エドガー・ケイシーの
人生を変える健康法
福田高規・著 たま出版 1993年刊
★なわ・ふみひとの推薦文★
 昨日と同じ本から別の項目を拾いました。ここに出てくる「リーディング」とは、エドガー・ケイシーが催眠中に語った内容のことです。その内容が、相談者の病気の治療法であったり、人生の生き方であったりしたわけです。本日の内容はずばり、人生の目的ということです。

第5章 どう生きていけばいいんだろう

 ほんものは内にある

 この世の中でほんものに出会うことはなかなかむつかしい。大多数の人たちはほんものなんか探そうともしないで一生を終えてしまう。またある人たちは、ほんものに近いものにとびついて満足してしまう。ほんものは必ずあるが、自分がほんものでないと、ほんものが目の前にあっても気がつかないで見過してしまう。類は友を呼ぶという法則はここにも活躍している。
 ほんとうのほんものは、実は私たち一人一人の内部にあるのだ。外部にあるのは、ほんとうのほんものの影といってもいいほんものである。経典も聖書も貴重な書物も、ほんとうのほんものを教えてくれるガイドブックであって、それはそれですばらしいが、読むだけではほんものを知っただけである。私たちはそこから出発することになる。
 そして結局のところ、ほんものに出会いたければ、まず自分の心をたがやし、肥料をくれて、良い種をまき、それを育ててみなくてはならない。心をたがやすのは意志であり、肥料はこの世のできごと、そして良い種が理想である。自分の行ないで忍耐をもってそれを育てて、その結果は、すべて良いものを育ててくれる生命エネルギーにまかせて待つことだ。こうして自分がほんものになったとき、外部にあるほんものがはじめてみえてくる。するとほんものを行動している人に会える。ほんものを記した書物とも出会う。身体も植物も動物も、そして意識までがほんものを教えてくれるのだ。

 さて、その良い種である理想について、リーディングの実際的な見解を次の項で述べよう。これは私たちが今すぐ決心して実行するべき問題である。明日では遅すぎるのである。

 理想をはっきりさせる

 さてリーディングは、私たちが意志を使って決心をするとき、またこれからどうしたらよいかわからなくなったときは、まず自分の理想をはっきりさせなさいと、次のような助言をしてくれている。

「はじめに目的を持ちなさい。今、自分がどこにいるのかを調べて、確認した上で、その場所から行動し始めなさい。そしてその結果は、全ての良き完全なものを与えてくださる全一なる生命エネルギーにまかせなさい」

「自分の理想は何であるかを知りなさい。そしてそれを実行しなさい。何もしないよりは悪いことでもした方がましである」

「まっ先に考えねばならないことは自分のことである。理想をかかげ、理想のために喜んで行動しなさい。耐えなさい。今自分が立っている場所からはじめなさい。頭で考えるばかりではいけない。まず勇気がいるような理想を持つことによって、その理想のためならば不可能と思われることにも立ち向かう大胆さで行動しなさい」

 この世は変化する。どんどん過ぎ去っていってしまうのだ。理想や目的をもっていなければ、どこへ流されていくかわかったものではない。そこでいつでも、自分自身の理想と目的をはっきりさせてから考え、行動する必要がある。
 リーディングは理想をはっきりさせるために、頭の中だけで考えないで、紙に書いてみなさいといっている。このとき、変化しているこの世のことはあとまわしにして、まず最初に人生のよりどころ、原点をはっきりさせよという。
 第一に、私たちの主である生命エネルギーを最高の理想とする。このように物理的な名称に親しみが持てない人は、神、キリスト、お釈迦様、観音様などの御名を、自分の全身全霊をあげて愛する対象と決める。どれでも自分に一番ぴったりする御名を選んだら、毎朝、この自分のまことの主を確認することから一日をはじめる。そしてはじめのうちは口ぐせのようにしてこの理想と一つであることを自分にいい聞かせ、それを感じるようにする。やってみるとわかるが、人生が変わるのである。もはや孤独ではなくなるのだ。
 第二に、他人への奉仕を選択の基準にして、この人生の道をどう歩むか、日々をどう過ごすか、他の人たちとどうかかわり合っていくのか、どういう趣味や勉強をするのかなど、精神的な態度、目的をはっきりさせる。
 最後に、現実の生活に適応する理想の家、財産、道具、健康法、運動法、食事法、一日の時間の割りふりなどを決める。

 この世では、心は誕生以来覚えたことばに頼ってイメージしているから、ことばがなければ思考はすこぶる貧弱なものになってしまう。そして全てのレベルの心(活動する力)において、その創造の働きは「ことばが最初」なのである。だからこの世で心の力を効果的に安全に発揮させるには、この変化する現実を自分の都合で変えようとするのではなく、いつでも変化しないものさしになる理想に心の照準を合わせて思考し、そしてその理想の確認も、はっきりと実感できるほどにかんたんなことば、肯定のことば、リズミカルにくり返すことのできることばによってやる必要がある。
 たとえばこんなことばである。「成った、成った、一つに成った。理想と一つになった。理想とまったく一つになった。ああ何とすばらしい!」。最高の理想を確認するたびにこう言明し、こう感じ、こう感謝する。そしてその結果は全一なる生命エネルギーの働きにすっかりまかせ、現われてきた現象にとらわれず、終始一貫、信仰を貫ぬく。
 このようにして理想をはっきりさせることによって、私たちの意志と心はより効果的に働くようになり、いつか私たちをグイグイ押し上げてくれる力となる。そして目標がはっきりしたとき、人生の短いのには誰もが驚かされてしまう。
 その理想の達成に努力するとき、運命の流れは大きく転換し、周囲の人々やありさまを変えて動き出す。やがて、その流れとリズムに気張らずあせらず、ゆうゆうと乗っかって行けばよいこともわかってくる。

 再生

 ここで再生(輪廻、転生)という大問題についてもサラリとふれておこう。
 エドガー・ケイシーは再生をまったく信じることのできないキリスト教国の人々に再生を事実としてつきつけて、さまざまな問題を提起した人である。リーデ″ングの中には再生が当然の顔をしてたびたび現われてきているから、私たちもこの問題を無視するわけにはいかないのである。
 再生については仏教国の日本人の感覚でも、とり壊そうとしている古い蔵の奥からでてきたぼろぼろの行李ぐらいの関心さえもないだろう。そしてそのふたを開けてみても、多くの人々にはほこりか玉手箱の煙のようなものしか見えないだろうが、私が観る限りでは、キラキラした宝石がぎっしりつまっているようにみえている。
 ただ、この輝いている宝は確かに私たちのものではあるが、この世ではそう追求する必要のないもののように思う。
 なぜかというと、私たちは生まれたときから地球という学校で勉強するために寄宿舎生活をしていると考えてみればよい。昔、魂体であったときの故郷を恋しがっていては、今こそ学ばなければならない勉強も手につかなくなるからである。とはいってもまったく無視していては勉強の方向をあやまってしまう。しかし私自身は故郷を恋しがる生徒たちよりも、この地球学校で夢中になって遊び、勉強している生徒の方が好きである。
 さて、その故郷にあって時間や空間の束ばくもなく気ままにやっていた実体が、ふと、これは栄えある実体として良い生活とはいえない。何とかしなければと考えたとき、慈しみ深い父の許しによって、自分を向上させるにふさわしい環境と両親を選んで、そこの赤ちゃんになって地球に出現するのである。
 そこで世のお母さん方は、早ければ結婚する前から、遅くても妊娠したときから、自分の子供として生まれてくる人間の理想を想い、語ってもらえば、そのような理想を抱く実体がひきつけられてきてそこの赤ちゃんになる。また生まれてからも、お母さんは継続してその理想のことばをはっきりと子供に示すとよい。

 さて実体が赤ちゃんの身体に入ってみると、その魂体はいちじるしい制限を受ける。たとえば、見たいものは何でも見えていたのに、いまや身体の眼を使ってしか見えなくなる。他の人たちの心がそのままわかったのに、いまや他の人たちの思いがまったく伝わってこない。どこへでも行きたいところへ移動できたのに、いまや歩くこともできない――などなどである。
 こうして霊体の心は奥深く鎮んでいき、魂体の心は潜在意識(無意識)となり、メンタル体の心は肉体の五官をよりどころにして一からはじめるわけである。そして身体にもだんだんとなれてきて、やがてことばを覚えると、メンタル体は魂体の心を押しのけて主役の座につく。しかし肉体が眠ってしまうとメンタル体の心はわずかに聴覚を残して他は活動しなくなるから、このときばかりは魂体の心である潜在意識のイメージ、つまり夢の世界がやってくる。このようにして私たちの心は五官に頼って活動し、だんだんと覚えたことばで考え、地上の知識や、両親や兄弟をはじめ多くの人たちとのつき合い方を学んでいく。

 さてこうした再生を考えに入れてみると、この世で私たちと深くかかわっている人たちは皆、地球小屋という劇場で芝居を演じている一座の仲間ということになる。たとえばある幕で、お互いにうらみあう仇同士を演じている二人は、肉体の五官で接する世界がすべてと思っているメンタル体のレベルでは仇と考えているが、幕がおりてみたら、一杯のラーメンをすすり合うような気心の知れた魂体の友に過ぎない。
 私たちの一生はまさにドラマであり、さまざまな展開をみせていく。その間私たちの心は日々刻々と未来を創り、配列し、ドラマを組み立てている。
 その心は身体のレベルでは感覚をよりどころにしてさまざまなものを獲得するが、それは身体がある間の借りものに過ぎない。いつの日かあのふるさとへ帰っていくときは、財産などの地上の宝はもちろんのこと、肉体に属しているメンタル体が獲得した知識なども地上に置いていかねぱならない。そして一生の記録をアカシックレコードに残し、実体の無意識にはいつか再び自分に返ってくる「他人との関係で何をしたか」というカルマと、強い意志の方向性を宿して、私たちが身体を持っている間に利用したエネルギーはこの世を統べている生命エネルギーの中に溶けて消えてしまう。
 またこの世界で学習された運動、職業、芸術などの技術や能力や反応などは無意識の中に貯えられていて、次に再生したときの条件が整えられれば、身体や環境の中にその姿を現わす。一方、私たちの日頃の感動や感情が根ざしている、たとえぼあざけり、うらみ、恐怖、怠慢というような生命エネルギーの営みに反する心の態度もまた。実体の無意識の中に貯えられていて、後の再生時に同じ感動や感情の嵐にまきこまれたとき、春の芽吹きのように目を覚まして、身体や環境の中で病気や悲劇となって荒れ狂う。
 このように実体の無意識の中にある、自分の行なった間違った意志決定の結果や感情のくせという錆に気づき、それらに砥石をかけて磨き出すためにこの世に来て苦労しているのが私たちなのであろう。そのあたりの石ころを磨いても光らないが、私たち人間という原石はもともと宝石であり、その中には光輝があるのだから。
 しかし、地球学校での実体がほんとうの目的や理想を見失ってしまうと、さらによけいな錆までつけて帰ってしまいかねない。この方が多いのが現実のようにも見える。

 人生の目的

 ではリーディングは、私たちにどういう人生を求めているのか。このあたりのことは当時二〇才であった女性に与えられたリーディングが簡潔に語っているので、それにそって話をすすめていきたい。

 地上にやってきていろいろな経験をしているそれぞれの魂は、根源的生命そのものである父の恵みと慈愛によって地上にやってくることができた。そして創造する力でもある父と協力し、共に働く力となる。それは父の御意志であり、初めから意識の中にあって、今もある。(人間は初めから人間であり、父の一部としての子供であって、同じ働きをする協力者であるという意味)。
 それぞれの魂はその経験の中に、地上にやって来る時期とそうではない時期があって、他の人たちとの関係もそのような影響を受けている。(魂は同一のグループが時期を同じくして地上の経験をするという意味)。
 では魂が地上ににやって来る目的は何であろうか。それはイエス・キリストに表現されているように、一人一人の実体の目的や意図を通して地上で活動することによって、父の栄光の輝かしいことを証明するものとなるためである。これは決して肉体やメンタル体の満足のためではないし、自分だけの道楽や名誉でもなく、地上の経験のときに心身を大いに活動させて、ほんとうの存在である霊の成果を実らすことである。
 このほんとうの存在としての実りを達成する地上の経験とは、ただただ、他の人だちとの関係においてあなたがどういう表現をしたかにかかっている。あなたのそばにいて助けが必要な人たちや、自分ではどうすることもできないでいる人たちにやってあげたことは、あなたの父に対してしたことであり。逆にその人たちにやってあげなかったことは、まさにあなたの父に対してしなかったことなのである。
 そして地上にあるとき、他人、親、子、兄弟、師、弟子、夫、妻、友人などとどんな関係が生じても、またどんな状況で他の人たちといっしょになったとしても、それは偶然にそうなったわけではない。それぞれにちゃんとした目的があってそうなったのである。
 そこで他の人たちとの交わり、つき合いを通して、父の愛を、父の真実を、父の力の現われを賛美することができるならば、その目的を達成しなくてはならない。どこであっても誰であっても、そのようにすることによって父の輝く栄光は、あなたの周囲の人たちとのおつき合いの中において表現されるだろう。
 それでは、自分自身の心の底をのぞいてごらんなさい。現実の自分の姿を真っ直ぐにみつめなさい。あなたは何をしたいのか、あなたは何を目的としているのか、あなたの理想は何であり、どこに向かうべきなのか、と。これら人生の根本にかかおる目的や理想は、自分で紙に書いてみることによってはっきりと調べられる。そして、このあなたの真実の姿とはっきりした理想や目的を、これからの人生のものさしとすることである。
 すべての人が守らなければならない法則とは何であろうか。それは、全てであり唯一の存在である父を、あなたの全身全霊、全目的をもって愛することである。そしてあなたの周りにいる人々を、自分のことのように愛することである。また行動するときは、すべての人が次のような気持で行動しなくてはならない。「あなたが他の人たちにやってもらいたいように、人々のために行ないなさい」
 これらは全世界、全レベルを統べている原理である。これらは喜び、平和、理解の根本真理である。そしてこのとおり生きるならば、あなたの生活や活動や他の人たちとのつき合いは、美しく平和で、調和のとれたものであろう。
 そしてこれを行なえば、日に日に父と共にあることの栄光をますます感じてくるであろう。これはあなたの喜びを妨げるものではない。かえって自分の喜びや生活を豊かにすることになるから、あなたの考えや目的や行動を束ばくし妨害すると考える必要はなく、またそんなことになるような方法でもない。

 泳ぎを覚える

 人生の理想と目的をはっきりさせ、それを日々ことばによって確認して自分の無意識に根を生やさせたら、あとは行動するしかない。
 私たちが泳ぎを覚えるのに、どうしたら泳げるかという天下の名著を読んで全部暗記したとしてもダメだ。水に飛び込んだら泳ぐどころかおぼれかねない。まず水の中に入ってみる、浮いてみる、という経験がどうしても必要である。

「法則の意味は行動してはじめて理解される。いつもいっているが、知ってなにもしないのは生命の法則に反することである。まず知ること、次に知ったことを行動に移すことが、理解することとなる」

「どんな魂も、偶然にこの世界にやってきたなんてことはない。以前に抱いた理想を達成したくて生まれてきているのだ。そして今でも、その理想の達成を求めつづけているというわけである」

「実体がこの世でやりとげることができるのは、自分と、自分がはっきりさせた理想だけによって決められてしまう。なぜか? あなたは、あなたが人にもたらしたことだけを自分のものにすることになる。あなたが自分自身いきいきしていたければ、そのいきいきを他の人のために使って行動しなくてはならない。真、善、美について理解するには、それを実際に生活の中に生かしてみなければ自分のものにはならない。それがこの世の法則だからである」

「どの魂も偶然にこの世にきたのではない。ちゃんと計画に従ってやってきている。あなたは他の人に代ってもらうことのできない、あなただけしかうまくやっていけない部分を受け持っているのである。地上で成果を上げたとすれば、それは主の意識にもっとよく合わせられるようになろうとする実体によって達成されている。そしてその実体が他の人とどうつき合うかによって、父の栄光を輝かせられるのである」
 
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