ブルーアイランド
エステル・ステッド編 近藤千雄・訳
ハート出版
 
8章 霊界から要求したい条件
 

 死後の世界の実在という、これはどの重要性と興味に満ちたテーマには、当然のことながら真偽を確かめたいと思われることが、山ほどあることでしょう。一人ひとりにその人なりの疑問点があり、今の今までそうとは知らなかった点について質してみたいと考えるのは、無理もないことでしょう。
 本章では、その中でもよく問題にされる点についてお答えしたいと思います。地上時代にもずいぶん多くの質問を受けましたが、こうしてベールのこちら側へ来てみて、自信をもってお答えすることが出来るようになりました。
 まず第一に断言できることは、死の過程を経ることによって、すぐに神の一部となるわけではないということです。霊の世界へ来たことを歓迎して生命の秘密の全てを明かしてもらえるわけではありません。私はもとよりのこと、誰一人として宇宙に関する全知識を細大漏らさず授かるわけではありません。
 たとえば、あなたのお孫さんが次にいつ新しい靴をねだってくるかは、私には予言できません。皆さんよりはホンの少し先が見えるというだけでして、全知識・全真理を手にするカギを授かることなど、とんでもない話です。一人ひとりが自分の努力によって一つ一つ真理を手にしていく――ドアを一つ開けると、その先にまた次のドアがある、その先にまた次のドアが……というふうに、一歩ずつ進むしかないのです。
 しかし同時に、私の方が皆さんよりは真理の始源に一歩近づいたことによって、はるかに多くのことを知ることが出来たこと、そして、皆さんにはまだ体験できないことを体験していることは事実です。
 さて、最初に取り上げたいのは、「環境条件」という用語と、その本当の意味です。いろんな種類の心霊現象に関連して、その環境条件が実に大ざっぱに取り上げられています。成功につけ失敗につけ、あるいは妙な結果が生じた場合にも、すべてを環境条件のせいにして、実験会を催す場所(部屋)をどこにするか、装飾をどうするかにこだわるようになります。確かに、それが正解である場合もありますが、的はずれの場合もあります。たいていは的はずれです。
 いい現象を得るための主要因、何よりも大切な要素は、部屋そのものではなくて、列席者の精神状態です。窓のカーテンやカーペット、芳香などに凝るよりも、列席者が素直さにおいて一体となること、そして身体的にも健康であることです。心の姿勢が何よりも大切です。経験の浅い霊媒や列席者はとかくそうした点を軽く見がちです。もちろん部屋を明るく飾り、花を置き、賛美歌を斉唱して雰囲気を盛り上げることも大切です。が、それが主要素ではありません。
 地上人類にとって神の最大の恩恵の一つであるはずの霊界通信を「次元が低い」といって軽蔑し、それを交霊会の会場のせいにする人がよくいます。今も言った通り、コンディションを良くしようと工夫したことが無意味だったり、かえって障害になったりすることがあるのですが、同時に、確かに大切な条件もあるのです。
 何事にも適切な条件というものがあることは、改めて指摘するまでもないと思います。ごく単純な例を挙げれば、おいしい紅茶を入れるには、紅茶そのものの質も問題ですが、水の質にも条件がありますし、温度にも条件があります。それを無視すると、おいしい紅茶はいただけません。
 もう一つ例を挙げれば、美しい花を咲かせるには、まずタネの保存の仕方に適切な条件がありますし、気候にも地質にも季節にも条件があります。さらに、タネを植えたら、それが要求する手入れを施してやらねばなりません。
 われわれ霊界の側にも、要求したい条件(※@)があるのです。これほど大切な仕事が未経験の人たちによって、そう簡単に思う通りに操られるわけはないでしょう。勝手な要求を出されても、応じるわけにはいかないのです。地上の生命活動には、何事にも条件というものがあります。地上の学者が勝手に要求する条件には、無意味なもの、あるいは、むしろ有害なものすらあります。

※@――この問題についてシルバー・バーチ霊は次のように述べている。

 あなた方が愛し、またあなた方を愛してくれた人々は、死後もあなた方を見捨てることはありません。言わば、愛情の届く距離を半径とした円の範囲内で、常に見守っております。時には近くもなり、時には遠くもなりましょう。が、決して去ってしまうことはありません。その人たちの念があなた方を動かしています。必要な時は強力に作用することもありますが、反対にあなた方が恐怖感や悩み、心配の念などで壁をこしらえてしまい、外部から近づけなくしていることがあります。悲しみに涙を流せば、その涙が霊たちを遠ざけてしまいます。穏やかな心、やすらかな気持ち、希望と信念に満ちた明るい雰囲気に包まれている時は、そこにきっと多くの霊が集まっております。
 私たち霊界の者は、できるだけ人間との接触を求めて近づこうとするのですが、どれだけ接近できるかは、その人間の雰囲気、成長の度合、進化の程度にかかっています。霊的なものにまったく反応しない人間とは接触できません。霊的自覚、悟り、霊的活気のある人とはすぐに接触が取れ、一体関係が保てます。スピリチュアリズムを知っているか否かは関係ありません。霊的なことが理解できる人であれば、それでいいのです。とにかく冷静で受容的な心を保つことです。取り越し苦労、悩み、心配の念がいちばんいけません。そうしたものがモヤをこしらえて、私たちを近づけなくしてしまうのです。


 理性に逆らって物事を推し進めても、成功は得られません。ところが、現実にはずいぶん無理な要求をしておられます。だから失敗が多いのです。まるでフィルムを入れずに写真を撮ろうとするようなもので、撮れるはずがないのに、写っていないと言って、心霊現象の全てを詐術だと決めつけます。
 何事にも条件というものがあります。背後霊が何かをさせようとして、あるいはさせまいとして、いろいろと工面したのに、ついに思うようにならなかったりするのも、必要な条件が欠けているからです。
 例を挙げてみましょう。たとえば霊界の父親が地上の息子のやりかけている行為――自殺とか殺人――に気づいて、それを阻止しようとします。もしも実行に移したらとんでもないことになるので、父親は必死になってその思念を打ち砕こうとします。しかし、そんな時の息子の精神状態は、もはや異常です。いくら父親でも、そういう条件下では救うことができないのです。
 次に、こちらでの生活行動はどうなのかという疑問についてお答えしましょう。
 行動は自由自在です。肉体のような束縛は何一つなく、完全に自由です。さらに私の場合は、準備コースを卒業しましたので、どこへでも自由に行けるようになりました。地上時代に家族関係だった者のいる所、知人や友人だった者のいる所、そういう地上的な縁の人は誰一人いない所など、どこへでも出向いて、教えを受けたり教えてあげたりすることが出来るようになりました。ただし、まだブルーアイランドでの話です。まだ次の界層に定住するところまでは進化しておりません。
 今も述べた通り、どんな地域にでも自由に行けますから、地上界とも絶えず連絡を取っております。地上界の人が私のことを思ってくれると、その念が届きます。誰から送られたものかがすぐに分かりますから、必要とあればその人のもとを訪れてみることもあります。
 もっとも、誰からのものでも届くというわけではありません。たまたま私の書物を読んだとか、私のことが話題になったからといって、それが全部私に伝わるわけではありません。やはり地上時代に縁のあった人に限られます。そういう人の念は、まるで電話で聞くように、よく分かります。そして、直ちに行ってみることも出来ます。
 こういう具合にして、私たちは地上の人たちを援助することができます。その人の日常の行動や考えをよく分析して、その人にとって今何がいちばん大切であるかを判断した上で働きかけます。ですが、さっきも述べたように、いかに親密な間柄であっても、その時の条件しだいで不可能なことがあります。地上でも、アドバイスを与えることはできても無理強いはできないように、こちらでも。影響力を行使できるとはいっても。思いのままにできるわけではありません。
 こちらへ来てしまえば、もう、別離というものはありません。自分より上の界層の人とも、同等の人とも、下の界層の人とも、あるいは今なお地上にいる人とも、別れ別れになってしまうことは有り得ないのです。親和力と愛情のあるところに、別離とか断絶などという事態は生じません。
 肉体の死によってこちらへ来ると、地上の遺族は当然のことながら嘆き悲しみます。が、そのうち――長い短いの差はあっても――他界者についての記憶が薄らいでいきます。次第に思い出すことが少なくなり、脳裏から消えていきます。しかし、その人たちもやがてこちらへ来ます。すると、記憶を奥へ押しやっていた俗世的な雑念が取り払われるにつれて、かつての古い愛情の絆の存在に気づきます。昔のまま無傷で残っている場合もあれば、汚されている場合もあります。しかし、致命的な損傷を受けていることはありません。
 こちらへ来てから、地上の遺族への未練が強すぎると、かえって寂しい思いをさせられることがあります。というのは、遺族たちはまさか故人が死後も生き続けているとは思わず、この宇宙から消えてしまったものと考えています。ところが、故人の目には地上の生活の様子が見えますから、足繁く帰っては、何とかして自分の存在を知らせようとします。が、遺族たちは知らん顔をしています。そのことが故人にとっては寂しさと悲しみを増す結果となり、次第に遺族への関心が薄れていき、遺族が死んでこちらへ来るまで待つしかないと考えるに至ります。
 霊界通信が話題にのぼると、あれほど思い思われていた間柄なのに何の音沙汰もないことを理由に、そんなものがあるはずがないと一蹴する人がいますが、実際には、しきりに働きかけているのです(※A)。
 地上でも、互いにあまり関心のない者どうしはお付き合いはしないものです。話し合っても退屈したり気疲れするような人は、しだいに敬遠するようになります。こちらへ来ると、それがごく自然な形でそうなるのです。各自が発する波動が相手を選別するのです。それを支配する最大の力は“愛”です。夫婦愛・親子愛・兄弟愛・友愛――それが本物であれば、互いに引き合い引かれ合って、幸福感を覚えます。片方が、あるいは双方が愛を失えば、互いに接触の機会がなくなります。
 地上を去ってこちらへ来ると、愛の絆によって、同じ波動をもつ人たちのところへ落ち着きます。が、地上時代に愛の絆があったからといって、必ずしも霊界へそれが持ち越されるとは限りません。初めのうちは会う機会を与えられるかも知れませんが、愛の力の強さが偏りすぎている時は、しだいに引かれ合うことが少なくなり、やがて断絶が生じます。

※A――シルバー・バーチがこんなことを言っている。

 皆さんは、いったん霊の世界へ来てから地上界へ戻り、何とかして働きかけたいと思いながら、それが叶えられずにいる人たちの気持ちがどんなものか、考えてみたことがありますか。地上界を去ってこちらへ来て視野が変わり、人生を初めて正しい視野で捉えるようになって、そのよろこびを何とかして地上の愛する人たちに教えてあげたいと一生けんめいになっている霊が、大勢いることをご存知ですか。
 ところが人間は、そういう人たちの働きかけに全く鈍感なのです。見ることはおろか、聞くこともできません。愚かにも五感だけが実在の全てであると思い込み、その粗末で気の利かない五つの感覚で捉えている世界以外には何も存在しないと考えています。
 私たちがこちらで見かける光景は、死後も立派に生き続けていることを知らせてあげようと、あの手この手と、あらゆる手段を試みるのに、どうしても気づいてくれないことを知ってがっかりとした表情を浮かべている人たちです。呼びかけても聞いてもらえず、目の前に立ちはだかっても見てもらえず、思念を送っても感じてもらえません。
 悲しみに暮れている人たちばかりではありません。楽しく暮らしている明るい家庭においてもそうです。そこで私たちは、重苦しい気持をひきずりながら、その人たちに近づいて、人間側が交霊会にでも出席してくれるようになるまでは、どう努力しても無駄ですよ、と告げるしかないのです。
 
 
 
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