7つのチャクラ 
魂を生きる階段 
キャロライン・メイス  川瀬勝一・訳 
 サンマーク文庫
 

 集団の論理vs.個人の意識

 家族が信ずることが「真実」か否かにかかわらず、そのひとつひとつは、私たちの気の一定の量を、何かを創造する方向に差し向ける。信念や行動は、すべて直接的な結果をもたらす。信念を共有するとき、私たちは、そこにつくり出される気と、その場所で物理的に起きる出来事の一部となる。これが、「すべてはひとつなり」という聖なる真理が、創造的、象徴的なかたちでくっきりと現れるということだ。選挙に出馬したある候補者を支持し、その候補者が当選すると、自分の気的、物理的な支持が、勝利の一翼を担ったと私たちは感じる。それだけでなく、その候補者は、自分の利害を代弁しているという感触をもつのである。これが、すべてはひとつなりという真理が内包する一体感のもつ力を、物理的に感じるひとつの例なのだ。
 カール・ユングは、集団の共有する精神は、意識のなかでも「最もレベルの低い」形態だと語ったことがあるが、そのわけは、悪い集団行動にかかわった個人が、自分の役割と行動に対する責任をとることはほとんどないからだ。この現実は、すべてはひとつなり、という真理の陰の部分だといえる。集団の不文律においては、責任をとるのはリーダーだけで、従った者たちではない、とされているのだ。
 第二次世界大戦後に行われたニュルンベルク裁判は、この「集団的な」責任の限界を示す古典的な例である。千百万人(ユダヤ人が六百万人、そのほか五百万人)もの人間の殺戮をくわだて、それを執行した罪で裁判にかけられていたナチスの被告たちは、一様に自分は「命令に従っていただけ」という供述をした。実際の行為をしていた時点では、集団での責任を果たせるという自分の能力を誇りにしていたことは間違いないが、裁判で個人的な責任をとることはできなかったのである。
 正しいものであれ、誤りであれ、集団が一丸となってもつ信念の力を考えれば、自分の集団と立場を異にするというのは大変なことである。私たちは集団が認めるような選択をし、その社会的マナーを守り、服装や態度も受けいれるよう教えられる。このような適応をすることは、個人の意志と集団の意志の力の融合を象徴している。霊的にも、感情的にも、あるいは生理的にも自分が安心していられる集団、あるいは家族とともにあるというのは、強力なフィーリングだ。そのような一体感は、私たちに力を与え、気的にも内面の力を高め、創造力を増してくれる。そしてそれは、個人が集団と一致する選択をしているかぎり続く。私たちは、一体となって創造するのである。
 それと同時に、私たちの内面には、自分自身の創造力を探究し、個人としての力と尊厳を育みたいという本能的な欲求がある。この欲求こそが覚醒を求めるという行為の裏にある原動力なのだ。普遍的な意味での「人生の旅」とは、自分自身の力に気づき、それをどう使うのかに気づいていく過程である。選択する権利にともなう責任を意識するようになるのが、この旅の中心的なポイントだ。
 これを気の観点から見てみよう。覚醒するにはスタミナが必要だ。これはきわめて大きなチャレンジである。同時に、自分自身が信じるものは何かを見直して、もはや自分の成長を支えてくれない人びとから離れていくことには、痛みがともなうことも多い。変化はまさしく人生の本質であり、つねに続いていく。内面的に成長すれば、これまで信じてきたことの一部からは脱却していくだろうし、逆にさらに強く信じるようになるものもあるだろう。その過程で、まず最初に違和感を感じ、やがて捨てていくのは、同族的な信念だ。それは、私たちの霊的な成長が、気の体系の構造にしたがって進んでいくからである。気体系において同族チャクラは下位にあるのだ。
 自分の信念体系を見直すということは、霊的にも、身体にとってもひとつの必要なプロセスだ。私たちの肉体、知性、それに霊体が活発に生きていくためには、新しい思考が必要なのである。地城や文化によっては、家族の誰かが病に倒れないかぎり、運動や健康的な食事、栄養などに対して人びとの意識がほとんど向けられない場合がある。ひとりの発病をきっかけに生活の新しい処方箋が与えられることもあるだろう。その結果、家族は、栄養や運動がもつ癒しの力に気づくといったように、自分の身体のケアについて、以前よりも責任ある選択をする必要性を認識する。つまり心身両面で、これまで慣れ親しんできたものとはまったく異なる現実に触れることになるのだ。
 象徴的に見ると、人生で起きる危機は、個人の成長にもはや役だたなくなった信念からは自由になる必要があることを教えている。自分が変わっていくのか、あるいはそのまま停滞するのかという選択を迫られるこのような時期は、最大のチャレンジの機会だ。健康のための新しい生活パターンであろうと、何か新しい霊的な活動の実践であろうと、新たな分岐点とは、変化を続ける人生が新しいサイクルに入ることを意味している。そして、自分が変われば、慣れ親しんだ人びとや環境にしがみつくのをやめ、人生は新しい段階に進んでいく。この結果は、どうしても避けられないことなのだ。
 私のワークショップにやってくる人たちのなかには、このふたつの世界の中間に引っかかってしまっている人がたくさんいる。もうしがみつくのをやめなければならない過去の世界、そして、踏み込んでいくのがまだこわい、新しい世界のあいだだ。「覚醒する」ことに私たちはひかれる。だが同時にそれは、とてつもなく恐ろしいことでもある。自分の健康、キャリア、価値観、そして思考までも、すべてにおいて自分自身が責任をとることを意味しているからだ。どの領域であっても、いったんひとりの個人としての責任を受けいれたら、もはや自分の行為の言い訳に「集団/同族的な理由づけ」を使うことは二度とできないのである。
 同族意識では個人の責任が明確に規定されていないため、自分の選択で生じる責任を避けることは簡単だ。同族的責任というのは、おもに物理的なレベルに影響する。つまり、金銭的な管理や、社会的な関心事、人間関係、あるいは職業といったものについて、きちんと釈明する責任を負っているということだ。しかし、集団の価値観や態度について、個人が責任をとるよう集団が要求することはない。集団の論理にしたがえば、「うちではみんなそう思っているから」と、自分の偏見を正当化することが許されるのである。そのような言い訳がもたらす快適さをあきらめるのは、きわめて困難なことだ。「みんなそうしているんだから、自分がやって何が悪い?」と自分がどれだけ言ったことがあるか思い出してみてほしい。このような責任逃れは、「すべてはひとつなり」という聖なる真理の最も下等なかたちであり、脱税から不倫、そして店員が間違ってよこした釣り銭をくすねることまで、道徳に反するあらゆる行為の責任を逃れるのに使われる。しかし、霊的に覚醒している個人は、集団の論理を利用することはもはやできない。脱税は意図的な窃盗となる。不倫は婚姻の契りを意識的に破る行為となる。釣り銭をくすねることは、その店から盗むことと同じになるのである。
 癒しがはじまる前に、まず自分が属している集団が抱く偏見にどれほどとらわれているかを、あらためで見直す必要がある場合が多い。
 ジェラルドという男性は疲労困憊しているといって、私に直観診断を求めてきた。彼の全身の気をさっと見てみると、大腸に悪性の腫瘍があるという印象を得た。最近検査を受けたかたずねると、一瞬躊躇したあと、実は大腸ガンと診断されたばかりだと彼は語った。そして、本当に治ると信じられるようになるために、私の助けが必要だというのだ。
 彼の内面には、自分の属する集団がガンに対してもつ見方から自由になりたいという思いがあった。家族や親戚でガンになった人間は、みな死を迎えていたことから、家族も彼自身も、ガンが治るとは信じていなかった。プラス思考の見方を育むセラピーのように、何か助けを得られる方法について、私たちは話し合った。最も重要なのは、ジェラルド自身、この集団レベルの見方とのつながりが、身体の病気と変わらぬほど深刻な問題であると直観的に気づいていたことだ。癒しの過程で、ジェラルドは、ガンに関するこの同族的なパターンから解放されるのに役だつようなセラピーの助けを借りた。彼には自分に残された選択をすべて試してみようという気持ちがあったのだ。
 
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