世界がもし100人の村だったらA
池田香代子&マガジンハウス編 2003年刊 

 中学校に通う長女の担任は、生徒たちに
 毎日メールで学級通信を送ってくださる
 すてきな先生です。そのなかに、
 とても感動したメールがあったので、
 みなさんにも送ります。
 少し長くてごめんなさい。

 今朝、目が覚めたときあなたは
 今日という日にわくわくしましたか?
 今夜、眠るときあなたは
 今日という日にとっくりと満足できそうですか?
 今いるところが、
 こよなく大切だと思いますか?

 すぐに「はい、もちろん」といえなかったあなたに
 このメールを贈ります。
 これを読んだら、まわりがすこし
 違って見えるかもしれません。

 世界には63億人の人がいます
 もしそれを100人の村に縮めると
 どうなるでしょう。
 100人のうち

 52人が女性です
 48人が男性です

 30人が子どもで
 70人が大人です
 そのうち7人がお年寄りです

 90人が異性愛者で
 10人が同性愛者です

 70人が有色人種で
 30人が白人です

 61人がアジア人です
 13人がアフリカ人
 13人が南北アメリカ人
 12人がヨーロッパ人
 あとは南太平洋地域の人です

 33人がキリスト教
 19人がイスラム教
 13人がヒンドゥー教
 6人が仏教を信じています
 5人は、木や石など、すべての自然に
 霊魂があると信じています
 24人は、ほかのさまざまな宗教を
 信じているか
 あるいはなにも信じていません

 17人は中国語をしゃべり
 9人は英語を
 8人はヒンディー語とウルドゥー語を
 6人はスペイン語を
 6人はロシア語を
 4人はアラビア語をしゃべります
 これでようやく、村人の半分です
 あとの半分は
 ベンガル語、ポルトガル語
 インドネシア語、日本語
 ドイツ語、フランス語などを
 しゃべります


 いろいろな人がいるこの村では
 あなたとは違う人を理解すること
 相手をあるがまままに受け入れること
 そしてなにより
 そういうことを知ることが
 とても大切です

 また、こんなふうにも
 考えてみてください
 村に住む人びとの100人のうち
 20人は栄養がじゅうぶんではなく
 1人は死にそうなほどです
 でも15人は太り過ぎです

 すべての富のうち
 6人が59%をもっていて
 みんなアメリカ合衆国の人です
 74人が39%を
 20人が、たったの2%を
 分けあっています

 すべてのエネルギーのうち
 20人が80%を使い
 80人が20%を分けあっています

 75人は食べ物の蓄えがあり
 雨露をしのぐところがあります
 でも、あとの25人は
 そうではありません
 17人は、きれいで安全な水を
 飲めません

 銀行に預金があり
 財布にお金があり
 家のどこかに
 小銭が転がっている人は
 いちばん豊かな
 8人のうちの1人です
 自分の車をもっている人は
 7人のうちの1人です


 村人のうち
 1人が大学教育を受け
 2人がコンピューターを
 もっています

 けれど、
 14人は文字が読めません

 もしもあなたが
 いやがらせや逮捕や拷問や
 死を恐れずに
 信仰や信条、良心に従って
 なにかをし、ものが言えるなら
 そうではない48人
より恵まれています

 もしもあなたが
 空爆や襲撃や
 地雷による殺戮や
 武装集団のレイプや拉致に
 おびえていなければ
 そうでない20人
より
 恵まれています

 1年の間に、村では
 1人が亡くなります
 でも、1年に2人
 赤ちゃんが生まれる
ので
 来年、村人は
 101人になります

 もしこのメールを読めたなら
 この瞬間、あなたの幸せは
 2倍にも3倍にもなります
 なぜならあなたには
 あなたのことを思ってこれを送った
 誰かがいるだけでなく
 文字も読めるからです

 けれどなにより
 あなたは生きているからです
 昔の人は言いました
 巡り往くもの、
 また巡り還る、と

 だからあなたは
 深ぶかと歌ってください
 のびやかに踊ってください
 心をこめて生きてください
 たとえあなたが、傷ついていても
 傷ついたことなどないかのように
 愛してください

 まずあなたが
 愛してください
 あなた自身と、人が
 この村に生きている
 ということを

 もしもたくさんのわたし・たちが
 この村を愛することを知ったなら
 まだ間にあいます
 人びとを引き裂いている非道な力から
 この村を救えます
 きっと
 
 100人村は存在しない

 世界がもし100人の村だったら、と仮定するのは頭の中の実験だ。それによって見えなくなることもあるけれど、よく見えてくることもある。
 例えば、『100人村』の読者の多くが考える「普通」の生活スタイルが、実際のところ、世界的にはかなり例外ということがわかる。不安になる読者もいる。
 また、世界の人びとは極端な不平等状態の下で苦しんでいることが見えてくる。多くの読者はショックを受ける。
 しかし、なぜ今ショックなのか? 日本社会でこのことを本当に知らなかった大人がいるだろうか? 周知のはずのことで、人びとがショックを受けたこと自体がショッキングなのではないか?
 その答えとして、100という数字で単純化された統計が貧富の格差をわかりやすく見せつけたから、といえるだろう。しかし、それが唯一の答えではないと思う。『100人村』の本はただ単に「世界の人口がもし100人だったら」と仮定したものではなかった。「世界がもし100人の村だったら」と仮定したのだ。
「村」という言葉は、日本だけではなく世界のほとんどあらゆる文化の過去に深くこだまする。
 村というのはただ単に人びとが群をなしているというのではない。村とは共に生きる意志をもち、そして、実際にそうしている人たちの集まりだ。また、文化や宗教が何であれ、世界のほとんどいかなる場所でも、村人たちは共に平和に生きられるよう伝統的に規律や習慣、倫理的原則を発達させてきた。
 一般的に、村には土地や他の資源を公平に分配する規則、富を公正に共有する慣習、相互に助け合う倫理があるだろう。これは村の人びとが完全な平等を実現しているという意味ではない。
 しかし、6%の人間が59%の富を支配している村を見つけることは不可能だということを意味する。
 15%の人間が肥満で20%の人間が栄養不足だという村は見つからない。
 20%の人間が80%のエネルギーを牛耳っている村は見つからない。
 他の人たちにはあるのに、25%の人間に雨露をしのぐ場所がないという村は見つからない。
 他の人たちは飲めるのに、17%の人間はきれいで安全な水が飲めないという村は見つからない。
 村、少なくとも伝統的な村に住む人びとは、お互いをそんなふうには扱わない。
 もし、村にきれいな水の飲める井戸があったら、村人たちは共有するだろう。
 もし、村に雨露をしのぐ場所のない家族がいたら、村人たちはみんなで材料をもちよって、一緒に家をつくってあげるだろう。
 もし、村に飢えている人がいたら、村人たちはきっと食べ物をもってくるだろう。
 多くの場合、伝統的な村には村人全員が使う権利のある共有地がある。
 つまり、「村」とは相互扶助の倫理=慣習で結びつけられた(場合によっては、縛りつけられた)人びとの集まりを意味する。これは、村のなかに他の人たちより裕福な家族がいたとしても、ある人がとてつもなく豊かで、他の人は極貧にあえぐ、というような有様にはしないということだ。
 だから、『100人村』の統計がショッキングだったのだ。世界にはこれほど残酷な村は存在しないだろう。
なぜ貧乏
 なぜ貧乏なのか

 『100人村』はこの恐ろしいまでの不平等を白日の下にさらす。しかし、なぜそうなったか、どのようにそれが維持されているのか、については何も語っていない。この部分は読者が考えるように残された。
 しかし、これは全くもって最も重要な問題だ。
 貧乏な人たちは天然資源の乏しいところに住んでいるから貧乏なのか?
 ちがう。世界の極貧層のうちには世界で最も資源豊かなところに住んでいる人たちがいる。そこから途方もない富が豊かな国々へ引き出され、移される。そして、世界の富裕層のうちには比較的資源の少ないところに住み、貧しい国々から資源を輸入して富を維持している人たちがいる。
 貧乏な人たちは一生懸命働かないから貧乏なのか?
 ちがう。概して、より豊かな人たちはあまり働かない。そして、スーパーリッチは全く働かない。もちろん、金持ち国でもよく働く人たちがたくさんいる。しかし、誰も、貧乏な国の人たちに比べて過酷な労働をしているわけではない。
「開発」と「発展」
 「開発」と「発展」は誰のために?

 貧乏な人たちは経済発展の遅れた地域に暮らしているから貧乏なのか?
 これが大多数の人びとが信じていることで、今の世の中で支配的な考え方だ。しかし、それは大変な幻想だ。
 1949年、トルーマン大統領が「アメリカ政府は低開発国を開発させるというプログラムを開始する」と世界に向けて発表した。それから半世紀以上、開発計画は、政府だけでなく国連やその関係機関、あるいはたくさんの非政府組織(NGO)など世界の最も力のある機関によって支持されてきた。
 このことの意味を明らかにするのは重要だ。「経済発展」は世界の貧しい人びとをその貧困から救い上げる慈善事業のようなものではない。むしろ、地球上のすべての社会で産業革命を遂行させるプロジェクトなのだ。言い換えれば、これは世界中のすべての人を資本主義産業システムに動員するものだ。
 その初期段階、この動員は植民地主義という方法で行なわれた。植民地では、多くの人びとが奴隷や強制労働によって産業経済に参入させられた。他の多くの人びとは奴隷にはならなかったが、植民地システムのなかで植民者が所有するプランテーションや工場で職を探すほかなかった。
 第2次世界大戦後、植民地解放運動によって直接的な植民地化が不可能になり、国連憲章もそれを違法にした。しかし、経済的動員のプロセスはなくならない。今度はそれが「発展」とか「近代化」と呼ばれるようになり、今日では「グローバリゼーション」と呼ぶのが流行っている。
 名前や方法は変わったが、世界を資本主義産業システムの下に再編するという本質的なプロセスは変わっていない。
 このプロセスによって絶対的貧困をなくし、貧富の差を減らすことができると信じている人がいるようだ。しかし、それは奇妙なことだ。19世紀の初めから、資本主義産業システムは貧富の差を拡大させている。資本主義の初期、西洋諸国においてこれは労働者階級の貧困化を意味した。
 その後、欧米や日本、そしていくつかのアジア諸国において労働者階級が比較的繁栄することになったため、もし開発が十分長く続けば貧困を解決することができるだろう、という幻想をつくった。これを信じた人たちが気がつかなかったのは、この経済のシステムが世界規模になったとき、「金持ち」な方へ移れたのはほんの一握りの国で、不平等は再生産され続けている、ということだ。
 これは発展が予期に反して失敗したということではない。貧困は再編され、合理化され、体系的に利益を引き出すものにつくり変えられてきた。これは「貧困の近代化」と呼ばれている。
 これを視覚化するために、貧乏国の典型的な都市の建築を考えるといい。中心部にはガラスと鋼鉄でできた高層ビルがあり、その郊外にハンドメイドのスラム街があるだろう。
成長の限界
 成長の限界、限りある地球

 『100人村』のオリジナルバージョンは環境学者かつ人口問題専門家であるドネラ・メドウズによって書かれた。メドウズは、ちょうど30年前に出版され大きな話題を呼んだ『成長の限界〜ローマ・クラブ人類危機のレポート』の共同執筆者だ。
 この本のメッセージとは、「地球は有限で、増えたりしないのに、世界人口、工業化、公害、食糧生産、資源減少は幾何級数的な勢いで拡大しているため、私たちは破滅に向かって進んでいる」というものだった。
 この本は言った。もし、世界が「考え方のコペルニクス的転換」に耐え、拡張のプロセスからつり合いのとれた状態に変わらなければ(これは自然に起こるものではなく、積極的な人間の介入が必要だ)、私たちはおよそ100年で成長の完全な限界に到達し、人間文明はおそらく破滅することになろう、と。
もし、これが私たちの状況だとすれば、世界中の人が今日の金持ち国の消費レベルで暮らす将来を想像することは意味がない。世界中がロサンゼルスの1人当たりのエネルギー消費量で生活するには、地球が5個必要だと言われている。ちなみに、ロサンゼルスはその途方もないエネルギー消費量はあっても経済的平等はなく、貧富の差の激しい都会だ。
 その本のあとがきにもあるように、もし金持ち国が現在の不平等のレベルで経済成長を凍結しようと提案したら、「それは新植民地主義の最終的な行為ととられるだろう」。
 不平等とは開発のエンジンを動かすエネルギー源なのだ。逆に言えば、不平等がなくならないかぎり、このエンジンは(破滅によって止めることを除いて)止められない。この破滅を避けるための変革は、主に金持ち国で起こらなくてはならない。これは、人類愛とか、罪悪感とか、チャリティーとかいった問題ではない。未来に責任をとり、生き残るための合理的で現実的な計画の採用、という問題なのだ。
なぜ踊るのか
 なぜ、踊るのか?

 『100人村』は「だからあなたは‥‥踊ってください」というような言葉で終わっている。もしかしたら、読者のなかにはこれを「自分たちが貧乏国でなく金持ち国の1つに生まれたことを喜ばなくてはならない」と解釈した人がいたかもしれない。もしそうなら、今私たちが置かれている状況をかなり誤解している。世界経済システムから切り離された「日本経済」など存在しないことをわかっていない。日本経済は貧乏な国々の経済とからみ合い、依存している。『成長の限界』で予言された危機が貧乏国を襲うとき、それは間もなく日本も襲うだろう。だから、「よかった、私は貧乏じゃなくて」というダンスは状況に合わない。
 それなら、なぜ踊るのか?
『成長の限界』の執筆者たちはその釣り合いのとれた状態という考え方を説明し、まず何よりも食糧生産により多くの努力を注ぐべきだ、という。これは単なる食糧生産高の増加を意味しない。むしろ、
(1)すべての人に食糧が行き渡り、飢餓と栄養失調がなくなるように生産を組織し、
(2)土壌を枯れさせ汚染したりすることのない農法へ変えていく
 ことを意味している(人が餓死しているときにガラクタづくりに精を出すなんて、なんと不合理なことか)。
そして、教育や健康管理といった、人を助け、資源を枯渇させず、公害を出さないサービス産業に努力の比重を移すべき、という。さらに、「芸術、音楽、宗教、基礎的科学調査、運動競技、人とのふれあい」、そして、このような活動ができるような余暇時間についても言及する。
 踊ることはこういった種類の活動の象徴になれる。踊ることは、他人が貧乏であることに依存したり、地球を壊したりせずに、人びとに喜びと満足を与える数多くの活動のシンボルになれる。
「考え方のコペルニクス的転換」には次のような認識も含まれるだろう。まず、主に仕事中毒と消費中毒でできており、その主な満足が「出世すること」「他人よりぬきんでること」「新しいものを買うこと」である生活は貧しい。そして、たとえ物質的には質素でも、踊りや歌、音楽、芸術、愛、友情、その他の形の自己表現に注げるたっぷりの余暇と時間がある生活は豊かだ。
あなたの村
 あなたの村を愛するとは?

 『100人村』は、よりたくさんの人びとが自分の村を愛することを知る、という希望で終わっている。もちろん、ここでは「村」とは地球のことであって、特定の国ではないし、決して国家や政府のことではない。
 しかし、一度も見たことのないものを愛するのは難しいし、誰もこの惑星のすべての場所を見たことはない。たとえ、いろんな場所に旅したことがあっても、自分が育ったところや住んでいるところを愛するのが一番簡単だ。
 「お国はどちらですか」という表現があるように、国とはもともと地元や村を意味することを思い起こせば、愛国心とは何も悪いことではない。地球を愛するとは、この谷間、この川、この森、この山、この海岸線を愛することから始まる。そのような地球の実在するものへの具体的な愛情がなければ、「地球への愛」は抽象概念で終わってしまう。
 一度、「愛国心」が政府や国家を愛する(実際は恐れる)不健康で醜い感情から、川や山や海岸といったものを愛することへと再定義されると、愛国心は(今のように)地球を壊す力から地球を保護するために働く力に変わるだろう。山をならし、森を切り倒し、海を埋め立てるブルドーザーを送り込む開発業者は愛国心が欠如していると見られるようになり、反対にこれらものものを守ろうとしている人たちが真の愛国者と見られるようになるだろう。
ゼロ成長
 ゼロ成長というチャンス

 『成長の限界』の執筆者たちは、人口増加も経済成長もその限界に到達するのは避けられない、といった。もし成長が意図的な政策転換によって止められなかったら、破滅によって止められるだろう。
 ドネラ・メドウズとその仲間たちは予言した。もし、成長が野放しに続けば、およそ100年で地球の資源は枯渇し、自然環境は破壊されるだろう、と。それから30年が経った。私たちは請願書に署名したり、ゴミを分別したりしている。しかし、成長は政府や企業、主流の経済学者の政策であり続けている。
 予言されたとおり、資源は大幅に減り、自然環境はかなり汚染され、破壊されている。予言されたとおり、貧富の差は増大し、これは多くの人を貧困と飢餓に追い込み、競争、対立、憎悪を助長し、戦争とテロを含むあらゆる種類の暴力を生み出している。
『100人村』は「まだ間に合います」の文章で終わる。しかし、世界の多くの部分ではすでに手遅れなのだ。多くの人びとにとって破滅は70年後のことではなく、すでに始まっている。自分の文化が破壊されるのを見た人びと、飢餓やそれから生まれる暴力で死んだ人びと、絶滅へと「発展」させられた動植物の種にとって、すでに遅すぎるのだ。
 しかしながら、『成長の限界』で予言された総合的な世界規模の崩壊を避けるには、まだ時間があるかもしれない。もし、著者たちが正しくてあと70年残っているとしたら、最終的な危機が来るころ、私もこの本の読者のほとんども生きてはいないだろう。それは私たちの子どもや孫の時代に来る。彼らは私たちのことをどう思うだろうか? 私たちが危機が来るのを知っており、それを避けるチャンスもあったのにそうしなかった、と知ったとき‥‥。
 
 
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