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キリスト教宣教師の追放 秀吉は当初、キリスト教の布教を認めていたが、やがて勢力を拡大したキリスト教徒が、神社や寺を破壊する事件が多発する。イエズス会が日本人を奴隷としてヨーロッパに売買していたとわかると激怒し、天正15年(1587)、「バテレン追放令」を発布、宣教師を国外追放とした。ただ、庶民の信仰までは禁じなかった。 ところが、文禄5年(1596)に起こった「サン・フェリペ号事件」がきっかけとなって秀吉はキリスト教に対する態度をいっそう硬化させ、庶民の信仰も禁止した。 この時、難破したスペイン船、サン・フェリペ号の水先案内人が「スペイン国王はキリスト教の宣教師を世界中に派遣し、その土地の民をキリスト教徒にして国を裏切らせてから、その国を武力征服する」という意味のことを告げたからといわれている。このことを証明する史料はないが、当時のスペインやポルトガルが宣教師に先兵のような役割をさせ、中南米や東南アジアの国々を植民地にしてきたことは事実である。 アステカ帝国(現在のメキシコに位置する)とインカ帝国(現在のペルーに位置する)がスペイン人に滅ぼされたのは、まさに同時代である(アステカ帝国滅亡は大永元年【1521】、インカ帝国滅亡は天文2年【1533】)。二つの国は単に征服されただけでなく、町や文化を徹底的に破壊され、先住民は虐殺され、生き残った者は過酷な奴隷労働を強いられ、一時は民族滅亡の危機に陥った。この虐殺と奴隷労働の凄まじさを物語るデータを一つ挙げると、インカの人々は、百年の開に1千6百万の人口をわずか百万にまで減らされている。 また後年のことではあるが、アメリカは17世紀から19世紀にかけて、奴隷労働に使役するためにアフリカから黒人を約1千2百万人(諸説あり)も運んだ。長らく白人は、有色人種を同じ人間とは考えていなかったのだ。 日本がそういう運命を辿らなかったのは、ひとえに武力を有していたからであった。 フィリピン臨時総督のドン・ロドリゴやフランシスコ会のルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書には次のような記述がある。 「陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です。よって布教をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向けるしかありません」 やはりスペインが布教を侵略の道具に使っていた面は否定できない。 秀吉が、サン・フェリペ号事件の直後から、キリスト教に対して激しい弾圧を行なったのは、事件の前後に何らかの情報を得たからだと思われる。この後、日本におけるキリスト教の布教の勢いは急速にしぼんでいく。 |
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