超意識の物理学入門

イツァク・ベントフ・著 プラブッダ・訳
日本教文社 1992年刊

●われわれが死ぬとどうなるか? 組織力をもった生命エネルギーが離れて、からだは急速に腐敗分解しはじめる。われわれの大事な情報内蔵蛋白質も、3日のうちには悪臭ふんぷんたる物質に変わってしまう。時とともに、墓のなかではそれらの物質がさらに単純な物質へと分解していく。われわれは地球から拝借した物質を、また地球に返すのだ。
 しかし、生命には物理的な肉体以外の要素がある。われわれは一生のうちに、膨大な分量の情報を集めて蓄積する。その情報も、やはり組織化されたエネルギーだ。子どもの時分、身に起こる事件というのはランダムで脈絡がなく、大人の世界から派生する一種の副産物のようにみえる。しかし、大きくなるにつれて、われわれは出来事のパターンや原因を認識しはじめる。ひとことでいえば、それらに秩序を持ち込むのだ。この秩序は、生命の力が無機物に持ち込んでそれを組織化し、生きた肉体にまとめ上げた秩序と相似のものである。

●どんなに小さな、取るに足らないような行為でも、遠く、広く伝播して、なにかに、あるいはだれかに影響を与えるということだ。

●体内のどの細胞もすべて、新しいからだの複製をつくるのに必要な全情報を内臓している。

●すさまじいスピードで振動する原子核をはじめ、電子も分子もみなそれぞれ固有の振動速度を持っている。物質のもっとも重要な側面は波動エネルギーなのである。
 われわれがものを考えるとき、脳はリズミカルな電波を発生する。その磁力成分は、心臓で発生する電波や音とともに高速で空間へ拡散する。それらのすべてが巨大な干渉パターンを形成し、地球の外へ、そしてさらに遠くへと拡がっていく。

●波動の干渉パターンが、われわれのからだという広大な真空を満たし、もっと希薄なかたちでさらに遠くへひろがっているのだ。

●惑星の静電場というのは固めのゼリーのようなものだ。われわれのからだが動いたり振動したりすると、それらの動きは、惑星上のあらゆる人間や動物のからだを含んだ環境へ伝わってゆく。

●瞑想には、いら立った神経を鎮め、血圧を下げる以外の効果もある。それはゆっくりとだが確実に、われわれの「意識レベルの上昇」というものをもたらすのだ。

●瞑想に入ると、われわれのからだは地球の電気的な場(フィールド)と共鳴する。

●(『チベット仏教の秘密口伝』という本にのっている)導師たちによると、確かなリアリティとは運動のことであり、運動する物体の集合ではなく運動そのものだという。「動いている」物体などというものはない。われわれの目に物体として映るのは運動だ。物体とは運動にほかならないのだ
 この運動は、連続的で無限の速度をもったエネルギー炸裂の連鎖である。五官に知覚されるすべての対象物、あらゆる種類の現象のあらゆる側面は、瞬間的な出来事のすばやい連続から成り立っている。

●きわめて精度の高い測定をもってすると、体内のどこかのシステムにほんのちょっとでも変化があれば、ほかのあらゆるシステムがなんらかのかたちでその影響を受けるということがわかる。われわれのからだはもう、「個々別々な器官を寄せ集めて袋に放り込んだもので、専門家なら他の器官に影響を与えずにある器官を治せる」ようなものとは見なせない
 からだについていえるこのことは、社会についても、惑星についても、太陽系についても、またじっさい全宇宙についてもいえる。

●石や原子を生き物として思い描こうとしても難しいかもしれない。われわれは意識を生命と結びつける癖があるからだ。しかし、それは人間的な限界にすぎない。石の方だって人間の意識を理解するのに苦しんでいるかもしれないのである。現在、「生き物」という言葉は生殖できるものに限定して用いられている。これにはさほど根拠はないと思う。われわれは自分自身の行動を他のシステムに投影する傾向があるようだ。原子にはじまってある程度の集合体までは「生命」がなく、原子の集合体が一定の組織化段階に達すると突然「生命」が出現するなどという。これは、そこに自分たち自身のふるまいを投影しているからだ。
 私は基本的に、物質のなかにも意識があるという前提に立つ。逆の言い方をすれば、あらゆる質量(物質)は多かれ少なかれ意識(生命)を宿しているのである。それは洗練されたものであるかもしれないし、原始的なものであるかもしれない。われわれ人間は、しかるべき訓練さえ積めば、意識をもっているものならどんなレベルにあるものとでも相互作用し合えるようにできている。

●ここでちょっと、ものや人に対して想念がどんな効力をもつか考えてみよう。想念とは、脳内のニューロンを一定のパターンで発火させるエネルギーだ。当然、その結果脳皮質の特定の経路ぞいに微小電流が発生するが、それは頭皮に電極を装着すれば精度の高い装置で検出することができる。べつないい方をすると、極微な動きとしてはじまった思いは、最後には皮質のどこかで少なくとも70ミリボルトの電位を発生させる完全な想念へと発達していくのだ。(中略)
 さて、これは重大問題だ。とくに、想念エネルギーは集中させられるからただごとではない。われわれがただ閑居してくだらない考えをつむぎ出しているかぎりは、想念エネルギーも散漫で、いつか拡散し、弱まり、消えてしまう。ところが、意識的に精神集中してコヒーレントな(一貫した)想念を送り出すと、その想念エネルギーないし想念形態は、その思いが向けられた人に確実な影響を与えるのだ

●一例として、人間の物理的リアリティの下の方に生まれた人の人生を追ってみよう。「下の方」というのは所得が低いということではなく、むしろその人の神経組織が、意識の進化からいって、あるいは上位の諸レベルと相互作用する能力において、どちからというと未発達だという意味である。べつなことばでいえば、まったく物質的な人間ということだ。
 そういう人は死んでも、それ相応にアストラル体レベルの下の方に出現する。これはアストラル体領域の「スラム地帯」で、周波数レスポンスが物理レベルにとても近い。そのため、物理レベルとの相互作用が楽にできる。ポルターガイスト(騒霊)や幽霊、狐狗狸(こっくり)さん、憑依霊、等々といった心霊現象は、みなこの一般的にレベルの低い範疇に属する。

●進化の物理的レベルにおいて学べるかぎりのことをすべて学んでしまうと、その人はアストラル体領域にはいって物理的存在には戻ってこない。つまり、もうそれ以上肉体を必要とせず、アストラル体リアリティのなかで生き続けるわけだが、それはわれわれにとって物理的レベルがそうであるのと同じくらい、その人にとってリアルで堅固なリアリティなのである。この理由はいうまでもなく、その人にとって環境とのエネルギー交換がそのリアリティで最大だからだ。アストラル体リアリティのいいところは、時間を操作できる点だろう。時間は伸縮自在で主観的なものになる。

無防備なままでアストラル体レベルにはいってゆくことにはくれぐれもご注意を。物理レベルとアストラル体レベルの境界層には、犯罪者や酔っぱらいなど最悪のタイプの生き物が住んでいるからだ。肉体をなくしたり、「死んで」いたりしても、人間の人格や知性に変化があるわけではない。そういう連中が、心構えのない旅行者を襲うだろう。そのために、未知への踏み込みを敢行するにあたっては、前もって経験を積んだ教師の庇護が必要なのである。そこへ無防備で侵入するということは、大都会の無法地帯に目隠ししたまま乗り込むことに等しい。最初の何分かで、襲われ、袋叩きにあい、なにもかも奪われてしまうに違いない。

●人間の意識単位がさまざまな感情的問題を克服すると、進化はそれを次の微細(メンタル)な意識レベルへと導いていく。アストラル体リアリティの死後、螺旋はメンタルリアリティへつながっていく。
 それら2レベル間のエネルギー交換はたいへん大きい。両者は互いを排除することなく、アストラル体レベルの上の方に属する存在たちはメンタル領域を訪れることができる。このリアリティはそこの住人にとっては確固としたものである。
 物理的リアリティと非物理的リアリティの大きな違いは、想念や欲望の力によって瞬時に自分の環境を創造できる力をもつかどうかにある。これは実際には物理的レベルでも起こっているのだが、ずっと長い時間がかかり、われわれの環境中に変化が現れるまでには、はるかに多くの思考や行動が必要とされる。

●何百回、おそらくは何千回ものライフサイクルののち、われわれはようやく元因(コーザル)レベルにたどり着くかもしれない。それ以前の微細(メンタル)レベルでは知識への探求が第一義であったのに対し、ここでは知識の獲得などたやすいようだ。このリアリティが直感的レベルと呼ばれるのはその理由による。ここでは、知識は非線型的にやってくる。以前は、ある一つのテーマを学ぶには、一つずつ断片的情報をつなぎ合わせてゆかなければならなかった。ところがここでは知識は大きな塊で到来し、一瞬にして心に刻み込まれるのだ。
 ときとして、それは簡単な図式の形で、あるいは象徴的形態をとって訪れる。それが刻み込まれたのち、心は必要とあらばその情報を普通通りに分析する。つまり、この知識を物理レベルの通常の人間的知識に翻訳する必要があればそうするというわけである。

●そういう洞察の瞬間は、その人が問題の解決につながるとおぼしきあらゆる道筋について詳細な知識を頭に詰め込んだあとに訪れるといわれている。しかし、洞察以前には、それら可能な道筋が、エレガントで経済的なパターンなどまったくもたずに雑然と散らばっているにすぎない。そうしたとき突然、なにかくつろいだ拍子に意表をついて問題の解決法が浮かんでくるのだ。
 というのも、空間的宇宙においては、すべての問題の解答がすでに存在しているからである。

●わたしは、脳は思考の源ではなく、思考の増幅器だと考える。脳がかすかな衝動をとらえて、それをわれわれのために増幅すると、初めてそれがひとつの想念になるのだ。

●大切なのは宇宙が、われわれが進化と呼ぶ誘導システムを使ってそこに生きる有情たちにできるかぎり多くの知識を伝え、それによってできるかぎり速く進化の階梯を昇らせ、可能な最高段階まで意識を発達させたいと切に願っている点である。宇宙は、その言語を解する者たちに、みずからを明かしたがっている。そしてその言語が、われわれの霊的(スピリチュアル)な要素の展開につれてだんだんとわかるようになるのだ。
 ここで次の点をはっきりさせておこう。「霊的」といっても、それはいま考えているような意味の宗教とは無関係だ。それはただ、神経組織の発達と洗練、およびそれにともなう意識レベルの上昇とのみ関連する。意識の質の尺度上、周波数が十分な高さに達し、被造宇宙の最高次レベルと共鳴できるようになってはじめて、霊的という形容があてはまるのである。
 これは自動的に、内なる倫理観の発達とまごころの発達とをともなう。つまり、そのような発達レベルにある人は自動的に助けを必要とする人々に手をさしのべ、物理的レベルで「愛」と呼ばれる感情としてあらわれるような一つのエネルギーを発するという意味だ。
 ここでは愛を感情ではなくエネルギーとして定義するが、それは感情が物理的レベルおよびアストラル体レベルのリアリティに限定されたものだからである。それらのレベルを超えると、感情は姿を消してしまう。したがって、われわれのいう「愛」とは、全宇宙に遍満するエネルギーないし放射をさす。

●霊的な意識状態のなかで、文献類に一番よく出てくるのはいわゆる「宇宙意識」だろう。これは、自分自身の行為をだれかほかの人が行為しているかのように観照できる状態をさす。このような人は自分の行為がうまくいっても有頂天になることはないし、うまくいかなくて落ち込むこともない。

 モジュール的宇宙

●われわれ人間はそれぞれが意識の一単位で、それが集まってもっと大きな意識を構成し、そのより大きな意識が集まってさらに大きな意識単位をつくる――以下同様これが果てしなく続いている。一言で言えば、物質的な宇宙も非物質的な宇宙もモジュール的に成り立っているのだ。

 加速された進化の功罪

●われわれは人間の神経組織を、体内の他の器官とまったく同様、比較的静的で変化のないものとみなしがちだ。ここでわたしは、神経組織に途方もない発達の可能性があり、その発達は次の千年ほどのあいだに通常の生物学的進化によって起こるだろうということを指摘したい。この進化は、ある種のテクニックを利用すれば加速することができる。
 人間の神経組織はちがった意識レベルないしリアリティで機能するよう訓練できると述べた。ふつう、この発達過程は悠長なもので、体系的な瞑想によっても達成できるし、自然発生的に起こることもある。
 ここ数年、わたしは神経組織の体系的および自然発生的な進化の例をたくさん目にしてきた。これら異なった進化レベルの達成にともなって、体内にいくつかの生理学的変化が現れる。それらの変化は長年にわたってゆっくりと訪れ、それと気づかれない場合もあるし、突如として起こることもある。こうした変化がもたらす症状のなかには、非常に穏やかなものもあれば、非常に強烈なものもあって、それは体内に蓄積されたストレスの量による。
 感情的ストレスは、ちょうど音楽がレコードに刻みこまれるように肉体に刻み込まれるものであることを示す証拠が集まってきている。人間や時には動物までが、感情的ストレスから高血圧や最後には心臓発作を生じかねない。また、高レベルの不安や欲求不満を抱えた人たちは、胃潰瘍その他の病気にかかる可能性がある。それ以外にも数多くの肉体的症状が、心理的ストレスに原因を求められるかもしれない。

●からだにストレスが充満していると、神経組織はそれらの対処に忙殺され、より高い意識状態に達する潜在能力は大きな制限を受ける。換言すれば、システム内に乱れ、つまり専門用語でいう「雑音(ノイズ)」が多すぎて、神経組織がより高いレベルへ上昇するのを妨げるのだ。
 ここからすべての瞑想流派は「からだを鎮める」ことの重要性を力説する。しかし、ストレスとは実際にはエネルギー・パターンであり、それらは転換されたうえで体内から排除されなければならない。ストレスを転換するもっとも一般的な形は身体運動である。瞑想中の人たちが、手や頭を動かしたり、全身を震わせたりといったさまざまな不随意的身体運動を見せるのはよくあることだ。排除されるストレスが重度のものであればあるほど、身体運動も激しくなるだろう。
 ストレスが放出されるしかたは他にもたくさんある。感情の直接的放出は、抑うつ、泣き叫び、そして一般的な感情表現などの形をとるかもしれない。また、単にからだのいろいろな部分が一時的に痛むというかたちであらわれる場合もあろう。
 すべてを考慮に入れれば、ハタ・ヨーガ的な体位や穏やかな呼吸法といった軽い身体調整運動と瞑想との組み合わせが、からだからストレスを除去するうえでもっとも効果的で、安価で、手っとりばやいシステムかもしれない。

 
 [TOP]