新約聖書はカルマの法則の書
2007年7月掲載分を再編集しました。 
 

 本日は新約聖書の「マタイによる福音書」を引用しながら、イエスの教えの真髄ともいえる内容について考えてみたいと思います。イエスは弟子たちに「人は神の国に入るためにどのようなことを守るべきか」ということを教えているのですが、基本的には「カルマの法則」を述べているということができます。
 ここではイエスの教えを以下の5項目に分類して、それぞれの項目ごとにご紹介していきたいと思います。

(1) 心をつくして神を愛せよ。

(2) 自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。

(3) この世での報いを求めず、 神の国に富を積め。

(4) この世では幼子のように自分を低くせよ。

(5) 神の力を疑ってはならない。(疑う=信仰が薄い)。


 以下の冒頭にご紹介している内容は、イエスの教えのエッセンスとも言えるものですが、日本語訳では意味のわからないところがあって苦労しました。たとえば、「心の貧しい人たちは、さいわいである」という言葉の意味はそのままでは理解できないと思います。英訳のほうを見てみますと、「自分が精神的に劣っているということを知っている人たちは‥‥」となっています。これなら意味がわかります。また、「柔和な人たちは‥‥」という表現も抽象的すぎてわかりません。英訳では「humble(謙虚な)」となっていて、こちらのほうが新約聖書のなかで一貫して表現されているイエスの教えと一致しています。
 ということで、この項は英文と、それを私が和訳しなおした文章を添付しました。原文と対比させながら、イエスの教えの真意を掴んでいただきたいと思います。

@ こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

A 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

B 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受け継ぐであろう。

C 義に飢えている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

D あわれみ深い人たちはさいわいである、彼らはあわれみをうけるであろう。

E 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

F 平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。

G 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

H わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたはさいわいである。よろこび、喜べ、天においてあなたがたの受ける
報いは大きい

  (マタイによる福音書)

@ Happy are those who know they are spiritually poor; The Kingdom of heaven belongs to them!

A Happy are those who mourn; God will comfort them!

B Happy are those who are humble;they will receive what God has promised!

C Happy are those whose greatest desire is to do what God requires; God will satisfy them fully!

D Happy are those who are merciful to others; God will be merciful to them!

E Happy are the pure in heart; they will see God!

F Happy are those who work for peace; God will call them his children!

G Happy are those who are persecuted because they do what God requires; the Kingdom of heaven belongs to them!

H Happy are you when people insult you and persecute you and tell all kinds of evil lies against you because you are my followers. Be happy and glad, for a great reward is kept for you in heaven.

@ 自分が精神的に(spiritually)劣っていることを知っている人たちは幸せである。神の国はその人たちのものになる。

A 悲しんでいる人は幸せである。神は(神の国で)その人たちを慰めてくださるだろう。

B 謙虚な(humble)人たちは幸せである。その人たちは神が約束したものを受け取るだろう。

C 義(神が求めること)を行なうことを最も大きな願いとする人たちは幸せである。神は(神の国で)その人たちをすべての面で満たしてくださるだろう。

D 憐れみ深い人たちは幸せである。神は(神の国で)その人たちに憐れみ深くされるであろう。

E 心の清い人たちは幸せである。その人たちは(神の国で)神と会うだろう。

F 平和のために貢献する人たちは幸せである。神は(神の国で)その人たちを「私の子だ」と呼んでくださるだろう。

G 義(神が求めること)を行なうために迫害される人たちは幸せである。神の国はその人たちのものになる。

H あなたがたが私の弟子だということで、人々から侮辱され、迫害され、さまざまな悪質なウソで攻撃されるならば、あなた方は幸せである。幸せな気持ちになって、喜びなさい。神の国では、大きな報い(reward)があなたがたのために積まれる(is kept for you)ことになるからだ。 (なわ・ふみひと・訳)

  以下はイエスの教えの真髄を5つの項目に分類して整理したものです。

(1) 心をつくして神を愛せよ。

 ひとりの律法学者が、イエスを試そうとして質問した。「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第1のいましめである。第2もこれと同様である。『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これら2つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。」(マタイによる福音書)

 「神を愛せよ」とは、具体的にどういうことを言っているのでしょうか。一般的に「愛する」という行為は、「相手の求める自分になる」ことを言います。たとえば恋人同士の場合、歌の文句にもありますように「あなた好みの女(男)になりたい」ということです。
 逆に、今日における若い男女間の「愛」は仏教でいう「煩悩」に近いもので、相手を「自分好みの女(男)に変えたい」という「我善し=自己中心主義」となっているようにも見えます。つまり「相手を自分の思うように束縛したい」という傾向が強いということです。しかしながら、もともとの「愛」の形は、「相手の幸せを願い、その相手の幸せのためなら自分が身を引く場合もある」という抑制された行為を伴うものでしょう。ここで述べられている「愛せよ」の意味も、そのように理解したいと思います。
 愛する行為の2つ目は、「相手を信頼し、身を任せる」ということです。「どこまでもついていく」という行為が求められます。つまり、「相手を疑うことなく、信じきる」ということが最も大切なのです。
 以上2つの点から、「神を愛する」ということは、「神さまが人にしてほしいと望まれることをする」そして「神さまを信頼しきって、どこまでもついていく」という意味にとらえていただきたいと思います。
 新約聖書では、「神さまが人に望まれること」を「律法」「神の義」「戒め」などの言葉で表現しています。「律法」「戒め」は、旧約聖書にある「モーゼの十戒」の流れを引くものですが、イエスはそれをやんわりと修正しているのです。
 イエスの時代は、モーゼと言えばユダヤ人なら誰もが崇める「大預言者」だったわけですから、イエスといえどもその教えを真っ向から否定することはできなかったことでしょう。それでも、イエスは旧約聖書に登場する預言者たちを導いた「神々=Gods(なぜか複数なのです)」の正体を見抜いていたようです。それは、人々に生け贄(いけにえ)を要求するような恐ろしい存在なのです。自らの被造物であるはずの生き物たちに対する愛のカケラも感じられず、まさに冷酷無比な悪魔のような存在としか考えられません。ですから、イエスはその旧約聖書の神々との古い約束(旧約)を修正して、新しい約束(新約)を結ばせようとしたのです。それが新約聖書と呼ばれるゆえんとなっています。
 以下に旧約聖書の一文をご紹介します。「創世記」のなかに、「ノアの箱舟」で有名なノアが、大洪水のあと船から出てくる記述があります。その時の「主」すなわち旧約聖書の神様の言葉から、その神様がどういう方なのかがおわかりいただけると思います。

 そこで、神はノアに告げて仰せられた。
 「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたと一緒に連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」
 そこで、ノアは、息子たちや彼の妻、息子たちの妻といっしょに外に出た。
 すべての獣、すべてはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出てきた。
 ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の家で
全焼のいけにえをささげた
 
主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心のなかでこう仰せられた。わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。私は、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。

 (旧約聖書「創世記」――日本聖書刊行会・新改訳より)

 全焼のいけにえのかおりによってなだめをうける神様、この地をのろう神様、人の心の思い計ることは、初めから悪だと思っている神様、生き物を打ち滅ぼす神様――これが旧約聖書の神様なのです。新約聖書の中でイエスが「天の父」として崇めている神様とは似ても似つかぬ存在だということができます。
 コンノケンイチ氏が、その著書の中で「旧約聖書の神様と新約聖書の神様は別の存在だ」と述べておられる背景はこういうところにあるのです。ちなみにコンノ氏は、聖書の神様は宇宙人(異星人)で、なかでも旧約聖書の神は「サタン」であると断定されています。

 話を元に戻しましょう。要するに、イエスは「人を悪と考え、地をのろうような神」を愛しなさい、と述べているのではないということです。そうではなくて、人の行ないに応じた報いをくださる神様、すなわち、蒔いた種を刈り取るための収穫の機会をちゃんと与えてくださる神様――その神様を愛しなさいということです。そして、世の終わりの「人類の卒業期」に、すべての人が神の国の住人となってくれることを期待して、そのために必要な心の持ち方、行ないの在り方、言葉の使い方を、イエスとその弟子たちを通じて人々に伝えてくださっている、まさに愛一筋の神様に対して心を向けるようにと教えているのです。

(2) 自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。

 敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたは自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(マタイによる福音書)

 「汝の隣人を愛せよ」というイエスの教えの中でも「敵や迫害する者をも愛せよ」という意味は、普通に考えるとなかなか理解できないと思います。なぜ自分を迫害するもののために祈らなければならないのか――。実際にイエスは自らを十字架にかけようとする人たちのために、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書)と神に祈りを捧げています。
 イエスが人々にそのような心の持ち方を求める理由は、今日的表現をするなら「神様(天の父)と同じ波長になりなさい」ということです。「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい(そのように努力しなさい)」という表現がそれを表しています。
 自分を迫害する者、あるいは自分の大切な存在(家族など)を迫害する者を憎むことによって、自らその「憎む」という心の波長を携えてしまうことになります。つまり、「憎む」という種を蒔いてしまうことになるのです。その種は「神の国」で何十倍にも何百倍にも育ち、カルマとなってこの世界に還ってくることになります。そして、この世界で消化しきれないカルマは、世の終わりの時にまとめて清算させられることになるわけです。
 憎しみや恨みの念は、神様とは正反対のサタンの波長です。そのような粗い波長を持つと、ますますそのような憎むべき(恨みに思う)出来事を身のまわりに引き寄せてくる、というのがカルマの法則でした。イエスはそのことがわかっているので、このような極端な表現をつかって、人々にその大事な法則を守らせようとしたものと思われます。

 だから、あなたがたはこう祈りなさい。
 天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
 御国がきますように、みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をおゆるしください。
 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
(マタイによる福音書)

 ここに出てくる「御国」「天」「地」という言葉の概念を整理しておきます。「御国」とは「神の国 the Kingdom of God」ということで、2012年に私たち人類が地球といっしょに次元上昇して行くことになっている世界のことです。新約聖書に限らず、『日月神示』などのわが国の神示においても、この三次元の物質世界(=地)がスタートしたときから、次元上昇の時がくることは決まっていたと述べられています。
 これに対して「天 heaven」とは一般的な言葉で言えば「霊界」のことを言っています。次元でいえば四次元ということです。霊界通信などで、人はこの霊界(天)と三次元の物質世界(地 earth)の輪廻転生を繰り返しながら魂を磨いてきた、ということが判っています。その魂を磨く上でもっと大切な法則がカルマの法則なのです。私たちの日頃の心の持ち方、行ない、発する言葉(=身・口・意)は私たち自身の心の波長に影響を及ぼし、その波長に相応しい境遇を、この現実世界(実は「うつし世」といって心の世界が反映された世界)においても霊界においても体験することになります。
 心が地獄のような想念に満たされていれば、あの世(霊界)でもこの世でも地獄のような生活を体験することになるということです。
 そのような私たちの「心の状態」がもれなく記録されていると言われているのが「神の国(御国)」です。『大本神諭』や『日月神示』では、その時代の人にわかる言葉で「すべて帳面につけてある」という表現が使われています。新約聖書では、「(あなたがたの父は)あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」というイエスの言葉が同じことを述べているのです。
 世の初めから決まっている終末を超えると、この「天(四次元)」も「地(三次元)」もまとめて「神の国」へと移行(次元上昇)することになります。ですから、もし「神の国」を次元で表現すれば「五次元の世界」ということになります。
 それは一般的に考えられている「天国」とは違うのです。天国は四次元の世界における波長の繊細な高い階層ということです。その反対に波長の粗いのが地獄的世界で、これは四次元の低い階層ということになります。
 前回ご紹介した『大いなる秘密』のデーヴィッド・アイクは、この低層四次元にレプティリアンが住み着いていて、長年にわたって人類を陰から操作している、と分析しています。これから迎える次元上昇のときには、この低層四次元の住人は波長が合わないため神の国へ行くことはできないのです。聖書的表現をしますと、地獄の釜のふたが閉じられて、神の国へと移行した人類に干渉することができなくなるということです。そのような状態が約1000年続くようで、その期間にちなんで「千年王国」と呼ばれています。
 この千年王国は、『日月神示』で「半霊半物質の世界」と呼ばれているものと同じものです。次元上昇してから1000年後に、もう一度人類はふるいにかけられて、その後に真正の神の国が訪れると言われていますが、それらの内容につきましては稿を改めて述べてみたいと思います。
 「神の国」は文字どおり神様の住む世界ということで、人類も次元上昇すると「神的存在」になるわけです。そのことは『日月神示』にも「新しい世界では人が神となる」と表現されています。
 この「神の国」は、「与えたものと同じものがすぐに還ってくる」というカルマの法則に支配された世界です。ですから、その世界に住むことができる住人は、この世にいるときからそのような心の持ち方を身につけておく必要があるということです。それが身魂磨きなのです。ここでは、「他人の過ちを許さない人は、自分の過ちも許してもらえない」ということが、カルマの法則の一例として述べられています。
 以下、カルマの法則に則ったイエスの教えが続きます。

 人をさばくな、自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。(マタイの福音書)

 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
(マタイによる福音書)

 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでしなさい。
(マタイによる福音書)

 自分に対して好ましくないことをした相手であっても、いかに徹底的に許してしまわなければいけないかということを、イエスは「7度を70倍するまで許しなさい」という表現で強調しています。要するに、この世で「許せない!」という対象をつくってはいけないということです。そのような心の癖は、神の国の入口の扉を閉ざし、結局は自らの不幸を招くことになるからです。

 それだから、天国は王が僕(しもべ)たちと決算をするようなものだ。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。
 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金をかえせ』と言った。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。
(マタイによる福音書)

 悪人に手向かうな、もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬おも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着も与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求めようとする者に与え、借りようとする者を断るな。(マタイの福音書)

 たいへん有名な「右の頬を打たれたら、左の頬をも打たせなさい」という言葉の意味は、これでご理解いただけたでしょうか。とにかく「人を恨むようなマイナスの念を持ってはいけない」ということを、イエスはさまざまな譬えを使って教えているのです。

(3) この世での報いを求めず、 神の国に富を積め。

 自分の義を、見られるために人の前で行なわないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたの父から報いを受けることがないであろう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
(マタイによる福音書)

 さて、ここからがカルマの法則のエッセンスとも言える内容となります。聖書では「自分が蒔いた種の収穫」のことを「報い reward」および「報いを受ける paid」という言葉で表現しています。まさに仏教でいう「因果応報」の「報」に当たる言葉です。
 仏教では、善いことをしたら善い報い(善因善果)、悪いことをしたら悪い報い(悪因悪果)と教えていますが、ここでの「報い」は「善果」の意味に使われています。
 義(善き行為)を行なっても、それが人に見られ、賞讃されることを期待して行なうと、せっかく蒔いた“種”が本来なら天の倉(神の国にあるカルマの貯蔵所)に積まれるところなのに、その前にこの世で「報い」を受けてしまうので、天の倉には何も残らないよ、とイエスは忠告しているのです。この場合の「この世での報い」とは、他人の賞讃であったり、賞賛を期待しての自己満足や自慢の気持ちを表しています。
 つまり、「自分はいいことをした(している)」と自慢する気持ちは、天の倉に積むべき善果を先食いしてしまうことになるということを言っているのです。同じことは『日月神示』の中にも出てきますので、これはカルマの法則の大切なポイントだと考えられます。
 また、自慢するつもりはなくても、自分がした善行が他人に知られると、それは天の倉に積まれることにならないようです。そのことを、ここでは「右の手のしていることを左の手に知らせるな」と表現していますが、英訳では次のようになっています。

 When you help a needy person, do it in such a way that even your closest friend will not know about it.

 これを直訳すると、「あなたが貧しい人に施しをするときは、そのことがあなたの最も親密な友達にも知られないようにしてやりなさい」となります。おそらくギリシャ語の原文には日本語訳のように「右手」「左手」という表現が使われていたのでしょうが、英語に訳した人はそれを意訳して、よりわかりやすくしたものと思われます。
 以下、「祈る場合」「断食をする場合」についても、イエスは同じ戒めを教え諭しています。

 祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈る時には、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。(マタイによる福音書)

 断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知れないで、隠れたところにおいでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

 断食は文字どおり「食を断つ」ということで、一般的には苦行のひとつと考えられています。今日でも、宗教や宗派によっては修行の一環として行なわれています。その時に、「私はこのように大変な苦行を行なってるのだ」という顔をしている人は、すでにこの世で「誇らしげな気持ち」という報いを受けてしまっているということです。ですから、断食をしていることを人に見せようとせずに、隠れたところにいる父(=神さま)にだけ見てもらうつもりでやりなさい、と諭しているのです。

 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わさず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すことのない天に、宝をたくわえなさい。だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方を親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできないる。
(マタイよる福音書)

 結論から申しますと、この世(三次元の物質世界=地 earth)での富 richesすなわち「現世利益」を追求する人は、神の国 the Kingdom of Godに富を積むことはできないということです。「人は神 God と富 money に兼ね仕えることはできない」からです。英訳本では、ここの部分の「富」は money(お金)として、他の部分の「富 riches」とは区別しています。
  お金」はこの世でしか通用しない「現世利益」の象徴です。これまで人々は、自分の願いごとや幸せの実現のためのバロメーターとして、お金を追い求めて来ましたが、これから訪れる新しい世界(神の国)ではお金は必要とされないようです。『大本神諭』や『日月神示』にも全く同じことが述べられています。

 「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。またほかの譬を彼らに語られた、「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。(マタイによる福音書)

 どんな種よりも小さなからし種でも、それを畑に蒔くと野菜の中では一番大きく成長するということに譬えて、神の国では、人が心で思ったことが何十倍、何百倍もの大きさに育つということを言っています。また、粉に混ぜると全体を大きく膨らませるパン種(イースト)のように、神の国では私たちの小さな思いが何十倍にも大きく膨らんでいくということです。つまり、「善因善果、悪因悪果」が、この物質世界よりもはるかに大きなスケールで実現するということを言っているのです。
 いかに心のコントロールが大切かがわかります。その心をコントロールする方法を、人類はこれまで転生を繰り返す中での様々な体験を通じて学んできたわけです。そして、いよいよその学びの成果が試される卒業期を迎えているということでしょう。

 イエスは譬(たとえ)で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土が薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないため枯れてしまった。ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。ほかの種はよい地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」。(中略)
 だれでも御国の言葉を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。石地にまかれたものというのは、御言
(みことば)を聞くと、すぐによろこんで受ける人のことである。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言(みことば)のために困難や迫害が起こってくると、すぐつまずいてしまう。また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言(みことば)をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。また、よい地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである」。(マタイによる福音書)


 たとえば「汝の隣人を愛しなさい」というイエスの教えを実践しようとしても、すぐにそのことを断念させるような出来事が起こり、その気持ちをぐらつかせてしまいます。それは、「悪い者=悪魔 the Evil One」が来て「まいた種」を奪い取ってしまうからです。悪魔(サタン)は、人がそのように愛し合う気持ちを持つと困るのです。
 その他、イエスの時代であれば困難や迫害によって、隣人を愛する気持ちが失われることも多かったことでしょう。また、「世の心づかい the worries about this life」や「富の惑わし the love for riches」が決意をぐらつかせるのは今日でも同じです。
 御言(みことば=神の国についての教え the message about the Kingdom)を聞いて理解した人だけが、そのようなさまざまな現世利益の誘惑に打ち克って、神の国へ入ることができるということです。

 あなたがたに言うが、「富んでいるものが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。(マタイによる福音書)

 現世利益を追い求め、それを享受し、満喫している人は、神の国には入れないということです。これは決して「持たざる者」を慰めるための言葉ではないのです。まさに「カルマの法則」そのものと言えるでしょう。「天の倉」に「富」を積むこと、すなわち「身魂磨き」こそが、私たちの人生の目的と言えるものなのです。

(4) この世では幼子のように自分を低くせよ。

 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国はだれがいちばん偉いのですか」。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国ではいちばん偉いのである。また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名ゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者ひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。(マタイによる福音書)

 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない(マタイによる福音書)

 だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。(マタイによる福音書)

 そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。(マタイによる福音書)

 神は高慢な者にを敵とし、謙遜な(humble)者には恵みをお与えになる。(ヤコブの手紙)

 主の前にへりくだりなさい(humble yourself)。そうすれば、主があなた方を高めてくださいます(lift you up)(ヤコブの手紙)

 新約聖書の中には、人が高慢になることを戒め、「幼子のように謙虚でありなさい」と教え諭す表現が随所に出てきます。中でも、「神の前に謙虚であれ」という意味は、今日における科学万能主義を戒める言葉と受け止めるべきでしょう。我が国の『大本神諭』や『日月神示』が、「学」に頼りすぎて「神」を軽視している現代人を戒めていることとも相通じるものがあります。
 また、財産、地位、名誉などの現世利益を手に入れて慢心している人への戒めの言葉だと言ってもよいでしょう。大切なのは、「神(絶対神)に対して謙虚である」ということです。より具体的に言えば、「今日の物質文明が創り出しているさまざまな問題は、人類が驕り高ぶっていることの表れであることを認識し、謙虚に反省する気持ちを持ちなさい」ということでもあります。「神の国の住人」になることを願う人にとっては、肝に銘じておく必要のある教えと言えそうです。

(5) 神の力を疑ってはならない。(疑う=信仰が薄い)。

 それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを船に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。そして群衆を解散させてから、祈るためにひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが船は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。
 イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは船からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。
(マタイによる福音書)


 それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った。「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。〔しかし、このたぐいは、祈りと断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」。(マタイによる福音書)

 朝早く都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかには何も見当たらなかった。そこで木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。
 弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが
信じて疑わなければ、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。また、祈りのとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。(マタイによる福音書)

 終末の後に訪れる新しい世界(神の国)へ入るために最も大切な心の姿勢は「神の力を信じること」「その同じ力が自分の中にも宿っていることを信じること」だと言えそうです。イエスは弟子たちにそのことを繰り返し教え諭しています。また、イエスの超能力の噂を聞いて頼ってくる人たちに対しても、病気を癒したり、悪霊を追い出したりするなかで、その都度「信仰faith」の大切さを説いているのです。
 日本語で「信仰が足りない」というと「宗教を信じていない」という意味にとらえがちですが、この場合の「信仰」は宗教とはまったく関係ありません。英語で faith(信念、確信、自信)という言葉が充ててあるように、「神の力を信じる気持ち」ということです。
 その「神の力」が自分にも具わっていることを信じて疑わないならば、海の上を歩くこともできるし、山を移動させることだってできると述べているのです。
 「からし種一粒ほどの信仰があるなら、‥‥あなたがたにできない事は、何もない」という教えを素直に信じたいと思います。それは「神の国」に入るための必要条件とでもいうべきものなのです。
 
 
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