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第5章 死後の世界 | ||
死後の世界に関する一問一答 B 問 死後の生命は永遠ですか。 ●シルバー・バーチ 生命はすべて永遠です。生命とはすなわち神であり、神は永遠だからです。 問 霊界はたった一つだけですか。 ●シルバー・バーチ 霊の世界は一つです。しかしその表現形態は無限です。地球以外の天体にもそれぞれに霊の世界があります。物的表現の裏側にはかならず霊的表現があるのです。その無限の霊的世界が二重、三重に入り組みながら全休として一つにまとまっているのが宇宙なのです。あなたがたが知っているのはそのうちのごく一部です。知らない世界がまだまだいくらでも存在します。 問 その分布状態は地理的なものですか。 ●シルバー・バーチ 地理的なものではありません。精神的発達程度に応じて差が生じているのです。もっとも、ある程度は物的表現形態による影響を受けます。 問 ということは、私たち人間の観念でいうところの界層というものもあるということですか。 ●シルバー・バーチ その通りです。物質的条件によって影響される段階を超えるまでは人間が考えるような「地域」とか「層」が存在します。 問 たとえば死刑執行人のような罪深い仕事に携わっていた人は霊界でどんな裁きを受けるのでしょうか。 ●シルバー・バーチ もしその人が、いけないことだ、罪深いことだと知りつつやっていたなら、それなりの報いを受けるでしょう。悪いと思わずにやっていたなら咎めは受けません。 問 動物の肉を食べるということについてはどうでしょうか。 ●シルバー・バーチ 動物を殺して食べるということに罪の意識を覚える段階まで魂が進化した人間であれば、いけないと知りつつやることは何事であれ許されないことですから、やはりそれなりの報いを受けます。その段階まで進化しておらず、いけないとも何とも感じない人は、別に罰は受けません。知識にはかならず代償が伴います。責任という代償です。 以上、各種の資料を引用しながら死後の世界を見てきましたが、全休を通じて最も注目しなければならないのは、死後の世界と現実の地上生活とが密接不離の関係にあるという点であろうかと思います。 地上生活中の体験と知識が死後に役に立つという現実的な意味にとどまらず、地上生活中の意識や道徳感覚が時として死後の霊的進化向上に決定的な影響を及ぼすこともあるという意味においても、多寡が六、七十年の人生と軽く見くびることが出来ないものがあるようです。 たとえば大哲学者と仰がれた人が、その強烈な知性がかえって災いして、死後、自分の知的想像力で造り上げた小さな宇宙の中で何百年、何千年と暮らしている例があると聞きます。これをマイヤースは「知的牢獄」と呼んでいます。各宗教の指導者やその熱烈な信者にも当然同じことが言えます。 この問題は別の章で改めて取り扱うことにして、話を元に戻して、もしも地上生活と死後の生活とに現実的にも道徳的にも何の因果関係もないとしたら、また仮りに関係があるにしても、それが仏教に見るような永遠の地獄極楽説とか、キリスト教に見るような、嫉妬したり報復したりする気まぐれな神の支配する世界だとしたら、一体われわれは地上生活をどう生きたらいいのでしょう。まったく途方に暮れるばかりではないでしょうか。 そうした観点から改めてスピリチュアリズムをみると、それがいかに合理的で、知性も道義心も宗教心も快く満足させてくれるものであるかを再認識するのです。 しかし同時にもう一つ別の観点、すなわちオリバー・ロッジの説に見られるコペルニクス的転回によってこれを見ますと、地上生活と死後の世界とに関係があるのは至極当り前といえるわけです。われわれは肉体という鈍重な衣服をまとってホンの束の間を地上で暮らしているわけで、すぐまた元の生活すなわち霊界での生活に戻るわけです。つまり、もともと霊界で暮らしている者が危険を冒して地上へやってくるにすぎないのです。 とは言え、地上に生を享けるということは、ロッジも言っているとおり、そう易々と叶うものではないようです。その問題になると仏教の方に一日の長があるようです。「帰経文」という経に次のような箇所があります。 人身受け難く、今已(すで)に受く、仏法聞き難く、今已に聞く。此の身今生に度(さと)らずんば、更に何の生にか度らん。我等もろともに、至心に三宝に帰依し奉る。 死後の世界を知ったからといって。われわれは、かりそめにも地上生活を軽んじることがあってはならないと思います。その戒めをよく表わした俳句があります。決して名句とは言えないまでも、よき教訓を含んだ句として最後に紹介しておきます。 浜までは海女も蓑きる時雨かな 高神覚昇著「般若心経講義」より |
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