フツーの人が書いた黙示録
肉食編 C

動物愛護の視点から見た問題点

 あなたはペットを殺して食べられますか?

 さて、食べられる側の動物の立場で肉料理と向かい合ってみると、どんな問題が感じられるでしょうか。中村三郎氏は「人間と同じ哺乳動物である牛や豚などを食するということは、カニバリズムに接近することであり、非常に危険な行為である」と述べています。
 これは健康上の理由からですが、私はこの健康上の理由とは別に、人間が哺乳動物を食べることの問題点は大きいと考えています。それは、哺乳動物は最も人間に近い息づかいをした生き物ということで、私たちの感情を移入しやすいからです。
 たとえば、あなたがペットとして犬を飼っていると考えてみてください。毎日、餌を与え、頭をなで、毛並みをそろえてやっている犬を、あなたは食べることができますか。食糧危機で、あなた自身が何も食べるものがなくなったとき、そのペットを殺して食べるでしょうか。ほとんどの人は食べないと思いますし、まして殺してまで食べるという人はいないでしょう。
 しかし、それが庭に植えてある野菜であれば、いくら手塩にかけて育てたものであっても、ためらうことなく口に運ぶのではないでしょうか。あるいは、池で飼っている鯉であれば、殺して食べるという人もいるでしょう。同じ生き物なのに、その違いはどこにあるのでしょうか。――それは「命」を感じる度合いの違いだと思うのです。

 
昔は家畜もペット同然の身近な存在だった

 昔は、農家で飼われている家畜は、家族同様の扱いを受けていました。何年もかかって育てた牛を競りに出す日は、飼い主はさすがに胸が熱くなるという話を聞いたことがあります。
 牛自身も人の言葉や雰囲気で別れを察知するらしく、その日は大変悲しい表情をしたそうです。それは、自分が殺されることを予感してというのでなく、お世話になった(いつも餌を与えてくれた)人間との別れを悲しんでいるのです。大事に育てれば、動物にも人間の気持ちが理解できるのです。その証拠に、実際に涙を流す牛がいると聞いたことがあります。
 牛などの動物を「畜生」と呼んで軽蔑する人もいますが、飼い主から見れば現在のペット以上に愛情を注いで育てた生き物なのです。そういう動物であれば、食べ物としていただいても、人の健康に害をするようなことはないかもしれません。
 しかし、現在の畜産業の中で、最初から食料として育てられている牛たちの置かれている状況は目も当てられないほど悲惨なものなのです。需要(食べる人)が多いので、大量生産しなければならず、またできるだけ飼育コストを切り下げ、利益を最大にすることが目的となっているからです。
 急速に育てるため、狭い畜舎にぎゅうぎゅう詰めにして運動はさせず、無理矢理食べさせます。しかも、本来なら牧場の草を食んで育つ牛に、餌として食べさせているのは「飼料」と呼ばれる穀物類なのです。その中に牛の骨や内臓を粉末にしたもの(肉こっぷん)までも混ぜていたのです。このことから「狂牛病(BSE)」問題が発生したのは、人間に動物虐待に対する反省を促す警鐘と見ることもできます。
 このように、牛が食べたいと思う物ではなく、牛を早く太らせるための食べ物を与えているのです。ここにも、生き物の命を無視した人間のエゴが見て取れます。肉を食べる消費者は、そんなことには全く無関心で、罪の意識もないままそのエゴに加担し、その見返りとして肉体の病気をもらっているのではないでしょうか。

 
子どものころに目撃した山羊の惨殺現場

 子どものころ、家の近くで山羊を殺している光景を目にしたことがあります。殺している人物は、昼間からお酒を飲んでふらふらしている男性でした。どこからか山羊を手に入れてきて、その山羊を木の幹に縛りつけ、斧(おの)の背の部分で殴っているのです。山羊は既に倒れていましたが、まだ息があるらしく、悲しそうな鳴き声を上げていました。
 通りがかった人たちは眉をひそめ、耳を押さえて、足早にその場を離れていきました。私もとても直視できず、すぐにその場を離れましたが、山羊の声はずっと追いかけてきました。
 たまたま屠殺現場を目撃しましたので、私は食卓に上がる動物の肉が、もとはそのような生き物であることを実感することができます。近代的な屠殺機械を使うにせよ、誰かがスイッチを押すなり、刃物を動かすなりして、食用動物の息の根を止めているのだと‥‥。
 しかし、今日ではそんな経験を持つ人はいないでしょうから、肉を見て生き物の命を思い起こす人は少ないのでないかと思います。
 スーパーなどで、カットされ、ミンチなどに加工され、パックされて売られているお肉に、生き物の息づかいを感じることはないでしょう。
 それでも「ちゃんと牛さんに感謝して食べるからいいんだ」と言えるでしょうか。
 自動販売機をイメージしてみてください。「お肉自動販売機」の商品メニュー欄に「牛ステーキ用」「すき焼き用」「しゃぶしゃぶ用」「カレー用」などと書かれていて、そこに所定の金額を投入して該当のボタンを押せば自動的に商品が出てくるという感じです。
 多くの人々が関心があるのは、肉のどの部分が美味しいか、どの部分は脂が少ないか、どこで育てられた牛が美味しいか、といったことです。
 お金を入れてから肉が出てくるまでのプロセスは、全くのブラックボックスとなっているからです。それでも、食べるときに「牛さんごめんなさい。美味しかったよ。感謝してるからね。ありがとう」と言えば「感謝をしたことになる」と思う人がいるなら、それはやはり普通の感覚とは言えないような気がします。いや、今普通の人がそのような感覚になってしまっていることが問題なのです。
 ブラックボックスの中で、牛や豚たちは大変悲惨な育てられ方をし、残虐な殺され方をして、近代的な処理工場の流れ作業の中でモノとして解体され、「商品」と「ゴミ」とに分けられて行っている実態を知ろうともしないからです。
 肉を常食としている人たちに、私が子どものころ目撃した「山羊の惨殺現場」をお見せしたい衝動にかられます。

 屠殺のビデオを見て肉が食べられなくなった‥‥

 今から10年以上も前のことになりますが、一人の女性から当サイト宛に1通のメールが届きました。大変謙虚なお便りの内容に、私は強く心を打たれたのです。肉を食べる人も食べない人も、ぜひこの手紙が伝えているメッセージを心で受け止めていただきたいと思います。 
     
 
 
読者からのおたより  

 私は日は浅いですが、今年の2月より、お肉は全く頂かなくなりました。
 それまでは、週に一回は焼肉やさんへ行っていたほど大好きでした。頂けなくなった理由はネットで屠殺のビデオを何種類も見たからです。動物たちの過酷な一生を知ろうともせず神様に感謝して頂くのだから良いだろうと思っていました。美味しく頂く事が成仏だと勝手に思っていました。お肉を食べている時は私自身大変幸福でしたから・・・。

 屠殺のビデオを見た時、想像をはるかに越える過酷な動物の短い一生に愕然としました。牛は生きたまま、逆さにされ喉を切られ、血を抜かれそれでも意識はあり、もがき苦しむのです。畜産動物に限らず、実験、毛皮、販売などにより動物たちを無益に殺している実情を多くの方に知って頂ければと願っています。
 だからといって私自身、運動するわけでもなしHPをたちあげるわけでもない、一番の卑怯者です。お気楽にも自分の都合の良い解釈をし何十年も現実を知ろうとしなかった愚かな自分を呪いました。全ての生き物を支配している人間に生まれた私に生きる目的を失いました。
 二ヶ月間は、毎夜泣いて過ごしました。 でもある日、不思議と安堵感がありました。自と他を分けていた壁がとれたのだと思います。動物達や他の犠牲の上で成り立っている私達人間生活に深い深い感謝の念が湧き上がりました。 現実をあるがままに受け入れる事。そして私はそれに良い悪いの判断を下すのはやめようと思ったのです。

 様々な観点(動物愛護、健康、波動など)から肉食を断つ方がおり、気付きの時期も人それぞれ違うのでしょうが、私の選択は自分の中で大変良かったと思います。なぜなら、小さな自己の幸福ばかりを追求していると全体の幸福を見失うからです。
 賛否両論はあるでしょうが、生きとし生けるものが仲良く共存できる地球になる事を願ってやみません。



 この方のように、牛がどのような殺され方をしているのかを知ることによって、意識に強烈なインパクトを与えられることがあるのです。多くの人は、まだそのような「事実」を知らないために、子どもたちにも「命」の大切さを教えることができないのではないでしょうか。そのことが、生き物の命を大切にしない今日の社会風潮を作りだしていると言えるかも知れません。
  『脱牛肉文明への挑戦』から、牛が殺され、解体されて、店に並べられるまでの状態を描写した内容をご紹介します。要するに、ブラックボックスになっている「お肉自動販売機」の中の状態です。「命」が機械的に処理されていくこの過程は、肉を食べる人も食べない人も、ぜひ知っておいていただきたいと思います。
 
『脱牛肉文明への挑戦』
ジェレミー・リフキン・著 ダイヤモンド社
 

 
現代の屠(ほう)りの儀式

 
ウシは一列縦隊で解体場に入っていく。入るそばから彼らは空気銃で撃たれる。膝を折って崩れ落ちると、作業員がすばやく後ろ足のひづめにチェーンを留め付ける。プラットホームから機械でウシの体が引き上げられ、逆さに吊るされる。作業員たちが長いナイフでウシの喉を裂き、1〜2秒間喉頭に深く刃を差し込み、それからすばやくナイフを引き抜く。この過程で頸静脈と頸動脈が切断される。
 血がどっと噴き出して床にあふれ、作業員と設備に血しぶきがかかる。あるジャーナリストはこの光景を次のように記している。

 食肉解体場の床は血の海だった。‥‥くるぶしまで浸かるこのプールで生温かい血が泡立ち、そして凝固していく。名状しがたい臭いで息が詰まる。男たちは全身血のりにまみれている。毎晩、このねばねばのおぞましい汚れがすっかり拭き取られる。

 死んだウシは解体ラインに運ばれる。最初の作業場で皮を剥がれる。腹部の中央が切り開かれ、皮剥ぎ機が全身の皮を一度にむき取る。頭部を切り落とされ、舌を切り取られ、そして内臓が取り出される。これが完了すると胴体(枝肉)が次の作業場に移され、電動のこぎりで背骨に沿って縦に真っ二つに切断され、尾が切り取られる。
 次の日、作業員は電動のこぎりで枝肉をステーキ用の各部位、チャック(肩)、リブ(背)、ブリケット(腹)などに切り分け、次々にコンベア・ベルトに投げ込む。各コンベア・ベルトにはそれぞれ30人〜40人の従業員が配置されており、彼らは肉をカットし、包装する。きれいに形を整えられ、真空パックされた牛肉の切り身が全国のスーパーマーケットに搬送され、明るい証明に照らされた食肉売り場に陳列される。

 感情なき解体作業

 
解体工程において人間が機械に部分的に置き換えられたことは、生身の人間に新たな現実認識をもたらした。それは、「殺す」という行為に感情がともなわなくなり、無関心になるという変化である。人間は、ベルト・コンベアそのものによって設定されるペースと要求に従うことを強いられる単なる共犯者となった。
 ベルト・コンベア式解体工程は、近代産業生産の基本的コンセプト――分業、24時間生産体制、大量生産、そして何よりも効率――を取り入れた。
 ウシは被造物の大いなる階梯から一段格下げされた。有史以来数千年にわたり西洋文化において崇拝されていたこの高貴な被造物は、チェーンで吊り上げられてレールに留め付けられ、作業場をせわしく移動しながら、切り裂かれ、切り刻まれ、分類され、形を整えられ、そして流れ作業の末端にたどり着いたときには生命の痕跡を残さない肉塊になっているのである。
 

 カルマがすごいスピードで表面化しつつある

  中国の人は犬や猫はもちろん、蛇でも食べると言われています。日本でも、戦時中はそういう生き物を食べた人がいたことでしょう。ふだんは「ペットは食べられない」と言っている人も、いざとなったらどうなるかわかりません。それは、極限的状況でしか表面化しない「本性」つまり潜在意識の中に蓄積された波動の傾向が表面に現れるからです。
 終末には私たちの潜在意識に畳み込まれているカルマがすべて表面化するのです。すでに、異次元との壁が薄くなっている関係で、そのカルマがどんどん表面化しつつあるのを感じます。それは、人それぞれのカルマもあれば、日本という国のカルマ、あるいは人類全体で作っているカルマもあります。さしずめ頻発する地震や洪水などの天変地異は、人類のカルマが形をとっている姿ということがいえるでしょう。
 そのように、人類や民族、国家単位で表れてくるカルマとは別に、一人ひとりが持つカルマもすごいスピードで表面化しつつあります。それは、今日では新聞やテレビで報道されない日がないほど頻繁に発生している異常な犯罪の数々を見ればわかります。動機がはっきりしない凶悪な殺人事件、簡単な理由で親を殺したり、子を殺したり、あるいは経済的な行きづまりを苦にしての自殺の増加といった形で、大きな社会問題となっています。
 肉食のもつ粗い波動の影響で、人はますますイライラを募らせ、攻撃的になり、それが犯罪に結びついているのは間違いないと思っています。

 
肉食を続けると低級霊の干渉を受けやすくなる

 いくら食糧危機になって、何も食べるものがなくなっても、まさか自分の子どもや配偶者を殺して食べる人はいないはずです。たとえ既に亡くなっていても、家族の死骸を焼いたりして食べるでしょうか。実は、日月神示には次のような記述があるのです。

 日本には、五穀、海のもの、野のもの、山のもの、みな人民の食いて生くべき物、作らしてあるのぢゃぞ。日本人には肉類禁物ぢゃぞ。今に食い物の騒動激しくなると申してあること忘れるなよ。今度は共食いとなるから、共食いならんから、今から心鍛えて食い物大切にせよ。
(日月神示『梅の巻』第十四帖)

 この神示を素直に読めば、多分こういうことだろうと思います。

 
今に(終末の)食糧危機が訪れると、今度は人が人を食べる(共食いする)ようになるぞ。しかし、共食いしてはならんから、今からそういう食べ物(人肉)の誘惑に負けないように心を整えて、ふだんの食べ物を大切にする癖をつけておけ。

 肉の持つ粗い波動に慣らされた胃袋は、食糧危機の中では真っ先に「肉を食べたい衝動」に駆られるのです。旧約聖書の中にも、モーセに率いられた民が、来る日も来る日も空から降ってくるマナ以外のものを食べることを禁じられて、「ああ、肉が食べたい」と叫んだという記述があります。
 その掟を破った者は、多分宇宙人と思われるゴッド(GOD)の手で即座に殺されています。
 では、GODはなぜ肉を食べた人間を殺したのでしょうか。それは肉を食べると波動が粗くなり、異次元の低級霊の干渉を受けやすくなるからだと思います。この話はのちほどまた当サイトで採り上げてみたいと思います

 
いくら空腹でも共食いをしてはならないから

 ここで言いたいのは、いざ食べ物がなくなったとき、自分が飼っている(育てている)生き物のなかで「一番食べ物にしたくないもの」が、すなわち「食べてはいけないもの」だ、ということです。なぜ食べ物にできないかと言いますと、それは動物が私たち人間とよく似た反応をする生き物だからです。
 つまり、怖がったり、悲しい声を上げたり、噛みついたりといった、自分の命を守るための抵抗をする動物の中に、私たちは自分と同じ「命」を見てしまうのです。神様が与えて下さった同じ「命」を意識して、自分がいくら空腹であってもその生き物を殺して食べたりできないのです。そういう形で、私たちの魂が「他者への愛情を深める」という意味で進化を果たすように仕組まれているのだと思います。
 終末の次元上昇は肉体の波動の上昇と考えている人がいるかも知れませんが、各神示には「身魂」すなわち「肉体」と「魂(精神的なもの)」とハッキリ述べられています。ですから、単に肉を食べなければ波動が乱れないということではなく、いくら空腹でも共食いをしてはならないという心の状態を作れるかどうかという点で試されるのだと思います。
 「いざとなれば人間の死体でも食べる」というような獣的心情になる人間には、高級神霊は憑かることはできないため、終末には低級霊やサタンの手先の餌食となる恐れがあるということです。肉食を続けていると、その共食いの誘惑に負けやすくなり、同時に高級神霊の手助けができない波動になってしまうという点が問題なのです。


 最後に、人間のエサ≠ニして育てられ、機械的に殺処分されていく動物たちの運命について述べられた文章にお目通しください。以下は肉食が地球を滅ぼす』(中村三郎・著/ふたばらいふ新書)の抜粋です。

『肉食が地球を滅ぼす』
中村三郎・著 ふたばらいふ新書
  

 経済動物たちの悲しき運命

 今日の日本でも、肉牛生産はアメリカのフィードロット方式を取り入れ、アメリカほど大がかりでないにしろ濃厚飼料と薬剤で育てる飼い方が一般的である。牛は、もはや人間と共生する「家畜」ではなく、商業資本のもとで工場生産される「経済動物」なのだ。
  では、鶏や豚はどうなのか。彼らとて牛と同じである。機械化された工場に閉じこめられ、経済動物として大量生産されている。

 
ニワトリの体は2年でボロボロに

 まずブロイラーである。
 ブロイラーは卵からヒナにかえると、すぐに飼育用鶏舎に入れられる。狭いスペースに大量に詰め込まれ、1坪(畳2枚分)あたり100羽以上にもなる。そのとき、つつき合ったり、エサを散らさないようにくちばしを短く切り落とされる。
 鶏舎は日光の射す窓がなく、つねに薄暗くしてある。鶏は「コケコッコー」と鳴いて夜明けを告げる習性を持つ。これを大勢でいっせいにやられては、うるさくてかなわないというわけだ。エサは当然、高カロリー、高タンパクの濃厚飼料である。それに栄養剤、消化剤、抗菌剤などが添加され、自動的に給餌されるようになっている。
 こうして、鶏舎の中で押し合いへし合いして育っていく。8週間前後で、食肉に最適な体重1.5キロほどの若鶏に成長する。そのころには鶏舎は、体が大きくなった鶏たちで満杯の状態になる。あとは食肉処理場のトラックに積み込まれるのを待つだけである。

 卵を産む「採卵鶏」も似たようなものだ。狭いケージの中に立ちっぱなしで、薬剤入りの飼料をたっぷりと与えられ、卵を産み続けさせられる。鶏舎はブロイラー用とは逆に、夜でも照明が当てられ明るい。人工的に昼の時間を長くすることで季節感を鈍らせ、羽の生え代わりを抑える。すると体力の消耗が少なくてすみ、栄養価の高い卵ができるのだという。
 鶏たちは、1日に1、2個の卵を量産する。そして、1年半から2年で、その役目は終わる。毎日の過酷な“労働”で体がボロボロになっていき、2年もたつと卵を産めなくなってしまうからだ。
 用済みになった鶏たちは食肉加工場へ送られ、ソーセージやスープの材料にされる。鶏の寿命はだいたい15年から20年だが、経済動物の宿命とはいえ、その10分の1も生きられない苛酷で哀れな一生なのである。

 
豚はデリケートなのでノイローゼになる

 豚の場合は、フィードロットの牛と飼われ方はほとんど同じだ。土のないコンクリート床の囲いの中に押し込められ、やはり濃厚飼料と薬漬けでいやおうなしに太らされる。
 豚は見かけによらずデリケートな動物である。それだけ人間に近いというわけだが、だからストレスがたまりやすく、ノイローゼになることが多い。ストレスが高じれば、当然の帰結で病気にかかりやすくなる。しかし、生産者は環境の改善などまったく考えない。大量の薬品投与でしのごうとする。
 豚に対する薬品の使用量の多さは牛や鶏に比べて群を抜いている。薬を使えば使うほど豚の抵抗力が弱くなって、病気にかかる率が高くなる。にもかかわらず薬の投与を繰り返す。そこには食品業界と薬品業界の持ちつ持たれつという“腐れ縁”がからんでいる。そのため、養豚場では、病気は絶えることがない。
 豚たちは、体重が100キロ前後に達する6カ月を過ぎると監禁生活から解放される。だが、そのときは肉体的にも精神的にももうズタズタになっているのだ。その後の行く末は言うまでもない。

 
かつてはのびのびと育てられていた家畜たち

 かつて農家や農場で育てられていた家畜は、繁殖も成長も自然のありように任せられていた。彼らの健康と命は、太陽の光と自由な活動によって得られたのであって、人工飼料や薬剤で保たれるのではなかった。
 牛は広い野原に放たれて草をはみ、豚はキッチンから出る余り物を食べたり、土を掘り返して食べ物をあさった。また、鶏は庭先を歩き回って草の芽や虫をついばんだ。彼らは本能のまま自由に行動することが許されていた。そして、その代わりに食肉となり、卵を産んで人間に生活の糧として提供した。
 家畜は、農家にとって確かに金銭をもたらしてくれる価値ある存在だったが、だからといって、現金を生む動物としてしか扱われなかったわけではない。彼らは自然がさずけてくれた恵みであり、その一頭、一羽に対して畏敬の念をもって接すべきだという自然観があり、単に利潤を生む対象ではなかったからだ。その意味でまさに「家畜」だったのであり、農家の家族の一員だったのである。

 動物たちが自然環境の中で自由に暮らしていられるということは、人間にとっても幸せだった。彼らは野原をあちこち歩き回ることによって、土の中のさまざまな細菌にふれる。そうした中でおのずと病原菌に対する免疫体質ができあがる。そのため病気らしい病気もせず、健康で丈夫だったからだ。
 また動物たちは動き回りながら、食欲のそそられるままに、自然が作りあげているいろいろなものを食べた。この運動と多様な栄養素のおかげで、今日の大量生産物とは中身のまったく違う、健全で上質な食べ物を生み出してくれていたのである。それはたとえば、放し飼いの鶏の肉と、養鶏場で育つブロイラーの肉を食べ比べてみればいい。放し飼いの鶏の方が、風味も栄養価もはるかに優れていることがわかるだろう。

 ところが今日では、動物たちを田園から切り離し、工場に閉じ込めて大量生産する。太陽の当たらない、ほこりっぽい倉庫のような場所で、朝から晩まで薬漬けで食っちゃ寝の生活を押しつけられ、ぶくぶくに太らされて食肉工場送りにされるのだ。ただひとえに肉を生産する人工マシーンに改造されてしまった。
 生産者が目指しているのは、動物とともに生きる喜びではなく、要するに利益である。そのために、動物たちは効率よく金が儲かる存在でなければならないのである。

 
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