私の霊界紀行
驚異の幽体離脱体験記
F・C・スカルソープ・著 近藤千雄・訳
潮文社 2007年4月刊
 

●同じ次元ないし同じ波長の状態にあれば、お互いに「固い」と感じられること、心に思ったことが本を読むように読み取れるということが分かった。

●哀惜の念は地上的無知の産物である。つまり死を永遠の別れとして悲しむ情である。それは真実を完全無視した情であり、霊的法則に反し、波長を下げることになる。

●夜中に霊界を旅行すると、まだ生きているはずの人々をよく見かけることがある。

●同じく真昼に離脱したときのことであるが、今ごろ絶対に寝ているはずがないと思われる人を霊界で見かけることがあった。どういうことだろうと思っていたらバイロケーションBilocation という単語が浮かんだ。これは「同時に2カ所に存在する」という意味である。そういえばスエーデンボルグも同じような体験を述べている。ある町を歩いていた同じ時刻に霊界で別の体験をしていたという。

●下層界は地上とそっくりである。都会あり、町あり、村ありで、いずれも地上の現在のその地域の写しであるように思える。幽体がその界層と波長を整えれば、そこの存在物はすべて地上と同じく固く感じられる。
 そうした地域性はその地域で他界した住民の精神の働きによって形成される。だから見覚えのある環境となっているのだということを、何かの本で読んだことがあるが、それは事実のようである。同時に、精神というものは細かい点まで再現する写真的ともいうべき記憶性を有していることも事実である。

●霊の世界では思念が“具体化”するようである。それで“物”が存在するように思えるのである。

●下層界では地上時代の記憶や先入観の似通った者が親和力の作用で同じ境涯に集まって暮らしている。私がこれまでに訪れた中で一番不快な思いをしたのは、いがみ合う習性がこびりついてしまった人間ばかりが住む町だった。それは、ただ怖いという感じだった。見まわすと、そこらじゅうで罵(ののしり)りあっている。
 そこの状態は、人間はかくあるべきというものを否定した状態である。死後そのような状態、そのような波長の界層に行くにふさわしい生活を送っている人間の宿命を考えてみられるがよい。わずかながらも残っていた愛すら奪い去られ、全体の殺伐たる雰囲気の中に呑み込まれてしまう。聖書の次の言葉がぴったりである。
 「すべて、持てる者は与えられて、ますます豊かにならん。しかれど、持たぬ者はその持てるものをも奪われるべし」(マタイ25・29)
 思念はすぐに幽体に感応する。そしてその思念が強ければ強いほど、その影響も大となる。たとえば、まじめな知人どうしが楽しい界層で出会えば、互いに楽しい思念を出し合って、それを互いの体が吸収し合う。受ける側の楽しさが倍加され、それを返す楽しい思念もまた倍加されるわけである。こうした幸福感の倍加過程が電光石火のスピードで行なわれる界層があることを思えば、同じ法則が、今述べた絶望的境涯においても働き、憎しみの念が倍加され、その結果として現出されていく地獄的世界は、およその想像がつくことであろう。

●地上時代の無知が霊界におけるそれ相当の境涯に位置づけているにすぎないということである。すなわち、地上生活によって一定の波長の幽体が形成され、死後その波長に合った境涯へと自然に引きつけられていくということで、そこに何一つ誤りはない。神の法則は絶対に公平である。自分で自分を裁いていく以上、誰に文句を言う資格があろうか。
 神の特別の寵愛者もいないし特権階級もいない。地上で偉いと思われている人が必ずしも死後も偉いとはかぎらない。何ごとにおいても動機が優先される。

●与えた愛は何倍にもなって自分に戻ってくるものである。反対に動物を虐待した者は、死後、一種の“自己検診”のようなものをさせられて、辛い思いをすることになる。地上生活での出来事は細大漏らさず魂に刻み込まれているので、絶対に逃れることは不可能なのである。そこから生まれる自己嫌悪感は実に強烈で、それが進歩を遅らせることになる。

●幽体は地上時代に精神に焼きついた記憶のうち、最も強烈なものを自動的にまとうようである。

●地上で霊的なことにまったく関心のなかった者は、こちらへ来てもそう簡単に精神的革命は起こらない。精神構造の中にその要素がひとかけらもないからである。
 その意味では、死後の世界は地上時代に培われた精神がむき出しになる世界ともいえる。内部にあったもの、支配的に働いていた観念が表面に出てくるのである。時には慣習として引き継がれてきたものが固定化し、霊界での進歩の妨げになることもある。

●基本的な霊的真理は、霊界に来てから学ぶよりも地上において学んでおく方がはるかに効果的だということである。

●事実、地上において築いた精神に霊的要素が欠けていると、霊界入りしても空っぽのままなのである。

●(逆に)高い界層へ行くほど知識を幅広く入手できるようになるのは、高い波長になるほど高級な指導を受けやすくなるからである。(中略)
 心が友愛に満ち、他人への思いやりの情を失わないかぎり、たとえ霊とか宗教とかに縁がなくても、霊界に来ると自動的に同じ波長の境涯へと引き寄せられていくのである。そこは当然明るい境涯であろうし、そこでさらに霊力と知識とを身につけて、進歩も楽しく容易なものとなることであろう。

●(霊の世界では)行為まで及ばなくても思念だけで他人を傷つけることもありうる。
 思念とは一種の電気的衝撃であり、霊的身体の持つテープレコーダー的性質によって記録されていく。ただし、永久的に保存されていくのは自分から発した思念だけで、それが蓄積されて“霊格”が決まっていく。言いかえれば、「口から入るものがその人を汚すことはない。口から出るものがその人を汚すのである」(マタイ伝15・11)

●ずっと上層界に行けば時間的感覚はなくなるが、地上圏に近い幽界においては、行動の過程に伴って地上に似た一種の時間の経過があるようである。

●離脱中は意識的な行動をしていても、肉体に戻ってからそれが思い出せないということは明らかにあり得るようである。

■訳者解説■
 (イーラム氏の著書『幽体離脱の実際』によると)イーラム氏は離脱能力の開発のために精神統一、呼吸法、弛緩法などを修行している。が、そうしたものより大切なのは道徳的生活、利己的欲望の排除、愛他精神であると考えている。

■霊界へ旅行すると、時おり低級霊に襲われる。そんなときに最も強力な武器となるのは愛の想念であるという。
 
なわ・ふみひと ひとくち解説  
 まず、スカルソープ氏について述べた訳者(近藤千雄氏)の言葉をご覧ください。以下の文章は本書の「訳者まえがき」からの抜粋です。

 
スカルソープ氏は地味な霊能者である。経験年数からいうとすでに30年近くになるが、派手な活動をせず、著書も他に本書の続編が1冊あるだけで、コツコツと体験を積み重ねながら、つねに修養を心がけている真摯な学徒という印象を受ける。
 本当はすべての霊能者がそうあらねばならないのである。ところが、これは世界どの国の霊能者にも言えることであるが、霊能が出始めると何となく偉くなったような錯覚を抱き、まわりの者にもてはやされると、その錯覚を一段とエスカレートさせ、ご大層なことを言いだし、法外な金銭を取り出す霊能者が多すぎるのである。
 そうした中でスカルソープ氏は初心を忘れないきわめて貴重な存在であり、そうした性格や生活信条は本書の随所に表れている。私がぜひとも本書を翻訳して紹介したいと思った理由もそこにある。


 
訳者の近藤千雄氏は本書の解説の中で、スカルソープ氏と同じように幽体離脱の研究に取り組んだイーラムという人物についても紹介していますが、そのイーラム氏は「離脱能力の開発のために精神統一、呼吸法、弛緩法などより大切なのは道徳的生活、利己的欲望の排除、愛他精神である」と述べています。
  この「幽体離脱」という現象は終末期における「アセンション(次元上昇)」体験と共通する現象だと思われます。つまり、「アセンション」とは「肉体の幽体化」ということを意味しているからです。
 日月神示(ひふみ神示)に「ミロクの世は半霊半物質の世界になる」という意味の言葉がありますが、肉体の波長を繊細にして幽体と一体化することによって、半霊半物質の世界へと次元上昇することができるということでしょう。
 そして、幽体離脱体験者のイーラムという人物は、幽体離脱に必要なのは「精神統一や呼吸法、弛緩法」などよりも「利己的欲望の排除、愛他精神」だと述べているのです。このことからも、大本神諭や日月神示の中で繰り返し述べられているとおり「我善し(自己中心主義)」の考え方を改め、「世のため、人のため」という精神で身魂磨きに努めることが、アセンションのための王道といえるのではないでしょうか。
 
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