龍馬暗殺に隠された
恐るべき日本史

われわれの歴史から伏せられた謎と物証
小林久三・著 青春出版社 1999年刊 

 西郷は龍馬暗殺の秘密を知っていた

 龍馬暗殺は薩摩藩によるのではないかという見方は、従来から存在した。その代表的なケースは、蜷川新氏の「維新正観」であろう。
 国際法の権威だった捲川氏は、近江屋の女中が暗殺犯たちが引きあげていくときに、鹿児島弁で、二、三言葉をかわしていたのをきいたとする土佐藩の中島信行の言葉から薩摩藩犯人説をくみたてていったのだが、それだけでなく、薩摩藩関与を暗示する海援隊の佐々木多門の書が発見されている。
 佐々木多門が幕府の旗本松平主税の家臣岡又蔵に宛てた機密文書には、「才谷(龍馬の変名)殺害人、姓名マデ相分り、コレニツキ薩藩ノ所置ナド、種々愉快ノ義有之」というものだが、それ以外にも「肥後藩国事史料」にも「坂本を害候も薩人なるべく候こと」の一文がある。
 龍馬暗殺の二日後、薩長両藩は出兵協定をむすび、二十四日後の小御所会議で強引に王政復古のクーデターを決行するなど、武力討幕派はなにかに追いつめられたかのように焦りまくっていた。反幕のなかでもハト派の龍馬にこれ以上鼻づらを引きまわされれば、自分たちが政局から浮きあがり、孤立無援の窮地に追いこまれかねないという危機感がつのっていたのであろうか。
 その危機感から、武力討幕派の薩摩藩は龍馬を葬った。暗殺のリーダーは西郷。西郷の指示で、当然、中村半次郎も動いたであろう。
 彼らは一計を案じて、土佐藩主を暗殺グループに引き入れた。土佐藩の山内容堂、後藤象二郎にとって、武力討幕派の中岡慎太郎と大政奉還派の龍馬はともに目の上のコブで、同時に葬り去ることを望んでいた。
 薩摩藩と土佐藩。両藩が作成したシナリオでは、暗殺の容疑を新撰組に向けることに決定した。その線から伊予出身の原田左之助を刺客の一人にすることにして、その物的証拠として彼の刀の鞘が狙われ、伊東派の藤堂平助があらかじめその鞘をすりかえておいた。
 原田左之助の犯行を、さらに補強するための材料として、こなくそという方言を利用することにして、事件直後に現場にかけつけた谷干城が、その言葉をきいたと偽証することにした。後年、谷が第一次伊藤内閣で農商務大臣になったのは、龍馬暗殺にからむ秘密をにぎっていたためだろうか。
 実際、龍馬暗殺について、谷の言動には重大な謎がある。谷は、暗殺現場にかけつけた、いわば事件の第一発見者であり、客観的な事実と符合しないにもかかわらず、終始一貫、新撰組犯人説を強硬に主張した人物であった。このことを裏返していえば、龍馬暗殺にはあらかじめ新撰組を犯人とするというシナリオがあり、そのシナリオに忠実にしたがって主張しつづけてきたということになる。谷の主張は、明治44年(1911)、74歳で生涯の幕を閉じるまで変わらなかった。薩摩と土佐藩の講釈による龍馬暗殺のシナリオ。薩摩と土佐には、共通の同士がある。土佐は、秦一族の長宗我部一族が支配したことはすでに紹介したが、薩摩の島津氏のルーツも秦一族である。島津氏は、秦氏の末裔としてきわめてエリート意識が強く、関ケ原の合戦で徳川家康の東軍に敗れたことを教訓にして、江戸時代、薩摩に強大な秦王国を築きあげてきた。
 一方、土佐の長宗我部氏は、関ケ原の合戦の結果、西軍に加担して敗れ、山内一豊が 遠州掛川から土佐国主として入国したけれども、長宗我部氏の血をうけた秦氏の残党は、幕末、土佐勤王党のなかに根強く生きている。長宗我部氏とゆかりが強い明智光秀をルーツとするといわれる坂本龍馬もまた、おそらく秦一族だったのであろう。
 そんな龍馬を、薩摩と土佐両藩が協力して葬った背景には、もっと深い事情があったといわなければならない。その事情を知る谷は終生、沈黙を守りつづけていたのだが、薩摩藩の西郷隆盛も、龍馬暗殺の秘密を知る一人であったろう。

 龍馬暗殺後、西郷(隆盛)は、死にものぐるいで戦争を誘発しようと試みる。江戸で浪士たちに強盗や火つけを働かせたり、ありとあらゆる手段で幕府を挑発した。挑発は、江戸だけではなく、関東各地におよび、浪士隊を各地に派遣し、関東をかく乱する戦術に出た。
 けれども西郷は、江戸城開城をめぐって勝海舟と会談した結果、江戸城は無血開城された。その結果、西郷はあまりに幕府に寛容であると批判され、以後、戊辰戦争の指揮はすべて長州藩の大村益次郎がとることになる。
 西郷は明治新政府の招きを断って鹿児島に隠棲し、以後も新政府には背を向けて過ごす。西郷の軍事的使命は、江戸城の無血開城の時点で終わったかのようにみえる。つまり、無血開城させることで、西郷は傍流に追いやられたといえるのだが、その理由は何だったのか。西郷を傍流に追いつめ、城山で死に追いやった人物は、いったいだれなのか。
 一人は、薩摩藩主の島津久光であろう。薩摩藩に君臨する久光は、幕末には自分が将軍になりたいという野心をもち、さまざまな形で暗躍した。この人物なら、西郷の追放を指示し、傍流に追いやることも可能だ。

 幕府と薩長の武力衝突で、いったい誰が得をするのか?

 久光よりもさらに強大な人物がいる。トーマス・ブレイク・グラバー。彼は久光だけでなく長州藩にも圧倒的な影響力をもつことができた。日本名、倉場宮三郎。
 このイギリスの武器商人は、薩摩藩と長州藩に武器弾薬を売りつけて巨万の富を築きあげた。薩摩藩の小松帯刀の紹介で龍馬と知り合ったグラバーは、龍馬の仲介でまず長州藩に7300挺の銃を売りつけ、薩長両藩に食いこんで、やがて明治維新の陰の大立て者にのしあがっていく。
 銃以外に艦船だけでも20隻、金額にして117万5千ドルを薩長両藩に売りつけている。それ以外にも、あらゆる武器に手を染めている。まさにヌレ手でアワの大もうけで、ブラバーが手にした利益は莫大な額にのぼったといえるだろう。薩摩藩の家老が、グラバーの暮しを、30万石の大名に匹敵するといったが、それは過小評価だといって差し支えない。
 武器商人として、20代半ばのグラバーが、幕末に、幕府を倒すという名目で薩長連合を成立させる陰の黒幕になったばかりか、島津久光といった大物藩主とも対等につき合っていたのである。それだけでなく、イギリスヘ留学した五代才助たちは、フランス人のモンブランと契約を結び、慶応2年のパリ万国博覧会に薩摩藩は参加している。
 薩摩藩は家老岩下方平をリーダーとする一行がフランスに渡り、万博に出品し、陳列場には「日本薩摩太守政府」の名を使って幕府に対抗している。薩摩藩は、この時点で、すでに幕府を崩壊させることができると読んでいたのであろう。
 薩摩藩は万博に参加しただけでなく、五代才助たちはイギリスの工場地帯を視察し、プラット紡績工場に紡績機械から工場の設計、技師の派遣を依頼した。その結果、慶応3年8月には鹿児島に日本初の紡績工場が誕生している。
 こういった斡旋をグラバー単独でできるわけがなく、その意味で彼の背後にはヨーロッパの巨大な組織があったとみるべきであろう。その組織は、19世紀のアジアに進出して、アジアを拠点に大量の武器を売り込み、巨額の利益をつかもうとしていたネットワークだといえる。武器商人による、巨大なネットワーク。
 グラバーは、そのネットワークの一員だったのだろうか。幕末に、幕府と薩長連合による武力衝突があれば、彼はさらに莫大な利益を得ることができたであろう。そして薩長両藩を中心にした新政府が成立すれば、これまでのつながりを土台にしてさらに有利なビジネスチャンスが生れる。
 にもかかわらず龍馬は江戸城を無血開城にして、江戸を戦火に巻きこむことはなく、戦闘は東北、北海道を舞台にした小規模なものになってしまった。武力討幕による大規模な国内戦争を想定したから、グラバーは薩長だけでなく、肥前、肥後、宇和島、土佐など西南各藩へ武器、弾薬、船舶を売りこんできたのだ。もし国内戦争がなく、それらの武器が使われなかったら、各藩への売り掛けが貸し倒れになってしまう。
 グラバーは、薩摩藩主島津久光に対して絶大な影響力をもっていた。
 一つの証言がある。イギリス公使館付き医師ウイリアム・ウイリスは、慶応2年(1866年)9月、パークス公使にしたがって鹿児島を訪れているが、そのときのようすを本国にあてた手紙のなかで、次のように報告している。

 薩摩侯はグラバー商会に対して多額の債務があるので、これを利用してグラバーはたえずなにかをしでかさずにはいられない性質の(パークス)公使と薩家侯との会談を斡旋したのである。私のみるかぎりでは、公使や提督らのなかでも、グラバーがとびぬけて一番重要な賓客であった。

 薩摩侯とは久光のことだが、武器購入でグラバーに多額の債務をかかえた久光は、イギリス公使のパークスよりも、グラバーをはるかに大事にしていたのである。そのグラバーの斡旋による島津=パークスの会談は、幕末の歴史を左右するほど重要な会談だったといわれる。
 グラバーは、明治になって長州の毛利家が編纂した幕末史『防長回天史』のなかで、編集人のインタビューに対して、「パークスは島津久光に会うまで幕府支持だったが、薩摩に行って久光に会ってから、180度変わった」と前置きして、次のように語っている。

 (パークスは私の肩を叩いて)「すまんすまん。これまで自分は愚かだった。きみのいうことを信じなかったが、自分が誤っていたといま目がさめた。はじめて日本の大名の考えかたがどんな方向に進んでいるかがわかった。いままで大名とイギリスの間に連絡がつかなかったのは、幕府側が壁をつくっていたのだ」と、しみじみ私にいって詫びたものです。
 つまりこのグラバーが日本のために一番役に立ったとおもうことは、私がハリー・パ−クスと薩摩、長州の間にあった壁をブチ壊してやったことです。これが私の一番の手柄だとおもっています。


 としてそのあと、グラバーはこういっている。

 私は日本の大名と何十万、何百万の取引きをしたことがある。しかし、ここで強くいっておきたいことは、ワイロは一銭も使ったことがない(中略)日本固有のサムライの心意気でやったということ、これだけは特筆大書してもらいたい。徳川幕府の叛逆人のなかでは、自分がもっとも大きい叛逆人だと私はおもっている。

 徳川幕府に対する最大の叛逆人とは多少の誇張とおもいこみはあるだろうが、グラバーは、徳川幕府を倒したのは、薩摩藩でもなければ長州藩でもなく、グラバー個人だと自負しているのである。もっと具体的にいえば、グラバーが討幕勢力に売りまくった武器弾薬、艦船が260年あまりつづいた幕府を滅亡させたと、分析していたのであろう。
 要するに武力討幕に徹底的にこだわり、薩摩、長州、土佐などの尻を叩きまくったのがグラバー自身だったのは事実である。その場合、グラバーがヨーロッパの最新式の武器、艦船を扱っていたことが最大の切り札になった。
 グラバーは血の気の多い男だったといわれる。グラバーの背後にひかえるヨーロッパの武器商人にとって、アヘン戦争終了後の市場は日本だ。日本に国内戦争が起るために必要な条件は、薩摩と長州両藩が反幕府のために結束することだ。そう考えたグラバーは、武器取引きをつうじて知り合った龍馬を利用することをおもいついた。土佐藩脱藩者の龍馬なら、藩の枠をのりこえて自由に動ける。
 グラバーは、おそらく龍馬を陰に陽に援助したにちがいない。薩長連合成立のため、龍馬は奔走した。ところが、その過程で龍馬は大きく成長して、個人の身で時代を転換させようという野心をもちはじめ、「船中八策」を練り、いきづまった政局を打開するためには大政奉還以外にないと主張しはじめる。
 グラバーにとって、龍馬はもはや邪魔者でしかなかった。ビジネスの障害物でもある。
 龍馬を、ただちに処分すべし。
 グラバーは、その意向を島津久光につたえた。久光も、グラバーと同じ立場にあった。
大量の武器を購入した薩摩藩は、国内戦争がなく、武器が使用されなければスクラップにせざるを得ない。そのうえ多額の債務だけが残ることになる。
 久光は、龍馬暗殺の指示を、ひそかに西郷隆盛に出したと推論できる。当時、鹿児島にもどっていた西郷は腹心の中村半次郎にその指示をつたえた。
 半次郎は、土佐藩に協力をもとめた。その頃、海援隊と陸援隊の対立から藩内が分裂し、深刻な対立抗争が生まれていたことを苦にがしくおもっていた山内容堂は、龍馬、中岡慎太郎の暗殺を認めた。
 薩摩と土佐藩連合による暗殺決行。暗殺は、新撰組によると擬装したが、それが破綻すると京都見廻組の今井信郎を犯人の1人にしたてあげ、見廻組の犯行にみせかけようとした。
 この工作にもっとも貢献したのは、土佐出身で司法大輔の佐々木高行であろう。維新後、参議兼工部卿、枢密顧問官などを歴任した佐々木は、今井信郎に禁固5年の判決をいい渡したが、実際には3年という軽いものだった。
 すべてを知る西郷は、その後、西南戦争で死亡した。
 グラバー商会は、明治3年(1870年)8月、倒産する。負債総額、約50万ドル。
 グラバーが懸念したとおり、戊辰戦争は大規模な国内衝突にならず、明治維新で各藩の財政事情は苦しくなり、大量に買いつけた武器の借金返済がほとんど不可能になり、おまけに戦争が短期間で終ったため、武器、艦船が大量に売れ残り、長崎の大浦倉庫に山積みされたためだった。
 けれども、グラバーが援助した志士たちは政府高官になっている。彼らの庇護のもとで、グラバーは明治44年に死去するまで、政財界に隠然たる影響力をもちつづけた。

 ★なわ・ふみひとのコメント★
 幕末は、外圧によって鎖国を解かされた日本が、西欧に中枢を置く「陰の超国家権力」の完全な支配下に置かれた時代ということができます。その幕末の大政奉還の立役者として大活躍をした坂本龍馬は、何者かの手によって暗殺されます。現場に新撰組の隊員の刀の鞘と下駄が残されていたことから、当初は新撰組が犯人であるとみなされたのですが、その後、その説はあっさり覆されてしまいます。
 この本の著者は、龍馬暗殺の黒幕は薩摩藩主の島津久光であろうとにらんでいます。そして、その島津久光に対して大きな影響力を持っていたグラバーこそが、大政奉還によって国内の武力衝突が回避されたことを最も不満に思っており、そのことに奔走した龍馬の殺害を指示したのではないかと見ているのです。
 龍馬の師ともいえる勝海舟が、龍馬暗殺について全くコメントを残していないのも、暗殺犯の背後にいる巨大な力を知っていたからだと分析しており、なかなか説得力があります。『坂本龍馬とフリーメーソン』と併せて読んでいただくと、幕末から維新にかけての偉人と教えられてきた人物たちが、西欧を牛耳る巨大な権力(ロスチャイルド一族)の手のひらの上で踊らされていたのだということがよくわかります。
 
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