カルマがこの世の現実をつくる
2011年5月掲載分を再編集しました 
 

 終末の足音が聞こえている

 東日本大震災から7年の月日が流れました。地震、津波、原発事故と災害が重なったことで、いよいよこの物質文明が終わりの時に近づいたのではないかと考えた人もいたと思いますが、「のど元過ぎれば熱さを忘れる」のが人の習性です。
 最近では世界的な好景気の影響もあって、現在のような一見平和な世の中がこれから先もずっと続くと思っている人も多いことでしょう。しかしながら、「天災は忘れた頃にやってくる」というのが世の習いです。タレントや政治家など著名人のスキャンダル暴きにマスコミが血道を上げている裏で、世の異変の芽は育ちつつあるとみなければなりません。大きいカルマが表面化するためには、人々が世俗的なことに気を奪われているという心の状態が必要なのです。
 終末論者の私には、その確かな足音が聞こえています。
 ここで改めて「終末とはなにか」について考えてみます。
 「終末」とは文字通り「この世の終わり」ということですが、この世が終わった後には「あの世(霊界)とこの世が一緒になった世界」が生まれるといわれ、その世界のことを日月神示では「半霊半物質の世界」と表現しています。物質世界であるこの世が霊的性質を強めてくるということでしょう。そうなるとどういうことが起こるでしょうか。
 数多くの霊界通信によれば、霊界は「心で思ったことがすぐに現実となる」という特徴があるようです。ということは、たとえばある人(霊)が霊界で他の人(霊)に対して攻撃する心を持てば、それはすぐに相手の霊を傷つけ、同時にカルマの持つ「ブーメランの法則」によって発信した霊自身をも傷つけてしまうことになります。
 このようなことは実際に今日でも低層霊界で起こっていると言われており、仏教ではそのような霊界の特徴を「餓鬼」「畜生」「修羅」「地獄」などと表現しています。しかしながら、この物質世界が半霊半物質の世界になるということは、単に現在の霊界と合体することではなく、その霊界の中でも高級神霊の住まう世界と同じような波長の世界に収れんされるということのようです。その世界のことを聖書では「神の国」と呼び、日月神示では「ミロクの世」と表現されています。他者を攻撃するような気持ちを持つ人が全くいない(そのような人は住むことのできない)世界です。

 
物質社会に対する執着心を手放すこと

 残念ながら多くの人は現在の物質文明で身につけた「善くない心のクセ」を潜在意識(個人の無意識)の中に大なり小なり蓄積していますので、それをきれいに掃除しておく必要があるのです。でないと、「心に思ったことがすぐに現実になる」という霊界的な性質を持つ世界では、先ほどの例でもわかりますように大変なことになってしまうからです。
 ですから、潜在意識の中にある「善くない心のクセ」を取り除くことが「カルマの清算」ということになります。これは終末の次元上昇のためには欠かすことのできないことなのです。ただ、普通の人はなかなかこの世に対する執着心を手放すことはできませんので、それを強制的に取り除く働きとしてカルマが作用することになります。
 終末の土壇場で起こると見られている大天変地異現象は、人々がこの物質社会に対する執着心を手放すように準備されたものと見ることもできます。カルマの法則が愛の法則と言われるのはそのためです。人は、失うことを通じてその価値に気づくと同時に、自分が追い求めてきたもの(財産や地位、名誉など)がいかにはかないものであったかということにも気づかされるからです。
 ということで、終末の時代に生きる私たちにとってカルマの問題は避けることのできない重要テーマなのです。私が拙著
『2012年の黙示録』(たま出版)の中でカルマについて多くの紙幅を割いているのはそのためです。
 そのカルマの問題について書かれた本として
『新カルマ論』(ポール・ブラントン[著]/大野純一[訳]/コスモス・ライブラリー)は大変参考になりますので、当コーナーで随時ご紹介してまいります。本日は前回ご紹介した内容を再掲し、アンダーラインの部分を中心に私の解説をつけました。お目通しください。

■カルマによる報いや罰を勝手に施したり、下したり、コントロールしたりする、いかなる超自然的・外部的存在もない。われわれが無意識のうちにそれらの種をまいているのである。好機が来る時、種は芽を出し、実を結ぶ。

 「カルマの結果として自分の身に降りかかるすべての出来事の責任は自分にある」ということを述べています。なぜなら、その種をまいて(原因をつくって)いるのは自分自身だからです。
 では、私たちはどういう形で種をまいているのでしょうか。
 私がこのサイトでたびたび採り上げていますように、その種をまく手段は「身・口・意」なのです。平たく言えば「行為(身)」「言葉(口)」「心の使い方(意)」ということになります。では「病気」を例にとって身・口・意について考えてみます。
 まず「心の使い方(意)」です。体調が悪いときにすぐにガンなどの病気を心配する人は、まず心(潜在意識)の中に病気の種をまきます。そして、「ガンではないだろうか」と心配事を口に出すことによって、まいた種に水をやります。これによって潜在意識への刻印が強化されていきます。これが言葉の力です。
 そして、最期は「病院に行って検査してもらおう」と病院の門を叩くという「行為」によって、ガンを生み出す原因はしっかりと潜在意識に根付き、ことあるごとに不安な気持ちを呼び起こすことになっていきます。
 このような身・口・意のクセを持つ人を一般的に「心配性の人」と呼びますが、「自分の健康について不安に思う」という心のクセがカルマとなって、いつの日か本当の病気を作り出してしまうことになります。「心配性(取り越し苦労)」は最も善くない心のクセのひとつと言うべきでしょう。
 こうして、人は無意識のうちに種をまいているため、それがカルマとなってその人の運命が形づくられることを述べているのです。

■人形使いが吊り上げた人形のあやつり糸を引くように、何らかの神秘的な超自然的天使、天神、または神が介入してカルマをあやつるわけではなく、カルマは宇宙の均衡の部分なのであって、その均衡作用のおかげで報いがもたらされ、圧力が記録され、各々の反応がそれ自体のはずみによって起こるようにされているのである。

 「カルマは宇宙の均衡の部分」という表現は、カルマの持つ機械的な性質を述べています。つまり、物理学の「作用反作用の法則」と同じように、私たちの身・口・意に対する結果は、まさに寸分の狂いもなく機械的に施されるということを意味しています。「大難を小難にしてください」と神様に祈っても、気づきのないままに災難を免除してくださる神様が現れるわけではないのです。私たちの身・口・意が変わることによってのみ、その結果としての運命に変化が起こるということ――それは「宇宙の均衡の部分」つまり過不足をつくらない宇宙の調整機能だということで、「善因善果、悪因悪果」という言葉もありますが、自分が作った「因(身・口・意の働き)」以外の「果(運命)」はないということです。

■カルマの働きは、複雑な結果を複雑な原因までのぼって突きとめる。

 カルマの法則は「自分がまいた種を自分で刈り取る」という大変シンプルなものですが、その働き方は複合的で、一つの原因が必ず一つの結果を表すとは限りません。少なくとも、人間の目からみれば、それは大変複雑に絡み合った原因から一つの結果が生まれてくるのです。
 たとえば、「人を殴ったら、いつか自分も殴られる」といった形で、「殴る」という行為(身)に対して単純に「殴られる」という反作用が返ってくるとは限らないということです。この理由を説明すると大変長くなるのですが、結論だけ申しますと、身・口・意は複合的に働きますので、身と口と意が一致していない場合は、それぞれに違った結果が返ってくる、ということです。行為に対する結果、言葉に対する結果、心の使い方に対する結果は切り離され、それぞれが他の身・口・意の結果と混ざり合って複雑な形で現れるということです。
 (昔の)親が愛しい我が子に示した「愛の鞭」を例にとって考えてみましょう。「愛」は子供を思いやる優しさを意味しています。それを表現する「鞭」は子供にとっては嬉しくない、場合によっては「痛み」を伴うつらい仕打ちとなるでしょう。その時に突き放すような冷たい言葉が発せられるならば、その愛の鞭を使った人は言葉(口)の点からも善くないカルマを作ったことになります。ところが、ここでもっとも潜在意識に影響を与えるのは「心の働き」なのです。
 我が子の成長のために、あえて苦難の道を歩ませるという行為の裏にあるのは、まさに子供の(将来の)ために親が心を鬼にして行なう行為ですから、その行為に対して「悪果」が返ってくることはないのです。たとえ突き刺すような厳しい言葉を発したとしても、その言葉に対する見返りも決して同じような冷たい「鞭」として返ってくることにはなりません。
 大切なのは「意図」であり「動機」なのです。「複雑な原因」と表現される中にはこのことも含まれていると見てよいでしょう。

 良いカルマは良い結果をもたらす

■もしも最期に――時にはずっと以前に――カルマがあなたに結果をもたらすとしても、そのすべてが苦痛なわけではない。不吉な予感でいっぱいになる必要などないのである。なぜなら、あなたが考え、行なってきた良いことは、良い報いをもたらすからである。

 カルマという言葉に好ましくない響きを感じる人もあるかと思いますが、カルマの法則は全く中立の法則なのです。悪因をつくれば悪果が返ってくるのと同じように、善因には善果が返ってくるということを述べています。

■われわれは、みずからの切望によって未来を招来する。われわれは、自分が考え、感じ、行なったことの結果を受け取る。自然はいかなるえこひいきもせず、われわれに当然の報いを与える。

 自分が考え、感じ(意)、行なった(身、口)ことの結果を受け取る、とあります。「感じ」という言葉に注目したいと思います。私たちは他人の行為や言葉に対して反応しますが、その反応の仕方は人によってそれぞれ違います。悪意と感じるか、善意と感じるかによって、そのときの心の使い方に対する結果が違ってくるということです。
 他人の行為や言葉に限らず、自分の身に降りかかってくる出来事をどのように受け止める(感じる)かが非常に大切であるということです。たとえば「自分はついてない」という感じを受けやすい人は、そのような運命を引き寄せ、ますます「ついていない」状態を生み出すことになります。

■カルマは、人が実際に行なうことによって固められるのだが、それはまた、人が長い間考え、強く感じることによっても強められる

 私はカルマのことを「潜在意識に刻んだ心のクセ」と定義しています。潜在意識とは自分では認識することのできない「奥の心」ということで、拙著『2012年の黙示録』(たま出版)の中では、氷山の水面から下の部分にたとえて説明しています。つまり、水面に現れた氷の山が顕在意識で、自分が自覚できる心の働きです。人を好きになったり、嫌いになったりする心も顕在意識として自分にもわかります。
 ところが水面下に隠れた氷山は水面に現れた氷の山よりも遙かに大きいにもかかわらず、私たちはそれを見ることができません。その水面下の氷山(潜在意識)に影響を与えるには、実際に行なうこと(身)とが効果があると述べられています。また、長い間考えたり、強く感じたりすることによっても、それは強められるということです。ある思い(たとえば健康に対する不安など)がいつも心をよぎるようになると、それはカルマを固める働きをするということです。

■ついにあなたがカルマによって責任を問われる時、あなたは他の人があなたに授ける性格証明書――良いと認めようが悪いと認めようが――によってではなく、あなたの内心で感じている動機、あなたが守ってきた態度、あなた自身の手でした行為によって判断されるのである。

 たいへん回りくどい表現がされていますが、要するにカルマの結果は「身・口・意」で決まるということを述べています。人の運命は、他人の評価によってではなく、「内心で感じている動機(意)」「守ってきた態度(身・口・意)」「手でした行為(身)」によって決まるということです。

出来事と環境は、部分的にはあなたの人となり、およびあなたが行なうこと(個人的カルマ)に従って、部分的にはあなたが必要とし、求めているもの(進化)に従って、また、部分的にはあなたが属している社会、民族または国が行ない、必要とし、求めていること(集団的カルマ)に従って、あなたに引き寄せられる。

 カルマには、個人のカルマと合わせて、自分が属する社会や民族、国のカルマも含まれるということです。「集団的カルマ」と表現されていますが、同じ言葉を話す人間はその言葉の持つ波長によって意識も形づくられますので、その集合的無意識に対する結果としての運命も共有化することになるということです。
 終末の時代には、私たち日本人はこの国のもつカルマを、善いと思うものもありがたくないものも甘んじて受け入れるという心の姿勢が大切でしょう。自分だけは助かりたいとばかりに外国に逃げ出す人もいるようですが、そのようなことをしても運命から逃れることはできないのです。カルマの法則はまったく過不足なく適用されるということを肝に銘じておきたいと思います。どこにいても、カルマはきっちり清算させられるのです。

 偶然に見えても偶然の出来事はない

カルマは、偶然に思われるかもしれない出来事を通じて現れる。が、それらは表面においてのみ偶然に思われるのである。

 この世で起こることに偶然はないと言われています。それはカルマの法則によるものです。私たちには偶然起こったように見えることが多くありますが、それとて寸分の狂いもなく、自らがまいた種(原因)の果実(結果)として起こることなのです。すべて、人(魂)が気づきを得るために準備された愛の法則だと受け止めることが大切です。

■事物は、その性質に従って動く、「世界観念(神)」はこれらの動きを秘密の仕方で記録し、それぞれに相応した結果を反射して返す。そして人の場合も事物と同様である。われわれの各々は宇宙に向かって歌声を響かせ、そして宇宙はそれと同じ調子でわれわれに答える。

 自分が考え、感じ(意)、行なった(身、口)ことの結果を受け取る、とあります。「感じ」という言葉に注目したいと思います。私たちは他人の行為や言葉に対して反応しますが、その反応の仕方は人によってそれぞれ違います。悪意と感じるか、善意と感じるかによって、そのことに対する結果が違ってくるとのべています。
 自分の身に降りかかってくる出来事をどのように受け止める(感じる)かが非常に大切であるということです。たとえば「自分はついてない」という感じを受けやすい人は、そのような運命を引き寄せ、ますます「ついていない」状態を生み出すことになります。

■カルマはあなたに、あなたが主として自分自身で作り出したものを与える。それはあなたに、あなたが好むものを与えるわけではない。が、時には両者が一致することはありうる。あなたは部分的にあなた自身の難儀の生み手になることもできれば、精神力によって幸運を自分に引き寄せることもできる。

 私はカルマのことを「潜在意識に刻んだ心のクセ」と定義しています。潜在意識とは自分では認識することのできない「奥の心」ということで、拙著『2012年の黙示録』(たま出版)の中では、氷山の水面から下の部分にたとえて説明しています。つまり、水面に現れた氷の山が顕在意識で、自分が認識できる心の働きです。人を好きになったり、嫌いになったりする心も顕在意識として自覚することができます。
 ところが氷山のうち水面下に隠れた部分は、水面の上に現れた氷の山よりも遙かに大きいにもかかわらず、私たちはそれを見ることができません。その水面下の氷山(潜在意識)に影響を与えるには、実際に行なうこと(身)が効果があると述べられています。また、長い間考えたり、強く感じたりすることによっても、それは強められるということです。ある思い(たとえば健康に対する不安など)がいつも心をよぎるようになると、それはカルマを固める働きをするということです。

■われわれの外面的不幸は、われわれの内面的挫折の象徴であり、徴候である。みずから生み出したあらゆる苦しみおよびみずから受け入れたあらゆる悪は、避けることができる。どの程度まで出来事があなたを傷つけることができるかは、そっくりあなたにかかってはいないかもしれないが、しかしそれが主としてあなたにかかっていることは確かである。もしあなたがたった一撃であなたのエゴイズムを粉砕する力と、一連の長い因果のスクリーンを見通す洞察力を持っていたら、あなたはあなたの外面的苦労の半分は内面的性格の欠陥と弱さに由来していることがわかるであろう。あなたがあなたの内面的性格の劣等な属性を表出するつど、あなたは外部の出来事にそれを反映させる。あなたの怒り、羨望、憤り、恨みは、もし十分に強く、十分に長く持続すれば、結局は結果として厄介事、敵意、摩擦、喪失、失意を招くであろう。
── 『新カルマ論』(ポール・ブラントン[著]/コスモス・ライブラリー)
 
 ここで今回の表題にある内容が述べられています。「われわれの外面的不幸は、われわれの内面的挫折の象徴であり…」ということは、「私たちが体験しているこの世の現実(と思っている出来事)は、実は私たちの内面すなわち潜在意識によってつくられたものである」という意味です。
 ここでは自分にとって「善くないカルマ」について述べられていますが、「善いカルマ」も「善くないカルマ」も、すべて自分が潜在意識に刻印してきたものですから、その結果としての人生が好ましいものでなければ、潜在意識に影響を及ぼしている自らの身・口・意を改めるしかないということです。
 「善いカルマ」と「善くないカルマ」を選別する基準は、「それを自分が受け取ってどう思うか、どう感じるか」ということです。受け取って嬉しいものは「善いカルマ」であり、それを他者(人間とは限りません。生きとし生けるものと考えるべきです)に施しなさいということです。自分が受け取りたくないものは、他者にも与えてはいけないということで、冷静に考えれば誰にでも判断できるはずです。
 ここでは、怒り、羨望、憤り、恨みなどを例に挙げています。同じ趣旨のことを述べた拙著『2012年の黙示録』(たま出版)の一節を以下に紹介して当「つぶや記」は完結としておきます。

懸念、残念、執念、怨念はマイナスの波動

 カルマの原因となるマイナスの波動をつくるのは「心の癖」であると言いました。心の癖は私たちの口をついて出てくる言葉までも左右します。「困った」「疲れた」「いやだ」「だめだ」「死にそう」「腹が立つ」「許さない」などと言ったマイナスの言葉が出てくるのも、私たちの心の癖からくるものです。
 そういう意味では、私たちがどのような心の癖をもっているかを知っておくことが大切です。それは、逆にいつも口をついて出てくる言葉から類推することができます。一度あなたの口癖がどんなものか、周りの人に聞いて点検してみてください。
 私が特に注意すべきだと思う心の癖、つまり「念」は以下の4つです。

(1) 「懸念」

 ずばり「心配癖」です。まだ起こっていない未来の出来事について心配する「取り越し苦労」は、マイナスの波動となって潜在意識の中のカルマを育てます。
 私たちは、将来のことについて不安な気持ちを持つことがあります。ある意味では恐怖心と言ってもよいでしょう。それを仏教では「四苦八苦」という言葉で説明しています。「苦」とは「苦しみ」という意味ですが、「苦にする」という意味にも使われます。つまり、「不安になる」ということです。
 四苦とは「生・老・病・死」の四つです。「この世に生まれてくる不安」「年老いていく不安」「病気になる不安」「死ぬ不安」の四つを意味しています。
  (中略)
 いずれも、そのような不安な気持ちは私たちの潜在意識にマイナスの波動として刻印されていきます。不安に思わないほうがいいというより、不安に思う必要がないのです。スーパーパワーとしての神が設計した私たちの人生の意味を理解するならば、「四苦八苦」はどれも恐れる必要はありません。文字通り、「四苦八苦しなくてもいい」ということです。

(2) 「残念」

 終わってしまったことをいつまでも悔やむ心はマイナスの波動となります。いわゆる「過ぎ越し苦労」癖は一刻も早く直す必要があります。
 この事に関して、仏教書におもしろい話が載っていました。
 ある修行僧とその弟子が旅をしているときに、川岸にたどりついたのです。歩いて渡れるほどの浅い川なのですが、着物姿の一人の女性が渡りかねて困っていたのです。そこでそのお坊さんは親切心から、その女性を背中に背負って向こう岸に渡してあげたのでした。
 その女性と別れて旅を続けていると、どうも弟子の表情が暗いのです。そこでその理由を聞きますと、「和尚様は日頃から、修行中は女性に心を動かしてはいけないと言われるのに、さきほどは若い女性を背中に背負ったではありませんか。これはいけないことではないのですか」と言うのです。
 そこでこのお坊さんが言った言葉が愉快なのです。
 「なんだ、おまえはまだあのお女中を背中に背負っているのか。私はとっくの昔に降ろして、もうそのことなど記憶にも残っていなかったのに」と笑われたという話です。このお弟子さんは、修行僧が背負った女性を自分も心の中で背負っていたのです。そして、それをいつまでも降ろすことができずに、心に残していたというわけです。過去の事象に念を残すことの愚かさを教える楽しいお話ですね。
 私たちも、済んだことをいつまでも思い煩うことがないようにしたいものです。

(3) 「執念」

 物事にこだわることを意味しています。これまでは、勝負や競争において、勝利にこだわることはよいことと思われてきましたが、これは仏教でいうところの煩悩を生み出す原因となります。「負けた悔しさをバネにする」という生き方は新しい時代にはなくなると思われます。いずれにしても、ある特定の考え方にこだわりすぎて柔軟性を失うことは、波動を高めるうえではマイナスになってしまいます。そういう意味では、これを「固定観念」と置き換えてもいいでしょう。
 このあとにも出てきます「100匹目のサル」の話では、すべてのサルたちが芋を洗うようになった後も、ボスザルとその取り巻きの一部のサルだけは、いつまでたっても芋を洗うことはせず、土が付いたまま口に運んでいたということです。

(4) 「怨念」

 これはマイナス波動の最大のものです。人を憎む、世の中を呪うといった波動は、ひとたび潜在意識の中に蓄積されると、なかなか消えることはありません。そして、「類は友を呼ぶ」の法則どおり、私たちの回りに恨みに思うような出来事を次々とつくり出していくのです。
―― 『2012年の黙示録』(なわ・ふみひと・著/たま出版)
 
 
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