日本人が知っておくべき
この国根幹の重大な歴史 
加治将一 × 出口汪  ヒカルランド 
 

 大室家の人は明治天皇すり替え説についてどう証言しているか

■編集部■ 大室寅之祐が住んでいた田布施町(山口県)からは首相が2人も出ていますね。
■加治■ 知力では坂本龍馬の土佐に劣り、武力と経済力では薩摩に劣り、技術力では佐賀に劣るのに、なぜ長州閥が幅をきかせたかというと、明治天皇を握っていたからです。田布施も直接行って取材したけれど、大室寅之祐の話はタクシーの運転手さんも知っていて、ポピュラーでした。
■出口■ 2002年、父・和明が他界して五十日祭が過ぎたとき、母は父の遺志に従って、長州を訪ねたそうです。
 山口県柳井市で郷土史家の松重楊江氏に会い、萩藩の秘史年表を得て、明治維新の嘘と真実を確かめたそうなんです。
 翌朝、明治維新の知られざる原点ともいえる隣村、田布施町の土を踏みたい思いに駆られた母は、なんとか田布施町に住む大室ヒサ子さん宅を訪ね当てます。そこで思いがけず招き入れられ、今となってはこの方しか語れない歴史の体験をまざまざと聞くことができたといいます。
■編集部■ 大室ヒサ子さんの写真、本で拝見したことがあります。
■出口■ 大室ヒサ子さんはそのとき94歳でした。南朝の末裔といわれるだけあって、凛とした眼差し、はっきりした物言いの持ち主でした。
 その大室ヒサ子さんの話によると、1392年(明徳3年・南朝元号元中9年)、南北朝が合一されたとき、吉野にいた南朝の人々は各地に落ち延びた。その1人が、南朝後醍醐天皇の玄孫・光良(みつなが)親王で、応永年間(1394〜1428)に曽我氏に守られ、堺から長州に落ち延びたんだ、と。その後、大内氏、毛利氏の庇護を受け、「大室」を名乗り、南朝の皇統を守ってきたといいます。
 大室家のある田布施町の2キロ北の石城山には、第2奇兵隊の屯所が置かれていました。力士隊の隊長の伊藤博文はそこから、毎日のように大室家に来ていたというんですね。
■編集部■ 貴重な証言ですね。
■出口■ 寅之祐も相撲が好きで、伊藤博文や奇兵隊の若い連中と相撲や乗馬に明け暮れ、軍事訓練を受けたといいます。伊藤博文と明治天皇はこの時代からの仲間だったんですね。
 ヒサ子さんは、明治天皇は自分の祖父・庄吉の2歳違いの兄・大室寅之祐であると語ったそうです。母が前出の『ムー』に書いた記事を再び引用してみましょ

 寅之祐は16歳のとき、毛利公のところへ饅頭を作りにいくといって出かけたが、そのまま京都に上って即位し、帰らなかった。
 寅之祐が行方不明になってから、わずか14歳の庄吉は上の関の宰判(引用者注・萩藩の行政区分)に呼びだされ、痛めつけられ、兄の寅之祐の行方を聞かれたが、「俺が他出している間に兄やんはいなくなった」といいつづけた。
「帰ってよい」といわれた後、庄吉は代官が仲間の手下と「知っていたら殺してしまえといわれたが、知らないから殺せない」と話しているのを耳にした。
 しかし庄吉は家に帰ってから、「でも俺はぜんぶ知っている」と語ったという。
 その後、明治天皇となった寅之祐は、明治10年頃、軍艦で家の近くの水場にやってきた。ヒサさんの祖父の庄吉が会いにいくと、軍艦の甲板の上に姿を見せ、「ソクサイかあ」と叫んだという。
 
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