「日本の歴史」E昭和篇
「昭和の大戦」への道
渡部昇一・著 WAC 2010年刊 

 「日米開戦」はチャーチルが仕組んだ

 盧溝橋(ろこうきょう)から始まったシナ事変(日華事変)はずるずると拡大していったが、その一方で、日本を取り巻く国際環境はますます悪化していった。気がつくと日本は、ABCD包囲陣に取り囲まれて、石油をはじめとする戦略物資がまったく入ってこなくなっていた。Aはアメリカ、Bはイギリス(ブリテン)、Cはシナ(チャイナ)、Dはオランダ(ダッチ)である。オランダは今のインドネシアを植民地にしていた(当時、インドネシアは蘭領東印度諸島と呼ばれていた)。最近の研究によると、この包囲陣を画策したのは、どうやらイギリスのチャーチル首相であったようである。
 第二次欧州大戦は1939年(昭和14)9月1日、ドイツのポーランド侵攻によって始まった。
 ちなみに、ドイツに宣戦布告したのはイギリスであった。イギリスはポーランドとの条約にもとづいてドイツと開戦した。ヒトラーは元来イギリスと戦うことは欲していなかった。しかしひとたび戦端が開かれると、ドイツ軍の圧倒的な強さに、イギリスは風前の灯といったありさまであった。チャーチルが首相になったのも、連敗につぐ連敗でチェンバレン首相が政権を放り出したからであった。
 このような状態を見てチャーチルが考えたのは、「イギリスを救うためには、この戦争にアメリカを引きずりこむしかない」ということであった。
 だが、当時のアメリカは、とうてい参戦する見込みがない。というのも「第一次大戦のとき、連合国の一員として参戦したけれども、犠牲ばかり大きくて結局は何の見返りもなかったではないか。もうヨーロッパの戦争などごめんだ」という声が国民の間で圧倒的であったからだ。ルーズベルト自身、「絶対に参戦しない」という公約で大統領に当選している人である。
 そこでチャーチルは、まず太平洋で日米戦争が起こるようにしむけるという迂回作戦を採ることにした。アメリカが日本と戦争を始めれば、日本と同盟関係にあるドイツはアメリカと自動的に戦うことになる――それが、チャーチルのシナリオであった。
 もちろん、放っておいても日米戦争が起こるわけではないし、アメリカが日本に宣戦布告するということもありえない。あるとすれば、日本がアメリカに戦争をしかけるようにするしかない。そこでチャーチルは、アメリカやオランダを説得して、ABCD包囲陣を作ったのである。
 戦略物資(つまり近代工業に必要な物資)、中でも石油がなくなれば、日本は“何か”を始めるはずだと読んだチャーチルの計算は正しかった。昭和16年(1941)12月8日、ついに日本は真珠湾攻撃を行なう。

 “泥縄式”に始まった対米戦争  [TOP]

 日米開戦は、このような経緯によって始まったことである。何も日本が好戦的だったり、侵略的だったから戦争を始めたのではない。むしろ、海軍などはギリギリまでアメリカと戦争はしたくなかったのである。また陸軍は、元来、アメリカを仮想敵国と考えたことがなかった。
 昭和天皇が終戦直後に側近に語られた記録が残されているが、それによると「この戦争の遠因はアメリカの移民禁止にあり、引き金になったのは石油禁輸だ」という主旨のご発言がある(『昭和天皇独白録』文藝春秋)。これほど簡潔で明瞭な――疑う余地がない――史観は聞くこと稀である。事実、ただでさえ世界経済がブロック化しているところに、石油まで入って来なくなっては、戦争を始めるしか選択肢は残されていなかったのである。
 むろん、このような状態に追い詰められるようになった原因の一つには、軍の暴走を政府が押さえられないという憲法上の欠陥があったわけだが、それでも、東京裁判が言うような「戦争遂行の共同謀議」というような事実は、どこにもない。
 東京裁判では、「狡猾(こうかつ)な日本の指導者が集まって、世界に戦争をしかける密議を凝らしていた」というような言われ方をした。そういうイメージは、今なお日本人の間にも強い。だが、当時の日本の状況は、何度も繰り返すように「共同謀議」どころの騒ぎではなかった。
 何せ海軍が対米戦争突入の研究を始めたのは石油禁輸の問題が出てからであり、真珠湾攻撃の図上演習は作戦開始の3カ月前からようやく始まったというありさまである。まさに“泥縄式”である。それまでの帝国海軍は、小笠原沖あたりでアメリカの円形に配置した大海軍と決戦するというような、迎撃戦型の海戦を主として研究していたのである。
 それなのに今日でも日本のイメージが悪いのは、やはり真珠湾攻撃が“スニーク・アタックsneak attack=こっそり忍び足で近づいて行なう卑怯な攻撃)となってしまったことが、最も大きいであろう。
 日本が真珠湾を奇襲攻撃したというニュースは、それまで戦争に消極的だったアメリカ世論をいっぺんに変えてしまった。一夜にして、日本を叩き潰すことがアメリカ人にとって“正義”になったのである。今でも日米関係で何か問題が起こると、「やはり日本は油断がならない。真珠湾を忘れるな」という雰囲気になるのは、このときの記憶が生々しいからである。

 日本の外交官が「奇襲攻撃」にしてしまった  [TOP]

 いまだに真珠湾攻撃は日本にとってマイナスの要素になっているわけだが、これが最初から奇襲攻撃をするつもりで行なわれたのであれば、まだ諦めもつく。小狡(ずる)い日本人という悪評も甘受しよう。しかし、現実には日本はまったく奇襲攻撃をするつもりなどなかった。政府も連合艦隊も、ちゃんと開戦の通告をやってから真珠湾に最初の一発を落とそうと思っていたのである。
 ところが、これは予定どおりに行なわれなかった。それは、すべてワシントンの日本大使館員の怠慢に由来する(以下の記述は徳岡孝夫「誰が一二月八日を国辱の日にしたか」〈『文藝春秋』昭和61年1月号〉によるところが多い。なお、この事実は私自身も、当時のことを知る外交官に聞いて確認した)。
 真珠湾攻撃に当たって、海軍軍令部総長の永野修身は宮中に参内し、昭和天皇に「戦争はすべて堂々とやって、どこからも非難を受けぬように注意いたします」と奏上した。また、連合艦隊をハワイ沖に送り出すに当たって、山本五十六長官は「くれぐれも偏し討ちにならぬよう」と念を押したという。
 このときの日本政府の計画では、開戦の30分前にはアメリカ国務省のコーデル・ハル長官に国交断絶の通告を渡すことになっていたようである。
 「たった30分前では奇襲と同じではないか」という議論は成り立たない。というのも、この当時は、すでに開戦前夜のような状況が続いていた。すでに対日石油禁輸は実行されていたし、アメリカにある日本資産の凍結が行なわれていた。また、アメリカ側の事実上の最後通牒とも言うべき「ハル・ノート」が日本に渡されていたからである。
 このような状況であるから、アメリカ側も「いつ日本は宣戦布告を出してくるのか」と待っていたのである。その後の研究では、外務省の暗号は解読されていた上に、機動部隊の動きも知られていたという。だから、日本が開戦の30分前に断交通告を出してきても、彼らは驚かなかったはずである。もちろん、完全に合法的である。
 ところが、この予定は大幅に遅れ、実際には真珠湾攻撃から55分も経ってから、日本の野村(吉三郎)駐米大使、来栖(三郎)特命全権大使がハル長官に通告書を渡すということになったのである。
 ルーズベルトは、日本側の失態を最大限に利用した。アメリカ国民のみならず、世界に向けて「日本は奇襲攻撃をしてから、のうのうと断交通知を持ってきた。これほど卑劣で狡猾で悪辣なギャングは見たことがない」ということを印象づけたのだ。
 このとき断交通知が遅れたことについては、戦後長い間「大使館員がタイプライターに不慣れなために予定が遅れたのだ」とされてきた。これは、当時の関係者が東京裁判でそのように証言したからであったが、真実はまったく違うのである。
 開戦前日(ワシントン時間12月6日)の午前中、外務省は野村大使に向けてパイロット・メッセージ(予告電報)を送った。「これから長文の外交文書を送る。それを後にあらためて通知する時刻にアメリカ側に手渡せるよう、万端の準備をしておくように」という内容である。
 何度も言うが、当時はすでに開戦前夜のごとき状況である。日米交渉の当事者であるワシントンの外交官たちは、そのことを十分知っていたはずである。
 ところが、いったい何を血迷ったのか、この日本大使館の連中は一人残らず、夜になったら引き上げてしまったのである。すでに予告電報は届いているというのに、彼らは一人の当直も置かずに帰ってしまった。というのも、この日の夜(土曜日であった)、同僚の送別会が行なわれることになっていたのだ。彼らは、送別会を予告電報の重大性よりも優先させたのである。
 さて、運命の12月7日(ワシントン時間)、朝9時に海軍武官が大使館に出勤してみると、大使館の玄関には電報の束が突っ込まれていたという。外務省が予告していた、例の重大文書である。これを見た武官が「何か大事な電報ではないのか」と大使館員に連絡したので、ようやく担当者が飛んできたというから、何と情けないことか。同じ日本人として痛憤に耐えない。
 しかも、彼らのミスはそれだけに留まらない。
 あわてて電報を解読して見ると、まさに内容は断交の通告である。しかも、この文書を現地時間の午後1時にアメリカに手渡せと書いてある。
 大使館員が震え上がったのは言うまでもない。ところが、その緊張のせいか、あるいは前夜、当直も置かずに送別会をやったという罪の意識からか、電文をタイプで清書しようと思っても間違いの連続で、いっこうに捗(はかど)らない。そこで彼らがやったのは最悪の判断であった。ハル長官に電話して、「午後1時の約束を、もう1時間延ばしていただけないか」と頼んだのだ。
 いったい、彼らは外交官でありながら、国交断絶の通知を何だと思っているのであろう。外務省は、「現地時間の午後1時に渡せ」と指示してきているのだ。それを独断で1時間も遅らせるとは、どういうつもりであろうか。
 要するに彼らはエリートかもしれないが、機転が利かないのだ。「外交文書はタイプで清書しなければならない」という国際法など、どこにもない。タイプが間に合わなければ、手書きのまま持っていって、とにかく指定された午後1時に「これは断交の通知です」と言って渡すべきだったのだ。きれいな書面が必要なら、あとで持ってきますと、なぜ言えなかったのか。あるいは断交だけを口頭で伝え、あとで文章を渡してもよかったのだ。
 現に、コーデル・ハルは戦後出版した回想録(The Memories of Cordell Hull, 1948)の中で、次のように書いているのだ。
 「日本政府が午後1時に私に会うように訓令したのは、真珠湾攻撃の数分前(本当は数十分前=渡部註)に通告を私に手渡すつもりだったのだ。日本大使館は解読に手間どってまごまごしていた。だから野村は、この指定の時刻の重要性を知っていたのだから、たとえ通告の最初の数行しか出来上がっていないにしても、あとは出来次第持ってくるように大使館員にまかせて、正1時に私に会いに来るべきだった」(訳文は『回想録』朝日新聞社〈昭和24年〉を用いた)
 いやしくもワシントン大使館にいるような外交官といえば、昔も今も外務省の中では最もエリートのはずである。そのような人たちにして、この体たらくとは。

 真相を隠し続けた駐米大使たち  [TOP]

 しかも、これには後日談がある。
 だいぶ昔の『タイム』誌で読んだのだが、あるとき、2人のオランダ海軍の軍人が正式な任官を前にして、生涯の誓いをしたという。それは、「どんなことがあっても、お互いのことを褒めあおう」ということであった。
 閉鎖的な組織の中での出世の原則は、「同僚から足を引っ張られない」ということに尽きる。外部からの評価などあまり関係ない。要は、仲間内での“受け”がいいかということが大事なのだ。この2人は誓いを守った。その結果、めでたく両人ともオランダ海軍のトップの座に就いたという。
 この話と似たようなことが、開戦のとき一緒に送別会をやって大失敗をやらかしたワシントン駐在の外交官たちの中でもあったらしい。すなわち、「あの晩のことは、一生涯、誰も□にしない」という暗黙の掟ができあがったと見える。
 その誓いは守られた。このときワシントンの大使館にいた人は、みな偉くなった。その中には戦後、外務次官になった人もいるし、国連大使になった人もいる。勲一等を天皇陛下からいただいた人もいる。
 あの『昭和天皇独白録』を筆記した寺崎英成という人は、あの晩、送別会の主役であった人物である。もちろん、断交通知が遅れたことについて、彼だけを責めるつもりはない。しかし、真珠湾攻撃がなぜスニーク・アタックと呼ばれるようになったのかは、当然知っていたはずである。ところが彼もまた、その真相を誰にも話さなかった。そして、話さないまま、天皇の御用掛になった。
 言うまでもないことだが、昭和天皇は最後まで日米開戦を望んでおられなかった。閣議が「開戦やむなし」という結論になったときも、「和平の可能性はないか」ということを重臣に何度も確認しておられたという。
 このようなお考えであったから、天皇はきっと真珠湾攻撃がスニーク・アタックになったことを残念に思っておられたはずである。「暗号解読に予想外に手間取り」という言い訳を聞かされて、やむなく納得しておられたのだ。
ところが、その真相が違うことは、目の前にいる寺崎本人が誰よりもよく知っていたのである。何という皮肉な話であろうか。
 もちろん、寺崎にしても、天皇に対して真相を隠しつづけることは苦痛であったと思う。それは想像にかたくない。だが、やはり寺崎たち関係者は、事実を自ら公表すべきであったのだ。
 もし彼らがこのとき責任を感じて、ただちに辞表を提出し、その理由を世界に明らかにしておけば、「スニーク・アタック」という誤解が、これほどまでに広がることはなかった。
 駐米大使をはじめ、当時の関係者たちがペンシルヴァニア・アベニューにずらり並んで切腹して天皇と日本国民に詫びるということでもやっていたら――読者は笑うかもしれないが、明治の外交官であれば、そのくらいのことはやったであろう――そのニュースは世界中を駆け巡り、真珠湾奇襲についての悪評は消えていたはずである。
 「そうすれば、この間の戦争も、もっと早期に終わったかもしれない」というのは、かつて駐タイ大使であった岡崎久彦氏の意見である。この見方に私も賛成である。
 アメリカにしても、もともとは広島・長崎に原爆を落とすところまで対日戦争に深入りする気はなかったはずである。彼らにしても、ある程度日本を叩いたら、さっさと有利な条件で講和をしたほうが得策だったはずである。
 もし、この戦争が“スニーク・アタック”で始まっていなければ、彼らとて岡崎氏の言うごとく「早く手を打とう」と考えた可能性もあろう。だが、現実にはアメリカの世論は反日ムード一色である。とても早期講和などと言い出せる状態ではない。戦争が真珠湾攻撃で始まったことは、アメリカの選択肢をも狭めたのである。
なわ・ふみひと ひとくち解説  
 この本の著者・渡部昇一氏は、今日では日本の歴史を鋭い洞察力を持って分析できる数少ない人物のひとり(だった)と言えるでしょう。しかしながら、その“分析”には致命的な弱点があるのです。それは世界の歴史を陰から動かしている「世界支配層」の存在に気づいていない(または、タブーなのであえて知らないふりをしている)点です。
 太平洋戦争(大東亜戦争)に関する分析は各方面でなされていますが、今日では「アメリカ(を支配する層)が、ヨーロッパ戦線にアメリカの戦力を投入する口実として、ドイツ・イタリアと同盟を結んでいる日本が先に攻撃をするように策謀した」というのが定説となっています。要するに、日本がアメリカに宣戦布告をせざるを得ないようにあの手この手と嫌がらせをして、ついに真珠湾攻撃に踏み切らせたというわけです。
 このことは一面の真実と言えるでしょう。しかしながら、もしあの真珠湾攻撃が正々堂々と宣戦布告をしたあとに行なわれていたとすれば、アメリカ国民はあれほど強烈に「日本を叩け」ということを言ったでしょうか。むしろ、日本を戦争へと追い込んだアメリカにこそ大きな問題があることが、国内でもいろいろと問題視されたはずです。それらが全く問題にされることなく、「日本は卑怯だ。叩きつぶせ!」という国民の大合唱を起こすためには、アメリカの日本大使館員が、国交断絶を告げる文字通りの“宣戦布告”文書を、真珠湾攻撃の後に届ける必要があったのです。
 当時のアメリカ大使館にいた首脳部と、そこに打電させた日本側の中心的な人物がアメリカに操られていたと見るのが正解でしょう。渡部氏は、アメリカ大使館員の当日の行動を「機転がきかなかった」と解釈してすませていますが、問題の表面だけを撫でているとしか思えません。大使館員がそのような行動を起こし、戦後も責任が問われないようにと、巧妙に仕組まれた行動とみるべきなのです。
 つまり、最初から「日本が宣戦布告もしないで真珠湾を攻撃した」という筋書きがあったのです。その筋書きにそって、山本五十六が突然「アメリカと戦争を始めるなら、まず真珠湾を攻撃すべきだ。この案が認められないのなら、私は司令長官を辞める」とまで主張した背景もそこにあるのです。
 アメリカ側ではルーズベルトが、その筋書きどおり「日本は宣戦布告もなしに真珠湾を攻撃してくるから、それを卑怯者呼ばわりすればアメリカ国民は参戦を認めるだろう」と読んでいたということです。そのルーズベルト自身も、終戦時は、既に息絶え絶えとなっている日本に原爆を落とすことをためらったため、おそらく毒を盛られて殺され、代わりにトルーマンが原爆投下の命令を出す大統領の役目を引き受けることになったのです。すべて、大きな筋書きにそって世界情勢は動いているということで、そのなかでは、アメリカの日本大使館員が“宣戦布告”文書を真珠湾攻撃の後に手渡すというシナリオなどは三文役者の役回りとでも言えるものでしかないでしょう。
 結果として、日本は未来永劫「卑怯な国」というレッテルを張られることになったのですが、その大使館員たちは誰も責任を問われることなく、栄転することさえできたのです。これが、表には出てこない“歴史の深層”です。
 
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