人のからだは、なぜ治る? 
ホリスティック・メディスンの知恵 
大塚晃志カ・著 ダイヤモンド社 
 

 「健康」の本質とは何か

 しかし一体、「健康」とはなんであろうか。それは、全く不死身のスーパーマンや、スーパーウーマンを意味するものなのだろうか。それは、パーフェクトで完璧なものでなければならないのだろうか。アメリカ人は、往々にして、パワフルでパーフェクトなヘルスというものにあこがれやすい。だが考えてみれば、誰しもが性格に欠点をもつように、完璧な人間というものは存在しない。完全な人間を目標に向上努力し、能力の限界というものを追求するのは、もちろんそれはそれで価値あることで否定するつもりはない。そういう面も、自らをきたえていくにはたしかに必要である。
 健康の英語は、healthであり、この言葉の語源は、ギリシャ語のHolosという全体という意味の言葉である。全体イコール完全ではあるまい。もし、この全体という言葉を「生の全体性」と解釈してよいのなら、それは、まさに大自然のありのままの姿を象徴するものであろう。大自然では、一見、矛盾相対立するものが不思議に補い合い、調和している。それはまさに、古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスがいった「万物流転」の姿であり、「諸行無常」という、釈迦が見抜いた、すべてのものが刻々と変化してやまない姿である。中国の易経も、その森羅万象のダイナミックな変化を洞察している。
 そうであるならば「生の全体性」とは、ととのって固定された完全性ではなく、その変化流動そのものであろう。私は、これを「ダイナミックにして絶妙なるバランス」と表現したい。自然や宇宙の変化そのものは、めまぐるしいものでありながら、常にバランスを保っている。地球の自転にせよ、公転にせよ、そうである。それは一見、完全に見える。しかし、実は「不完全なものが補い合いながら変化してやまない姿」を遠くから見ると完全なように見える、ということなのではないか。
 自然界において、一見無秩序に見えるものの中に秩序があり、秩序に見えるものの中に混沌としてやまないものがある。
 われわれは、誰しもが自然の申し子なのであるから、われわれの浅はかな大脳で考えたような枠にはめられた「完全性」は、自然のありのままの実相ではなく、われわれの生命のあり方でもあるまい。人間が頭で理想として勝手に考えた「完全性」は、人間の願望の投影であることが多く、その投影されたイメージは、明らかに生命のありのままの姿ではない。それを真に自覚するとき、かえって生命の可能性が開けるように思われる。
 ゆえに、私は「健康」というものをめくるめく変化のうちにバランスが保てる生命の活性状態と考える。完全という言葉にとらわれなくてもよいように思う。完全という言葉はしばしば呪縛になりやすい。変化してやまぬ「生の全体性」こそ、われわれの「健康」の本質なのだと思う。
 ゆえに「全体性」イコール「完全性」ではない。「生の全体性」とはもっと大きい包括的なものであり、それなりのでこぼこもあるはずなのだ。
 そうであるなら、単に病気にならないことが「健康」というとらえ方ではなく、ちょっとぐらい「病気にかかっても大丈夫!」という、とらわれのない考え方もできる。誰にでも「治る力」があるからだ。
 このことが理解できれば、健康指導者は決して病気になるべきではないという強迫観念にとらわれなくともすむことになる。医者だって人間である。その他の健康指導者だって人間である。そして患者も人間である。これは、すべての人にとっての自己解放になると思う。もちろん、だからといって、医者や健康指導者がいつも不節制で、いつも不健康であってよいということではないが。
 生涯病むことなく「完全な健康」を維持してきたという人間がいるだろうか。いないはずだ。縁あって「健康」の問題にとり組んだ人は、ほとんど自ら病気に悩み、苦しんだ経験をしている。ゆえにこそ「健康」の価値がわかる。虚弱な体から、完全ともいえるほどの健康体になったケースなども、あきらかに最初からパーフェクトだったわけではなく、その過程で血のにじむような努力と研究があるものである。
 また、「健康」へのリスクがあっても、「酒なくして、なんの人生か!」と言いきる人もいる。
 人それぞれの人生観がちがうように、健康観もちがう。それは人それぞれの選択によるところが大きい。国、民族、宗教、文化、習慣のちがいによっても異なるところも多い。
 となると、「健康」についてもっとも大切なことは、「こうするのはいい、こうしてはいけない」という、戒律なのではなく、生命ある人間の「健康」に共通するある種のガイドラインであろう(ただし、重い病気を治そうとするときは、それなりにきびしい微妙な戒律のようなものは必要ではあるが)。
 そういう知恵を学び、自らのライフスタイル、体質、心質に合ったやり方を、自発的に選択していくことが大切なのであろう。ただし、人間が自然に生きる生身の生物である限り、やはり自然の法則に全く反しているようなやり方は、かえって体を損うだけだから心したい。また、選択の自由には責任がともなうものであることを忘れてはなるまい。
 さて、あなたは、一体どんな「健康」がほしいのだろうか?
 
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