出口王仁三郎の霊界からの警告
武田崇元・著 光文社文庫 

 大予言者・出口王仁三郎は、明治のはじめ霧深い丹波の国(現在の京都府亀岡市)に生まれおちた。彼は、日露戦争にはじまり、第一次世界大戦、関東大震災、満州事変、太平洋戦争、原子爆弾の投下から敗戦にいたる近代日本の運命を的確に予言し、そのすべてを百パーセント的中させたうえ、今日の高度情報化社会すらを的確に予告し、さらに人類の終末と再生に対する謎めいた黙示を投げかけて、敗戦後まもなくその数奇な生涯を終えた――。

 出口ナオ――彼女は天保7(1837)年12月16日、丹波国福知山紺屋町(現京都府福知山市)の大工、桐村五郎佐三郎の長女として生まれた。ナオが生まれるころは貧困のどん底にあった。おまけに天保の飢饉である。
 彼女の苦しい人生ははじまった。酒乱の父に簀巻きにされて雪の中にほうりだされたり、10歳からの住み込み奉公‥‥。
 17歳のとき、ナオは綾部の叔母出口ユリの養女となり、19歳で婿をとる。結婚してもナオの不幸はつづく。夫政五郎は、人のよい腕利きの大工であったが、むら気なうえに大酒飲みの浪費家で、幕末、出口家はつぎつぎに田畑、家屋敷を手ばなし、没落の一途をたどった。
 おまけに、夫はアル中の中風になって回復の見込みもなく、そのうえ大工の見習い中であった長男の竹蔵は、ノミで喉を突いて自殺未遂をはかったあげく行方不明になる。悲惨な重病人をかかえ、3人の幼児を育てるため、ナオはぼろ買い、紙屑拾いにまでなった。
 このようなナオの周辺に、ある予兆がさしたのは明治23年のことである。この年の9月、人力車夫、福島虎之助のもとに嫁いでいた三女のヒサは、産後の肥立ちが悪く、逆上してあばれだし、座敷牢に入れられ、神の幻影を見る。つづいて翌年の旧12月、こんどはばくち打ちの大槻鹿蔵に嫁いでいた長女ヨネが発狂する。ヨネの狂乱はとくにはげしく、大槻家の前には見物人が集まるほどであった。

 
三千世界の立て替え立て直し

 明けて明治25(1892)年の元旦の夜、ナオはあばら屋の壁ぎわにすわって、発狂した長女のことや行方不明の長男のことを思い浮かべ、これまでの辛い人生をふりかえっていた。夢かうつつか、からだがふんわりと軽くなり、天に昇るような気分になってきた。気がつくと白い衣を着た仙人のような人が眼前に立っていた。
 そのような体験がしばらくつづいたある夜、ナオは腹の中にずしんと大きな力が宿るのを感じた。しかも、その力は腹の底からぐんぐんと上がってきて、声になって出ようとする。ナオは歯を食いしばって声を出すまいとするが、声はそれをこじあけて出ようとする。ついに耐えきれなくなって口をあけると、ナオは自分でも驚くほどの大音声を張り上げていた。
 「われは、艮(うしとら)の金神である。今の世は、金輪際の悪人の世。世を立て替え、善の世に直すぞよ‥‥」
 自分の口から出る声は、力強く、まるで男のような声であり、すでに55歳のナオにとっては、耐え難い苦しみだった。
 「やめてくだされ。そんな偉い神サマが、なんでわしのような屑拾いなどにお憑かりなさるのか‥‥」
 すると神はこういう。
 「この世の代わり目にお役に立てる身魂であるから、わざと根底に落として苦労ばかりさせてあろうがな」
 さらにナオが、何のために降臨したのか再び問うと、
 「三千世界一度にひらく梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。この神でなければ、世の立て替えはでけぬ。三千世界の大掃除大洗濯をいたすのじゃ。三千世界ひとつに丸めて万劫末代つづく神国の世にいたすぞよ」
 とこたえた。
 こうしてナオの神憑かりははじまった。そのうち、この「艮の金神」と名のる神は、ナオの口をかりて、予言や警告めいたことを口走るようになる。

 
日清戦争を完全に予言

 明治26(1893)年夏のことである。
 「来年春から、唐(から)と日本の戦いがあるぞよ。この戦は勝ち戦。神が陰から経綸いたしてあるぞよ。神が表にあらわれて手柄立てさすぞよ。露国からはじまりて、もうひと戦あるぞよ。あとは世界のおお戦で、これからだんだんわかりてくるぞよ」
 文字も読めず、まして政治や世界情勢のことなどとは全く無縁の彼女が、どうしてこんなことを言うのか、だれにも理解できなかった。

 戦争が終わると、神はナオに次のように告げた。
 「この戦いがおさまりたのではない。この戦いをひきつづけにいたしたら、日本の国はつぶれてしまうから、ちょっと休みにいたしたのでありたぞよ。こんどは露国からはじまりて、おお戦があると申してありたが、出口の口と手で知らしてあること、みな出てくるぞよ」
 実際、軍事的にはさらに兵を進め、北京を攻略することもできたかもしれない。しかし、そうなると講和の相手をなくし、戦争は無制限デスマッチの泥沼になる。さらに、中国にさまざまな利権をもつ列強が乗り出してきて、収拾のつかない事態になり、まだ産業基盤もない日本は、早くも亡国の危機に立たされたであろう。
 民間では、福沢諭吉のような人物でさえ、「まだ講和の時期ではない。北京を占領して城下の誓いをさせるまで戦いをやめるな」と無責任なことを言っていた。
 これに比べて、文字の読めない丹波の老婆に憑かった神は、正しく情勢を把握していたし、さらに日清戦争の始まる前から、それが終わると、いずれロシアと一戦を交えねばならないことを予言し、警告を繰り返すのであった。
 そして、ちょうどこの日清戦争と日露戦争のはざまで、王仁三郎はナオに出会ったのである。

 
日露戦争の大予言

 「大本」入りの翌明治34年の春、王仁三郎は大本の信者数名を連れて、静岡の長沢雄楯(かつたて)のもとを訪れた。長沢は王仁三郎を神主にして、神おろしを行ない、日露関係の将来に関する神意をうかがうことにした。
 すでに、次の戦争はロシアからであることは、ナオの「お筆先」に出ていたが、そのはっきりとした時期は不明だった。
 2人は手を洗い、口をすすいで、月見里神社の社前で対座した。王仁三郎の前には、天上からつるした鎮魂石がある。厳粛の気がみなぎるうちに、長沢の吹く石笛の音。王仁三郎のからだがぴーんと反り返る。
 まったくの神憑かり状態になった王仁三郎と、審査者(さにわ)長沢の問答が始まった。
 「日露の戦いはございますか」
 「あるぞよ」
 「今年でございましょうか」
 「今年の8月‥‥それがのびたら明治37年の2月になる。36年の7月ごろから戦の機運が濃くなるが、開戦は37年の2月じゃ」
 「日本はこの戦いに勝てましょうか」
 「勝つ。勝つが、多くのつわものの命が失われる」
 「平和はいつきましょうや」
 「2年目の9月までにはくる」
 「戦に勝って得られますものは?」
 「シナの海岸のごく一部、朝鮮の全部、樺太の南半分を日本が受ける」
 長沢雄楯の回想によれば、この問答は約2時間におよび、ロシアの作戦計画から外交談判にいたるまで、微にいり細にわたっていたという。

 
「世界に騒がしきことがはじまるぞよ」

 「いますぐヨーロッパで大戦争が起こる」
 大正3(1914)年5月、王仁三郎は、信者たちのいる公開の席上で、静かにこう予言した。
 6月29日、オーストリアの皇太子夫妻が、ボスニアの首都サラエボで、セルビアの一青年に暗殺された。
 暗殺事件から1カ月後の8月には、第1次世界大戦が勃発。不幸にして王仁三郎の予言は、またしても的中することになるのである。
 「艮の金神が現れると、世界に騒がしきことが始まるぞよ」(お筆先)
 日本は日清戦争を体験し、そのわずか10年後に日露戦争を体験した。そして、すべてが予言どおり展開してきた。だが王仁三郎は、そのさきもまたそのさきも知っていたのである。
 つまり、日清戦争も日露戦争も、「水晶の世にいたすまでに、日本にも外国にも、はげしき事件わいてきて、いったんは、世界中の学者も守護神も手のつけようがなきような事態が出来(しゅったい)いたす」(お筆先)、そのほんの初発の事件にすぎなかったのである。

 
「ドイツ皇帝が失脚し、その後あらたな大戦争が起こる」

 王仁三郎が大正6(1917)年11月、創刊まもない『神霊界』に発表した「いろは歌」および「大本神歌」は、のちに『瑞能神歌(みずのしんか)』という小冊子にまとめられる。いずれも、掛けことばや縁語などの修辞をたくみに駆使した五七調の長歌であるが、内容的にはその後の日本や世界の運命をずばり指摘した驚くべき予言詩であった。
 まだヨーロッパで戦火を交えていたさなかに発表された、この予言時「いろは歌」のなかで、王仁三郎はすでに1年後のドイツ皇帝の失脚と革命、戦争のいったんの終結を予言している。
 しかし、この予言詩によれば、第一次世界大戦は終結するが、それはたんにきたるべき動乱の序曲にしかすぎない。
 「日清間の戦いは、演劇(しばい)に譬えて一番叟(いちばんそう)、日露戦争が二番叟、三番叟はこの度の、5年にわたりし世界戦、竜虎相打つ戊(つちのえ)の、午の年より本舞台」
 まだ戦争の終結しないうちに、すでに王仁三郎は「5年にわたりし世界戦」が翌年には終結することをはっきりと予言している。
 さらに、この世界戦はまだ序曲にすぎない、と告知したのである。大戦の終わる大正8(1919)年は、干支でいうと戌年であり、この年から「竜虎相打つ」と形容されるような本舞台が始まるというのであった。この予言詩は、第一次大戦から第二次大戦にいたる、世界史の大きな動きを描きだしたものであった。
 第一次世界大戦が終結したとき、世界は一瞬希望に輝くかのように思われた。だが、それはかりそめの平和であり、より大きな戦いの舞台を準備するだけにすぎない――王仁三郎は、そのことをすでに大戦の終わる前年に予言していたのである。
 第一次大戦では、日本は連合国側に立ったのであるが、つぎの戦争では、この第一次大戦の連合国が日本の敵になることも、彼はちゃんと予言している。
「連合の国の味方と今までは、成りて尽くせしカラ国の、悪魔邪神が九分九厘――」
 ここでいうカラ国は、前後の文脈からすると、必ずしも中国を意味するとは限らない。むしろ外国全般を指していると考えられる。
 しかし、王仁三郎は、もっとさきに確実に日本に襲いかかってくる悲劇を見透していたのだ。
 たとえば、王仁三郎は大正8年に取り調べに来た官憲に、
 「日本は、一時、大部分を占領せらるることは確かでありますが、それが何年先であるかは言えません」と述べているのである。

 
「ドエライ悪魔が“魅”をいれるぞよ」

 大正7年11月6日、大本開祖・出口ナオは83歳の生涯を終える。日清日露の戦争を予言したこの老予言者は、自分の死期をも知っていた。
 すでに大正6年の暮れ、ナオは身の回りの世話係である信者の梅田安子に、
「来年は孫の直日が17歳になる‥‥直日が17のときには世をゆずるのや、と前から神さんがいうておられるでな。そう思うときなはれや」と告げていた。
 また大正7年の正月には、王仁三郎も、「教祖はんのおからだは今年中や。びっくりすなよ」と梅田に告げたという。
 その年の11月6日、ナオは安らかにこの世を去る。それは、不思議なことに、ヨーロッパで実質的に戦火がやんだその日であった。

 12月にはいると、ナオに代わって王仁三郎が「お筆先」を書くようになる。
 『伊都能売神諭』と呼ばれるその中には、不思議なことが予言されていたが、教祖の死と、加熱する予言熱に心を奪われていた幹部たちは、当初はあまり気にもとめなかった。
 「3年先になりたら、よほど気をつけてくださらぬと、ドエライ悪魔が魅を入れるぞよ。辛酉(かのととり)の年は、変性女子(王仁三郎のこと。大本独特の観念で、「身魂が女性で肉体が男子」と位置づけられる)にとりては、後にも前にもないような変わりた事ができてくるから、まえに気をつけておくぞよ」
 みずから発したこの不気味な予言は、王仁三郎の前途に一抹の不安を投げかけた。事実、大正10年に王仁三郎は投獄されるのである。

 
「〈大本〉にはオニのような妖術使いがいるそうだ」

 『伊都能売神諭』にある“ドエライ悪魔”は間もなくやってきた。大正10年2月12日、京都府下の各署から選抜された約130名の特別武装精鋭警官隊が、まったく行く先も目的さえも告げられずに、午前1時という深夜にかり集められた。
 「どうやら大本の巣窟に行くらしい」
 「大本にはすごい妖術使いがいるそうだ」
 「いや、そればかりではなく、信者と称する武装部隊が、竹槍10万本と手榴弾をそなえて蜂起の合図を待っているそうだ」
 彼らの顔面は緊張のあまりこわばり、武器を持つ手に力が入っていた。
 なにしろ、大本教の出口王仁三郎とは、その名のごとく「オニ」のような人物であり、奇怪な術を弄して人々の心まで変え、天皇の統治権を侵害し、日本の支配者たらんとしている逆賊の親玉、と聞かされていたからだ。
 午前8時、綾部に着いた警官隊は、地元部隊と合流、大本本部を包囲するとともに、町内の幹部宅を襲い、町の要所要所を完全封鎖した。実質的には戒厳令なみの厳重警戒下で、警官隊は本部になだれ込んだ。
 当日、王仁三郎は不在で、役職員も少数が出勤しているだけだった。妻スミを筆頭に役員・信徒たちは、わけもわからないままに、一部屋に集められ、不敬罪などの容疑により捜索する旨を告げられた。
 そして、王仁三郎は同日朝、大阪梅田の「大正日々新聞社」で仕事中のところを、捜査隊の藤原刑事に拘引され、京都に護送され、京都未決監獄に収容された。
 いわゆる第一次大本事件の勃発であった。

 「瑞能神歌」の神秘的予言

 検挙から3カ月後の5月になると、取り調べは一段落した。そして、差し止めになっていた大本事件関係の記事が掲載禁止解除になった。
 全国の新聞は罵詈雑言を書き連ねた。
 いくらなんでも法治国家である以上、潜在的な恐怖を理由に処断することはできない。そこで、「お筆先」のなかに不敬な文句があることや、『瑞能神歌』のなかの日米戦争や日本の滅亡などの予言の言葉が、社会の安寧秩序を乱す、ということを理由に検挙に踏み切ることになった。
 当局としては、武器でも大量に発見できれば、内乱罪にもちこんで一挙にけりをつけたいところであったが、何も出てこなかった。
 これでは検挙のときのものものしさがあまりにも大げさであり、当局としては格好がつかない。そこで、ジャーナリズムを操作して無責任な記事を書かせた。これで王仁三郎と大本の評判を落とせば、とにかく一定の目的を果たすことはできるという読みである。
 そもそも当時のジャーナリズムは、王仁三郎が「大正日々新聞」を買収したこと自体、気に入らなかったので、ここぞとばかり中傷しまくった。

 大正10年6月17日、仮釈放の処置により、王仁三郎は126日の監獄生活に別れを告げて、綾部に戻った。第一審では、王仁三郎は不敬罪で懲役5年という判決であった。 もちろん、王仁三郎は直ちに控訴する。結局、裁判は大審院までいくが、大正天皇の崩御による大赦令で免訴となり、一件落着となる。
  しかし、これは一時休戦にすぎなかった。

 
疑似軍隊――昭和神聖会の設立

 昭和7(1932)年、王仁三郎は「昭和神聖会」という組織をつくりあげた。そして、青年信者たちにカーキ色の制服、制帽を着せて、さらに団体行動の訓練まで行なう。明らかに疑似軍隊に見えた。
 王仁三郎は大正8年に、故郷の亀岡城跡を買収し、徐々にその整備を進めていたが、そこを天恩郷と命名し、活動の本拠地とした。こうして、このころには大本は綾部、亀岡に広大な聖地をかまえ、さらに全国に20数カ所の別院と30数カ所の分院を有し、関連団体として、人類愛善会、大日本武道宣揚会、エスペラント普及会などの、活発な実践団体を擁する大勢力となり、また金沢の「北国新聞」をはじめ、舞鶴の「丹州時報」、東京の「東京毎夕新聞」などの一般紙も経営していた。
 さらに、青年部のなかにシンフォニー・オーケストラ部、ブラスバンド部、声楽部などを設立、「昭和青年行進歌」など軍歌そっくりなものをつぎつぎに作詞作曲した。これらはすべてレコード化され、全国にばらまかれた。
 人々は、軍服まがいの制服を着て、サーベルを下げ、団員を閲兵する王仁三郎を見て、ムッソリーニのローマ進軍さえ連想した。

 
政府による二度目の錯乱した大弾圧

 政府首脳は王仁三郎の行動に頭を痛めていた。不気味な予言、右翼急進主義者との合体、一部の急進化した軍人にまでおよぶ巧みな人脈配置、と同時に圧倒的な大衆動員による示威行動‥‥これらを背景に、いったい彼は何を要求しようというのだろう。
 こうして、政府はふたたびこの予言者の弾圧を決意した。約1年におよぶ秘密の準備をへて、第二次弾圧の鉄槌が下された。
 この弾圧は、大正10年の弾圧をはるかに上回る壮絶なものだった。今度こそは徹底的にやって、王仁三郎を死刑か無期懲役に追い込むつもりだった。
 昭和10年12月8日午前零時、非常呼集を受けた完全武装警官隊500名が、京都御所ほか市内20余カ所に集結。大型バス18台および乗用車4台に分乗を命ぜられた。バスは窓の幌をおろし、闇夜の山陰街道をまっしぐらに走った。
 午前4時、亀岡の天恩郷を完全包囲。総本部のある綾部の町もすでにあらゆる道は遮断され、電話線も切断。ふたたび戒厳令さながらの警戒態勢下に置かれた。
 こうして、「地上から大本の痕跡を抹殺せよ」という大号令のもとに、時の岡田内閣は、ついに大本大弾圧を決行した。
 王仁三郎は、この朝を松江の島根別院で迎えた。午前4時、島根県下の警官総数700名の半分近い280名の武装警官隊が、別院を包囲。王仁三郎ひとりを拘引した。そして、第一次弾圧のときと同じように、新聞に、大本が不敬な団体で、表では皇室中心主義をとなえ、裏に不敬の謀略をたくらむ国賊であった、などとあることないことをとりまぜて宣伝させた。
 昭和11年3月13日、王仁三郎以下教団幹部61名が、治安維持法と不敬罪で起訴された。同時に内務省は治安警察法にもとづき、本部、昭和神聖会を含む大本関連8団体に結社禁止命令を出し、全施設の徹底的破壊を強行した。
 広大な神苑は坪わずか20銭で強制売却。一切の神殿が破壊された。『霊界物語』を含むあらゆる経典類、王仁三郎の使用物や創作物の一切、書画、蔵書8万4千冊のすべてが焼却され、その火は1カ月の間くすぶり続けた。
 この弾圧で、王仁三郎をはじめ大本関係者の検挙者は3千余名にものぼり、拘留中の拷問による死者数名が出た――。
 王仁三郎みずからが設計した月宮殿は、大理石などの石材と鉄筋コンクリートで固めた要塞のような神殿であった。これを当局は3週間もかけてダイナマイト1,500本を使い、ようやく爆破。全国に43もある王仁三郎の歌碑も逐一調査して爆破。出口家の墓碑や信者の納骨堂も破壊した。さらに当局は信徒の家族写真までチェックし、大本の神床・掛け軸、額などが写っている部分を切り取っている。破壊に次ぐ破壊。王仁三郎に関する一切合切のものを抹消せんがための常軌を逸した執念は凄まじいというほかない。
 また、開祖ナオの墓を暴き、近くの共同墓地に移し、木の墓標を柩の腹部あたりに立てている。ここまでくると死者を冒涜するというより、まったくの子供じみた行為というほかはない。

 
「大本が潰れれば日本も潰れる」

 王仁三郎は牢獄につながれた。王仁三郎にとって永い暗黒の時代が始まった。拷問で信者たちのなかに殉教者も出た。しかし、日本にとってもまた、長い暗い時代の始まりであった。
 「大本は潰され、日本が潰れる」
 この不気味な予言を、王仁三郎がつぶやくのを人々は聞いた。弾圧を強行した人々には負け犬の遠吠えにしか聞こえなかったが、昭和11年をターニング・ポイントとして、日本は破局への道をころがり始めたのである。
 昭和12年、日華事変が勃発。中国との戦争は抜き差しならぬ泥沼へとはまりこむ。それでもまだ収拾の策はないではなかったが、愚かな選択をつぎつぎ繰り返す。遠大な太平洋戦略を引いて待ちかまえていたアメリカは、日本が泥沼の戦いに入ると見ると、さまざまな手段で資源ルートの破壊工作を始める。
 そして、まもなく日本は資源問題で退路を断たれたあげく、日本海軍の暗号を解読済みのルーズベルトの陰謀にはめられ、真珠湾艦隊のなかへ“奇襲”をかけるハメとなるのである。 

 
東京は空襲をうけ死体で埋めつくされる

 昭和10年に始まった第二次大本弾圧事件は、日本が戦争状態の中で進行し、7年にわたる裁判が行なわれた。結局、昭和17年7月再審で、治安維持法については無罪、不敬罪で5年の判決が下る。
 当局がねらった治安維持法による徹底的な断罪は成立しなかった。しかし、大本の全施設は破壊しつくされてしまっていた。
 昭和17年8月7日、王仁三郎は保釈され、7年間の投獄生活からようやく解放される。すでに王仁三郎は71歳であった。
 しかし、王仁三郎は亀岡の自宅に訪れる信者たちに鋭い予言をつぎつぎにはなった。
 「大本神諭に、『未(ひつじ)と申(さる)とが腹を減らして惨たらしい酉(とり)やいが始まるぞよ』とあるが、今年(昭和18年)」は未の年で、羊は下にいて草ばかり食う動物であるから、下級の国民が苦しむ。来年は申年で、猿は木に棲むから中流の人が苦しむ。再来年は酉年で、いよいよ上流の人が困り、むごたらしい奪い合いが始まる。大峠は3年の後だ」
 これらはすべて予言通りになった。

 王仁三郎は信者たちに予言をもとにした数々の教示を与えている。
 「東京は空襲されるから疎開するように」というと、翌19年11月から東京空襲が始まった。  東京のほとんどが焦土と化し、死者は20万人を超え、隅田川などの大河川は死体で埋めつくされた。
 「九州は空襲」「京都、金沢は空襲を受けない」
 と予言されたように、19年6月に北九州も大被害を受けている。京都、金沢は彼のいうようにその被害をのがれた。
 このころは信者ばかりでなく、大本シンパの軍人や有識者も、ひんぱんに彼のもとを訪れるようになる。昭和19年には、山本英輔海軍大将の使いで、水野満年がやってくる。困ったときの神頼みで、一部の軍人から、戦局をなんとかしてくれというような話はずいぶんあった。
 「わしらをこんな目にしときよって、偉いやつが総出で謝罪にきよらんと助けたらんわい」というのが彼の返事であった。

 
「広島は戦争末期に最大の被害を受け、火の海と化す」

 昭和19年、王仁三郎の口からは、まるで自動小銃のごとく予言のつぶてが吐き出された。
 「火の雨が降る。焼夷弾だけではない。火の雨だ」
 「新兵器の戦いや」
 「東洋に」ひとつ落としても、東洋が火の海となるような大きなものを考えている」
 さらに同年、広島からきた信者にはこう告げている。
 「戦争は日本の負けだ。広島は最後に一番ひどい目に遭う。それで戦争は終わりだ。帰ったらすぐ奥地へ疎開せよ」
 「広島は戦争終末期に最大の被害を受け、火の海と化す。‥‥そのあと水で洗われるんや。きれいにしてもらえるのや」
 実際、広島は8月の被爆後、9月には2回にわたる大水害に襲われている。
 この原爆に関してはすでに18年の段階で、「広島と長崎はだめだ」と、非常にストレートな言い方もしている。当時は、軍部でもほんの一握りの首脳部のみが「アメリカが新兵器を開発している」ことを漠然と知っていただけで、よもや「東洋が火の海となるような」爆弾であるとは考えてもいなかった。

 
「日本の敗戦後は、米ソの二大陣営が対立する」

 広島が人類史上初の核の洗礼をあびた2日後、ソ連はぬきうちとも言える対日参戦を行なった。これに関してもすでに昭和18年に、満州の部隊へ配置される信者子弟たちに対し、
 「日本は負ける。ソ連が出て1週間もしたら大連まで赤旗が立つ」
 さらに長野の信者たちに対しても、
 「20年8月15日に留意せよ」
 と予言し、翌19年の1月には、東満総省長になっていた大本信者の三谷清のもとへ、
 「いま日本は必死になって南のほうばかり見て戦っているが、不意に後ろから白猿に両目を掻き回される」
 という、王仁三郎の伝言が伝えられた。
 これに関連して、王仁三郎は信者たちに「『霊界物語』の57巻をよく読んでおけ」と教示した。そこには、白猿に象徴されるソ連が突然背後から、日本を象徴する玉国別(たまくにわけ)に襲いかかることや、ニコラスという名でマッカーサー元帥の登場まで予言されていた。
 また同じ年の昭和19年に、
 「昭和20年葉月(8月)なかば、世界平和の緒につく」
 と立て続けに終戦の予言を出している。
 歴史が王仁三郎の予言どおりに動いてきたのは、周知の通りである。
 しかし、終戦と同時に、王仁三郎はあまり予言めいたことを口にしなくなる。そして彼は、一種の芸術家のような平穏な暮らしにはいり、とくに、書道、絵画、楽焼きにふけるようになる。
 それでは王仁三郎の予言はもうつきてしまったのか、というとそうではない。
 これから起こるであろう私たちの未来についての予言は、全81巻にもおよぶ『霊界物語』にまだまだ秘められたままなのだ。

 
〈歴史〉と王仁三郎が示す6年間の神秘的符号

 私たちは、王仁三郎あるいはは〈大本〉と〈歴史〉の間に見られる不思議な暗合について触れておく必要があるようだ。
 王仁三郎が徹底的な弾圧を受けたのは、昭和10(1935)年の12月8日である。この日、警官隊は綾部、亀岡、そして王仁三郎のいた宍道(しんじ)湖畔の松江別院を急襲したのだが、連合艦隊の特別攻撃機が真珠湾を急襲したのは、ちょうどこの日から6年後の12月8日であった。
 しかも、日時だけでなく、宍道湖(しんじこ)→真珠湾(しんじゅわん)という地名まで符合している。
 もちろん、このような例がこれひとつだけなら、偶然としてすますことができるかもしれない。しかし、次のような不思議な暗合が次々と重なってくると、これはなんらかの“意味のある偶然”としか考えられなくなってくる。
 昭和11(1936)年4月18日、綾部、亀岡の聖地はその所有権を取り上げられ、全国の大本関係の施設が次々と破壊される。ちょうど6年後の昭和17年4月18日、アメリカの爆撃隊による最初の本土空襲が行なわれ、やがて全国の主要施設が空襲によってくまなく破壊されるようになる。
 また、昭和20(1945)年9月8日、王仁三郎は大審院において無罪を言い渡される。ちょうど6年後の昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約が結ばれ、第二次世界大戦は法的にも終結するのである。
 さらに、「昭和神聖会」の旗揚げは、昭和9(1934)年7月22日である。それからちょうど6年後の同じ日、第二次近衛内閣が発足する。この近衛内閣は、昭和神聖会が旗揚げしたのと同じ九段の軍人会館で大政翼賛会の結成大会を行なった。
 このように、大本弾圧と日本の敗戦への足取りが、不思議にパラレルな関係になっていることをどのように解釈すればいいのだろう。

 
日本で起こることは、まず〈大本〉に起こる

 〈大本〉では早くから「型の思想」ともいうべきことが強調されていた。それは「大本は世界の鏡」という「お筆先」にもしきりに出てくる言葉からもわかる。
 この「型」には、受動的な意味と能動的な意味がある。受動的というのは、世界あるいは日本で起こることは、まず大本に「型」として起こるということであり、能動的な意味としては、大本で「型」を演じれば、それが日本あるいは世界に反映していく、ということなのである。
 そして、実際にそういう「型」と「実地」の照応が、王仁三郎と日本の歴史、つまり弾圧と敗戦という形で、現実に生起したのである。このような現象は、その主役である「王仁三郎」や「日本」という存在が、時空間の全体構造のなかで、なにか特殊な存在、特別の役割をもった存在であったとしなければ、どうしても説明がつなかいのである。

 
霊界と現界の照応原理

 物質界の根源をどこまでもたどっていくと、まったく物質的な性質のかけらもない世界に到達する。これによって推察できることは、霊界は、現界と対立して二元論的に存在するものではなく、現界と重なり合うような形で、いわば「合わせ鏡」のような感じで存在している、ということが導き出せる。
 王仁三郎は、このような現界と霊界の関係を次のように述べている。
 「現実世界はすべて神霊世界の移写であり、また縮図である。霊界の真像を映したのが現界すなわち自然界である。ゆえに現界を称してウツシ世というのである」(『霊界物語』) しかし、照応構造といっても、ここでいう霊界のパノラマと現界とは、まったく照応した同一の風景なのだろうか。ひとりの媒介者が霊界のビジョンをキャッチしたとき、それは現界の時間・空間とどのような関係で照応しているのかという問題が残る。
 王仁三郎自身は、この点について次のように述べている。
  「神界と幽界とは時間空間を超越して、すこしも時間の観念はない。それゆえ霊界において目撃したことが、2・3日後に現界に現れることもあれば、10年後に現れることもあり、数百年後に現れることもある。(中略)霊界より見れば、時空、明暗、上下、大小、広狭すべて区別なく、みな一様並列的に霊眼に映じてくる」(『霊界物語』)
 つまり、霊界はいわば「超時空連続体」のような概念でしか認識することができない世界なのである。このような照応構造が、一定の霊的磁場を通じてコンバート(転換)され、集中的に現界に作用した場合、「型」という現象として確認できる整合性をもった共振構造が起こるのではないかと推測できる。
 通常の霊的能力では、このような特殊な霊的磁場を形成することなど不可能である。しかし、王仁三郎の、生涯をかけた霊界(神界)と現界の交感力には、もはや低次な霊的体験を超えた、神と人間との核心的な関係性が凝縮されるようになっていた。

 霊的意志が神経に逆流すると発狂してしまう

 高次な霊的意志、神示を現界に伝達するには、あらかじめ媒体となるのにふさわしい霊格=血脈、霊統と、霊界からのシグナルをキャッチする鋭敏な受信装置=霊能、魂体の所有者が必要となってくる。これは「天であらため、地であらためた血統」「天におひとり、地におひとりかわらぬ身魂の性来のやまと魂のたねが一粒かくしてありた」と、ナオの「お筆先」でも告知されている。
 しかも、霊界から発せられる意志は、それが高次なものであればあるほど、強烈で錯綜したシグナルとして発信される。
 一般の霊媒的性質だけもった人々の場合、かりにその霊媒が狐狸や人霊のような低いレベルの「霊界」ではなく、高次元の霊界=神界の一端と回路が開けたとしても、そこから発せられる強烈なシグナルの受信を、自分でコントロールすることがまずできない。つまり、正確に解読できないため、支離滅裂なことを口走ったり、あやまった予言を発してしまう結果となるのである。
 だから、もともと高次の霊界との交感性は、ある選別された特定の人間によってしか確保されえないし、かりにそういう器でも、コンバート機構を自分のなかにつくれないと、霊界が神経に逆流して、発狂したりするのである。
 このコントロールということは、ナオの初発の「お筆先」以前にも確認することができる。霊界からの啓示が、ナオの腹の底から強い力となって発生をうながすため、抑制しようとしても大声となり、隣近所から狂人と誤解された。その後、ナオ自身の肉体の内部と、霊界との交感によって、自動書記へとスイッチされたのである。
 しかし、ナオと王仁三郎にはまた決定的な違いがあった。それはナオが「お筆先」という表現手段を通じて、霊界からの一方的な伝達を経て、それらの意味をあとから解読していったのに対して、王仁三郎はあらゆる身体的器官を通じて、霊界との交感回路を拡大していったことである。
 こうして彼は壮大な霊的バイアス器官として進化していったのである。そして、ある段階で、このバイアス器官は彼自身も意識しないうちに、霊界のある領域と現界を結節する強力な磁場となって機能するようになっていったのではないだろうか。

★ なわ・ふみひとの解説 ★  
  このあと、「日本列島は世界地図の縮図である」という内容が続きます。王仁三郎が「大本神歌」のなかで、「日出る国の日の本は、全く世界のひな型ぞ、わが九州はアフリカに、北海道は北米に、台湾島は南米に、四国の島は豪州に、わが本州は広くして欧亜大陸そのままの、地形をとどむるも千早ぶる、神代の古き昔より、深き神誓の在(いま)すなり」と述べていることが紹介されています。
 しかも富士山はヒマラヤに、琵琶湖はカスピ海にといったように、山や河や湖などの地勢まで、あたかも合わせ鏡のような相似形をしていることも、確かに不思議な照応関係といえます。
 王仁三郎の著した『霊界物語』には、「日本の国土は国祖・国常立尊(くにとこたちのみこと)のご神体そのものであり、来たるべき霊界の復権のための磁場として立て分けられた」と述べられているといいます。
 このことから、「日本で起きたことは、やがて世界で起こる」という関係が導き出され、「大本→日本→世界」という照応関係が成り立つのです。
 さて、大本は官憲による二度にわたる弾圧によって破壊されましたが、それとの照応関係で、日本はアメリカ(を裏で支配する超国家権力)の手によって、太平洋戦争に引き込まれ、徹底的に破壊されました。戦後、日本は経済的には奇跡ともいえる復興を果たしましたが、古来からの伝統や文化、歴史、さらに教育から食生活にいたるまで、いまやかつての「古きよき日本」の姿は一網打尽にされ、まさに臨終を迎えつつあると言わなければなりません。最近の世界情勢を見ますと、間もなく日本は新たな日中戦争へと誘導され、国そのものが消滅する危機にさらされています。
 つまり、これからさらに徹底した日本の破壊が行なわれるのです。大本の「第二次弾圧」では、すべての施設が破壊されつくしたとされていますが、それと同じことが日本に、そして世界に起こるとすれば、それはどのようなスケールになるのでしょうか。まさに天変地異や第三次世界大戦などを含む終末の大混乱の状況が予測されます。王仁三郎はそのことを見通した上で、あえて「ひな型」づくりのための行動をしたと見られるのです。
 その幅広い人脈関係から、第二次弾圧の可能性があることをたびたび警告されながら、まるで挑発するかのような行動を続け、ついに徹底的な弾圧を受けることになるのです。
 最終的には裁判で無罪になりながら、その被害に対する賠償請求を全く行なわなかったことを見ましても、最初から弾圧を受けることは計算づくであったことがわかります。それは、「霊界で起こっていることを現界に誘導するための筋道を造った」ことになるのです。つまり、現界おいてあえて「ひな型現象」を起こさせることによって、一連の終末の出来事がスムーズに起こるようにした、ということなのです。
 「予言者」としての出口王仁三郎は、時の政府を震撼させるような大人物だったのですが、その言動には普通の感覚では理解できない部分がたくさんあります。王仁三郎は、ここでご紹介した「未来を予知する能力」だけでなく、天眼通、天耳通、自他心通などといったさまざまな霊的能力を身につけていたと言われています。今日でいう“超能力者”だったのです。その霊的能力のレベルの高さは、弘法大師の名で親しまれている空海を凌ぐものがあったと思われるほどです。
 さて、ここで「何のために予言はなされるのか」ということについての私の考えをご披露したいと思います。ちょっとした謎解きになりますので、どうぞおつきあいください。

 出口王仁三郎は、「太平洋戦争は中国との泥沼戦争の延長線上に起こる」ことや「アメリカのB29による日本の本土爆撃がある」ことを、すでに大正6年ごろに予言していたとされています。つまり、「日本がアメリカと戦争をして負ける」ことを早くから知っていたということです。では、王仁三郎にそのような“未来ビジョン”を見せた神さまの意図は何だったのでしょうか。日本と日本国民が悲惨な戦争に巻き込まれないようにすることが目的であれば、予言のさせ方(未来ビジョンの見せ方)によって、それはいくらでも可能だったはずです。
 しかしながら、王仁三郎の予言の仕方を見ますと、日本と日本国民を戦争に巻き込まれないようにすることが目的だったとは感じられません。それはなぜでしょうか。一つは、王仁三郎が未来ビジョンを見た段階では、既にその未来は確定していて、変えることはできなかったということが考えられます。
 もし王仁三郎のその予言によって、たとえば日本政府が中国との泥沼戦争を避ける政策をとったならば、太平洋戦争に引き込まれることもなく、結果として予言ははずれることになります。つまり「予言することによって予言がはずれる」ということです。
 こうなると、もはや「予言」ではなく「忠告」というべきでしょう。太平洋戦争で400万人に及ぶ犠牲者が出るのを避けることが、つまり多くの日本国民の肉体生命を守ることが、予言(忠告)の主たる目的ということになってしまいます。
 それが目的であれば、王仁三郎がさまざまな予言をして、それを次々に当てていき、政府や国民を信用させ、日本が戦争に突入することを阻止することは可能だったかもしれません。しかし、王仁三郎がそのような努力をした形跡はまったく見られないのです。

 ここで私の結論を申しあげましょう。
 出口ナオが「お筆先」によって日清戦争、日露戦争を予言し、また王仁三郎が、太平洋戦争の勃発とその後の日本の惨状について次々と予言をしたのは、ひとえにこれから起こる「世の立て替え・立て直し」を信じさせるためである、ということです。さらに、王仁三郎の場合は、世の立て替え・立て直しのために、「型示し」としての「大本弾圧」を誘導することも必要だったというわけです。
 つまり、大本の目的(使命)は、「人類(とりわけ日本民族)に終末の到来を告げ、それに備えをさせることにある」ということです。太平洋戦争を回避させることよりも、日本人の一人ひとりに終末(世の立て替え・立て直し)に備えての「身魂磨き」の大切さを伝えることを重視しているのです。
 神さまのおっしゃること(予言)が次々に当たれば、人々は『大本神諭』や『伊都能売神諭』としてまとめられている「終末予言」に関心を持ち、その処方するところを信じると思われるからです。予言を降ろされた神さまの目的は、「人民を一人でも多く救いたいから」ということです。つまり、今のままでは“救われない魂”がたくさんあるということの警告でもあるのです。
 少し整理をしておきますと――

(1) 世の立て替え・立て直しは避けられない。(それは「ミロクの世」へと移るために必要なプロセスである)

(2) しかし、今のままでは人民の多くは「ミロクの世」に進むことができない。とくに日本民族はしっかり「身魂みがき」をする必要がある。

(3) そのことを早くから(明治25年から)出口ナオを通じて伝えているが、人民はなかなか信じない。

(4) このままだと圧倒的多数の人民は救われない(ミロクの世に進めない)可能性が高い。それでは可哀想だから、信じるようにいろいろと(予言などで)教えている。


 ――ということになります。いかがででしょうか。

 このような観点から、出口王仁三郎が二度にわたって意図的に誘導したと思われる「官憲による弾圧」は、世の立て替え・立て直しをスムーズに進めるうえで必要な「型示し」だったと考えられます。霊界では、大本に起こったことは日本で起こり、日本で起こったことは世界に波及する――というひな型構造になっているからです。そのために、王仁三郎は敢えて「大本弾圧」という終末の「立て替え(破壊)」を演出したと見られます。その大本の「型」に呼応するかのように、日本は太平洋戦争で悲惨な敗戦をすることになるのです。
 出口王仁三郎は、太平洋戦争を回避させるどころか、逆にそのことによって日本が壊滅的な打撃を受けることの「ひな型」を演出したことになります。つまり、今日の世界が混迷から脱出するには「世の立て替え・立て直し」が不可欠であることから、そのための道筋づくりとして「大本弾圧」→「日本の敗戦」の「型」を実行したと見られるのです。そして、次は「世界」の番ということになるのですが‥‥。
 「ひな型」について触れておきますと、「大本」にも「日本」にも「本(もと)」という文字がつけられています。「日本」の由来は「日の本」つまり「霊(ひ)の本」から来たと言われているのです。日本の地形が世界のひな型になっていることも出口王仁三郎が明らかにしたものです。物理的地形と同様、日本という国そのものが霊界では世界のひな型として機能していると言われています。「日本が乱れると世界が乱れる」ことに気づいている霊能力者は他にもいるのです。
 その日本のさらなるひな型として、「艮の金神」の復活を告げる「大本」が誕生し、終末の「型示し」を完了したということです。出口ナオや出口王仁三郎を通じて「大本」に降ろされた予言の伝える内容は一貫していて、「世の立て替え・立て直しの時節がきた。この世は新(さら)つ世に変えてしまうから、人民は身魂を磨いてそれに備えよ」というものです。
 『日月神示』にも同様の表現が随所に出てきます。この「身魂を磨く」ということが、終末の時代に最も大切なキーワードだと言えそうです。

 
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