人のからだは、なぜ治る? 
ホリスティック・メディスンの知恵 
大塚晃志カ・著 ダイヤモンド社 
 
 

 ホリスティック医学の定義

 (中略)

@ ホリスティック(全的)な健康観に立脚する

 人間を「体・心・気・霊性」等の有機的統合体ととらえ、社会、自然、宇宙との調和にもとづく包括的、全体的な健康観に立脚する。

 人間は体だけの存在ではない。心だけの存在でもない。伝統的な中国医学の考えの中には「気血の流れ滞るところ病おこる」というものもある。経絡の概念に代表されるようにわれわれの生命体には気というものが流れ、循環しているらしい。その気は体内をめぐるだけでなく、外界とも絶えず交流しているものでもある。ゆえに人間という生命体は気の存在ともいえることになる。さらに、霊魂のあるなしにかかわらず、人間の深い精神性や根源的な魂というものを考えるとき、人間の根源的精神性、もしくは霊性というものを無視するわけにはいかない。体・心・気・霊性――それらのどちらが先で、どちらが後ということではない。人間という生命体とは、まさにそれらが一つのものとして多元的にかさなっている存在をいうのである。どれも切り離せない一つの生命のあらわれなのである。
 西洋医学に代表される現代医学は、往々にして肉体の健康だけを見がちである。ゆえに患者が症状や不快感を訴えても、検査をしてデータに異常がなく、体に異常が認められないとなると、打つ手がない。病名をつけられないと治療方針が立てられず、ひどい医者になると患者を精神科にまわしてしまったりする。アンドルー・ワイル博士によれば、精神科という科は、他の科にもまして物質主義的であるという。患者の心そのものを見ようとするより、患者の脳の異常を薬でなんとかすることばかりが先行しているようである。
 中国医学が五臓六腑と人間の感情とのかかわりを指摘し、かつハンス・セリエのストレス学説に代表される心身医学が、心と体のむすびつきを強調するように、人間の心と体は別々に切って考えることができない。

 まさに人間の生とは一つの全体性なのである。その人間の生命の健康は、人間が社会というものを構成している限り、社会というものから切り離して考えることはできない。テクノロジーがどんどん発達していく一方で、時代の変化のスピードも速くなり、仕事の多面化もすすみ、複合的ストレス社会ともいわれる時代となっている。それが人間の健康を左右しないわけはない。また、日本では戦後から今日までの食生活の急激な変化が現代人の健康を損い、多くの現代病の原因となっているとの指摘もある。人間の健康と社会はまさに切り離せないものなのである。人間の内なる心が平和であるなら、社会も真に平和でありうるとの考えもある。また、逆に社会が戦争にさらされているなら、人間の心がいつもおだやかでいられるはずはない。
 さらに、人間の存在は自らをとりまく自然というものと切り離して考えることはできない。人間は少なくとも自らの生命の糧である食物を、自然の中から手に入れる。私たちの食べる穀物、野菜にせよ、大地の土と水、空気、太陽の光なしには育たない。私たちの生命はそういう自然界のエネルギーを直接的、間接的にとって生きながらえることができる。空気がなくても、水がなくても、太陽の光がなくても、私たちは生きられない。まさにわれわれは自然の一部なのである。自然の恵み、自然の恩恵なくしては、人間は誰一人生きられないようになっている。
 生物の世界に食物連鎖という循環するサイクルがあるように、地球という一つの生命体は、その中に生きとし生けるものたちがお互いにもちつもたれつの絶妙な相互関係をダイナミックに保ちながら、刻々と変化していく。地球も人間も他の生物も、結局はその生命のルーツをたどれば、宇宙の誕生にまでさかのぼってしまう。そこに絶妙にして深遠な生命のきずなとバランス関係がはたらいている。
 地球の自転にかかわる地軸の傾きがちょっと変化しても、地球の太陽を中心としてまわる公転の軌道が少し狂っても、たいへんなことになる。すべてが一見矛盾対立し、混沌として見える中、絶えず変化し、生成崩壊をくりかえす宇宙には、不思議な秩序がある。
 人間の生命の健康というものが、そのような社会・自然・宇宙との絶妙なバランスの中にあって成り立つことを、われわれは深く考えてみるべきであろう。ゆえに、人間の欲望のための経済効率を最優先し、地球の生態系のバランスが狂ってくるまでに自然を破壊しつづけてきた人間のおごりは、当然その報いを受けねばならないのかもしれない。人間自らが自然の一員であることを忘れて、環境破壊を行なってきたことはいわば自殺行為であろう。
 人間の真なる健康とは、本質的にいえば人間・社会・自然・宇宙との調和にもとづくものといえる。

A 自然治癒力を癒しの原点に置く

 生命が本来自らのものとしてもっている「自然治癒力」を癒しの原点に置き、この自然治癒力を高め、増強することを治療の基本とする。

 自然治癒力とは、ヒポクラテスの時代より指摘された「病を癒し、治す自然の力」のことである。生きているからこそ病にかかる。病気というブレーキがかからなければ、あっというまに死んでしまうということすらある。ある意味で病も生命力のなせるワザともいえる。しかし、生命力には、病を癒し、バランスを回復しようという内なる治癒力もある。薬物や手術が治すのではなく、患者自身の「自然治癒力」が自らを治していくのだ。
 臨床の名医ほど分野を超えてこのことを知る。
「結局、患者自身のもつ治癒力だ、ということを父はよく申しておりました」
 世界的に有名な心臓外科の名医、故榊原仟博士のご子息の夫人にあたる榊原節子さんから直接うかがった言葉である。
 一方で技術を過信し、最先端のテクノロジーを駆使し、病気を敵とみなし、攻撃し、戦って勝とうとする人々も多い。手術は成功し、ガン細胞も徹底的に叩いたが、患者は死んでしまったなどということもある。
 どんな最新医療技術をもってしても、結局のところ病を克服する決め手は、患者自身の治癒力にあることを夢々忘れてはならない。それを忘れることは、人間の大脳がつくりだした「おごり」にほかなるまい。患者自身の生命力なくして、テクノロジーは無意味である。
 さらに広義において「自然治癒力」とは、個人の内なる治癒力にとどまらず、本来自然とひとつらなりの生命体である人間にとって、「人間の内なる治癒力を養い育ててくれる大いなる自然の癒しの力」と考えることもできる。現に、自らの肺ガンを、樹林の中で淡々と気功を行なうことにより癒したという例もある。病を癒す偉大な自然の力は、われわれ人間の内と外をめぐりめぐっているのかもしれない。とすると、自然の中で癒し癒されるつらなりあいも、「自然治癒力」といえるのかもしれない。
 この「自然治癒力」という医の原点にもあたる言葉を、アメリカでもイギリスでも、その他の国々でも、彼らのホリスティック医学の定義の中に使っていないことを調査で発見したときは驚いた。使っていたのは、日本のわれわれだけであった。免疫力については言及できても、自然治癒力という言葉を使うとなると、医療関係者から科学的ではないと批判されることをおそれてのようである。メカニックな説明がなかなかできないからだろうか。
 すべての自然科学は自然への畏敬とその観察よりはじまった。ましてや、西洋医学のルーツにあたるヒポクラテスも指摘した「自然治癒力」を科学的でないとして一笑に付すような医学者は、まさに医の原点を忘れ、天にツバを吐くような輩にすら思われる。
 日本ホリスティック医学協会が、世界にむけて堂々とこの言葉を使ったことは、実に勇気あることであり、大いに意義深いことと私は思っている。この「自然治癒力」という言葉を、勇気と自信をもって堂々と使い科学的に説明している医師は、アリゾナ大学医学校のアンドルー・ワイル博士くらいなものである。いまは亡きアメリカージャーナリズム界の巨人ノーマン・カズンス氏は、「自然治癒力は、単なる免疫力を超えるもっと大いなる力である」と賛同、大いに激励してくれた。私たちは、もっと自然治癒力の可能性といったものに勇気をもって目を向けるべきであろう。

B 患者が自ら癒し、治療者は援助する

 病気を癒す中心は患者であり、治療者はあくまで援助者である。治療よりも養生が、他者療法よりも自己療法が基本であり、ライフスタイルを改善して患者自身が「自ら癒す」姿勢が治療の基本となる。

 病気は、医者や薬や病院が治してくれるものと思いこんでいる患者がけっこう多い。またいざとなったら、日頃不節制をしていても、医者のところに駆けこめば、なんとかなると考えている人もけっこういる。しかし、いざとなってから、あわてて駆けこんでもなんとかならないのがほとんどである。あくまで自らの健康を養うのは自分であり、病気を癒す主体が自分であることを忘れてはなるまい。治療者側はあくまで援助者であり、治癒へ導く補助でしかない。
 中国医学の言葉に「未病を治す」という言葉がある。「病がおこる前に、病がおこらぬよう治めてしまう」という意味だと思われるが、それができる医者を聖医と呼んだらしい。まさにことがおこってから治療するよりも、日頃の養生により健康を保ち、病を未然に防ぐことこそが大切である。末期ガンになってからあわてたり、脳卒中で倒れてからなんとかしようとしても遅いのは明らかである。そのようにならぬよう、文字通り、自らの「生を養う」べく養生することが生きる知恵であろう。
 また、治療にしても他人まかせでなく、自ら積極的に主体的にとり組む姿勢も大切である。すなわち、自ら積極的に病気を克服しようとする意思である。京都大学総合人間学部助教授でホリスティック医学協会の会合によく顔を出される、臨死体験研究の権威カール・ベッカー博士は、日本人にとくに見うけられる「患者の側の人まかせの態度と甘えの精神構造」について鋭い指摘をしていたものである。
 自ら治そうとする意思、生きようとする意思がない患者を癒してゆくことはむずかしいものである。まして、高齢者で、病気であることの“利得”にどっぷりつかってしまっている人もいる。生きがいがなく、孤独で、病気でいることで人に甘えたり、かまってもらえることに慣れきった人は、なかなか病気を手離そうとはしない。
 そういうことをも考え合わせた上で、他者療法より自己療法を基本としていく。しかし、この自己療法とは、自分勝手な自己流の療法という意味ではない。専門家の意見をきちんと聞きながら、自ら主体的にとり組むということである。薬にたよりきるのではなく、自分のライフスタイルの誤りに気づき、それを根本的に改善して「自ら癒す」積極的な姿勢が大切なのである。「天は自ら助く者を助く」というとおりである。その結果、「対症療法」よりも「根本療法」が中心となってくるのである。

C さまざまな治療法を総合的に組み合わせる

 西洋医学の利点を生かしながら、日本をはじめ、中国、インドなど各国の伝統医学、心理療法、自然療法、栄養療法、食事療法、運動療法、民間療法などの種々の療法を総合的、体系的に組み合わせて、最も適切な治療を行なう。

 これには少し説明が必要である。
 鍼灸、漢方に代表される東洋医学の専門家や民間療法の大家、さらには自然療法の名人にいたるまで、往々にして西洋医学をことごとく批判し、否定し、医者をやたら攻撃するような傾向がある。たしかに明治以来、漢方医は不当に弾圧、迫害され、また医者以上に多くの人々の命を救ってきたようなすぐれた民間療法家たちも、医師の資格をもたないということで正当に評価されず、なにかあれば、「そらみたことか」と攻撃をかけられ、国や医師らの団体から圧力をかけられたりしてきた。そういう歴史を顧みれば、たしかに現代西洋医学や医師らの権威性について憤懣やるかたない思いや怨念に似た気持ちが尾をひき、西洋医学に対しやたら批判的になるというのも理解できるところである。
 しかしながら、西洋医学における解剖学や生理学、生化学などといった基礎医学的知識は、たいへん重要なものであるし、臨床上とても役立つ知識であることは否定できない。いくら「病気よりも病人をみよ」ということが強調されても、やはり病気の性質等についての明確な知識がないと、簡単な処置ですむところを、かえって複雑にして問題をこじらせてしまったりするものである。その意味でも病理学的知識の重要性は指摘せざるをえない。だいたいにおいて、民間療法や食養療法家らは、自分たちの考えに固執するあまり、そのようなことを軽視しがちで、はっきりいって勉強不足の感がある。人は一人ひとりが異なり、その病人をみなければならないからこそ、同時に病気についてもちゃんと知っておかねばならないと思われる。
 また西洋医学は、いざ事故でケガをしたときの外科的処置や救急医療においてたいへん評価できるところが多いし、細菌性の感染症に対し大きな威力をもっていることは周知の事実である。さらに、最新のテクノロジーを駆使した検査技術にいたっては、やはり大いに役立っているものと評価できる。
 そのような西洋医学のもつ利点を事実としてフェアに認め、その考え方を知り、生かした上で、全くちがった視点と土俵の上に立つ、世界の伝統医学をも生かす道を考えなくてはなるまい。五千年の歴史をもつインドのアーユルヴェーダ伝統医学や、やはり数千年の歴史をもつ中国医学、さらに日本における伝承医療には、西洋医学にはないもち味があり、とくに慢性的疾患については大いに役立つ知恵や知識がある。
 その他、世界にさまざまある代替療法の数々にも、やはりそれぞれのよさがある。心の面の重要性も注目される今日、心理療法も大切になってくる。それぞれがかさなり合い、重複し合うところも多いが、自然療法、栄養療法、食事療法、運動療法、民間療法なども、さまざまなものがあり、おのおののよさをもっているものである。西洋医学の方法だけが医学や療法ではないのである。それぞれがお互いの情報や意見をオープンにかつフェアに交換しあい、協議して、その患者にとってもっとも適切な治療プランを組んで対処するなら、これほどすばらしいことはないであろう。

 (中略)

D 病への気づきから自己実現へ

 病気を自分への「警告」ととらえ、人生のプロセスの中で、病気をたえず「気づき」の契機として、より高い自己成長、自己実現をめざしていく。

 病気とは、考えてみれば自分という生命体が生きているがゆえに示す反応である。たとえば、「痛み」があるということは、そこで炎症か何かがおこっているという体の叫びであり、警報と考えることができる。何かが内部でおこっているからこそ「痛み」があるのだ。さらに病気は、いままでの自分の誤ったライフスタイルへの警告とも考えられる。ずっと不節制をつづけていたら病気になるものだ。そして、病気は、いままでの生活や生き方が、自らの生命にとって必ずしも正しくなかったということを身をもっておしえてくれているとも考えられる。考えてみると、「私は今まで風邪ひとつひいたことがない。どんなにムリをしても病気をしたことがない」などという人は、かえってあぶない。「えっ、あの人がまさか!?」というように、ある日突然ポックリいってしまったりする。体の警報器が鳴るべきときに鳴らず、通常は大事にいたる前に体が示してくれる病気の初期症状が出ないのだ。生命の警報器がこわれてバカになってしまっているということは、何かあれば、即、死につながることを意味する。
 ハンセン病が相当すすむと、足の裏に大きな釘がささっても、「痛み」を感じないほど神経がマヒしてしまうという。それなら、生体が示す「痛み」とはなんとありがたいものではないか。
 病気という現象の表相だけにとらわれて、安易に症状だけを薬で止めて一時しのぎをしたり、痛みを痛み止めですぐ消してしまい、それが何を示しているのか、何か原因でそういう症状があらわれているのかを考えないのは、とても危険である。病気の症状をムリヤリおさえても、その病気の原因となっていることは何も変わっていないということがよくある。
 対症療法も、ときとしては必要で有効である。しかし、根本の原因も見逃しやすいし、真の根本療法にはなりえない。

 (中略)

 話が回想とともに少し横にそれたが、ようするに病気は自分と自分の生命、人生の生き方への「警告」なのだ。人生のプロセスの中で、病気は己の人生や生命の価値の再発見の契機となる、大切な「気づき」の機会でもある。病気を契機として命の大切さ、命のありがたさを真に実感し、いままでとちかって、生まれ変わったように人生を生きなおしていく人も多い。そういう人の人生は、深みと充実感を増していく。いままで自分の勝手で生きていると思いこんでいた人が、大病をして九死に一生を得、はじめて自分が生かされている存在であることを知り、人生を大転換させていくようなケースもある。
 また、そこまでかたく考えなくとも、病気をしてみてはじめて病気の人の気持ちがわかることもたしかである。そして、はじめて自分の体と生命にまじめに向きあおうという気持ちにもなっ
てくるものなのだ。
 すなわち、病気の意味を理解し、生命の意味に気づくことは、より高い自己成長、自己実現へのかけがえのない重要なステップとなりいるのである。
 
 
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