宇宙からの帰還
立花 隆 ・ 著 中央公論社 1983年刊 

 宇宙人への進化

 ミッチェルは、宇宙船と地球の間で、テレパシーの実験をやってのけた。シカゴ在住の設計家で超能力者として有名なオロフ・ジョンソンとあらかじめ打ち合わせをし、25枚のESPカード(星形、波形、丸、四角、十字の5種類が5枚ずつ)を持参して、打ち合わせた時間に、毎日6分間ずつミッチェルがこれを1枚ずつめくりながら念をこらして送信し、ジョンソンがこれを受信するという実験を6日間にわたっておこなったのである。出発前、ケープ・ケネディとシカゴの間でおこなった実験では、50%の確率でこれが当たった。
 宇宙からの交信では、出来不出来の差が大きかったが、それでもテレパシーの存在を証明するに足る成功をおさめたという。そしてまた、それとは別に、月面上で自分が現にESP能力を行使していることを発見した。アーウィンがスコットとの間でもそうであったように、ミッチェルもシェパードとの間で、彼が何もいわないのに、彼が考えていることが直接わかったというのだ。
 ミッチェルは、翌年、NASAをやめると、サンフランシスコに移り住んで、ESP研究所を設立した。

――いまも超能力現象の研究にカを注いでいるのか。
 いや、私自身はここ数年それから離れている。超能力をテクニカルに求めることは誤りであることに気づいたからだ。超能力はきわめてパワフルな能力だから、面白半分にそれを扱うことは危険なのだ。それを熱心に探求するあまり、精神に異常をきたした人が昔から少なからずいる。
 超能力を扱うには、まず、それにふさわしい精神の安定と感性の安定を得ることが必要だ。心の中からあらゆる日常的世俗的雑念を払いのけ、さざ波一つない森の中の静かな沼の水面のように、心を静寂そのものに保ち、透明な安らぎを得なければならない。精神を完全に浄化するのだ。精神を完全に浄化すれば、とぎすまされた鋭敏な感受性を保ちながら、それが外界からいささかも乱されることがないという状態に入ることができる。仏教でいうニルヴァーナだ。そこまでいけば、人間が物質的存在ではなく精神的存在であることが自然にわかる。
 人間は物質レペルでは個別的存在だが、精神レペルでは互いに結合されている。ESPの成立根拠はそこにある。さらに進めば、人間のみならず、世界のすべてが精神的には一体であること(spiritual oneness)がわかるだろう。超能力現象は、このスピリチュアル・ワンネスの証明なのだ。スピリチュアル・ワンネスがあるから、スピリチュアルになりきった人間は、物理的手段によらず外界とコミュニケイトできる。古代インドのウパニシャドに、「神は鉱物の中では眠り、植物の中では目ざめ、動物の中では歩き、人間の中では思惟する」とある。万物の中に神がいる。
 だから万物はスピリチュアルには一体なのだ。しかし、神の覚醒度は万物において異なる。だから、万物の一体性はなかなか把握できない。眠れる神をも見ることができるだけスピリチュアルになることができた人間にしてはじめて、この一体性を把握できる。そして、充分にスピリチュアルになりえた人間には、超能力がおのずから生まれる。
 イエスのことばに、「まず神の国を求めよ。そうすれば、すべてはそれにともなって与えられる」とある。まず超能力を求めてはいけない。まず、神の国を求めるべきなのだ。超能力とは、 より大きな精神世界の一部であると知るべきだ。

――あなたが神というとき、それは何なのか。あなたが信じているのは、キリスト教の神なのか。

 いや、私はキリスト教の神を信じていない。キリスト教が教える人格神は存在しないと思っている。神というのは、この世界で、この宇宙で現に進行しつつある神的な(divine)プロセスを表現するために用いられていることばにすぎない。

――あなたは、はじめからクリスチャンではなかったのか。
 いや、私は熱心なクリスチャンだった。私は南部バプティストのファンダメンタリストだった。
ファンダメンタリストの教義は、ご承知のように、科学が教えることより、聖書に書いてあることのほうがすべて正しいという立場だ。しかし、私は一方で科学者であり、技術者だった。だから、私の人生は40年間にわたって、科学的真理と宗数的真理の対立を何とか解消できないかと悩みつづけた人生だった。そのため、哲学や神学をずいぶん勉強したがダメだった。結局、ある日、どちらの真理も、より高次のレペルの真理を、より低次のレペルで部分的にしかつかんでいないことから対立が生じているのだと考えれば、問題はすべて解消してしまうではないかということがわかって、悩みを脱することができた。

――しかし、ファンダメンタリストの教義と科学の間には、そんなことでは解決ができないほど深刻な対立があるのではないか。
 宗教の側には部分的真理という以上の問題がある。それは教団として組織化されることから生じた、真理の道の踏み外しだ。すべての宗教は偉大なスピリチュアルな真理をつかんだ指導者の教えにはじまる。しかし、信者は、その教えの本質を充分には理解しない。
 各宗教の教祖となったような人々は、イエスにしても、ブッダにしても、モーゼにしても、モハメッドにしても、あるいはゾロアスターや老子にしても、みな人間の自意識の束縛から脱して、この世界のスピリチュアル・ワンネスにふれた人々なのだ。だから、彼らはみな同時に超能力者でもあった。彼らはみな奇蹟を起こした。奇蹟というのは超能力現象の別の表現だ。しかし、その教えを受けて、追随した人々のほうは、自意識の束縛から逃れきれていないために、教えられた真理をそこまでの深みにおいて把握していない。だから、指導者が世を去ると、信者集団はスピリチュアルな真理から人間的自意識の側に引き戻されてしまう。そして教団が組織され、教団全体としてますます原初の真理から誰れていくことになる。教団化された既成宗教はどれをとっても、いまや真のリアリティ、スピリチュアルなリアリティから離れてしまっている。私がいう宗教的真理というのは、教団教義のことではない。

――あなたはいかにして科学的真理と宗教的真理の対立を克服したのか。それは宇宙体験と関係があるのか。
 まさしくその通りだ。私は2つの真理の相剋をかかえたまま宇宙にいき、宇宙でほとんど一瞬のうちに、この長年悩みつづけた問題の解決を得た。

――それは、宇宙体験のどの部分なのか。
 宇宙から地球を見たときだ。正確にいえば、月探検を終えて、月軌道を脱し、地球に向かって帰路について間もなくだった。それまでは休みなく働きつづけており、落ち着いてものを考える暇がなかった。しかし、地球に向かう軌道に宇宙船を乗せてしまうと、これという作業もなくなり、時間的余裕ができた。
 月探検の任務を無事に果たし、予定通り宇宙船は地球に向かっているので、精神的余裕もできた。落ち着いた気持で、窓からはるかかなたの地球を見た。無数の星が暗黒の中で輝き、その中に我々の地球が浮かんでいた。地球は無限の宇宙の中では一つの斑点程度にしか見えなかった。しかしそれは美しすぎるほど美しい斑点だった。それを見ながら、いつも私の頭にあった幾つかの疑問が浮かんできた。私という人間がここに存在しているのはなぜか。私の存在には意味があるのか。目的があるのか。人間は知的動物にすぎないのか。何かそれ以上のものなのか。宇宙は物質の偶然の集合にすぎないのか。宇宙や人間は創造されたのか、それとも偶然の結果として生成されたのか。我々はこれからどこにいこうとしているのか。すべては再び偶然の手の中にあるのか。それとも、何らかのマスタープランに従ってすべては動いているのか。こういったような疑問だ。
 いつも、そういった疑問が頭に浮かぶたびに、ああでもないこうでもないと考えつづけるのだ。が、そのときはちがった。疑問と同時に、その答えが瞬間的に浮かんできた。問いと答えと二段階のプロセスがあったというより、すべてが一瞬のうちだったといったほうがよいだろう。それは不思議な体験だった。宗教学でいう神秘体験とはこういうことかと思った。心理学でいうピーク体験だ。詩的に表現すれば、神の顔にこの手でふれたという感じだ。とにかく、瞬間的に真理を把握したという思いだった。
 世界は有意味である。私も宇宙も偶然の産物ではありえない。すべての存在がそれぞれにその役割を担っているある神的なプランがある。そのプランは生命の進化である。生命は目的をもって進化しつつある。個別的生命は全体の部分である。個別的生命が部分をなしている全体がある。
 すべては一体である。一体である全体は、完璧であり、秩序づけられており、調和しており、愛に満ちている。
この全体の中で、人間は神と一体だ。自分は神と一体だ。自分は神の目論見に参与している。宇宙は創造的進化の過程にある。この一瞬一瞬が宇宙の新しい創造なのだ。進化は創造の継続である。神の思惟が、そのプロセスを動かしていく。人間の意識はその神の思惟の一部としてある。その意味において、人間の一瞬一瞬の意識の動きが、宇宙を創造しつつあるといえる。
 こういうことが一瞬にしてわかり、私はたとえようもない幸福感に満たされた。それは至福の瞬間だった。神との一体感を味わっていた。

――その神というのはつまるところ何なのか。神的プロセスを表現する概念ということだが、もう少し説明するとどういうことなのか。
 神とは宇宙霊魂あるいは宇宙精神(コスミック・スピリット)であるといってもよい。宇宙知性(コスミック・インテリジェンス)といってもよい。それは一つの大いなる思惟である。その思惟に従って進行しているプロセスがこの世界である。人間の意識はその思惟の一つのスペクトラムにすぎない。宇宙の本質は、物質ではなく霊的知性なのだ。この本質が神だ。

――では、この肉体を持った個別的人間存在は何なのか。人は死ねばどうなるのか。
 人間というのは、自意識を持ったエゴと、普遍的霊的存在の結合体だ。前者に意識がとらわれていると、人間はちょっと上等にできた動物にすぎず、本質的には肉と骨で構成されている物質ということになろう。そして、人間はあらゆる意味で有限で、宇宙に対しては無意味な存在ということになろう。しかし、エゴに閉じ込められていた自意識が開かれ、後者の・存在を認識すれば、人間には無限のポテンシャルがあるということがわかる。人間は限界があると思っているから限界があるのであり、与えられた環境に従属せざるをえないと思っているから従属しているのである。スピリチュアルな本質を認識すれば、無限のポテンシャルを現実化し、あらゆる環境与件を乗りこえていくことができる。
 人が死ぬとき、前者は疑いもなく死ぬ。消滅する。人間的エゴは死ぬのだ。しかし、後者は残り、そのもともとの出所である普遍的スピリットと合体する。神と一体になるのだ。後者にとっては、肉体は一時的な住み処であったにすぎない。だから、死は一つの部屋から出て別の部屋に入っていくというくらいの意味しかない。人間の本質は後者だから、人間は不滅なのだ。キリスト教で人が死んで永遠の生命に入るというのも、仏教で、死して涅槃に入るというのも、このことを意味しているのだろう。だから、私は死を全く恐れていない。

――そういう認識が一瞬にして生まれたということだが……。
 そうなのだ。瞬間的だった。真理を瞬間的に獲得するとともに歓喜が打ち寄せてきた。その感動で自分の存在の基底が揺すぶられるような思いだった。より正確にいえば、いまことばであれこれ説明しているように、論理的に真理を把握したわけではない。ことばでは表現できないが、とにかくわかった、真理がわかったという喜びに包まれていた。いま自分は神と一体であるという、一体感が如実にあった。それからしばらくして、今度はたとえようもないほど深く暗い絶望感に襲われた。感動がおさまって、思いが現実の人間の姿に及んだとき、神とスピリチュアルには一体であるべき人間が、現実にはあまりにあさましい存在のあり方をしていることを思い起こさずにはいられなかったからだ。
 現実の人間はエゴのかたまりであり、さまざまのあさましい欲望、憎しみ、恐怖などにとらわれて生きている。自分のスピリチュアルな本質などはすっかり忘れて生きている。そして、総体としての人類は、まるで狂った豚の群れが暴走して崖の上から海に飛び込んでいくところであるかのように行動している。自分たちが集団自殺しつつあるということにすら気づかないほど愚かなのだ。人間というものに絶望せずにはいられない。私の気分はどんどん落ち込んでいった。ところが、またしばらくすると、先ほどの神との一体感がよみがえってきて、感動的な喜びに包まれる。するとまたしばらくして絶望感に打ちひしがれる。こうして無上の喜びと、底知れぬ絶望感と、極端から極端へ心が揺れ動きつづけた。それが30時間にもわたってつづいたのだ。その後は、地球への帰還の準備で忙しくなり、忙しさにとりまぎれて、そういうことは考えなくなった。
 しかし、地球に戻ってから、この体験を反芻し、哲学書、思想書、宗教書などを読みふけるようになった。もともと哲学、神学に興味をもって読んではいたが、やはりそれまではキリスト教の立場からのものが中心だった。しかし、今度は心をもっと広く開いて、あらゆる宗教、あらゆる思想に偏見なく接するようになった。私が持ったあの神との一体感、あれが特定宗教の神との一体感であって、その神だけが真実の神であり、他の宗教の神は虚妄であるとは私には思えなかったからだ。 
 
 
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