教科書が教えない歴史
藤岡信勝/自由主義史観研究会 
産経新聞社
 

 ペリーはなぜ日本に来たのか

 日本がアメリカとの戦争に負けたあと、1945年9月2日軍艦ミズーリ号上で、降伏文書の調印式が行われました。この時、ペリー来航当時の「星条旗」が掲げられました。いかにもアメリカらしい演出ですが、単に演出だけでない意味がありました。実はアメリカにとって、ペリーの日本遠征、それから92年後の調印式との間には深いかかわりがあったのです。
 西部開拓を推し進めていたアメリカは1845年にメキシコからテキサスを奪いとりました。アメリカは、こうした領土拡張は人口増加による当然の政策であり、神から与えられた「明白な運命」(英語で「マニフェスト・ディスティニィ」)であると正当化しました。以後、この考え方は太平洋を越えてさらなる西進をもくろむアメリカの「大義」となり、ペリーの日本遠征の動機となったのです。
 ペリーによる日本開国の陰の功労者としてアメリカ議会から表彰された人物にアーロン・ヘイト・パルマーという実業家がいます。彼はアメリカの進出先として太平洋の彼方、極東の中国、日本に的を絞りました。ところが当時船で太平洋を横断して行こうにも、途中で燃料や食料を供給してくれる寄港地はありません。ですからハワイをアメリカに併合した上で、日本に開国を求めるほかに手はないと考えたのです。
 パルマーは、日本開国のための戦略を練り上げ、大統領や国務長官に熱心に説きつづけました。たとえば1849年に国務長官クレイトンに提出した意見書では「艦隊を直接江戸に向かわせ、将軍もしくは幕府の部局の長に面会を求めよ。それ以外の下級役人などとは接触するな」と提言しました。この方針はのちにペリーがとった態度とみごとに一致します。
 また、パルマーは拒否されたならば武力で「江戸湾を封鎖し、品川を抑えよ」とも主張しました。実際ペリーは日本側との交渉でも、回答が得られないときには「祖国が侮辱されたもの」とみなし、いかなる結果を招こうともすべて日本側に責任がある、と言明したのです。ペリーは遠征前に頻繁にバルマーに会って日本に関する打ち合わせをしていました。だからペリーがパルマーの指示通り行動したとしても不思議はありません。
 わが国が戦争に負けた1945年8月14日のアメリカの新聞ニューヨーク・タイムズは「我々は初めてペリー以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これで中国大陸のマーケットは我々のものになるのだ」と書きました。この記事は。ペリー以来のアメリカのねらいが何であったかをよく示しています。ペリー来航はマニフェスト・ディスティニィと名づけられた世界戦略が、わが国に矛先を向けた歴史的事件にほかならなかったのです。 (占部賢志)
 
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