大東亜戦争の真相
赤堀篤良・著 東京図書出版会 2004年刊

 なぜ真珠湾を攻撃したか

 大東亜戦争のうち、太平洋戦略あるいは対米戦略の最大の誤りが真珠湾攻撃ではなかったろうか。
 日本が開戦に踏み切った最大の理由は石油にあったという。当時、日本国内の年間石油消費量400万キロリットルに比し、スマトラのパレンバンにあった精油所だけで年470万キロリットルを産出していたという。実際に南方各地から内地への原油輸送量は1942(昭和17)年に167万キロリットル、翌昭和18年には230万キロリットルを記録した。もっとも、昭和19年からはそれまで不具合の多かった米軍の魚雷がようやく改良されたこともあって日本の船舶喪失は急増し、石油は勿論すべての輸送は落ち込んだ。
 なぜ米国に対する攻撃はフィリピンの基地攻撃だけに留め、一方では東南アジアを攻略し、石油を始めとする資源確保を主眼としなかったのだろうか。仏印(ベトナム)、蘭印(インドネシア)の両国宗主国である仏・蘭はすでにドイツに降伏し、日独伊三国同盟のもと、日本にとって最も作戦し易い状況にあったというのに……。なぜ、わざわざ真珠湾を攻撃してアメリカを奮起させなければならなかったのだろうか。軍部の意見も圧倒的多数(……というより、山本五十六を除く全員)はこうした考えであったという。第一、1936(昭和11に改訂された国防方針でも、対米戦争ある時は以下のように定められていた。

 米国を敵とする場合の作戦は次の要領に従う。
 東洋に在る敵を撃滅しその活動の根拠を覆し、且つ本国方面から来攻する敵艦隊の主力を撃滅するをもって初期の目的とする。
 これがため海軍は作戦初頭にすみやかに東洋にある敵艦隊を撃滅し東洋方面を制圧し、陸軍と協同してルソン島及び付近要地並びにグァム島を攻略し、敵艦隊主力東洋海面に来航するに及び、機を見てこれを撃滅す。
 敵艦隊を撃滅した以後の陸海軍の作戦は臨機これを策定す。


 開戦直前の11月15目、大本営政府連絡会議では戦争終末促進を腹案として決定している。その中でも「適時米海軍主力を誘致し之を撃滅するに勉む」とか「対米通商破壊戦を徹底す」といった文言が見られる。
 1940(昭和15)年11月の大統領選挙で、ルーズべルトは選挙に3度目の勝利を得るために米国は戦争に参加しないと公約せざるを得なかった。国民の9割が戦争に反対であったのがその理由である。米国の事実上の植民地にすぎないフィリピンを攻略するのと、米国の領土であり太平洋最大の海空軍基地である真珠湾を攻撃するのでは米国民の反応は全く異なったであろう。欧州戦線に対しては米国は武器供与、輸送船団護衛などで援助していたが、時刻の駆逐艦2隻、輸送船2隻をドイツのUボートに撃沈されても、なおかつ参戦に踏み切ることはできなかった。こうした事情を分かっていながら、日本は真珠湾を攻撃して眠れる獅子を叩き起こしてしまった。
 実のところは、山本五十六が零戦を始めとする航空機の性能がかなりのレベルに達していたため、力試しに戦争(あるいは戦闘)をしてみたかっただけではないのか。彼はあたかも対米戦争に反対であるかのような言動を取っていた。それならば、どうして最後の段階で「対米戦争に勝ち目はない」と言わず、「1、2年は十分暴れて見せます」などと言ったのだろうか。勿論、米国に勝てるとは言っていないし、日本を守れるとも言っていない。暴れて見せるとだけ言ったのだから、ウソは言わなかったつもりだろう。彼の言動はよほど注意して観察する必要があったように思う。ハッタリや芝居が多かったように思う。戦争を避けるつもりなら、どうして1941年5月2日に戦艦長門上に士官を招集して戦争に向けた特訓をし、早い時期から真珠湾攻撃の訓練までしていたのか。例の南部仏印武力進駐に先立つこと3ヵ月近い。
 この時期は公私の日米関係修復が活発に行われ、4月16日に日米了解案(いかさまと言われる)が提示され、5月12日に松岡外相の意向を汲んだ修正案が野村大使からハル長官に手渡され、6月21日に米国が対案を以って回答した……という頃である。天皇、近衛首相、軍部首脳が揃って真剣に対米戦回避に努力していた。その後、9月6日の御前会議で天皇が「よもの海みな同胞と思う世になど波風の立ちさわぐらん」と朗読し、東條は帰庁して「聖慮は平和にあるぞ」と言い、武藤軍務局長は「戦争などとんでもない」と部下に伝えたというのは有名な話である。
 この9月頃には軍令部総長であった永野修身は外交交渉継続に真正面から反対し、即開戦を叫び始めていた。また、対米戦争に自信の持てなかった天皇を次第に戦争に向けて洗脳していった一人が聯合艦隊参謀長・宇垣纏ではなかったか。永野修身、宇垣纏、米内光政、山本五十六、どうも胡散臭い面々である。
 とも角、山本五十六こそが「聯合艦隊司令長官を辞める」と脅して強引に、まことに強引に真珠湾、更にはミッドウェイ作戦までやり通した。正に国を相手のポーカーに勝ち、国を滅ぼしたと言えよう。山本が海軍大学校の教官をしていた時、質問に答えた学生が「戦争でもっとも大切なのはスパイや暗号解読などにより敵の動静を知ること」と述べたところ、山本は「相手の手の内を見ながらポーカーをやるようなことを考えるな」と言ったそうで、山本の本質を暴露したエピソードと思う。彼が亡国の徒と呼ばれず、未だに一部の人々に軍神と評されているのはまことに不思議である。映画まで作ってこの男の“功績”を称える日本人とは一体何なのか。
 真珠湾攻撃に批判的な文、例えば「もし山本が常識人の分別にしたがって真珠湾攻撃を強行することなく、陸海軍が定石どおりフィリピン、マレーに進攻するのみであれば、日米戦争はよほど異なった様相を呈したであろう。
 もとよりアメリカが供手傍観したとは考えられないが、自国を遠く離れた植民地の攻防となると死活の問題ではなく孤立主義と欧州優先策がのさばり、本格的反攻を展開するまでには時日を要したと思われる。早晩、南方資源を支配する日本を駆逐すべく陸海空三軍を動員して奪取にとりかかったであろうし、かねて想定したマーシャル諸島水域で日米海軍の大きな海戦が繰り返し起こったであろうと思われる」と書いている同じ人物が、「山本は精魂をつくし、勇敢に、ひたむきに戦い続けた」と山本を賞賛している。理解できない。ガダルカナルで日本軍が悲惨な戦いを続けている時、山本はラバウルに進出する前で、トラック基地に停泊した戦艦大和に居住して軍楽隊付きの昼食を楽しみ、士官を相手のブリッジなどにも余念がなかったというのに。
 今の時代に至っても、真珠湾攻撃だけを取り出して言えば勝利だったというような意見がある。どうしても身内贔屓(ひいき)が消えないということか。いや、陸軍軍人だった方が海軍の作戦を徹頭徹尾誹謗しているのに真珠湾攻撃は成功と見なしている。成功しても失敗しても戦争目的に反し、勝てば勝つほど結果は悪いという作戦だったのだから、評価すること自体がおかしい。最初から取り得のないどころか墓穴を掘ること間違いなしの作戦だったと思う根拠を挙げよう。

 最も成功する場合、全空母と戦艦を沈め、燃料タンクと工廠を破壊し、飛行場の全航空機を壊滅させることが期待できる。この場合、米国の歴史に比類なき壮大なる破壊と殺戮を目前にした数十万の米国人は怒り心頭に発し、全国民が一致団結し、欧州戦線をさて置いて太平洋戦争に臨むことになる。失われた艦艇、航空機他は大西洋から回航すれば日ならずして充当できる。パナマ運河を破壊しない限り、米国即時の反攻を遅らせるだけで、一旦反攻が始まれば米軍の全戦力が鉄鎚の如く日本軍に降りかかることになる。また湾内での攻撃であるから、せっかく破壊し沈座させた艦艇の相当数は後日修理して戦線に復帰できる。真珠湾の艦艇と設備を一時全壊させることと引き換えに、その後半年くらいの遅れがあるとはいえ、米軍の全力投球による反攻を受けることは決して戦略上の勝利とは言えないだろう。

 最も失敗する場合、聯合艦隊の進攻を察知され、米軍ハワイ基地航空機の攻撃を受け、聯合艦隊は全滅する。この場合、米軍による東南アジア方面への攻撃は日本軍による各他の占領が完了する前に開始できる。この可能性は大いにあった。実際の機動部隊集結でも、1941(昭和16)年11月17日には山本五十六が乗った聯合艦隊旗艦「長門」が九州・佐伯湾に入港した。山本五十六一流の演技であろう。空母他の艦艇はすでに集結を終わっていたから、これだけの大移動を米側のスパイが察知しないのは期待すべくもなかった。危険極まりない行動で米側が見逃したのが不思議なくらいである。戦中といえども米国はスパイ活動により日本の戦闘機の生産量などを数えていたのであるから、かかる大規模な移動を見逃すはずがないのだが。

 実際の攻撃では戦艦を転覆ないし沈め、空母は逃し、陸上基地の航空機は殆どを破壊した。燃料タンクと工廠は残った。冷静に見れば、これは「破壊された艦艇を手付かずの工廠で早く直し、燃料を補給して反撃に出なさい」というメッセージと取れるくらいだ。現に沈座した戦艦のカリフォルニア(1942年3月に浮揚後、1944年5月に新鋭艦として同年12月現役復帰)、テネシー(1942年3月現役復帰)、メリーランド(2週間で修理後、1942年2月現役復帰)、ペンシルヴァニア(1942年8月現役復帰)の6隻の内4隻は早速修理され、戦線に復帰して日本の戦艦より活躍している。結局、戦艦アリゾナ、オクラホマ、標的艦ユタ以外は全艦戦線に復帰しているのである。
 日本側で真珠湾攻撃についてその華々しい戦果を書きたてた本は多いが、こうした事後の真相には触れたがらないようである。空母がいなくて逃したなどといっているが、もし敵空母がハワイ近海にいれば日本側は敵艦載機に相当叩かれたであろうし、真珠湾内にいたとして首尾よく沈めたとしても2カ月くらいで戦線に復帰し、翌年5月・6月の珊瑚海海戦とミッドウェイ海戦には間に合ったであろう。後に真珠湾の工廠は珊瑚海海戦で大破した空母ヨークタウンを応急修理し、資材と工員を乗せたままミッドウェイ海戦に向かう洋上で修理を継続する離れ業を演じた。敵ながら天晴れというところか。日本はこうした面でも負けていた。
 それはともかくとして真珠湾の被害くらいでは依然として日本を強敵と見なさなかった米国は対日戦争を欧州戦よりずっと小さな比重で進めることとなった。それでも日本海軍は開戦半年以降、大勢として負け続けたのである……物量に優りながら。

 ここで明らかなように、実際の真珠湾攻撃では相手の戦艦などを2、3ヵ月行動不能にしただけである。その代償として、全アメリカ人を立ち上がらせてしまった。例えて言えば、わざわざ遠方へ出向いて行って熊蜂の巣をつつき、戦闘蜂を数匹殺すようなものである。作戦そのものが間違っている。蜂を数匹殺したから作戦そのものは成功だったなどと言えようか。しかも、その蜂の殆どは後に蘇生して反撃に加わっている。山本五十六の真珠湾攻撃はこれほどソロバンに合わない作戦であったが、現在に至るまで筆者が非難する程には非難されていない。山本五十六が軍令部を振り回し、もともと戦略を持たない海軍をとんでもない方向に持って行ってしまったと言われる方でも、真珠湾攻撃は成功と位置付けている。どうしてだろうか。
 中国を敵に廻してしまい、対米戦も決定してしまった後、真珠湾を攻撃しないことだけが唯一開戦後の和平工作の可能性を残し得た。
 ハードな意味だけではない、真珠湾攻撃で頭に来た米国はもともと気に喰わなかった日系人を収容所に放り込んでしまった。これもあって開戦後の米国内情報はさっぱり取れず、かの有名な日本側の過大戦果をもとにその後の作戦を立てたのだから、撃沈敵空母数が建造空母数を遙かに上回るようなことにもなってしまった。
 真珠湾攻撃の罪は計り知れなく重い。
★なわ・ふみひとのコメント★ 
 当サイトにアップしている『山本五十六は生きていた』と併せて読んでいただくと、この国を戦争に巻き込み、その戦力を破壊し尽くすために国内に配置したエージェント(スパイ)たちを操った巨大な力の存在を認識できると思います。
 母国と故郷を守るため戦争にかり出され、海の藻屑となった若者たち、あるいは食糧も届かない戦地に派遣され、飢餓と疾病によって敵と戦うこともなく命を失っていったおびただしい数の先祖の無念さを思うと胸が痛みます。
 この真相を明らかにすることで、戦争の犠牲となった人たちへのせめてもの弔意を表したいと思います。
 
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