原発反対運動は
しない方がよいのか?
2012年1月4日掲載分を復活しました 
 
 
 昨年、当サイトの読者の方(Aさんとしておきます)から次のようなご質問をいただきました。個別のご質問にその都度メールでお答えするだけの時間的余裕がありませんので、他の方にも参考になると思われるご質問については当欄で採り上げ、回答させていただきます。では、そのご質問の内容をご紹介します。(冒頭のご挨拶文は割愛)

 ひとつ疑問があります。
 私は福島の原発の問題を恐ろしく感じ、原発反対運動に参加していますが、こんな事をしているとまたどこかで原発が爆発するということなんでしょうか。

 動物問題などについてもあまりの悲惨な状況に、何とかならないものかとあれこれ署名などして動いていますが、こんな事をしていると、またどこかでそんな不幸な動物が出てくると言うことでしょうか。

 すべては受け入れるだけで、何も思わないで自然のままに任せておくほうが良いのでしょうか。
 「良いと思うことをすぐに実行するだけ」と言うことは、動いて良いと言うことで、「ありのままに受け入れるだけ」と言うことと結びつけて考えることができなくて悩んでいます。


 今回の原発事故を通じて明らかになったことがあります。
 一つは、この国の政府(政党、政治家、官僚組織)は国民を守ることができないこと。その最大の原因は、政権中枢がアメリカをフロントとする外国勢力のコントロール下に置かれているためです。たとえ首相という肩書きを持ったとしても、個人の判断で政治を行なうことはできないメカニズムになっているのが見て取れます。決して政治家の資質の問題だけではないのです。
 まじめに国益を大切に考える政治家は失脚させられたり、(自殺や病気を装って)殺されたりしますので、そのことを知らされた段階でどのような政治家も手なずけられてしまうのです。
 政権末期に突然「脱原発」を唱えて首相職の延命を試みた前首相の菅さんがあっさり放擲されることになったのを見てもそれがよくわかります。この間、問題はあったにせよどちらかと言えば国益派に属していた安部、麻生といった自民党出身の首相に対してのマスコミの攻撃ぶりと、アメリカや中国のいいなりになっている民主党の首相に対するマスコミの風当たりの違いから見てもそれが感じられます。(ご質問の内容とは直接関係がありませんので、この件は稿を改めて綴ります)

■2018年6月27日記(上記下線部分の説明)
 マスコミ各社と野党が足並みをそろえ(テレビ、新聞だけでなく雑誌まで)、過去2年にわたって「モリカケ問題」で自民党の安倍内閣つぶしに躍起になっている異常さをじっくりとごらんになったことと思います。我が国が抱える超重要問題は棚に上げての「モリカケ騒動」を操っているのはどの勢力かおわかりですか。マスコミも野党も、自民党の首相OBまでもかり出されて、安倍内閣つぶせの大合唱です。
 私は安倍首相自身も支配層に操られていると見ていますので、冷静に観察してはいますが、野党とマスコミ(NHKも主犯格)の異常な連係プレーが今後の日本に何をもたらすかを考えますと、操られている人たちに対してなんとも情けない思いにさせられてしまいます。


 今回の原発事故に関して、あえてプラスの面を見るとすれば、(直接犠牲になった福島の皆様には申し訳ない言い方になりますが)電気をはじめとするエネルギーに過度に依存する今日の社会のあり方に警鐘を鳴らし、多くの人の気づきのきっかけを与えてくれたことを挙げるべきでしょう。また、政府や行政、東電といった公益を重視するはずの組織が、国民の命よりも自らの立場を守ることを優先するという事実も確認することができました。
 何よりも、早くから「トイレのないマンション」と言われ、処理のめども立っていない危険な核廃棄物を子供たちに残すことになる原発を、目先の便利さのために意識することもなく使い続けてきた私たちの暮らしのあり方にも問題があったのです。解決できないとわかっていながら問題の先送りをしてきたことのツケが、今回の事故によって一気に表面化し、多くの人に気づきのきっかけを与えることになったと見るべきでしょう。
 それでもなお、原発推進をやめることができない人たち(原子力村の人たち)がいるのは残念というよりお気の毒と申し上げるしかありません。その人たちを憎み、断罪する必要はありません。いずれは「カルマの清算」という形で、他人に危険な物を押しつけて自らが得をするという道を選んだ「我善し」のツケを払わされることになるのは間違いないからです。

 今回の原発の事故によって、現時点でもっとも悲惨な状況に置かれているのは福島県とその周辺に住む人たちであるのは言うまでもありません。私は、昨年の12月5日〜6日に、仕事の関係で飯舘村や南相馬市などの被災地を見て回りました。
 バスで通過した飯舘村では、地震による被害が見られず無傷の状態の家々が並んでいるのですが、人影は全くなく、ひっそりと静まりかえっていました。目に見えない放射能の恐怖を実感させられました。バスの中でも約3μシーベルト/時という高い線量率が計測されました。(他のエリアではほぼ1μシーベルト/時以下でした)
 原発事故による放射能汚染のために、生活の基盤が町ごと、故郷ごと奪い去られてしまっているのです。
 しかしながら、放射能の影響は日本全国に及びますので、少なくとも日本の国土の上で生活している限り、その影響から逃れることはできないのです。福島第一原発の事故は、食べ物を通じて、あるいは汚染した瓦礫の処理を通じて、日本全土を放射能汚染列島にしてしまいつつあります。

 さて、Aさんのご質問は、「原発事故を恐れて反対運動をしていると、そのことが新たな原発事故を引き寄せることになるのだろうか」ということだと思います。
 また、「動物のように人間に比べて弱い立場の生き物を救うための活動をしていると、そのことでますます悲惨な目に遭う動物ができてしまうのではないか」というご心配もされています。
 そして、結論として「心配になるようなことは何もしない方がよいのか」というご質問です。
 それでは、以上のご質問に対して、私の考えを申し上げます。言葉にすると次の二つで言い尽くされます。

「善いと思ったことは実行に移してください」

「しかし、そのことによって起こることもすべて必要なこととして受け入れてください」


 私たちの行動には動機(目的や目標)がありますから、ある結果を期待しています。「この国から原発をなくしてしまいたい」という目標を持って反原発の運動を進めた場合、理想とするのは政府や電力会社が原発を止めてすべて廃炉にし、大量に生み出されている危険な核廃棄物を将来的にも安全な状態で適当な場所に保管してくれることでしょう。
 しかしながら、産業としての原発に依存している勢力や関係者にとっては、それは死活問題となることですから、さまざまな抵抗や反撃が行なわれる可能性が高いと思われます。何しろ、彼らは私たちが無条件に払わされる電気料金によって潤沢な資金を手にしていますので、そのお金で政治家(政治資金)やマスコミ(広告料)、学者(研究費)などの権力や権威を手なずけることができるからです。
 反原発の声はさらに強めていく必要はありますが、その運動に参加することによる挫折感やいらだちなどが心の習慣になることは避けなければなりません。そういう意味で、自分にできる最大限の努力はしても、結果について悲観したり、恨んだりすることはしない、という心構えが大切です。それは、「結果などどうでもよい」という気持ちでテキトーにやればよいと言うことではありません。「全力を尽くすが、結果は神様に任せる」という考え方です。
 ここで大切なことは、行動を起こす動機が何かということです。「我善し」の気持ちでなく、全体利益のために行動しているかどうかがポイントになります。「善いと思ったこと」という場合の「善い」「悪い」の判断は個人に任されていますが、大きく分類しますと次のように定義することができます。

●「善い」と判断する物差し

@ 他者(人に限らず)の幸せに貢献すること。

A 自己の成長・進化に資すること。


 「善くない」はその逆ということになりますが、あえて表現するならば次のようになるでしょう。

@ 他者の迷惑は考慮せず、ただ自分(家族などの身内も含む)の利益のために行なうこと。(我善し)

A 苦労を避け、現在の自分が楽をする道を選択すること。(刹那主義)


 少し解説をしておきますと、「善い」の@にある「他者」とは、まずは「自分の家族や身内、恋人など」から始まり、住んでいるマンションの人たち、勤務先の仲間、地域社会の人、日本国民、世界の人びと、地球の生き物や自然、……と広がっていきます。どこまでを自分の一部として実感することができるかが、魂の磨かれた度合いと見ることができます。
 基本的には、より遠くにある存在を自分と同一視して大切に考えられるようになることが進化のバロメーターと言ってよいでしょう。原発に反対する動機も、単に自分の今の暮らしが壊されるからという場合と、日本の子供たちの未来の安全な生活のために行動する場合では動機に微妙な違いがあります。さらに、この地球の自然や生き物たちを放射能の汚染から守りたいという広い心を持つことができれば、その動機はさらにレベルの高い物になり、本物の「善」と言えるでしょう。
 しかしながら、普通の人にとって地球の自然や生命を自分の今の暮らし以上に大切に考えることは難しいと思いますので、スタートは「自分の家族や住んでいる町や村のため」という動機でもよいのです。いずれにせよ「善い」と思ったら、自分のできることから実行に移していくべきだと思います。
 その上で、結果については自分の思惑通りにならなくても、そのことで悲観したり、失望したりしないほうがよいのです。最大の努力の結果が自分の期待した内容と違っていたとしても、それは「天の配剤」ということで、必ず意味のあることなのだと信じることです。
 「受け入れる」ということの意味は、「精いっぱいの努力をしたうえで、その結果については不満に思わずに受け入れる」という意味に解釈すべきです。
 まだ言い尽くせない部分もありますが、とりあえずAさんのご質問に対する回答とさせていただきます。

 
 
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