古代霊は語る
シルバー・バーチ霊訓より
近藤千雄・訳編 潮文社 
第2章 絶対不変の法則 ― 因果律 ―

 除霊しても因縁が切れるとは限らない

 そこで本章ではその神の摂理とは何かという点に焦点を絞ってみましょう。シルバー・バーチはこれを「恒久不変の自然法則」と呼んだり「神的叡智」と呼んだりしていますが、これをつきつめれば「原因と結果の法則」、いわゆる因果律に集約されるようです。
 こう言うと「なんだ、要するに因縁のことだろう」とおっしゃる方がおられると思います。
その通りです。しかしシルバー・バーチはこれに人間の霊的向上進化という目的を付加します。単なる因果応報の機械的なくり返しではなく、その因果律の背後に人間を向上せしめんとする神の配慮があると説くのです。
 それがある時はよろこびとして感じられ、ある時は苦しみとして感じられたりします。人間の真情として、不幸や貧乏、病気、災害といったものが無いことを希望しますが、それは今という刹那しか意識できない人間の狭い了見から出るわがままであって、過去、現在、未来の三世を見通した神の目から見れば、当人の成長にとってはそれが最上であり必須のものであるわけです。
 そうなると、いわゆる「因縁を切る」ということのもつ重大性を痛感せずにはおれません。切ることが大切だと言っているのではありません。はたして因縁を切ることが正しいことなのかどうか、イヤその前に、一体因縁は人為的に切ることが出来るものなのかどうかを真剣に考えなくてはならないということです。
 この「因縁を切る」という観念は、私の知るかぎりでは世界でも日本人だけのもののようです。そして、これは非常に広い意味、いろんな意味で使用されており、まずその整理から始めなくてはならないようです。
 たとえば何代にもわたって長男が自殺するという家系があるとします。「怨みの因縁だろう」――だれしもそう考えます。そしてそれは多分当たっているでしょう。そこでその因縁を切るための手段を講じます。
 手段にもいろいろありますが、要するところ長男を自殺に追いやる霊魂、いわゆる因縁霊をつかまえて諭すなり供養するなりして改心させることになります。そしてそれがうまく行けば、たいていこれで「因縁が切れた」と思いがちです。
 がここまでの段階は因縁霊との縁が切れたということであって、その奥の因縁そのものが消えたとはいえません。もしかしたらその時期がちょうど因縁の消滅する時期だったかも知れませんから、それならば本当の意味で「因縁が切れた」ということになりますが、因縁霊もあくまで因縁という法則に便乗して動くコマのような存在にすぎないのですから、因縁霊だけを人為的に引き離しても、それだけで因縁そのものが切れたということにはなりません。
 では因縁そのものが自然消滅するまで手段を講ずべきでないということになるかというと、そうとも言えません。病気と同じで、生命の危険もあるほどの大病の場合は手術もやむを得ないことがあるように、人為的に因縁霊を引き離す術、いわゆる除霊の必要な場合もありましょう。ただ、それだけで事足れりとする考えは誤りであることを私は指摘しているのです。その奥の因縁そのものが残っているかぎり、また別の形で不幸や災厄が起こってきます。
 次に、自分に何のかかわりもない遠い祖先の残した因縁になぜ自分が苦しまねばならないのかという疑問が生じます。一見もっとものような疑問ですが、これはスピリチュアリズムの真髄を知らない人の抱く疑問といえそうです。
 自分とかかわりがないという考えそのものが根拠のない考えであって、実際は深い深い因縁の糸によってつながっているのです。これは生まれ変わり、つまり再生の問題にかかわってくる大問題で、これは次章でくわしく取り扱うことにして、ここでは要するに、縁のないものとの係わりあいは絶対にない、と述べるに留めておきましょう。シルバー・バーチはそれを次のように表現しています。

 そのうちあなた方も肉体の束縛から開放されて曇りのない目で地上生活を振り返る時がまいります。そうすれば紆余曲折した、一見とりとめのない出来ごとの絡み合いの中で、その一つ一つがちゃんとした意味をもち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解するはずです。

 これは人生が有目的の因果律によって支配されていることを物語っているのですが、その 「有目的」というところに注目していただきたいのです。つまり宇宙人生が魂の向上進化という至上目的のために経綸されているということです。この点が従来の因果律の思想と本質的に異る点といえましょう。
 
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