7つのチャクラ 
魂を生きる階段 
キャロライン・メイス  川瀬勝一・訳 
 サンマーク文庫
 

 第一の法則―身体は人生の履歴書

 気の医学から見ると、私たちはみな歩く履歴そのものだ。すべての出来事、すべての人間関係について、身体には、自分のこれまでの人生が包み込まれている。人生が展開していくなかで、私たちの身体の健康状態は、生命が息づく履歴の体現だ。身体は、自分のもつ強みや弱み、希望や恐れを表すのである。
 すべての思考は、どれも身体を駆けめぐり、生理学的な反応を引き起こしている。思考のなかには、爆雷のように全身に反応を起こすものもある。たとえば恐れは、身体のすべての系を起動させる。胃が固くなり、心拍数は増加し、汗が噴き出す場合もある。愛情にあふれる思いは、全身をリラックスさせる。もっと微妙な思考もあるし、無意識のものもある。意味のない思考もたくさんあり、それは網戸を通り過ぎていく風のようなもので、意識する必要もなく、身体への影響もほとんどない。だが、すべての意識する思考と、無意識レベルの思考の多くは、確実に生理学的な反応を引き起こす。
 内容には関係なく、すべての思考は、まず気の形態で体内に入ってくる。感情的、精神的、あるいは心理的、霊的なエネルギーをもつものは生物的な反応を生み出し、つぎに細胞組織系に蓄積される。このようにして、私たちの人生は、毎日ゆっくりと、身体系へと織り込まれていくのである。
 ノームの患者だったある青年の例が、このプロセスのはたらきをよく示している。ノームに電話診断を求めてきたこの患者は歯科医師で、とにかく全般的に気分がすぐれず、だんだんと疲労がひどくなっていた。右腹部に強い痛みがあり、ひどいうつ状態でもあった。精神面、感情面での明晰さを曇らすような疲労が、継続的に増大していくというのは、身体の上で何かがおかしいことを示す気の症状だ。苦痛をともなわないために、ほとんどの人はこれを症状とも考えない。しかし、睡眠時間が増えているのに疲労がとれない場合には、その人は「気のレベルで病気である」ことを身体が伝えようとしているのだ。気の段階でこのメッセージに耳を傾けていれば、発病を防げることも多い。
 うつ状態というのも、調子が悪いことを示す症状だ。臨床医学の世界では、うつ状態というのは一般に感情的、精神的な障害とみなされている。だが長期にわたるうつ状態が、身体の病気の前ぶれということもよくある。気の観点からいうなら、うつ状態というのは、文字どおり無意識のうちに気が失われていく、ということだ。気、という言葉を、生命力と置き換えてもいいだろう。エネルギーがお金のようなものだとしたら、うつ状態とは、財布を開けて、「好きなだけ金をもっていっていい。どう使われようとかまわない」と宣言するようなものだ。長期間のうつ状態は、間違いなく慢性的な疲労を引き起こす。誰がどれだけ自分の金を使おうと気にしなければ、誰でも間違いなく一文なしになるだろう。それとまったく同じように、気がなければ、健康を保つこともできない。
 ノームは調べていくうちにこの歯科医は病気になりかけていると感じた。腹部の痛みがあったため膵臓ガンの検査をしてみたが、異常なしとの結果が戻ってきた。彼が私の診断を求めできたのはこの時点でのことだった。いつものように、患者の氏名と年齢だけを私に伝え、痛みのことや、ノーム自身が疑っていた病気などについてはひと言もふれなかった。診断してみると、この患者の身体の右半身の膵臓のあたりから、有毒な気が出ているのが見えた。この男性は重苦しい責任感を背負っていて、それが苦痛の原因になっていたのだ。自分の生きたいように生きることは不可能なのだと彼は強く感じ、ほかの感情を押しのけて、この気持ちだけに思いをめぐらせていた(もちろん誰でもネガティブな感情はもっているが、そのすべてが病気を引き起こすわけではない。病気になるのは、ネガティブな感情が支配的な力をもつときだ。この若い歯科医は、まさにそのケースだった)。
 自分の診断をノームに話し、この患者は膵臓ガンだろうと伝えた。ノームはすでにその病気を疑っていたことを認め、検査がすべて「異常なしだったことを話してくれた。ノームは患者に、自分の仕事が自分にとっていいものなのか、あらためて考えてみるようすすめた。「あなたの求めるものを得るためには、おそらく人生を変えなければならないでしょう」とノームはこの歯科医に言った。
 患者は、歯科医をやめたい気持ちは認めたものの、家族のことを考えると、ほかの仕事
にはつけないと感じていた。ノームは彼に膵臓ガンの波動があったことは言わなかったが、人生の不満について話し合い、ネガティブな態度を変えさせるよう努めた。残念ながらこの人は、ノームの助言に耳を傾け、行動することができなかった。彼の考える責任とは自分を犠牲にしても他人の世話をするということであり、自己も同時にいたわり、自分が満たされるように人生を設計しなおせなかったのだ。
 2週間後、この青年の主治医が、ふたたび膵臓ガンの検査をした。今回はガン反応ありとの結果が出た。ただちに手術が行われたが、彼は術後4カ月もたたないうちにこの世を去った。
 癒しには、発想を転換するための集中した努力が必要なこともある。この歯科医は、自分の職業に対する悲しみと、そこから抜け出せないという閉塞感が、身体の生理と健康を変えてしまっているという事実を認められなかった。しかし他人から見ると、彼のこのパターンを認識することは容易だった。人生のあらゆる部分が身体をつくり上げるという考えを受けいれることも、癒しのプロセスの一部でしかない。それを頭のなかだけのレベルから、身体という物理的なレベルにまでもっていき、この真実を腹で、そして細胞で感じ、百パーセント信じなくてはならないのだ。
 何か新しいことを学ぶと、その知識を軽い気持ちで使ってしまうことがある。履歴が身体となるという考えの裏には、私たちはある程度、自ら病気をつくり出しているという意味合いがある。しかし、これはとても大切な点なのだが、この真理を乱用して、病気になった人や自分を責めてはいけない。人が意識的に病気をつくり出すことはまずない。自分がとっているのは、身体に有毒な行動パターンや態度だと気づかないでいる結果として、病気は発生するのだ。病気になり、自分の態度を見なおすことを余儀なくされてはじめて、私たちは日常の恐れや反感に満ちた態度が、実は身体に悪い物質だと悟る。気とは力である。つらかった出来事をいつまでも思い出しつづけてエネルギーを過去に送っていると、いまという瞬間に存在する身体から力が漏れ、それが病気につながることもあり得る。
 力は癒しにも、健康を維持するのにも不可欠なものだ。無力感を生み出すような態度や考え方は、自分を愛する心を低下させるだけでなく、肉体からエネルギーを枯渇させ、全体的な健康を弱める。これに関連して、つぎに探究する法則は、健康における力の重要性についてのものだ。
 
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