまで徹底してこの国を堕落へと導いた世界支配層の分析力と戦略の巧みさには、怒りや恐怖を覚えるというより、むしろ「敵ながらあっぱれ」と舌を巻かざるを得ません。

 
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