未来からのメッセージ
高橋克彦・著 サンマーク出版 1996年刊 
★なわ・ふみひとの推薦文★
 著者は慎重な表現をしていますが、そのUFO観は日本の著名人には珍しく正鵠を得ています。いまCATVのヒストリー・チャンネルの人気番組となっている「古代の宇宙人」がこの視点での放送を続けています。ひとくちに言うと「聖書の神は古代の宇宙人である」という内容です。確かに、聖書の英語版を読まれたらわかりますが、神は複数(Gods)で表現されています。おそらくキリスト教の総本山(バチカン)はそのことはとうの昔から知っているはずです。
 それを隠せなくなりつつあるため、「古代の宇宙人」のような番組を通じて少しずつリークしはじめた、というのが私の見方です。キリスト教を根底から揺さぶるような世界的大変動が起こりつつあることに備えているとみるべきでしょう。
 地デジ放送ではUFO問題をバラエティー番組で扱うこの国は情報鎖国状態と考える必要があります。ぜひご一読ください。

第3章 この地球上にも異星人がいた!?

 なぜかUFOに心ひかれる

「高橋さんはいつから、UFOや異星人に関心を持ちはじめたんですか」
 こんな質問をよく受ける。
 読書、浮世絵、霊能力などなど、興味を持ったきっかけについては、たいてい今でもはっきりと思い出せる。
 しかし、ことUFOや異星人となると、きっかけがいったいなんだったのかまったく覚えていない。こんなに興味が尽きない、ライフワークともいえる対象なのに動機が不明なのである。
「気がついたらUFOが身近になっていたんです」
 いつもそう答えているのだが、いったい僕のUFO原体験はいつなのだろうか。
 今でもはっきり覚えているのは、小学校五年のときに遠足で徳丹城遺跡に行ったときのことである。そこは平安時代、征夷大将軍の坂上田村麻呂が東北支配のためにこしらえた出城である。
 僕たちがその城に到着すると、城の真上の空を真ん丸い銀色の物体がゆっくり飛んでいったのが見えた。これにはクラスの皆が騒ぎ出した。それがおそらく初めて見たUFOなのだろうか。
 そのとき、ものすごく感動したのを僕は覚えている。だから意識の深層部分に残ったのだろうが、それがきっかけでUFOを詳しく調べたりすることはなかった。そもそも調べたくても、資料もないような時代だった。
 UFOの存在を確信するようになった事件はこれよりずっとあと、父親と従兄弟のこんな体験を聞いてからだ。

 月が二つあるぞ!

 父親と従兄弟はUFOをはっきりと目撃したことがあるのだ。今から十五年以上も前のことだ。
 そのころ、父親は仕事の関係で秋田県の鹿角市に暮らしていた。僕は当時東京に住んでいたのだが、たまたま里帰りしていた。
 盛岡に用事のあった父親は、従兄弟の運転で昼から出かけて、深夜になって帰宅した。ところが、二人の様子が尋常ではないのだ。妙に興奮している。
「おい、UFOを見たぞ」
 従兄弟は席に着くなりいった。父親もうなずく。僕はにやにやして話を促したと思う。誰でもそうだろう。いきなりUFOを見たと聞かされても、まず何かの見間違いではないかと疑ってかかるのが常識である。興奮している従兄弟は僕のすすめる水割りに口もつけず、話しはしめた。
 岩手県と秋田県とのほぼ境目に田山という場所がある。奥深い山の中に開けた盆地だ。従兄弟の運転する車はその田山を過ぎて低い峠道にさしかかった。頂上を越えると鹿角市は間近だ。盛岡から休まずに運転を続けてきた従兄弟は先が見えた安心からでもあるまいが、尿意を覚えた。そこで峠の上で車を停車させ、外に出ることにした。対向車も後続車もない。時間は十一時を回っていたという。
 従兄弟は頂上から広い下界を見下ろしながら放尿しはじめる。隣には僕の父親も立っている。やはり尿意を感じて降りてきたのだ。二人はしばらく無言で空を見ながら放尿していた。
「いい月が出てるな」
 従兄弟は真正面に見える月を眺めていった。真ん丸で金色に輝いている本当に見事な月だった。曇り空なのに、これだけはっきり見えるのは珍しい。
 そういわれて父親も月を見上げた。確かに綺麓な月だ。よほど我慢していたのか、尿はいつまでも止まらない。
 すると従兄弟は右手の空にもう一つ月を発見した。雲間からぼんやりと光を発しながら徐々に姿を現しているのだ。
 従兄弟は正面の月と右手の月を交互に見比べた。父親も気づいて二つの月を見る。そうしているうちに、正面の月が四つに分かれて一列に並ぶではないか。それぞれオレンジ色の小さな球体である。尿は止まらない。そういう状況でなければ驚いて逃げ出したかもしれないが、何しろ動きが取れない。
 こういう場合、人間の感覚は鈍感になるのだろうか。特別な恐怖心に襲われることなく、二人は一列に並んだ四つの光を眺めつづけたという。光は少しふらふらと揺れ動くと、別々の方向にものすごい速さで飛び去っていく。まさに一瞬だったという。峠の頂上からの広い視界を思えば、秒速何十キロという速度なのだろう。二人は唖然として光の消えた夜空を見上げていた。
「あれがUFOってんだろうね」
 ようやく放尿を終えた従兄弟はそういった。
「そうだろうな」
 父親もうなずいた。
 うなずいた父親は何事もなかったように車に乗り込み、従兄弟もハンドルを握って車を発進させた。実感がじわじわとわいてきたのは、それからしばらく経ってからである。二人は自分たちの見たものが何であるか確認しあうように細かくいい合っているうちに興奮してきた。そして僕の待つ家に到着したのである。
 話を聞いている僕は興奮を抑えきれなかった。父親と従兄弟はUFOなどにまったく関心を持たない人間だ。だが、彼らが描写するUFOは僕が資料で調べたUFOとまったく同じものなのである。

 誰がそれを操縦しているのか

「これは本当のUFOを見たんだな」
 僕は確信した。そして、あまりのリアリティーに驚いた。金色の大きな光が四つに分かれてオレンジ色になったなど、どう考えても作り話とは思えないではないか。そもそも二人がそんなことで僕に嘘をつく必要もない。逆に僕のほうが興奮してきたのに驚いたらしい。
「UFOと出合ってもまったく怖くなかったぞ」
 二人はそういうが、それもまた真実だろう。
 第三者は頭の中でさまざまな状況を設定して、さぞかし怖いにちがいないと想像するが、実際に経験した当事者は不思議さのほうが先に立つ。霊とまったく一緒である。「後であれが霊だと気づいて怖くなった」という話が圧倒的に多い。その場では何だかよくわからない。それが普通なのである。
 これだけなら、説得力に欠けるかもしれない。問題はその翌日の夕刊である。
「秋田県内に多数のUFO目撃者が出た」
 こんなニュースが紙面を飾っていたのである。時間もまさに父親と従兄弟が目撃したのと一致している。
 UFOに関心を持っている読者なら、こう書いただけで、「ああ、あのことか」とうなずくかもしれない。そうなのだ。彼らが目撃したのは、「秋田空港事件」が発生した前夜の出来事だ。
 この事件はこういうことだ。秋田空港にジェット便が就航することになって、試験飛行が行われた。地元の新聞社や放送局は試験飛行の模様を取材するために空港に待ち受けていたのだが、そこに羽田からのジェット機が機体を輝かせながら降下してきた。それをとらえようとテレビ局のカメラが回る。
 その瞬間、銀色に輝く飛行物体がジェット機の前を横切って空に消え去っていったのである。これは正確に映像に撮しとられた。ビデオ撮影されたUFOとしてはおそらく日本でもっとも早いはずだ。映像は全国に流された。
 これが「秋田空港事件」である。このニュースに刺激された読者からは、「そういう物体なら昨夜見たぞ」と続々と報告が寄せられた。
 報道の後に「実は俺も見た」などと従兄弟や父親にいわれていたら、いくらなんでも眉に唾をつけて聞いたかもしれない。しかし僕はその前に聞かされていたのだ。
 UFOは実在すると、はっきり確信を持った。
 そうなると操縦者はむろん異星人ということになる。その異星人とはどういうものか。もし人類に敵対する存在であったならどうするか。こんなことを考えはじめて、心配で眠れないほどになってしまった。
 今までUFOの存在そのものが曖昧だったために、この問題に誰も踏み込んでいかなかった。しかしUFOが現実のものとなれば話は違ってくる。誰が操縦しているのか、その操縦者は人類の敵か味方か。場合によっては地球が一つになって立ち向かわなければならない大問題を含んでいる。
 ある人は、人類と蟻の関係と同じだという。人類は蟻にほとんど関心を持っていない。
蟻もまた人類に依存していない。それでも同じ地球に暮らしている。人類は蟻を特別悪い存在だとは思っていないが。時として蟻を大量に殺すし、平気で踏み潰しもする。人類を異星人に、そして蟻を人類に置き換えればはっきりする。
 異星人は突如、何の理由もなく人類を殺しはじめるかもしれない。お互いの間に価値観のギャップがある。人類には一応「人殺しは罪だ」という共通の認識がある。しかし動物の間にはそれがない。
 そういう相手がUFOの搭乗者であったとしたらどうなるか。

 完全にUFOだ

 父親と従兄弟のUFO体験を『総門谷』の導入に用いた。
 この小説は早池峰山山頂にUFOの発着基地があるという設定で書いた伝奇SFである。
 山頂の状況は現実にはどうなっているのか、山頂にある神社はどんなものなのか。他にもいろいろ調べたいことがあったので、編集者やイラストレーターの吉田光彦さんと一緒に六、七人で登ったことがあった。
 実際に山頂で写真も撮った。二台のカメラで最初に左側から写し、今度は右から別の人が写す。同じ場所で撮った二種類の写真ができた。
 ところが、どちらの写真にも空豆のような形をした銀色に光る物体が写っているのである。同時に写したわけではなく、一台のカメラで撮り終えてから、もう一台で写したのだから、時間的にはI、二分のズレがある。光る物体が小石だとしたら、投げた小石が一、二分間もそこに浮いていたことになる。そんなことはとうてい考えられない。
 UFO写真の鑑定家に見てもらうと、「完全にUFOである」というのだ。
 これはそうとう薄気味悪い体験である。早池峰山にUFO基地があるというストーリーを作るために調査に行ったとき、まさしく実物に遭遇してしまったのだから。
 自分が気づかないだけで、僕はいつもUFOや異星人に見張られているのではないかと感じ出したのも、このころからである。
 実をいうと、僕とUFOとは大いなる因縁があるのだ。
 僕が生まれた年は昭和二十二年(一九四七年)。つまりケネス・アーノルドが数機のUFOと遭遇して「空飛ぶ円盤」という言葉を初めて用いた年なのである。彼がUFOと遭遇した日は六月二十四日で、現在、世界各地でさまざまなイベントやシンポジウムが開催されているUFO記念日は、この日に定められている。
 僕の誕生日は八月六日なので、ケネス・アーノルドがUFOを目撃して、およそ一か月半後に生まれたことになる。もっとも、昭和二十二年はベビーブームの年だから、それほど偶然でもないのだが、もっと恐ろしいことが誕生日に重なっている。
 これは五、六年前に知ったことだ。
 知人が僕の誕生日を知って、昭和二十二年八月六日に発行された地元新聞のコピーをプレゼントしてくれたことがあった。それに目を通しているうち、僕は新聞の片隅に「空飛ぶ円盤」の記事を発見したのである。
 記事によると、空飛ぶ円盤は光り輝きながら岩手県上空を通過したらしい。さすがの僕もこれには驚愕した。
 その日に岩手県で生まれた子供が何人いるのか知らないが、その中に僕が含まれているUFOとは浅からぬ因縁があると感じてもおかしくはない。
 その記事を見つけたとき、「ひょっとして異星人からインプラント(埋め込み)を施されたのではないか」と大真面目に考えたほどである。体内に埋め込まれた装置によって、自分が動かされている可能性さえ想像したのである。大げさかもしれないが、そうでなければ、なぜこれほどUFOに興味を持つのか説明ができないからである。
 偶然といえば『未知との遭遇』『ET』など、底辺にいつもUFOや異星人の影を背負っているスピルバーグも、僕と同じ年の生まれである。
 インプラントとまではいかないにしても、UFOからなんらかの電波が地上に照射された可能性はないだろうか。理論的に考えると、それ以前に生まれていたすべての人間にも電波が照射されているわけだから、こじつけにしかならないが、スピルバーグのUFOへのこだわりも僕同様、尋常ではないような気がしてしかたがないのである。

 かつて地球上にも異星人がいた!?

 ただ、霊や不思議な現象にはたくさん縁があるのに、興味を持って調べはじめてからというもの、異星人に出会った経験が一度もない。
「高橋さん、それはわざと仝つてくれないんですよ」
 そんなことを、ある霊能者にいわれたことがある。確かにそうかもしれない。
 僕の性格というのはひねくれていて、興味や関心が持続する条件というのが確信を九九パーセント持ちながらも、残りの一パーセントが未知であるときに隕られる。
 そういう状態ならば、常に関心が向く。
 しかし百パーセント確信を持ったりすると、とたんに興味を失ってしまう。女の子に熱くなってラブレターを何十通も書いた人間が、結婚したら急に気持ちが萎えてしまうことに似ている。
 UFOや異星人のことをずっと同じ気持ちで書くためには、実際には会わないほうがいいのだろう。異星人に会ったりUFOが目の前に現れて乗せてくれたりしたら、もう小説は書かなくなるにちがいない。
 僕にとって小説を書くという作業は、読者に思いを伝える楽しさもさることながら、自分自身の興味や関心を満足させるためということがかなり大きい。
 異星人への関心がさらに大きく膨らみはじめたのは、神話や古代文明について調べはじめたときだった。
 神話や古代文明の成立について調べているうちに、不思議なことに気づいた。全世界に共通する神のイメージの驚くべき類似である。
 たとえば古代における神はしばしば生け贄を要求する。奇妙なことである。いかに文明の低い時代であったとしても、人間の心にそれほど差があるはずはない。娘や兄弟を生け贄にされたら身内はどう思うだろうか。もし現代の新興宗教が生け贄を要求したら、即座に解体を余儀なくされるだろう。
 そういう要求をしても、人間の反抗を何百年間も抑えつけることができたのはなぜか?
 神はけっして精神的な存在ではなくて、巨大な力を持つ現実的な独裁者だったのではないだろうか?
 それはどの力の正体とはなんだろう?
 それだけではない。さらに文献や神話、伝説を当たってみると、もう一つ不思議な共通性に気がついた。光る物体の到来を伝える話か無数に見つかるのだ。それらはたいてい神と密接につながっているものとして描かれている。
 ここに至って僕は、神はUFOに乗った異星人だったのでは、という仮説を立てた。神話や古代文明をUFOと結びつけて考えるなんて「何をバカな」と思うことだろう。しかしUFOは存在するという前提をもとにあらためて神話や古代文明を読み解いてみると、他のどんな解説より遥かに真実性がある、そう僕は判断したのだ。
 ここで新たな疑問も浮かんできた。それは同時に、これをクリアできれば僕の仮説がますます真実味を帯びてくる、という疑問でもあった。
「なぜ彼らが今現在、人類の目の前にいないのか」ということだ。

 地上に姿を現さない理由

 かつて異星人が力で支配していた時代、彼らは堂々と自らの姿を人類にも見せていた。
そして人類を上手に指導していた。「宇宙」という概念のない当時の人類はその指導者たちを「神」と呼んだ。
 神は現代の多くの人がそう信じているように意識の中だけに存在したり、精神的な存在などではなく、きちんとした実体を持ったものだったのである。そのころの記憶、記録が神話となって受け継がれたのだろう。
 一部の頑迷な学者たちが、神話の世界はすべて想像の賜といったり、神が空を飛んだり起こした奇跡は、支配者たちが偉大だということを示すために後世の人間が捏造したものだと切り捨ててしまうことが真実を見えにくくしているのだと僕は思う。
「神話に出てくるのは自分たちである」
「古代文明を築いたのは我々だ」
 彼らがUFOに乗ってきて、人類の前でこう宣言したとしよう。そのとき、あなたならどういう反応をするだろうか。
 人類は他の種族などに支配されたくないという本能がある。我々は異星人の手によって発展してきたなどといわれると、当然強い反発心が生じるだろう。
 僕だって動物のような姿をした異星大が出てきて「私たちが支配者だ」といったら、彼らにどんなパワーがあってもそうとう抵抗する。僕だけじゃなく、人類はそのとき、一致団結し手を携えて抵抗組織を作っていくと思う。
 そういう抵抗は彼らの本意ではない。
 人類そのものが知恵を持ち、武器まで作りはじめ、ある程度の科学技術で異星大に抵抗できる状態になった今、彼らは人類にとって精神的な支柱になるほうが正しい道だと判断して姿を消しだのではないか。
 彼らが「なぜ姿を見せないのか」という疑問に対する解答はこれではないだろうか。
 人類との共存まで考えているかどうかはわからないが、異星人が牧場主だとすれば、放牧している羊たちが逃げたり、喧嘩したり、血で血を洗って牧場に羊がI匹もいなくなったら何の意味もないと考えるだろう。同じ宇宙の中の惑星として、できる限り豊かに成熟してもらいたいと考えるほうが自然である。

 宇宙の調和を考える異星人

 人類にとって、まったく別の星から来た生物が支配者であることを認知するのは辛いことだ。
 しかし、僕らが別の星に行ったときに同じことをしないとは隕らない。その星の生物が未熟だったら、「ちゃんと暮らしていくためにはこういう方法がある」「あそこを耕すともっといいものができるぞ」と懇切丁寧に教えるだろう。
 それは支配する論理ではない。
 そもそも神には支配している気持ちもないのではないか。神を僕らの論理でとらえることはできないのである。
 神は異星人であるというと、まるで神を冒涜しているように思う人がいるかもしれないが、そうではない。
 異星人という価値観の違う存在だからこそ、比喩として神と表現するしかないのだ。キリストの時代には宇宙や異星人という概念がなかった。だから神という言葉にしていたのにすぎない。現代は宇宙という概念ができたし、異星人という概念があるから、僕は神を異星人と表現している。
 異星人と人類との間には、科学的にも精神的にも比較にならないほど大きなギャップがあると思われる。もちろん人類のほうが低レベルであろう。人類が晴れて異星人たちの仲間になるには、宇宙の仕組みと調和に対して果たすべき役割をしっかりと自覚したときに実現するのではないかと僕は考えている。
 一人のヒトラーが世界を変えたように、異星人は人類の歴史を根底から覆すかもしれない。
 もっと真剣に考えていかないと取り返しのつかないことになる。ある、ないの問題ではない。あると仮定して、それなりの準備をすべきではないか。
 異星人に敵意があればとっくの昔に介入しているだろうが、彼らは何もしない。
 彼らは人類が成長するのを見守っていると思えてならない。しかし今のままの人類ならば別の星に行っても、地球に対して行っている愚行をまた繰り返す。だから人類が宇宙全体の調和を考えることができるようになるまで、異星人たちはじっと待っている。
 宗教家たちは神に祈れという。しかし祈るということは、現実に神が間近にいない現代では意味がない。
 聖書の時代は間近にいた。だからトラブルが起こると、神は直接カバーしてくれた。モーゼがエジプトを脱出するときには神がずっと守っていてくれたから、すがることもできた。
 しかし現代は、神が遠巻きにしている時代である。なんらかの形で必ずいつかは姿を見せるのだろうが、現時点では、僕らが一人一人の幸せを願っても、直接は叶えてはくれない。それは一人一人が可愛くないということではない。放牧している羊の一匹一匹は確かにかけがえのない存在なのだ。
 人類が宇宙の仲間になれる日まで、神の光は常に誰にでも注がれているのは確かである。
 
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