人に知られぬように
善いことを積め
2020年6月15日(月) 
 
 
 前回に続いて拙著『日本沈没最終シナリオ』(たま出版)のなかの「神示編」および「新約聖書編」の内容を抜粋してご紹介します。
 青い文字は拙著『日本沈没最終シナリオ』の内容、黒い文字は、今回新たに書き加えたものです。

 人に知られぬように善いことを積め

 この世の位もいざとなれば宝も富も勲章も役には立たんのざぞ。この世去って役に立つのは身魂の徳だけぞ。身に付いた芸はそのまま役立つぞ。人に知れぬように徳つめと申してあろうがな。神の国に積む徳のみ光なのざぞ。(日月神示)

 人に知れたら帳引きとなるから、人に知れんように、人のため国のため働けよ。それがまことの神の国の臣民ぞ。(日月神示)

 この世界で身につけた財産や地位、名誉などがあの世に持っていけないことは誰でもわかるでしょう。でも、多くの人は死ぬ間際までそれを追い求めるものです。「自分が身に付けた芸」はそのまま役立つということですから、仕事や芸術の分野などで磨いた技術は新しい世界でも使えるということです。
 「徳」に関して言えば、やはり陰徳でないといけないのです。新約聖書でもイエスが「天の蔵に積まれるのは隠れてなされた善行だけだ」と教えています。他者からの感謝の言葉や周りの賞賛を期待しての善行は、動機が不純ということです。それは本当に相手のことを思っての善行ではなく、自分のこと、つまり自分が何らかの利益を受けることを第一に考えての行為だからです。
 「日月神示」には「人に知られぬように徳を積め」と言葉が随所に出てきます。それは道徳的視点からではなく、霊的視点からの忠告なのです。どこからか見返りがくることを計算しての善行は価値が小さいのです。潜在意識はその微妙な心の動きをきっちり把握してしまうからです。
 同様に、陰に隠れて悪い行ないをすると、それもきっちり把握されます。最近は時間の流れが加速されつつある関係で、隠れたところでなされている悪行がすぐに露見するようになっています。政治家の不正や、一流と言われてきた企業の不始末が、次々とマスコミをにぎわすようになっているのはそのためです。老子に「天網恢々疎にして漏らさず」という教えがありますが、まさに天は一つも見逃すことなく、人の行為を把握しているということです。

「人に知れたら帳引きとなる」という意味は、「神様の帳面(データバンク)から消えてしまう」という意味です。この世でまいた善行の種は、神様の世界で芽を出し、実をつけて、やがてこの世での報い(幸運)として返ってくるのがカルマの法則(原因と結果の法則)ですが、それが他の人に知られると、まいた種が育たないということです。
 その理由は、この世で既に見返りを受け取ってしまうからです。どんな見返りかわかりますか? それはこの世で受ける栄誉や報酬がまず第一、それがなくても他者からの賞賛の言葉でいい気分にさせてもらえる、あるいは自分が「立派なことをした」という優越感を持つ、という形で受け取るのです。まして、自分から自慢話をすれば、せっかくの善行は帳消しになるでしょう。「どうだ。私はこんな立派な人間なんだぞ」と胸を張ることはできますが、せっかくまいた善いカルマの種は根付かずに終わるということです。
 最近は、とにかく自分のことを聞いてほしいと思う人が多くなっています。それはすべて自慢話です。病気自慢のような自虐的な内容であっても同じです。他人のことには関心がなく、ひたすら自分の話をしたがる人は要注意ですね。せっかくの善いカルマの種が神様の帳面から「帳引き」になっていると思っておくほうがよいでしょう。
 この神示と全く同じ内容が、有名なイエス・キリストの言葉として新約聖書のなかにあるのです。「有名な言葉」とは「右の手のしていることを左の手に知らせてはいけない」という言葉です。耳にされたことがありませんか? 
 では、その言葉を含む新約聖書の内容にご注目ください。以下は拙著『日本沈没最終シナリオ』の「新約聖書編」からの抜粋です。

 
この世での報いを求めず、 神の国に富を積みなさい

 自分の義を、見られるために人の前で行なわないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたの父から報いを受けることがないでしょう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならしてはいけません。よく言っておきますが、彼らはその報いを受けてしまっているのです。
 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせてはいけません。それは、あなたのする施しが隠れているためです。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるでしょう。
(マタイによる福音書)

 さて、ここからがカルマの法則のエッセンスとも言える内容となります。和英対照の聖書では「自分が蒔いた種の収穫」のことを「報い reward」および「報いを受ける paid」という言葉で表現しています。まさに仏教でいう「因果応報」の「報」に当たる言葉です。
 仏教では、善いことをしたら善い報い(善因善果)、悪いことをしたら悪い報い(悪因悪果)と教えていますが、ここでの「報い」は「善果」の意味に使われています。
 義(善き行為)を行なっても、それが人に見られ、賞讃されることを期待して行なうと、せっかく蒔いた「種」が本来なら天の蔵(神の国にあるカルマの貯蔵所)に積まれるところなのに、その前にこの世で「報い」を受けてしまうので、天の蔵には何も残らないよ、とイエスは忠告しているのです。この場合の「この世での報い」とは、他人の賞讃であったり、賞賛を期待しての自己満足や自慢の気持ちを表しています。
 つまり、「自分はいいことをした(している)」と自慢する気持ちは、天の蔵に積むべき善果を先食いしてしまうことになるということを言っているのです。同じことは「日月神示」の中にも出てきますので、これはカルマの法則の大切なポイントだと考えられます。
 また、自慢するつもりはなくても、自分がした善行が他人に知られると、それは天の蔵に積まれることにならないようです。そのことを、ここでは「右の手のしていることを左の手に知らせるな」と表現していますが、英文を直訳すると、「あなたが貧しい人に施しをするときは、そのことがあなたの最も親密な友達にも知られないようにしてやりなさい」となっています。おそらくギリシャ語の原文には日本語訳のように「右手」「左手」という表現が使われていたのでしょうが、英語に訳した人はそれを意訳して、よりわかりやすくしたものと思われます。


「自分はこんなにいいことをしているんだから、みんなにも知ってほしい」と思うのは人情かもしれませんが、この世で仲間からの賞賛や同情を受けたいと願うのは、目先の小さな報酬に目を奪われて、将来受け取るはずの幸運を先食いしていると考えるべきでしょう。
「明日の百万円より今日の千円のほうが価値がある」という人には何も申し上げることはありませんが、日月神示の神様やイエス・キリストがわざわざこのような忠告をすることには深い意味があるのだと、謙虚に受け止めたほうがよいと思います。

 次回も拙著『日本沈没最終シナリオ』の中から「身魂磨き」に関する内容を拾ってご紹介します。タイトルは「世間や他人を恨んではならぬ」にする予定です。ご期待ください。
 
 
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