古代霊は語る
シルバー・バーチ霊訓より
近藤千雄・編  潮文社
1984年刊
 

 巻頭言

 あなたがもしも古き伝来の信仰をもって足れりとし、あるいは既に真理の頂上を極めたと自負されるならば本書は用はない。が、もしも人生とは一つの冒険であること、魂は常に新しき視野、新しき道を求めて已(や)まぬものであることをご承知ならば、ぜひお読みいただいて、世界の全ての宗教の背後に埋もれてしまった必須の霊的真理を本書の中に見出していただきたい。
 そこには全ての宗教の創始者によって説かれた訓(おし)えと矛盾するものは何一つない。地上生活と、死後もなお続く魂の旅路に必要不可欠な霊的知識が語られている。もしもあなたに受け入れる用意があれば、それはきっとあなたの心に明かりを灯し、魂を豊かにしてくれることだろう。 ―― シルバー・バーチ

 第2章 絶対不変の法則 〜 因果律   [TOP]

  あなたがたがスピリチュアリズムと呼んでいるものも神の法則の一部です。神は宇宙を法則によって統一し、法則を通じてその意志を表現しているのです。宇宙のどこを探しても、法則の支配しない場所は一箇所もありません。人智の及ばないところまでも、完全に神の法則が支配しております。
  自然界の法則は、いわば「神の定めた法律」です。神の法律はすべてを網羅し、至らざるところはありません。
偶然とか偶発というものは絶対にあり得ません。すべてが規制され、すべてが計算されているのです。
  あなた方は肉体を具えていますが、これは一種の機械です。つまり肉体という機械を操りながら自己を表現しているのです。かりに悩みを抱いたとしますと、それは水門を閉ざすのと同じで、生気の通るチャンネルを失うことになります。つまりエネルギーの供給がカットされ、不健康の要因ができあがります。あなたがそのことに気づくまで、肉体は悩みと病気の悪循環を繰り返します。
  また
悩みは肉体の霊的大気といえるオーラにも悪影響を及ぼし、それが心霊的バイブレーションを乱します。悩みを取り除かないかぎり、心霊的エネルギーは流れが阻害され、病気の要因となります。悩みや恐怖心を超越する――言い換えると、自我のコントロールができるようになる――には、長い年月と修養を必要とします。
  それも実は神の無限の愛と叡智から出た法則なのです。その悩みに費やされるエネルギーを建設的な思考に切り換えれば、決して病は生じません。向上進化という至上目的のために必要な勉強のチャンスは、日常生活の中にいくらでも見出せるのです。
  原因と結果の法則は絶対であり、私がその間に入ってどうこうするということは許されないのです。ただ、そういう法則の存在を教え、「そんな心構えでは病気になりますよ」と警告してあげることはできます。
  人間は肉体という機械を通して自分を表現しています。その機械にもエネルギーの限界があり、バッテリーを充電してやらなくてはならない時期が来ます。それを知って、それなりの手段を講じるのはあなた自身の責任であり義務なのです。なぜなら、肉体は地上生活をする上で欠かすことのできない大切な道具だからです。
  私がいかにあなた方の幸せを願っているとはいえ、あなた方に代わってその責任と義務を遂行してあげるわけにはいかないのです。
心に思うこと、口に出す言葉、そして実際の行動――このいずれにも責任をとらされます。あくまで自分が責任を負うのです。
  しかし、そのいずれも地上生活においては肉体という機械を通じて表現するわけですから、その機械が正常に働いてくれるように、ふだんから健康管理に気を配らなくてはいけません。
  肉体は実に驚嘆に値する素晴らしい器官です。地上でこれ以上の精巧な器官をこしらえることはまずできないでしょう。まさに驚異といえるものですが、それでもそれなりの手入れは必要なのです。
  もちろん、
法則と調和した生活を送っていれば、病気も不快感も苦痛も生じないでしょう。病気とか不快感とか苦痛とかは、自然法則との不調和を知らせる信号にほかならないからです。法を犯してその代償を払うか、法を守って健康を維持するか、そのいずれかになるわけです。
  人間の思考や言動において動機というものが大きなポイントになることは確かですが、法則を犯したことに対しては代償を払わなければなりません。動機さえ正しければ何をやってもかまわないというわけにはいかないということです。
  一口に「法則」と言っても、肉体を支配する法則もあれば、精神を支配する法則もあります。人間は、自分がもうダメだという段階に至るまで、そういう法則に気がつかないから厄介なのです。それはなぜかと言いますと、人間と宇宙の真実の姿を知らず、この世はすべて“物”と“カネ”であると考えているからです。
  しかし、そうした苦しみの末に、いつかは真実に目覚める時がやってまいります。自我の意識が芽生え、内在する神性が目覚め始めます。これも実は神の因果律の働きの結果なのです。つまり、
苦しみが大きければ大きいほど、目覚める知識も大きいということです。
  神は宇宙で最も優秀な会計係と考えればいいでしょう。収支のバランスをきちんと合わせ、使途の配分に一円の狂いもありません。あなたは受け取るに値するだけを受け取ります。多すぎることも少なすぎることもありません。その価値判断は、あなたの霊的進化の程度を考慮した上で行なわれます。地上ではごまかしやお目こぼしがきくかもしれませんが、霊的なことにかんするかぎりそれは絶対にありません。
  大自然の法則は完璧です。その背後には神の無限の愛と叡智が働いております。私たちはその働きを知っているだけです。「
原因があれば結果があり、その結果が新しい原因となって、また次の結果を生んでいく」という法則です。その間に何者も介入することを許されません。偶然もありません。幸運もありません。ただ法則があるだけです。
  法則は絶え間なく機能し、変化することもなく、人為的に変えることもできません。法則の中から都合のよいものだけを選ぶこともできません。絶対なのです。神とはすなわち法の極致であり、法の枠であり、いかなる力、いかなる情実をもってしても動かすことはできないのです。


 第3章 再生 〜 生まれ変わり   [TOP]

  まず「再生は自発的なのか、それとも果たすべき目的があってやむを得ず再生するのか」という問いに対して、シルバー・バーチは「その両方だ」と答えます。それから次のような応答が展開します。

) ということは、再生は強制的だということですね。
シルバー・バーチ 強制的という言葉の意味が問題です。誰かから「再生しろ」と命令されるわけではありません。地上で学ばねばならない教訓、果たすべき仕事、償うべき前世の過ち、施すべきでありながら施さなかった親切‥‥などを明確に意識するようになり、今こそそれを実行するのが自分にとって最良の道だと自覚するようになるのです。
) 死後は愛のきずなのある者が一緒に生活すると聞いておりますが、愛する者が再生していったら、残った者との関係はどうなるのでしょうか。
  別に問題はありません。地上で見せる個性は個体全体からすればホンの一部分に過ぎないのです。私はそれを大きなダイヤモンドに譬えています。一つのダイヤモンドにはいくつかの面があり、そのうちのいくつかが地上に再生するわけです。すると一時的な隔絶が生じます。つまりダイヤモンドのある面と他の面との間に「物質」という壁ができて、一時的な分離状態になることは確かです。しかし、愛のきずなのあるところにそんな別れは問題ではありません。
) それはフレデリック・マイヤースのいう「類魂」と同じものですか。
  まったく同じです。ただし、単なる「霊魂の寄せ集め」とは違います。大きな意識体を構成する集団で、その全体の進化のために各自が物質界に体験を求めてやってくるのです。
) その意識の本体に戻った時、それぞれの霊は個性を失うのではないのでしょうか。
  川が大海に流れ込んだ時、その川の水は消えるでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏している時、バイオリンならバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか。
) これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しはましな人間になってもいいと思うのですが‥‥。
  物質界にあっても聖人は聖人ですし、最下等の人間はいつまでも最下等のままです。体験を積めばすぐに成長するというわけにはまいりません。要は悟りの問題です。
) これからも無限に苦難の道が続くのでしょうか。
  そうです。無限に続きます。なぜなら、苦難の試練を経て初めて神性が開発されるからです。神性も苦難の試練を受けて初めて強くたくましい輝きを見せるのです。
) そうなると、死後に天国があるということに意味がないのではないでしょうか。
  今日あなたに天国のように思えることが、明日は天国とは思えなくなるものです。真の幸福とは、今より少しでも高いものを目指して努力するところにあるからです。
再生する時は前世と同じ国に生まれるのでしょうか。
  そうとは限りません。目指している目的のために最も適当だと思われる国、民族を選びます。
男性か女性かの選択も同じですか。
  そうです。必ずしも前世と同じ性に生まれるとは限りません。
死後、霊界に行ってから地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してからまた同じ罪の償いをさせられるというのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのですか。
  償うとか罰するとかの問題ではなくて、要は進化の問題です。つまり、学ぶべき教訓が残されているということであり、「魂の教育と向上」という一連の鎖の欠けている部分を補うことなのです。
  生まれ変わるということは必ずしも罪の償いのためとは限りません。欠けているギャップを埋める目的で再生する場合がよくあります。もちろん、償いをする場合もあります。前世で学ぶべきでありながらできなかったことを、もう一度学びに行くという場合もあります。神の摂理を知れば、その完璧さに驚かされるはずです。決して不完全なところはありません。完璧なのです。神そのものが完全だからです。
新しい霊魂はどこから来るのですか。
  霊魂はどこから来るというものではありません。霊としてはずっと存在していましたし、これからも存在します。いまの質問が「個性を与えた霊魂はどこから来るのか」という意味ならば、「それは受胎の瞬間に神の分霊が地上で個体としての表現を開始するのだ」とお答えしましょう。
ということは、われわれは「神」という全体の一部だということですか。
  その通りです。だからこそあなた方は神とつながっていると言えるのです。あなたという存在は決して切り捨てられることはありません。生命の根源である神とは切っても切れない絶対的な関係にあるのです。
でも、それ以前にも個体としての生活はあったのでしょう。
  あなたのおっしゃるのは「受胎の瞬間から表現を開始した霊魂は、それ以前にも個体としての生活があったのではないか」という意味でしょうか。その意味でしたら、それはよくあることです。ただし、それはいま地上で表現し始めた個性と同じではありません。
再生するに際して、過ちのないように指導監督する役所のようなものが存在するのでしょうか。
  こうした問題はすべて自然法則の働きによって解決されます。再生すべき人は自分でそう決心するのです。つまり意識が拡大し、「今度再生したらこれだけの成長ができる」ということがわかるようになり、それで再生を決意するのです。再生専門の機関や霊団がいるわけではありません。すべて魂自身が決めるのです。
「霊にはいくつかの側面があり、そのうちの一つが地上に生まれ、残りは他の世界で生活することもありうる」ということの意味をもう少し詳しく説明していただけませんか。
  霊にはいくつかの面があります。それを私はダイヤモンドに譬えているわけです。それぞれの面が他の面の進化のために、違った時期に地上に誕生して体験することを求めるのです。めったにないことですが、もしもある2人の人間が格別に相性が良い場合、それは同じダイヤモンドの2つの面が同じ時期に地上に誕生したということが考えられます。その場合は、当然2人の間には完全なる親和性があるわけです。調和のとれた全体の中の2つの部分なのですから。
あなたがダイヤモンドに譬えておられるその“類魂”は、家族関係のグループですか、それとも同じ霊格を具えた霊の集団ですか、または同じ趣味をもつ霊の集まりですか。
  私のいう“類魂”は、血縁関係のある者の集団とは全く異なります。肉体上の結婚に起因する地上的姻戚関係は、必ずしも死後も続くとはかぎりません。そもそも霊的関係というのは、その最も崇高なものが親和性に起因するものであり、その次に血縁関係に起因するものが続きます。地上的血縁関係は永遠なる霊的関係に基づくものではありません。類魂というのは、人間性にかかわった部分にかぎって言えば、霊的血縁関係ともいうべきものに起因した霊によって構成されております。同じダイヤモンドを形づくっている面たちですから、自動的に引き合い引かれ合って一体となっているのです。その大きなダイヤモンド全体の進化のために、個々の面たちが地上にどんどん誕生しています。
“双子霊Twin Souls”というのはどういう場合ですか。
  双子霊Twin Soulsというのは一つの霊の半分ずつが同時に地上に生をうけた場合のことです。自分と同じ親和性をもった霊魂――いわゆるアフィニティafinity ――は宇宙にたくさんいるのですが、それが同じ時期に同じ天体に生をうけるとはかぎりません。双子霊のようにお互いが相補う関係にある霊同士が地上でめぐり合うという幸運に浴した場合は、正に地上天国を達成することになります。霊的に双子なのですから、霊的進化の程度も同じで、その後も手に手を取り合って成長していきます。
物質界に誕生する霊としない霊とがいるのはなぜでしょうか。
  霊界の上層部つまり神庁には、一度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物質器官を通しての表現を体験しなくても成長進化を遂げることができるのです。当初から高級界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上に降りてくることもあります。歴史上の偉大な霊的指導者の中には、そうした神霊の生まれ変わりである場合がいくつかあります。
大きな業(カルマ)を背負って生まれてきた人間が、何かのきっかけで愛と奉仕の生活に入った場合、その業がいっぺんに消えるということはあり得ますか。
  自然法則の根本は、あくまでも原因と結果の法則つまり因果律です。業もその法則の働きの中で消されていくのであって、途中の過程を飛び越えていっぺんに消えることはありません。原因があれば必ずそれ相当の結果が生じ、その結果の中に次の結果を生み出す原因が宿されているわけで、これはほとんど機械的に作動します。
 ある人が愛と奉仕の生活に入ったとすれば、それなりに業の消滅に寄与するでしょうが、いっぺんにというわけには行きません。愛と奉仕の生活を積み重ねていくうちに徐々に消えていき、やがて業という借金をすっかり返済することになります。
戦争とか事故、疫病などで何万人もの人間が死亡した場合も、それは業だったと考えるべきでしょうか。もって生まれた寿命よりも早く死ぬことはないのでしょうか。戦争が避けられないのであれば、それは国家的な業ということになるのでしょうか。
  業というのは因果律のことです。善因善果、悪因悪果というのも大自然の因果律の一部です。何人といえどもその働きには介入を許されません。これは神の公正の証として、神が用意した手段の一つです。因果律というのは「行為者にそれ相当の報酬を与える」という趣旨であり、多すぎることも少なすぎることもないように配慮されています。それは当然、個人だけでなく、個人の集まりである国家についても当てはまります。
 次に寿命についてですが、寿命は魂そのものが決定するものです。しかし個人には自由意志があり、またさまざまな事情によって寿命を伸び縮みさせることも不可能ではありません。
寿命は魂そのものが決定するのであれば、たとえば幼児などはどうなるのでしょう。判断力や知識、教養が具わっていないと思うのですが‥‥。
  この世に再生する前の判断力と、再生してからの肉体器官を通じての判断力とでは大きな差があります。大半の人間は地上でたどるべき道程について、再生前からあらかじめ承知しています。
地上でたどるべきコースがわかっているのであれば、その結果得られる成果についてもわかっているということでしょうか。
  その通りです。
そうなると、前もってわかっていることをわざわざ体験しに再生することになりますが、そこにどんな意義があるのでしょうか。
  地上に再生する目的は、地上生活から戻って来て霊界で行なうべき仕事を行なうだけの霊的資格(実力)をつけることにあります。前もってわかったからといって、霊的進化にとって必要な体験を身につけたことにはなりません。たとえば世界中の書物を全部読むことはできても、その読書によって得た知識は、体験によって強化されなければ身についたとは言えないでしょう。そこに地上への再生の全目的があります。
「航空機事故のような惨事は犠牲者およびその親族が業を消すためなのだから、前もって計画されているのだ」という考えは、私には得心がいきませんが‥‥。
  ご質問はいろいろな問題を含んでおります。まず「計画されている」という言い方はよくありません。それではまるで故意に、計画的に惨事を引き起こしているように聞こえます。すべての事故は因果律によって起こるべくして起こっているのです。その犠牲者――この言い方も気に入りませんが、とりあえずそう呼んでおきます――の問題ですが、これには別の見方があることを知ってください。つまり、あなた方にとって死は確かに恐ろしいことでしょう。しかし、私たち霊界の者にとっては、ある意味では喜ぶべき出来事なのです。赤ちゃんが誕生すれば、あなた方は喜びますが、こちらでは泣き悲しんでいる人がいるのです。反対に、死んだ人は肉体の束縛から解放されたのですから、こちらは大喜びでお迎えしています。次に、これはあなた方には真相を理解することは困難ですが、宿命というものが宇宙の大機構の中で重大な要素を占めているのです。これは運命と自由意志という相反する2つの要素が絡み合った複雑な問題ですが、2つとも真実です。つまり、運命づけられた一定の枠の中で自由意志が許されているわけです。そう言い表す以外によい説明方法が思い当たりません。
事故が予知できるのはなぜでしょうか。
  その人が一時的に三次元の物的感覚から脱して、ホンの瞬間ですが時間の本来の流れをキャッチするからです。大切なことは、本来は時間というのは“永遠なる現在”だということです。人間が現在と過去とを区別するのは、地上という三次元の世界の特殊事情に起因するのであって、本来は時間には過去も未来もないのです。三次元の障壁から脱して本来の時間に接した時、あなたにとって未来になることを現在において知ることができます。もちろん、そうやって未来を予知することが当人にとってどういう意味をもつかは、これはまた別の問題です。単に物的感覚の延長にすぎない透視、透聴の類の心霊能力psychic powers によっても予知できますし、霊視・霊聴の類の霊感spiritual powers によっても知ることができます。
占星術というのがありますが、誕生日が人の生涯を司配するものでしょうか。
  およそ生命あるものは、生命をもつがゆえに何らかの放射を行なっております。生命は常に表現を求めて活動するものです。その表現は波長とか振動によって行なわれます。宇宙間のすべての存在が互いに影響し合っているのです。雷雨にも放射活動があり、人体に何らかの影響を及ぼします。太陽は光と熱を放射し、地上の生命を育てます。木々も永年にわたって蓄えたエネルギーを放射しております。要するに大自然のすべてが常に何らかのエネルギーを放射しております。
 したがって、当然他の惑星からの(放射の)影響も受けます。それは物的エネルギーですから、肉体に影響を及ぼします。しかし、いかなるエネルギーも、いなかる放射性物質も、霊魂にまで直接影響を及ぼすことはありません。影響するとすれば、それは肉体が受けた影響が間接的に魂にまで及ぶという程度にすぎません。
たとえば2月1日に生まれた人間はみんな同じような影響を受けるのかという意味ですが‥‥。
  そんなことは絶対にありません。なぜなら霊魂は物質に勝るものだからです。肉体がいかなる物的影響下におかれても、宿っている霊にとって征服できないものはありません。肉体に関するかぎり、すべての赤ん坊は進化の過程の一部として特殊な肉体的性格をもって生まれてきます。それは胎児として母胎に宿った日や、地上に出た誕生日によっていささかも影響を受けるものではありません。人間はあくまでも霊魂なのです。霊魂は無限の可能性を秘めているのです。その霊魂の本来の力を発揮しさえすれば、いかなる環境も克服し得ないことはありません。残念ながら、大半の人間は物的条件によって霊魂のほうが右往左往させられておりますが‥‥。

 第4章 苦しみと悲しみと 〜 魂の試練   [TOP]

  この交霊会に出席される方々が、もし私の説く真理を聞くことによってラクな人生を送れるようになったとしたら、それは私が引き受けた使命に背いたことになります。私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。それに敢然と立ち向かい、それを克服し、そして一層力強い人間となって下さることが私どもの真の目的なのです。
  霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身についたら失うことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。耐え切れないほどの苦難を背負わされるようなことは決してありません。解決できないほどの難問に直面させられることは絶対にありません。何らかの荷を背負い、困難と取り組むということが、旅する魂の当然の姿なのです。
  それはもちろんラクなことではありません。しかし魂の宝はそう易々と手に入るものではありません。もしラクに手に入るものであれば、何も苦労する必要はないでしょう。痛みと苦しみの最中にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとって一ばんの薬なのです。
  私どもは、いくらあなた方のことを思ってはいても、あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿を、あえて手をこまねいて傍観するほかない場合がよくあります。そこからある教訓を学び取り、霊的に成長してもらいたいと願い祈りながら、です。
  知識にはかならず責任が伴うものです。その責任をとってもらうわけです。霊はいったん視野が開けば、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔やむことはないはずです。さんさんと太陽の輝く穏やかな日和には人生の教訓は身にしみません。魂が目を覚ましそれまで気づかなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲たれこめる暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。
  地上の人生は所詮は一つの長い闘いであり試練なのです。魂に秘められた可能性を試される戦場に身を置いていると言ってもいいでしょう。魂にはありとあらゆる種類の長所と弱点が泌められております。即ち動物的進化の名残りである下等な欲望や感情もあれば、あなたの個的存在の源である神的属性も秘められているのです。そのどちらが勝つか、その闘いが人生です。地上に生まれてくるのはその試練に身をさらすためなのです。人間は完全なる神の分霊を受けて生まれてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには是非とも厳しい試練が必要なのです。
  運命の十字路にさしかかる度毎に、右か左かの選択を迫られます。つまり苦難に厳然として立ち向うか、それとも回避するかの選択を迫られますが、その判断はあなたの自由意志にまかされています。もっとも、自由といっても完全なる自由ではありません。その時点において取りまかれている環境による制約があり、これに反応する個性と気質の違いによっても違ってくるでしょう。地上生活という巡礼の旅において、内在する神性を開発するためのチャンスはあらかじめ用意されているのです。そのチャンスを前にして、積極姿勢をとるか消極姿勢をとるか、滅私の熊度にでるか利己主義に走るかは、あなた自身の判断によってきまります。
  地上生活はその選択の連続といってよいでしょう。選択とその結果、つまり作用と反作用が人生を織りなしていくのであり、同時にまた、寿命つきて霊界に来た時に霊界で待ちうけている新しい生活、新しい仕事に対する準備が十分できているか否か、能力的に適当か不適当か、霊的に成熟しているか否か、といったこともそれによって決まるのです。単純なようで実に複雑です。
  そのことで忘れてならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなるということです。地上に再生するに際して、各自は地上で使用する才能についてあらかじめ認識しております。才能がありながらそれを使用しない者は、才能のない人よりはそれだけ大きい責任を取らされます。当然のことでしょう。

  悲しみは、魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線にふれた時、一ばんよく眠れる魂の目を醒まさせるものです。魂は肉体の奥深くに埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの強烈な体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。
  もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学べる準備の出来た霊にとって深甚なる価値があると言えるのです。
  真理は魂がそれを悟る準備の出来た時始めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません。こちらからいかかる援助の手を差しのべても、それを受け入れる準備の出来ていない人は救われません。霊的知識を理解する時機を決するのは魂の発達程度です。魂の進化の程度が決するのです。肉体に包まれたあなたがた人間が、物質的見地から宇宙を眺め、日常の出来ごとを物的ものさしで量り、考え、評価するのは無理もないことではありますが、それは長い物語の中のホンの些細なエピソード(小話)にすぎません。
  魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂の肥しです。魂がその秘められた力を発揮するにはどういう肥しを摂取すればいいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。
  失意のドン底にある時はもう全てが終わったような感じになるものですが、実はそこから始まるのです。あなたにはまだまだ発揮されていない力、それまで発揮されたものより、はるかに大きな力が宿されているのです。それはラクな人生の中では決して発揮されません。苦難と困難の中でこそ発揮されるのです。金塊もハンマーで砕かないとその純金の姿を拝むことが出来ないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出て来ないのです。それ以外に方法がないのです。
  人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった人が、気ラクな人生ばかりを送っている人よりも一段と大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。
  何もかもがうまく行き、日向ばかりの道を歩み、何一つ思い煩うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫の扉を開き、神の武具を持ち出すこと、それが悟りを開くということなのです。
  困難にグチをこぼしてはいけません。困難こそ魂の肥しなのです。むろん困難のさ中にある時はつらいので、それを有難いと思うわけにはいかないでしょう。しかしあとでその時を振り返ってみたとき、それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない肥しであったことを知って、神に感謝するに相違ありません。
  この世に生まれくる霊魂がみなラクな暮らしを送っていては、そこに進歩も開発も個性も成就もありません。これはきびしい辛い教訓には違いありませんが、何事も、価値あるものほど、その成就には困難がつきまとうのです。魂の懸賞は、そう易々と手に入るものではありません。

  神は瞬時たりとも休むことなく働き、全存在のすみずみまで完全に通暁しております。神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日も神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。あなた方自身さえも裁く資格はありません。物的尺度があまりに小さすぎるのです。物的尺度で見るかぎり、世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真実の敗北しか見えないでしょう。当然かも知れません。しかしそれは極めて偏った、誤った判断です。
  地上ではかならずしも正義が勝つとはかぎりません。なぜなら因果律はかならずしも地上生活中に成就されるとはかぎらないからです。ですが、地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分の狂いもなく働き、天秤はかならずその平衡を取りもどします。
  霊的に観て、あなたにとって何が一ばん望ましいかは、あなた自身にはわかりません。もしかしたら、あなたにとって一ばんイヤなことが、実はあなたの祈りに対する最高の回答であることも有りうるのです。
  ですから、なかなか難しいことではありますが、物事は物的尺度ではなく霊的尺度で判断するよう努めることです。というのは、あなた方にとって悲劇と思えることが、私どもから見れば幸運と思えることがあり、あなた方にとって幸福と思えることが、私どもから見れば不幸だと思えることもあるのです。
  祈りにはそれなりの回答が与えられます。しかしそれはかならずしもあなたが望んでいる通りの形ではなく、その時のあなたの霊的成長にとっていちばん望ましい形で与えられます。神は決してわが子を見棄てるようなことは致しません。しかし神が施されることを地上的な物さしで批判することはやめなければいけません。
  絶対に誤ることのない霊的真理がいくつかありますが、そのうちから2つだけ紹介してみましょう。1つは、動機が純粋であれば、どんなことをしても決して危害をこうむることはないということ。もう1つは、人のためという熱意に燃える者にはかならずそのチャンスが与えられるということ。この2つです。
  あせってはいけません。何事も気長に構えることです。何しろこの地上に意識をもった生命が誕生するのに何百万年もの歳月を要したのです。さらに人間という形態が今日のような組織体をもつに至るのに何百万年もかかりました。その中からあなた方のように霊的真理を理解する人が出るのにどれほどの年数がかかったことでしょう。その力、宇宙を動かすその無窮の力に身をまかせましよう。誤ることのないその力を信じることです。
  解決しなければならない問題もなく、争うべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。
  「あなたにはもう縁のない話だからそう筒単に言えるのだ」――こうおっしゃる方があるかも知れません。しかし私は実際にそれを体験してきたのです。あなた方よりはるかに長い歳月を体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私は、ただただ、宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりなのです。
  一つとして偶然ということがないのです。偶発事故というものがないのです。すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかもが一目瞭然とわかるようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。

  あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのですか。宇宙を支配する全能なる神になぜ身をゆだねないのですか。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って、神の御胸に飛び込むのです。神の心をわが心とするのです。心の奥を平静にそして穏やかに保ち、しかも自信をもって生きることです。そうすれば自然に神の心があなたを通じて発揮されます。愛の心と叡智をもって臨めば何事もきっと成就します。聞く耳をもつ者のみが神の御声を聞くことが出来るのです。愛がすべての根源です。愛―人間的愛―はそのホンのささやかな表現にすぎませんが、愛こそ神の摂理の遂行者なのです。
  霊的真理を知った者は一片の恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にもかならずや神の御加護があることを一片の疑いもなく信じることが出来なければいけません。苦難にも悲しみにもくじけてはいけません。なぜなら霊的な力はいかなる物的な力にも優るからです。
  恐怖心こそ人類最大の敵です。恐怖心は人の心をむしばみます。恐怖心は理性をくじき、枯渇させ、マヒさせます。あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、寄せつけません。心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼びおこします。
  つとめて恐れの念を打ち消すことです。真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、平静に、自信にあふれ、決して乱れることがあってはなりません。霊の力はすなわち神の力であり、宇宙を絶対的に支配しています。ただ単に力が絶対all-powerfulというだけではありません。絶対的な叡智all-wisdomであり、また絶対的な愛all-loveでもあります。生命の全存在の背後に神の絶対的影響力があるのです。
  はがねは火によってこそ鍛えられるのです。魂が鍛えられ、内在する無限の神性に目覚めて悟りを開くのは、苦難の中においてこそなのです。苦難の時こそあなたが真に生きている貴重な証しです。夜明けの前に暗黒があるように、魂が輝くには暗黒の体験がなくてはなりません。そんな時、大切なのはあくまでも自分の責務を忠実に、そして最善をつくし、自分を見守ってくれる神の力に全幅の信頼を置くことです。
  霊的知識を手にした者は挫折も失敗も神の計画の一部であることを悟らなくてはいけません。陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、いわば硬貨の表と裏のようなものです。表裏一体なのですから、片方は欲しいがもう一方は要らない、というわけにはいかないのです。人間の進歩のために、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があるのです。神性の開発を促すために仕組まれた複雑で入り組んだ法則の一部、いわばワンセットなのです。そうした法則の全てに通暁することは人間には不可能です。どうしても知り得ないことは信仰によって補うほかはありません。盲目的な軽信ではなく、知識を土台とした信仰です。
  知識こそ不動の基盤であり、不変の土台です。宇宙の根源である霊についての永遠の真理は、当然、その霊の力に対する不動の信念を産み出さなくてはいけません。そういう義務があるのです。それも一つの法則なのです。恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、せっかくの霊的雰囲気をかき乱します。われわれ霊界の者は信念と平静の雰囲気の中において始めて人間と接触できるのです。恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念はわれわれ霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。

  太陽がさんさんと輝いて、全てが順調で、銀行にたっぷり預金もあるような時に、神に感謝するのは容易でしょう。しかし真の意味で神に感謝すべき時は辺りが真っ暗闇の時であり、その時こそ内なる力を発揮すべき絶好のチャンスなのです。しかるべき教訓を学び、魂が成長し、意識が広がり且つ高まる時であり、その時こそ神に感謝すべき時です。霊的マストに帆をかかげる時です。
  霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験してはじめて、それを理解するための魂の準備が出来あがるのです。その点がどうもよくわかっていただけないようです。タネを蒔きさえすれば芽が出るというものではないでしょう。芽を出させるだけの養分が揃わなくてはなりますまい。養分が揃っていても太陽と水がなくてはなりますまい。そうした条件が全部うまく揃った時にようやくタネが芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのです。
  人間にとってその条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇です。何もかもうまく行き、鼻歌まじりの呑気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験してはじめて、霊的知識を理解する素地が出来あがるのです。そしていったん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮しはじめることになるのです。そしていったん身につけたら、もう二度と失うことはありません。それを機に霊界との磁気にも似た強力なつながりが生じ、必要に応じて霊界から力なり影響なり、インスピレーションなり真理なり美なりを引き出せるようになるのです。魂が進化した分だけ、その分だけ自由意志が与えられるのです。
  霊的進化の階段を一段上がるごとに、その分だけ多くの自由意志を行使することが許されます。あなたは所詮、現在のあなたを超えることは出来ません。そこがあなたの限界といえます。が同時にあなたは神の一部であることを忘れてはなりません。いかなる困難、いかかる障害も、かならず克服するだけの力を秘めているのです。霊は物質にまさります。霊は何ものにもまさります。霊こそ全てを造り出すエッセンスです。なぜなら、霊は生命そのものであり、生命は霊そのものだからです。

 
第5章 死後の世界   [TOP]

  実は今でもあなた方は毎晩のように霊の世界を訪れているのです。ただ思い出せないだけです。それは、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあるのを思い出します。肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識で見ることができます。その時すべての記憶がよみがえります。
死んでから低い界へ行った人はどんな具合でしょうか。今おっしゃったように、やはり睡眠中に訪れたことを思い出すのでしょうか。それがその人なりに役に立つのでしょうか。
シルバー・バーチ 低い世界へ引きつけられて行くような人は、やはり睡眠中に低い界を訪れておりますが、その時の体験は死後の自覚を得る上では役に立ちません。なぜかというと、そういう人の目覚める界は地上ときわめてよく似ているからです。死後の世界は低いところほど地上に似ております。バイブレーションが粗いからです。高くなるほどバイブレーションが細かくなります。
朝目覚めてから睡眠中の霊界での体験を思い出すことがありますか。
  睡眠中、あなたは肉体から抜け出ていますから、当然脳から離れています。脳はあなたを物質界にしばりつける鎖のようなものです。その鎖から解放されたあなたは、霊格の発達程度に応じたそれぞれの振動の世界で体験を得ます。その時点ではちゃんと意識して行動しているのですが、朝肉体に戻ってくると、もうその体験は思い出せません。
 なぜかというと、脳があまりに狭いからです。それはたとえば小さな袋の中に無理やりに物を詰め込むようなものです。袋には自ずから容量というものがあります。無理して詰め込むと、入るには入っても形が歪んでしまいます。それと同じことが脳の中で生じるのです。
 ただし、霊格がある段階以上に発達してくると話は別です。霊界の体験を思い出すように脳を訓練することが可能になります。実を言うと、私はここにおられる皆さんとは、よく睡眠中にお会いしているのです。そして、あちらこちら霊界を案内してさしあげているんですよ。しかし、思い出されなくてもいいのです。決して無駄にはなりませんから‥‥。
死んでそちらへ行ってから役に立つわけですか。
  そうです。何一つ無駄にはなりません。神の法則は完璧です。長年霊界で生きてきた私どもは、神の法則の完璧さにただただ驚くばかりです。
睡眠中に仕事で霊界へ行くことがありますか。睡眠中に霊界を訪れるのは、死後の準備ということが唯一の目的ですか。
  中には仕事をしにくる人もいます。それだけの能力を持った人がいるわけです。しかし、たいていは死後の準備のためです。物質界で体験を積んだあと、霊界でやらなければならない仕事の準備のために、睡眠中にあちこちへ連れて行かれます。そういう準備なしに、いきなりこちらへ来るとショックが大きくて、回復に長い期間がかかります。地上時代に霊的知識を持っておくと、こちらへ来てから有利であるというのはそのような理由があるわけです。
 ずいぶん長い間眠ったままの人が大勢います。あらかじめ知識があれば、すぐに自覚が得られます。ちょうどドアを開けて日の照っている屋外へ出るようなものです。光のまぶしさにすぐ慣れるかどうかの問題です。闇の中にいて光を見てない人は、慣れるのにずいぶん時間がかかります。地上での体験も、こちらでの体験も、何一つ無駄なものはありません。
霊的知識なしに他界した者でも、こちらから思いやりや祈りの念が届くでしょうか。
  死後の目覚めは理解力が芽生えた時です。霊的知識があれば目覚めはずっと早くなります。その意味でも私たちは無知と誤解と迷信と誤った教義と神学をなくすべく戦わなければならないのです。それらは霊界での目覚めの妨げになるからです。そうした障害物が取り除かれないかぎり、魂は少しずつ死後の世界に慣れていくほかはありません。長い長い休息が必要となるのです。
 また、地上に病院があるように、魂に深い傷を負った者をこちらで看護してやらねばなりません。反対に、人のためによく尽くした人、他界するに際して愛情と祈りを受けるような人は、そうした善意の波長を受けて目覚めが促進されます。
死後の生命を信じず、死ねばおしまいと思っている人はどうなりますか。
  死のうと思っても死ねないわけですから、結局は目覚めてからその事実に直面するほかないわけです。目覚めるまでにどの程度の時間がかかるかは霊格の程度によって違います。霊格が高ければ、死後の存続の知識がなくても、死後の世界に早く順応します。
そういう人、つまり死んだらそれでおしまいと思っている人の死には苦痛が伴いますか。
  それも霊格の程度次第です。一般的に言うと、死ぬということに苦痛は伴いません。たいていは無意識状態だからです。死ぬときの様子が自分で意識できるのは、よほどの霊格の高い人に限られます。
善人が死後の世界の話を聞いても信じなかった場合、死後そのことで何か咎めを受けますか。
  私にはその「善人」とか「悪人」とかの意味がわかりません。要はその人が生きてきた人生の中身、つまり「どれだけ人のために尽くしたか。どれだけ内部の神性を発揮したか」にかかっています。大切なのはそれだけです。知識はないよりはあった方がましですが、その人の真の価値は「毎日をどう生きたか」に尽きます。
愛する人とは霊界で再会して若返るのでしょうか。
  地上で愛し合った男女が他界した場合、もしも霊格の程度が同じであれば、霊界で再び愛し合うことになりましょう。2人の結びつきは地上より一層強くなります。しかし、2人の男女の結婚が魂の結びつきでなく肉体の結びつきに過ぎず、しかも両者に霊格の差があるときは、死とともに両者は離れていきます。それぞれの世界に引かれていくからです。若返るかというご質問ですが、霊の世界では若返るとか年を取るといったことではなく、成長、進化、発達という形で現れます。つまり、形体ではなく魂の問題になるわけです。
死後の世界でも罪を犯すことがありますか。もしあるとすれば、どんな罪が一番多いですか。
  もちろん私たちも罪を犯します。それは利己主義の罪です。ただ、こちらの世界ではそれがすぐに表面に出ます。心に思ったことがすぐさま他に知られるのです。因果関係がすぐに知れるのです。したがって、醜い心を抱くと、それがそのまま全体の容貌に表れて、霊格が下がるのがわかります。そうした罪を地上の言語で表現するのはとても難しく、さきほど言ったように「利己主義の罪」と呼ぶよりほかに良い方法が見当たりません。
死後の世界が地球に比べて実感があり、立派な支配者、君主、または神の支配する世界であることはわかりましたが、こうしたことは昔から地上の人間に啓示されてきたのでしょうか。
  霊の世界の組織について啓示を受けた人間は大勢います。ただ、誤解しないでいただきたいのは、こちらの世界には地上でいうような支配者はおりません。霊界の支配者は自然法則そのものなのです。また、地上のように境界線によってどこかで区切られているのではありません。低い界から徐々に高い界へとつながっており、その間に断絶はなく、宇宙全体が一つに融合しております。霊格が向上するにつれて、上へ上へと上昇してまいります。
地上で孤独な生活を余儀なくされた者は、死後も同じような生活を送るのですか。
  いえ、いえ、そんなことはありません。そういう生活を余儀なくされるのはそれなりの因果関係があってのことで、こちらへ来ればまた新たな生活があり、愛する者、縁ある者との再会もあります。
シェークスピアとかベートーベン、ミケランジェロといった歴史上の人物に会うことができるでしょうか。
  特に愛着を感じ、慕っている人物には、たいていの場合会うことができるでしょう。共感のきずなが両者を引き寄せるのです。
この肉体を棄ててそちらへ行っても、ちゃんと固くて実感があるのでしょうか。
  地上よりはるかに実感があり、しっかりしています。本当は地上の生活の方が実感がないのです。霊界の方が実在の世界で、地上はその影なのです。
ということは、地上の環境が五感にとって自然に感じられるように、死後の世界も霊魂には自然に感じられるということですか。
  地上よりもっと実感があると言ってるでしょう。あなた方はいわば囚人のようなものなのです。肉体という牢に入れられて、物質という壁で仕切られて、小さな鉄格子の窓から覗いているだけです。地上では本当の自分のホンの一部分しか意識できていないのです。
霊界では意念で通じ合うのですか。それとも地上の言語のようなものがあるのですか。
  意念だけで通じ合えるようになるまでは言語も使われます。
急死した場合、死後の環境にすぐに慣れるでしょうか。
  魂の進化の程度によって違います。
呼吸が止まった直後にどんなことが起きるのですか。
  高級霊で魂に意識がある場合は、エーテル体が肉体から抜け出るのがわかります。そして、抜け出ると目が開きます。まわりに自分を迎えに来てくれた人たちが見えます。そしてすぐそのまま新しい生活が始まります。魂に意識がない場合は、看護に来た霊に助けられて適当な場所(病院や休息所)に連れて行かれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます。
愛し合いながら宗教的因習などで結ばれなかった人は、死後は一緒になれますか。
  愛をいつまでも妨げることはできません。
肉親や親戚の者とも会えますか。
  愛が存在すれば会えます。
死後の生命は永遠ですか。
  生命はすべて永遠です。生命とはすなわち神であり、神は永遠だからです。
霊界はたった一つだけですか。
  霊の世界は一つです。しかし、その表現形態は無限です。地球以外の天体にもそれぞれ霊の世界があります。物的表現の裏側にはかならず霊的表現があるのです。その無限の霊的世界が二重、三重に入り組みながら全体として一つにまとまっているのが宇宙なのです。あなた方の知らない世界がまだまだいくらでも存在します。
その分布状態は地理的なものですか。
  そうではありません。精神的発達程度に応じて差が生じているのです。もっとも、ある程度は物的表現形態による影響を受けます。
ということは、私たち人間の観念でいうところの界層というものもあるということですか。
  その通りです。物質的条件によって影響される段階を超えるまでは、人間が考えるような“地域”とか“層”が存在します。
たとえば死刑執行人のような罪深い仕事に携わっていた人は、霊界でどんな裁きを受けるのでしょうか。
  もしその人が、「いけないことだ。罪深いことだ」と知りつつやっていたなら、それなりの報いを受けるでしょう。悪いと思わずにやっていたなら咎めは受けません。
動物の肉を食べるということについてはどうでしょうか。
  動物を殺して食べるということに罪の意識を覚える段階まで魂が進化した人間であれば、いけないと知りつつやることは何ごとであれ許されないことですから、やはりそれなりの報いを受けます。その段階まで進化しておらず、いけないとも何とも感じない人は、別に罰は受けません。知識には必ず代償が伴います。責任という代償です。

(問) 自殺した者は霊界ではどうなるのでしょうか。
シルバー・バーチ) それは一概には言えません。自殺するまでにどんな地上生活を送ったかにもよりますし、どういう性格だったかとか、霊格の高さにもよります。何といってもその動機が一番です。キリスト教では自殺のすべてを一つの悪の中にひっくるめていますが、あれは間違いです。地上生活を自らの手で打ち切ることは決していいことではありませんが、中には情状酌量の余地のあるケースがあることも事実です。
でも、自殺してよかったと言えるケースはないでしょう。
  それは絶対にありません。自分の生命を縮めて、それでよいはずはありません。しかし、「自殺した者はみんな、死んだ後は暗黒の中で何千年、何万年も苦しむ」という説は事実に反します。
自殺行為は霊的進歩のさまたげになりますか。
  もちろんです。
「神は耐えきれないほどの苦しみは与えない」とおっしゃったことがありますが、自殺に追いやられる人は、やはり耐えきれない苦しみを受けるからではないでしょうか。
  それは違います。その説明として、まずこれには例外があることから話を進めましょう。いわゆる精神異常者の場合、霊的に言えば憑依霊の仕業による場合があります。しかし、この問題は今は触れないでおきましょう。いずれにせよこのケースはごく少数なのです。
  大多数は、私に言わせれば「臆病者の逃避行為」にすぎません。果たすべき義務に真正面から取り組むことができず、死んでこの世から消えることがその苦しみから逃れる一番楽な方法だと考えるわけです。ところが死んでも、というよりは死んだつもりなのに、相変わらず自分がいる。そして逃れたはずの責任と義務の観念が依然として自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを造り出して、それが外界との接触を遮断するのです。そうした状態のまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。
  しかし、既に述べたように、一番大切なのは「どんな動機で自殺したのか」ということです。ままならぬ事情から逃れるための自殺は、思惑通りにはいきませんが、動機が「利己主義」ではなく「利他主義」に発しているとき、つまり「自分がいなくなることが人のためになる」という考えに発しているときは、たとえそれが思い過ごしであったとしても、さきほどの「臆病心からの自殺」とはまったく違ってきます。
  いずれにせよ、あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます。みんな自分自身の手で自分の人生を書きつづっているのです。ごまかしはききません。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいと言うのです。
  いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になればかならず光が見えてきます。魂の内奥に潜む勇気が湧き出てきます。その時あなたはその分だけ魂を開発したことになるのです。霊界からの援助のチャンスも増えます。決して背負いきれないほどの荷物は負わされません。なぜならその荷物は自らの悪業がこしらえたものだからです。決して神が「この人間にはこれだけの荷物を背負わせてやれ」と考えてあてがうようなものではありません。
  宇宙の絶対的な法則のはたらきによって、その人間がそれまでに犯した法則違反の程度に応じて、きっちりとその重さの荷物を背負うことになるのです。となれば、それだけの荷物をこしらえることができたのですから、それを取り除くこともできるはずです。つまり、悪いことや間違ったことをした時のエネルギーと同じものを正しく使いさえすれば、それを元通りにすることができるはずです。
因果律のことでしょうか。
  そうです。それがすべてです。
たとえば脳神経が異常をきたしてノイローゼのような形で自殺したとします。霊界へ行けば脳がありませんから正常に戻ります。この場合は罪はないと考えてよろしいでしょうか。
  話をそのようにもってこられると、答え方に慎重にならざるを得ません。答え方次第では、まるで自殺した人に同情しているかのような、あるいは、これからそういう手段に出る可能性のある人を勇気づけているようなことになりかねないからです。もちろん、私にはそんなつもりはまったくありません。
  確かに、結果的に見ればノイローゼ気味になって自殺するケースはありますが、そういう事態に至るまでの経過を見てみると、やはりスタートの時点において「責任からの逃避」の心理が働いているのです。もしもその人が何かにつまづいたその時点で、「私は間違っていた。やり直そう」と覚悟を決めていたら、不幸をつぼみのうちに摘み取ることができたはずです。
  ところが人間というのは、窮地に陥るとつい姑息な手段に出ようとするものです。それが事態を大きくしてしまうのです。そこで神経的にまいってしまって正常な判断力が失われ、ついにはノイローゼとなり、自分で自分がわからなくなっていくのです。問題はスタートの時点の心構えにあったのです。
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以下は訳編者の近藤千雄氏の解説です。――なわ・ふみひと註

 
おしまいに   [TOP]

  以上、最も注目しなければならないのは、死後の世界と現実の地上生活とが密接不離の関係にあるという点であろうかと思います。
  地上生活中の体験と知識が死後に役に立つという現実的な意味にとどまらず、
地上生活中の意識や道徳感覚が、時として死後の霊的進化向上に決定的な影響を及ぼすこともあるという意味においても、「たかが6、70年の人生」と軽く見くびることができないようです。
 たとえば大哲学者と仰がれた人が、その強烈な知性がわざわいして、死後、自分の知的想像力で造り上げた小さな宇宙の中で何百年、何千年と暮らしている例があると聞きます。これをマイヤースは“知的牢獄”と呼んでいます。各宗教の指導者やその熱烈な信者にも同じことが言えます。
  同時にもう一つ別の観点から見ますと、地上生活と死後の世界とに関係があるのは至極当たり前といえるわけです。われわれは肉体という鈍重な衣服をまとって、ホンの束の間の間を地上で暮らしているわけで、すぐまた元の生活、すなわち霊界での生活に戻るわけです。つまり、もともと霊界で暮らしている者が、危険を冒して地上へやってくるにすぎないのです。
  とはいえ、
地上に生をうけるということは、そう易々と叶うものではないようです。その問題になると仏教の方に一日の長があるようです。「帰経文(ききょうもん)」という経に次のような箇所があります。

  人身(にんしん)受け難く、今すでに受く。仏法聞き難く、今すでに聞く。
  此の身今生に度(さと)らずんば、更に何れの生にか度らん。
  我らもろともに、至心に三宝に帰依し奉る。

 
死後の世界を知ったからといって、われわれはかりそめにも地上生活を軽んじることがあってはならないと思います。その戒めをよく表した俳句があります。決して名句とは言えないまでも、よき教訓を含んだ句として、最後に紹介しておきます。

  浜までは海女も蓑きる時雨かな
   (高神覚昇著『般若心経講義』より
 
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