人生は霊的巡礼の旅
スピリチュアリズムの死生観
ほんとうの“自分”を求めて 

 長兄の死にまつわる不思議な現象

 私の両親は、当時日本の植民地だった台湾で結婚している。父は警察学校を卒業したばかりで、赴任先への汽車の旅が新婚旅行となった。母の父親がその学校の教官だった。そして仲人はその学校の校長・坂口主税氏で、終戦後まもなく衆議院議員を五年、さらに三十一年から熊本市長を二期つとめている。
 私は六人兄弟の三番目で、あと二人、妹と弟がいる。長男を除いて、残り五人は今も健在である。その長兄の死が、敗戦という日本国にとって未曽有の体験とともに、近藤家にとって大きな意味をもつことになる。
 当時、父は警官として、台北・台南・台中その他の各地を転任することが多かったらしい。辣腕だったので、大きな事件、難事件が発生すると、そこへ送られたらしい。それだけに出世もトントン拍子に進んで、敗戦で解体される時の地位は新竹州の軍警察の最高指揮官だった。
 さて、敗戦の年となる昭和二十年に入ってからは、外地の台湾でも米軍の空襲が日増しに激しくなり、われわれ家族は田舎へ疎開した。その疎開先で長兄の事故死という不幸が待っていた。中学三年生だった兄は、毎日弁当だけ持って、トーチカ(コンクリートの要塞)を構築する現場ヘトラックで運ばれていた。バスの停留所に生徒たちが集まっているところへ陸軍のトラックがやって来て、みんな大股で乗り込むのであるが、そうした光景が、あとで大きな意味をもつことになる。
 兄が事故死したのは終戦日の翌日、昭和二十年八月十六日である。が、その一週間ないし十日ほど前から、母の身辺や夢の中に不吉なことが連続して起きていた。母が私に語ってくれたことをいくつか紹介するが、何しろ遠い昔の話なので、細かい点までは正確でないかも知れないが、“事実”そのものには間違いはないと思う。
 その一つは、夢の中で母が丹精して育てたオクラが見事に実って、いよいよ明日は穫り入れておかずにしようと楽しみにしていた、その日の晩のうちに、誰かにきれいに盗まれてしまった。それを見た瞬間、母の胸に不吉な予感が走った――これからという大切なものを取られてしまうという予感である。目覚めてからもイヤでイヤで堪らなかったという。 大切なものといえば、どの子もみな大切である。が、いよいよこれからという頼もしいものといえば長兄であろう。空襲で死ぬのだろうか、それともいよいよ最前線へ送られて戦死するのだろうかと、あれこれと思いめぐらしているうちに、こんどは次のような不気味なことが起きた。
 その日、母はタライを外に持ち出して、しゃがみ込んで洗濯をしていた。そのすぐそばに大きな竜眼の木があった。ぶどうの大粒のものをもっと大きくしたくらいの果実をつけ、皮は固いが、それをむくと、歯ごたえのある果肉がたっぷりあって、日本の果物にはない、亜熱帯特有の甘い汁が口いっぱいに広がる。薬用にもなるという。そこにあったのはかなりの巨木で、直径二十センチほどもある太い枝が何本も出て、その先に竜眼がたわわに実
っている。
 そのうちの一本が、洗濯をしている母の真上で、風もないのに、いきなり“ミシーッ”という音を立てて折れ、すぐ頭の上まで垂れ下がったのである。枯れ枝ではない。太くて元気な枝である。折れたところがささくれだっていたことからも、生木であったことが分かる。それを見上げた瞬間、またもや母の胸に不吉な予感がよぎった。元気盛りの者が命をもぎ取られるという感じがしたという。
 そして、いよいよ事故死する前日の夕刻に注目すべき心霊現象が起きている。疎開先の家は山の中腹、だらだら坂を五分ばかり登ったところにあった。夕食を終え、母は食事の後片付けを女中に頼んで、明日の買い物に出かけた。真夏のことなので日の暮れるのが遅い。われわれ子供はまた遊びに出かけ、家にいたのは女中ひとりだった。その女中が母に語った話をまとめると――。
 みんなが出払ったあと、お膳のものを片付けて炊事場の流しの中に置いた。田舎の粗末な家で、炊事場は土間になっており、勝手口が玄関と共用になっている。女中はすぐには洗わないで、いったん座敷に上がって一息入れていると、その流しの方向から、ちゃわんを洗うような音がする。
「変だな。奥さん、もう帰られたのかしら……」
と思いながら炊事場をのぞいて見ると、頭から真っ白い布のようなものを被った人物が、その流しに向かって洗いものをしている。誰かしらと思っていると、やがてくるりと向きを変えて、布で顔を隠しながら女中の目の前を通って勝手口から出て行った。
 その姿が見えなくなってからようやく我に返った女中は、急に怖くなった。そこへ母が帰ってきた。女中は慌てて走り寄り
「奥さん、今お茶わんを洗われました?」
と尋ねた。
「まあ、どうしてあたしが? 今買い物から帰ってきたばかりじゃないの。ホラ!」
と言って、買い物かごを差し出して見せた。
「でも変なんですよ。今、真っ白い布を被った人がお茶わんを洗って出て行きましたよ」
 それを聞いてゾッとした母は、流しのところに駈け寄って見た。すると、なんと、長兄の茶わんと箸だけが、洗って水切りの中に置いてある。瞬間、またもや母の胸に不吉なものが走った。
「で、その人はどっちに行ったの?」
「裏山の方へ行きました」
 母は大急ぎで裏へまわって見回したが、人影はどこにも見当たらなかった。

 霊が物質化して出現する

 これは心霊学でいう物質化現象である。“白い布のようなもの”というのはエクトプラズムという特殊物質で、人体の神経細胞に含まれていて、それに霊界の化学物質を混ぜてこしらえるといわれる。フランスのノーベル賞生理学者シャルル・リシエ博士が、エクトス(抽出された)とプラズマ(原形質)とを合成して命名したものである。
 物理霊媒というのはこれを多量に所有し、しかもそれを出し入れできる体質の人で、女性に多いようである。神経細胞が主体なので、これが大量に取られると神経が鈍り、眠気を催すことがある。女中がその姿を見ている間は何の恐怖感も覚えなかったのはそのためで、姿が消え、エクトプラズムが体内に戻されると、急に怖くなったのである。

 近藤家で雇っていたその女中は台湾の高砂族の娘で、霊媒的体質をしていたのであろう。無学文盲だったが、こうした問題ではそのことがかえって信頼度を増すものである。母が見たというのであれば、疑ぐり深い人は気のせいではないかと思うであろうし、そう思われても致し方ない。証拠は何一つないのであるから……。
 が、女中は、さきほど述べた母の不吉な夢や予感のことは何も知らなかった。その時点では母はまだ誰にも話していない――母一人がその不吉なものを感じつづけていただけである。そんな時に女中が、一般常識からいって突拍子もないことを言うのであるから、それ自体は事実だったと受け止めてよいであろう。
 問題はその現象のメカニズムと意図である。メカニズムについては今説明した通りであるが、その意図は何かといえば、兄の背後霊の一人が母に死期がいよいよ近いことを知らせに出たと受け取るのが自然(心霊学的に)であろう。

 死期は決まっているのだろうか

 ここまで来れば、読者の中には、そうまでして死の予告をするくらいなら、なぜその死を避ける手段を講じてくれなかったのだろうかという疑問を抱かれた方が少なくないであろう。実は私も、母から初めてこの話を聞かされた時に真っ先にそう思った。が、現実に兄はその翌日、死ぬのである。しかもその最後の夜に。またしても母に。こんどは致命傷となる箇所まで教えているのである。
 真夜中のことである。母は左大腿部に氷を置かれているみたいな冷たさを感じて目を覚ました。真夏なのにどうしてここだけがこんなに冷たいのだろうと思いながら。そばにあったものを無造作にたぐり寄せて、その箇所に当てがった。薄明りの中で見ると、それは奇しくも兄の服だった。申し訳ないと思いながらも、眠くて仕方がないので、そのまま寝入ってしまった。翌朝、兄はその箇所に骨まで砕かれる重傷を負い、出血多量で死亡したのだった。
 こう見てくると、人間はいつ、どこで、どういう原因で死ぬということが、あらかじめ決まっているようにも思える。少なくとも兄の場合はそうだった。そうでない場合もあるのかも知れないが、予言が適中することが確かにあるという事実は、何もかも決まっている“宿命”というものがあることを物語っていると考えてよいのではなかろうか。

 別れの水盃

 さて、いよいよ当日、すなわち昭和二十年八月十六日である。前日の。玉音放送”はみんな何のことかよく理解できず、日本は敗けたと本気で思った人はいなかったようである。母の話によると、夕方帰宅した兄に次兄が「日本は敗けたらしいよ」と言った時は、「お前は人の言うことをすぐに信じる!」と言って、とても怒ったという。
 が、その朝の兄はいつになく元気がなく、起き上がっても布団の上でじっとしていたという。古神道では人間には精神をつかさどる“魂(こん)”と、肉体をつかさどる“魄(はく)”とがあるという。すでにその時、兄の身体から“魄”が脱け出ていたのであろうか。
「豪ちゃん、どこか具合でも悪いの?」
と、母が尋ねると
「いいや」
と、間のびのした言い方で答えながら、けだるそうに立ち上がったという。
 学生服に着替えた兄は、元気なく食事を終え、弁当だけを持って、元気のない声で「行ってきます」と言って出て行った。ところが十数メートルも行ったところで後戻りしてきて「水をちょうだい」と言って、炊事場へ行ってひしゃくで飲んだ。その様子を見た母の胸に、またしても不吉な予感がしたという。もしかしたら別れの水盃では……と。そして、事実、それが十数分後に現実となるのである。

 “弁当”のエピソード

 水を飲んだあと兄は、改めて「行ってきます」と言って出かけた。そして十数分後にトラック事故で死亡する三人のうちの一人となってしまうのであるが、その事故原因は日本の敗戦と妙なところでつながっていた。
 兵隊の間では、玉音放送が何のことか今一つはっきりしないながらも、どうやら敗けたらしいということで一致しはじめていた。そう言えば、それきり敵機が飛来しなくなった。が、一方では、もしかしたらこれは米国の謀略かも知れないから用心しようという警戒感も強かった。
 しかし、その夜、兵隊たちはヤケ酒を飲む者が多かった。兄たちが乗ったトラックの運転手もその一人だった。が、謀略である場合も考えて、その朝もいつもの通り学生をトーチカ工事へ運ぶことにした。こうして運命の歯車は悲劇へ向かって、刻々と回転していった。
 学生を満載したトラックは、酩酊運転で橋の欄干のいちばん手前の親柱に激突し、学生たちは炎天で干上がっていた河原へ放り出された。いちばん後ろにしゃがみ込んでいた兄はいちばん遠くへ飛ばされて岩にたたきつけられ、左脚の大腿部を砕かれて、出血多量で死んだのだった。死者わずか三人――その一人が兄だった。ほとんどが重軽傷を負ったが、橋のすぐそばの樹木の枝にひっかかって助かった者もいたという。
 実はその十数分前に、母と兄との間に、何でもなさそうで、あとで重大な意味をもつことになるエピソードがある
 母はいつものように弁当をちゃんと持たせたのに、何を勘違いしたのか、兄の姿が見えなくなってから、「しまった! 弁当を持たせるのを忘れた」と思って、慌てておにぎりをこしらえて、兄の後を追いかけた。山を下りきったところに停留所がある。そこへたどり着いた時は、もうすぐトラックが出発するところだった。母はいちばん後部に乗り込んだばかりの兄に
「豪(ひで)ちゃん、ホラ、弁当!」
と大声で言いながら駈け寄った。すると兄は
「あるよ、ホラ」
と言ってそれを見せた。そうだったのかと思ったが、食べ盛りの男の子なので
「これも持って行きなさいよ。二つくらい食べられるでしょ?」
と言った。が、まわりの友だちの手前、兄も体裁が悪かったのであろう。
「いいよ」と言う。母は
「まあ、せっかくだから持って行きなさいよ」と言う。
「いいって言ったら」
そう言い合っているうちにトラックは遠く離れていった。母は一人ぽつねんとして、弁当を両手で胸のあたりに持ったまま、兄の乗ったトラックを見送った――それが今生の見納めとなるとも知らずに。事故の知らせは母が家に帰ってきて間もなく届けられた。

 「純情あらしの花つぼみ」

 トラックが事故に遭ったとの知らせが届けられて、母は取るものも取りあえず家を飛び出していった。当時小学校五年生だった私も、わけも分からず、ただ母の血相を変えた姿に驚いて、その後を追って走った。が、現場に来てみると、重傷者はすでに軍の病院に運ばれているという。そこでまた、その病院まで走りに走った。
 病院に着いてみると、担架で運び込まれたままの格好で、何人もの学生が床に横たえられている。その周辺は詰めかけた家族や病院関係者でごったがえしていて、顔の確認ができない。見えるのは下半身だけである。その中でひときわ大きく長い脚をしていたのが兄だった。兄は同じ年齢の子に比べて身体も性格も二、三歳大きかったという。その上、顔が上品でハンサムだったので、すれ違う人が振り返ることが多かったという。
 その兄が、今や、左脚がやっと皮一枚でつながっているという無惨な姿で目の前にいる。左あごにも、まるでカミソリで切ったような深い傷があり、左側の歯が全部なくなっていたという。われわれが到着した時はまだ脈拍はあったらしい。輸血をするとその脈が一段と強くなり、聴診器を胸に当てていた医者が「有望!」と叫んだ。が、それは事切れる前の断末魔の反応にすぎなかった。兄は間もなく息を引き取った。
 母はその後何度か「わが子褒めるは七バカ半、と昔から言うけど、あの子は掛け値なしに、すべての点でよくできた子だった」と語った。顔や身体が整っていたばかりでなく、性格的にも大らかで、学業もよく、スポーツも万能だったという。その兄の死を悼んで担任の岩松英親先生が次のような歌を霊前に捧げてくださった。
 直(ひた)燃ゆる
  純情あらしの花つぼみ
 悲運の中に
  散りし君かも

 自分が求めていたのはこの人

 敗戦は日本国民のすべてにとって過酷だったが、母にとっては長兄の死と重なって、たとえようもない悲哀をもたらした。その上、本土への引き揚げも急がねばならない。父が要職にあったために、手入れがあることは間違いない。兄の葬儀を済ませ、敗戦の残務整理を終えると、両親は徹夜で荷物をまとめ、家族をつれて夜中に二手に分かれて港へと向かった。
 私は当時十歳で、兄の死も、敗戦も、引き揚げも、その本当の意味は分からないまま、ただ親に言いつけられる通りにしていただけで、本当の悲しみも、苦しみも、大変さも分かってはいなかった。夜陰に乗じて家を出て、身を隠すようにして港へ向かう途中、暗い線路のまくら木の上を、乳飲み子の末っ子を背負い、片手で三つになったばかりの妹の手を取り、もう一方の手に荷物を持った母の後ろ姿を見ながら、弟といっしょに、両手に荷物を持って、テクテクと歩いた時の様子だけが、妙に目に焼きついている。
 父と次兄は万一を考えて、別行動を取った。父の話によると、われわれが家を出払ったその翌日、中国軍が官舎に踏み込んだという。もう一日おくれていたら、父は戦犯として抑留されたに相違なく、われわれ家族の運命もどうなっていたか分からない。
 本土に引き揚げてからの悲惨な生活は日本人の大半が味わったことであるから、ここでは語らないことにする。熊本の田舎の母方の遠い親戚の家に一年間身を寄せたあと、現在の福山市の、できたばかりの引揚者住宅に移り住むことになった。父は名誉ある地位から一朝にして無冠の身となり、行商をしながら糊口をしのぐ毎日で、さぞかし辛く、苦しく、無念の思いをしたことであろう。
 一方、母は長男の死の痛みが消えやらず、あれだけの子がこの宇宙から消えて無くなるはずはないとの信念を抱き続け、霊能者の話を耳にすると、すぐに訪ねては長男の死後の消息を訊ねた。が、どの霊能者に会っても満足のいくお告げが得られない。
 そんな時、昭和二十八年のことであるが、ある人から間部詮敦という先生が福山市に来ておられるという情報を耳にした。そして早速訪ねてみた。その日こそ、母にとって、そして私にとって、運命が大きく転回する重大な日であった。
 八畳間の座敷に通されて、座敷机に向かって和服姿で端座しておられる先生の姿をひと目見た時、母は
「あ、自分が求めていたのはこの人だ! やっと向こう岸にたどり着いた」
と思ったという。その直感は当たっていた。その直後にこんな話があったのである。
 挨拶を交わして、母が相談ごとを述べかけた時のことである。先生が母の少し横の方へ目をやりながら
「今そこに若い男の方が立ってますよ。両手に何か持ってますね。ほう、弁当だとおっしやってます。お母さんには申しわけないことをしたとおっしやってますが、何か心当たりがございますか?」
とおっしゃった。
 一瞬、母の瞼にあの日のことが甦った。そして、その場にどっと泣き崩れた。兄にとっても、あの別れ際の母のさびしげな姿が死後もずっと気になっていたのだと思った。そしてそのことが、母にとって、あの子は間違いなく今も生きている、という確信をもつ何よりの証拠となった。先生を訪ねた時、母の頭には長男のことはあっても、弁当のことなどカケラもなかった。それを先生の方から指摘されたのである。
 間違いなく兄は死後も存在し、そしてその場に出現したのである。もしかしたら兄自身がそのことを毋に知らせたくて、先生に引き合わせたのかも知れない。それは十分に考えられることである。
 こうして十年近い歳月をかけて、兄の死という一つの出来事が、間部詮敦という霊覚者との出会いによって母の心に先生への強烈な信頼感を植えつけ、それが直ちに先生と私との長い縁を結ばせることになり、それがさらに時代をさかのぼって、日本におけるスピリチュアリズムの草分けである浅野和三郎の著作へと私を案内してくれることになったのである。
 
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