ガイア・シンフォニー間奏曲
A
龍村仁・著 インファス 1996年刊 
 “肉体を完全に開け渡す”ことによって宇宙的覚醒の認識に至る

 “死の地帯”に潜入した事のある男たち

 メスナーの後姿は明らかに「女性」だった。私の眼前10mほどのところを、ほとんど地に足が着いていないのでは、と思う程に軽やかなステップで下ってゆくメスナーの後姿を見ながら、突然そのことに気付いた。彼は多分“両性具有”の存在なのだ。
 メスナーに出会って4日目、斜度50度を超える急峻な崖を一気に駆け登る彼独特の訓練の撮影を終え、帰路についた時の事だった。“死の地帯”に潜入した事のある男達はみな、ある独特な“瞳”を持っている。
 メスナーしかり、FIのセナ、潜水のマイヨール、宇宙飛行士のシュワイカート‥‥。
 彼らと面と向かって話をしていると、いつもその澄み切った“瞳”の虚空に吸い込まれて、彼らの現実の肉体を見失ってしまいそうな恐怖にかられる。私の肉体がその透明な“瞳”に吸い込まれて、無限の青い宇宙に浮遊してしまいそうな、そんな甘美な陶酔に誘われる恐怖だ。もちろん彼らにはそれぞれ独自の強烈な個性があり、顔形があり、表情がある。しかし、面と向かって話しているうちに、そうした、いわば“個性”に所属した印象がいつの間にか消えてゆくのだ。
 彼らには、いわゆる、生の男臭さがない。だからと言って中性的というわけでもない。女性からみれば、多分彼らは、今すぐにも抱かれたいと思う程男性的魅力にあふれているだろう。だから彼らは“恋人”には事欠かない。その性的魅力の源はあの“瞳”に違いない。私はそう思っていた。
 ところが、メスナーの後姿を見ていてはたと気付いたのだ。そこに漂っていたのは、死を賭して冒険に挑む男性の“気”ではなく、まさに女性の“気”だった。全てを優しく受け入れようとする母性の“気”だった。
 “瞳”が見えない分、その事がよく見えた。“死の地帯”に潜入した事のある男達はみな、その体験を通して自らの身体の内奥に潜む「女性」性を解き放ち、霊的なレベルで“両性具有”の存在になるのかもしれない。あの“瞳”の限りない透明感は、その事の証なのかもしれない。
 ところで、自ら進んで。“死の地帯”に潜入した事のある男達の共通体験とはどんなものなのだろうか。それは多分“肉体の完全な開け渡し”の感覚、俗に言う“幽体離脱”の体験だと私は思う。

 1970年、ナンガ・パルバート峰へ最初の単独登攀を試みた時の事でした。下山の途中私は800mの崖を墜落したのです。その時、私は墜ちてゆく自分を、上から静かに見つめているもう一人の自分がいる事に初めて気付いたのです。人間は実は二つの次元に生きている。しかし、その一方がふだんは見えない。(ラインホルト・メスナー)

 深海の果てしなく青い静寂に包まれてただ一人になる時、時間と空間と光はひとつのものとなり、私は、私の呼吸を一時止めて宇宙の呼吸に身を委ねる。その時私は両棲人間という私の真の本性と再会し、ひとつの“宇宙の歯車”に再び還っている自分を再発見する。(ジャック・マイヨール)

 ナンガ・パルバートで墜落した瞬間、メスナーはある意味で全てを放棄した。生きたい、助かりたい、という想いすら一瞬に消えていた。何かとてつもなく大きな存在に全てを委ねてしまったような不思議な安堵感があった。その時彼は、墜ちてゆく自分を見つめるもう一人の自分に気付いたのだ。時間の流れがふだんの“現実”の流れとは全く違っていた。永遠と一瞬は同じことであり生と死はひとつの表裏なのだということにもその時気付いた。
 そしてふと“気が付く”と彼は崖の途中にほんの1〜2mはり出した棚の残雪の上に横たわっていたのだ。墜落の途中何度か岩に激突したはずなのに、骨は折れていなかった。メスナーはそれからさらに数千mの急峻な崖を一人で下り、4日後麓の村にたどりついたのだった。その時のメスナーの顔はほとんど“死人”だったという。骨こそ折らなかったが凍傷で足の指6本を失った。
 メスナーは何故800mも墜落しながら骨一つ折らなかったのだろうか。この事実も“肉体を完全に開け渡す”感覚との間には深いつながりがあるように私は思う。肉体が完全に開け渡された状態にある時、自我の束縛から(意識の束縛から)解き放たれた肉体は自然の摂理として、生きるための機能を自然に最大級に発揮する。衝撃に対しても、意識を通過しないで何かの防衛機能が瞬時に発現しているのかもしれない。
 肉体が“自我”や“意識”の束縛から解き放たれた時、人間はいわゆる“超能力”を発揮するのではないだろうか。

 内なる「女性」性を解き放つ

 その事を確かめたいためにメスナーは墜落体験以後、ひとりで酸素ももたず8,000m級の山への挑戦を続けたのだろう。
 この“ひとりで”という事には様々な示唆が含まれている。もし誰かと登れば、必ずその人の“自我”の影響を自分も受けることになる。もちろんその影響がプラスに働くこともあるが、8,000m級の山のような“死の地帯”では、共に登っているパートナーヘの心遣いや心配が呼吸や心拍数に影響を与え肉体の限界点がはやく来てしまう。
 だから、メスナーはひとりで昇ることにした。また、たとえひとりで登っている時でも、麗で待っていてくれる最愛の恋人の事を想うだけでも、心が乱れ死につながることがあるという。その心の乱れが脈拍を速め、酸素消費量を増し、したがって限界が早く訪れるのだ。“自我”から生まれる心の束縛から肉体を解き放つことこそ“死の地帯”で生き続ける鍵なのだ。何しろ8,000m以上の山の上では、酸素は地上の1/3しかないのだから。
 世界の最高峰エベレストに登っている時の事だった。頂上へのアタックを開始した直後に彼は深いクレバスに墜ちた。単独登攀でクレバスに墜ちるというのはほとんど致命的な事だと言ってよい。幸い背負っていたリュックがひっかかって深さ15m程のところで体は止まった。上からザイルを降ろしてくれるような仲間はもちろんいない。
 彼は両手両足で氷の壁を突っ張りながら数時間かかってようやくクレバスを脱出した。その時、からだに蓄えていた“体力”をほとんど使い切ってしまった。それから彼は項上に向かって登り始めた。ものの15歩も歩むとからだの中のエネルギーが完全になくなったように感ずる。そこで止まってただ静かに深く呼吸をする。すると外から何かとてつもなく大きなエネルギーが体内に流人してくるのがわかる。そこでまた歩み始める。するとまた空っぽになる。それを繰り返しているうちに彼は自分のからだがしだいに透明なガラスになってゆくように感じたと言う。
 からだの内側と外の世界との間に境目がなくなり、外の自然・外の宇宙に自分が完全に溶けてしまっている。自分のからだは、自然の、宇宙の大きなエネルギーの通り道なのだという事を体感する。人間はもちろんの事、他の動物も草も木も水も風も全てが同じこの大きな宇宙のエネルギーの通り道なのだ、という事を意識ではなくからだが確信し始めている。自分のからだをつくっている10の28乗個もの細胞の一つ一つが、その事を喜んでいる。
 彼は、今自分が何をしているのか、という事も忘れ、ただその至福の喜びに浸りながら歩みを進めていた。そしてふと気付くと、この地球上で最も宇宙に近い場所・エベレストの頂上、8,848mの地点にひとりで立っていたのだった。
 彼は“死の地帯”に潜入することによって、人一倍強い自我の束縛から肉体を解き放ち、宇宙的な生命力に身を委ねる事によって全ての生命との深い連帯感に覚醒(めざめ)たのだ。この体験こそ、マイヨールの深海における体験と共通している。「私は、私の呼吸を一時止めて宇宙の呼吸に身を委ねる。その時私は‥‥」
 “宇宙的覚醒”に至る鍵の一つは“肉体を完全に開け渡す”感覚を知る事だと私は思う。しかしそのためにメスナーやマイヨールのように誰もが、“死の地帯”に潜入する必要はない。特に女性は生来的にこの感覚を知っている。性の究極の恍惚感において、あるいは子供を生む至福の一瞬において‥‥これが男性の場合は多少難しい。自らの肉体を外の宇宙から切り離して立(勃起)たせようとするのが「男性」性のエネルギーだからだ。しかし道はいくらでもある。身近な女性から学べばよい。人という種の半分は女性なのだから。そして母なる星地球そのものが“母性”なのだから。全ての男性にとって“宇宙的覚醒”とは自らの内なる「女性」性を解き放つことだと言ってもよいだろう。メスナーの後姿はその事を示していた。

 ★なわ・ふみひとのコメント★
 ここでぜひご注目いただきたいのは、メスナーがナンガ・パルバートで墜落したときの体験談です。メスナーは「ある意味で全てを放棄した。生きたい、助かりたい、という想いすら一瞬に消えていた。何かとてつもなく大きな存在に全てを委ねてしまったような不思議な安堵感があった」と述べています。この感覚こそ、私たちが終末の大峠において体験する(すべき)ことだと思います。おそらく圧倒的多数の人が遭遇することになると思われる大天変地異に直面して、物質的な欲望はもちろん、この世での人間関係などすべてのしがらみから心を離して、神様(絶対神、スーパーパワー、宇宙を貫く大法則)に身を委ねるとき、私たちはこの物質地球とともに次元上昇するのだと確信しています。
 その段階でまだこの世的なものに対する執着心が強い人は、俗に言う「救われない人」となり、次元上昇することができないということです。死の世界と隣り合わせになったときに、人はスーパーパワーとつながり、そこに全てを委ねる心境になるに違いありません。そのことを通じて、封印されている脳が活性化され、新しい次元を生きる条件が整うことになるのでしょう。そういう意味で、終末は人類にとって大変ありがたいチャンスの到来と受け止めるべきだと思います。
 2回にわたってご紹介したような素晴らしい撮影の裏話がちりばめられているこの本に目を通しますと、「ガイア・シンフォニー」という感動的な映画をプロデュースされた龍村氏の鋭い洞察力に、改めて脱帽させられる思いです。
 
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