ユダヤの日本侵略450年の秘密
太田龍・著  日本文芸社
 

 
坂本龍馬はグラバーの指令で暗殺された!?

  長崎に居を構えるグラバーは、フリーメーソンの人脈に取りこまれていた坂本龍馬を使役して、薩長盟約に誘導した。問題は、薩摩である。薩摩もまた、徳川を討って島津の幕府を立てる藩代々の政治的意志をもっている。グラバーは、龍馬を使って薩長倒幕密約に持ちこむことに成功したのである。
  ユダヤ・フリーメーソンは薩摩をおだて、長州をおだて、ロンドンに留学生を招き、洋式兵器を供給し、両藩の私的利権の欲望をあおり立てた。大久保利通は、そのメカニズムを了解し受け入れた。ここに、ユダヤ悪魔教の手先となって、薩長が日本の国権を簒奪する。そして孝明天皇を弑逆し、幼帝をおのれの手中の「玉(ぎょく)」として奪うために、岩倉具視が共同謀議に参画する、という極秘の筋書きができあがったのである。
  伊藤博文は、この三者密約に合流した。西郷隆盛は、この桂小五郎・大久保利通・岩倉具視の謀略に乗せられ、踊らされ、利用された、と筆者は見る。
  他方、ユダヤはフランスを使って徳川幕府に洋式軍隊建設を働きかけた。いよいよ事態はユダヤの周到な計画通り、孝明天皇は暗殺、薩長対徳川の、日本民族を真っ二つに割る大内乱の幕が切って落とされようとした。ちなみに当時清国は、ユダヤに操作された太平天国の人工的動乱によって、1850年から約10年のあいだに、実に5千万人の人命を失った! ユダヤが日本列島でもその再現を狙っていたことは疑う余地はない。
  したがってこの時点では、龍馬はメーソンの傀儡と言ってよいのではないか。その龍馬がなぜ、慶応3年(1867年)11月15日に暗殺されねばならなかったのか。
  筆者は、この土壇場で龍馬が、フリーメーソンが日本の内乱を演出し、それを足がかりに日本の植民地化を図ろうとしている謀略に気づいたのではないか、そして、この秘密を知った(あるいは感づいた)日本人が、幕末に少なくともあと2人いた、と推察している。 
  その2人とは、徳川幕府の勝海舟、そしてもうひとりが、他ならぬ徳川15代将軍を継いだ徳川慶喜である。この2人が謀略を見破り、幕府と薩長の内戦の危機を阻止すべく、ついに慶応3年10月14日、朝廷に大政奉還を上奏した。
  龍馬は、これを知って、「――よくこそご決意くだされた! この上は、われらこの君(慶喜)のために、生命を捧げて働きまする」と、感極まって男泣きに泣いた、といわれている。龍馬暗殺はその1カ月後である。慶喜に大政奉還されては、倒幕派と幕府の内戦の火は消えてしまう。メーソン側としては、なんとしても戦を挑発しなければならない。(中略)
  グラバーは、この情勢を逆転させるために、倒幕路線の敵となってしまった龍馬の暗殺処分を、薩長、岩倉(具視)に教唆したのではないか。しかも、暗殺成功後、あたかも幕府・新撰組が龍馬殺しの犯人であるかのようなニセ情報を流したのではないか。
  11月15日の近江屋における龍馬(そして中岡慎太郎)暗殺後、12月9日のいわゆる小御所会議で、岩倉と薩長は公武合体派を追放する私的クーデターを引き起こしている。

 
日本大内乱謀略を未発に防いだ純正日本人・西郷隆盛の処分計画

  岩倉・大久保・木戸(孝允)は、旧徳川方に挑発のかぎりを尽くし、東北雄藩との理不尽きわまる戦争に持ち込みはしたものの、慶喜はじめ徳川宗家御三家は妄動をせず、日本民族は危ういところを救われたのである。
  ニセ官軍側の総大将の位置につけられた西郷隆盛は、どうやらこの戊辰の役の過程で事の真相の一端に気づいたようだ。この官軍の莫大な洋式軍隊の装備は、アメリカ独立戦争終結にともなって不要となったものが、グラバーを通じて供給されたという。
  戊辰戦争を指揮した西郷隆盛は深く後悔し、憂いに包まれた。新政府でただ一人の陸軍大将に任じられ、事実上の軍の総司令官、維新と勲功第一等、と誰もが見た。グラバーらフリーメーソンは、あの手この手で西郷を誘惑したが、西郷はことごとくこれを斥けた。
  かくしてユダヤ悪魔教の第二次対日侵略戦争の前途に、赤信号が灯った。日本大内乱の謀略が不発に終わり、300万の武士階級は、水戸、会津両藩など一部を除き、温存されてしまったのである。ユダヤの謀略では、内戦によって武士階級をそっくり壊滅させる手はずであったのだ。
  そして、西郷はユダヤの対日謀略の存在を、チラと感づいた模様である。西郷を料理せよ!  これがいまやユダヤ・フリーメーソンの対日謀略の焦点として登場した。
  (中略)
  大久保・桂(木戸)・岩倉の逆賊3人組は、ユダヤ・フリーメーソン駐日代表グラバーの手駒である。西郷は、このことに気づいたようだ。かくなる上は、神武の武力をもって奸賊大久保とその一党を討伐し、神国日本の国体を明徴させるほかない。
  他方、ユダヤ・フリーメーソン陣営は、全力を傾注して大久保ニセ政権の軍備を増強し、ユダヤの日本民族滅亡作戦の障害・西郷を、そして西郷とともにユダヤになびかない旧武士階級、士族を亡きものにしなければならない。
  明治10年(1877年)の西南戦争を内戦と見てはならない。もしもそれが、欧米ユダヤの意図的政策的介入のない純然たる日本民族の内部の出来事であれば、西郷軍の圧倒的戦勝で終結していたことを、日本民族は知らなければならない。
  日本国内のみを見れば、明治初年の時点ではもちろんのこと、明治10年においてさえ、岩倉・大久保らを支持する日本人は5%以下であったろう。この逆賊たちの不人気は蔽うべくもない。日本を挙げて人心は、西郷さん、西郷さん、に涙していたのである。
  1877年から翌年にかけて、ユダヤ悪魔教(300人委員会)は、アメリカを片づける大仕事、南北戦争を終え、ユダヤの日本支配に抵抗している西郷の一党を取り除くという日本問題の処理ができる条件が整っていた。ユダヤ・フリーメーソンの全面的で手厚い保護支援のもとに、大久保ニセ政権は、莫大な軍費をユダヤ悪魔教に保証され、西郷軍を何ケタも上回る火力、機動力をもって九州に出兵した。つまり、西南の役は、逆賊大久保を使ったユダヤの日本撃滅戦争として組織されたのである。
  だがこのとき、明治天皇の立場はいかなるものだったろうか。岩倉・大久保・木戸らは、西郷軍を討つこの不義の軍を、明治天皇の名をもって発した。西郷をこよなく愛された明治天皇は、不本意であったことであろう。
  だが、もし明治天皇がこのとき、公然と大久保を斥け、西郷を支持するようなことがあれば、大久保・岩倉は、一瞬の躊躇もなく、明治天皇弑逆! の挙に出たであろう。

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