第三章 愛の住みかである天国

 昔から天国というのは、至福の場所、永遠に神とともにいられる精神的状態だと考えられてきた。神とは、最高権威の実在とも、愛とも定義されている。そこから、天国は愛に満ちた土地だとされているのだ。
 私か呼ぶところの天国は、あなたが自分の行為をとおして勝ち得た場合に到着する場所のことだ。愛情こまやかな人間は、この世における善良な暮らしを通じて、愛の住みかである天国にその場所を得ることになる。
 暑い午後にアイスクリームを食べる、山を抜けてドライブする、愛する人間を抱き寄せる、お気に入りの音楽に耳を傾ける、偉大な芸術作品を眺める、難プロジェクトを完成させる、あるいはビーチでくつろぐなど、ほんの少し例をあげただけでも、私たちを天国にいるような気分にさせてくれるものごとはたくさんある。
 自分にとっての天国は、十人十色だ。テリーにとっては、午後アンティーク・ショップを訪ね歩いたあと、夫とろうそくの明かりの中でのディナーをとるのが天国かもしれない。モートにしてみれば、望遠鏡で星を観察するのが天国だ。そしてリーにとっては、テニスの試合で勝つことがすべてだ。エレンはダイエットしないで5キロほど体重を減らせないものかと願っているし、ジョーは理想的な女性と出会い、結婚することを夢みている。クリフォードの望みは金銭だけだし、シャリは「完璧な仕事」さえあれば幸せになれると考えている。癌に冒されているレスリーにとっては、健康体こそが天国だ。そしてマイケルは、心の安らぎを切望している。
 眺める目によって美の定義がさまざまであるように、天国の概念も人によってまちまちだ。私たち人間が変化していくように、天国の理想も変わっていく。子供なら、食べられる限りのキャンディーが天国ということになるだろうし、ティーンエージャーなら、仲間に受け入れられることが天国だ。年を取れば、医者に「あなたはいたって健康です」と宣言されるだけで至福を感じることだろう。
 ある人の天国は、別の人の地獄になりえる。組織体制が苦手な人間は、自分のクリエイティブな素質が握りつぶされてしまう会社組織の中では、心穏やかではいられないだろう。その人にとって、経済的な安定性よりも自由のほうが大切なのだ。一方、安定した生活を求める人間にしてみれば、企業家の生活では落ちついていられないはずだ。そういう人は、危険に満ちた人生よりも、安定さえしていれば稼ぎが少ないほうがましだと考える。同じように、ひとりぼっちで生きることを恐れる女性は、相手なしの人生に運をまかせるよりはましだと言って、満足しない結婚生活を続けていこうとするかもしれない。                 
 愛情深い祖母のグレースにとっては、自分の緑の椅子に腰掛け、からだを休めているときがいちばん幸せだった。祖母にしてみれば、いまも昔もそれが天国なのだ。この世における行為を通じて、彼女は自分がいちばん望むかたちで、心穏やかに休む権利を勝ち得たのだ。恐怖心など抱かないまま霊界へと移行した祖母は、自分の望みどおりにすることができた――いちばんお気に入りの椅子に腰掛け、まわりの出来事すべてを眺めていたいという望みがかなえられたのだ。そのうち、その気になれば、霊界のほかの場所を見て回ることだってできるのだ。
 一方、祖母の双子の姉メイムは、霊界の中を隅から隅まで忙しく探検して回っている。メイムは祖母の何年も前に他界していたが、生前は、いつも祖母から落ちつきのない人間だと評されていたものだ。その性格はそのまま霊界に持ち込まれた。メイムにとって、年がら年中椅子にすわって過ごすというのは、いわば拷問だ。だが祖母にとっては至福だった。二人とも、自分の好きなように、霊界で暮らすことができるのだ。

 デーヴァシャン

 「デーヴァシャン」というのは、サンスクリット語で「天国」または「神々の地」を指す。
 善良な人間は、この世での人生の合間に、「意識の状態」であるデーヴァシャンへと向かう。その地で、この世に生まれ変わるまでのあいだに過ごす時間は、個人のカルマによってさまざまだ。
 デーヴァシャンでは、現世で知り合った人たちに囲まれて暮らす。それはいわば天国のような生活なので、会いたいと思う人に会えるし、自分のいちばんの楽しみを好きなだけ味わえる。物質界での問題や苦しみからは、すっかり解放されるのだ。だが物質界に残してきた愛する人間のことを気にかけていると、至福の状態を満足に味わえなくなる。
 たとえば、ティーンエージャーの息子を妻に残したまま他界した父親が、家族の問題にいつまでも目を奪われていれば、彼に心の平穏は訪れない。もうこの世の人ではないのだから、その父親には何をどうすることもできないのだ。「死を越えた愛」は確かに存在する。だがそれは、非建設的な愛し方ではない。感傷が理解に取って代わるという、完璧な献身愛なのだ。だからいま例にあげた父親も、残してきた愛する人間たちは彼らの教訓、つまり彼らのカルマを乗り越えなければならないと理解するはずだ。そしていずれは、みんなと再会することになる。思い出していただきたいのだが、霊界でも常識というものがいき渡っている。自分の力ではどうにもできないことなら、くよくよ思い悩んでも仕方がない。前進あるのみだ。このことを念頭に置きながら、霊界のさまざまな界層について見ていこう。

 界層

 子供のころ、天国、地獄、リンボについて教わった。天国とは神が住む地で、善良な人々が天使と一緒に音楽に囲まれながら暮らしているという。地獄は火と悪魔に満ちた恐ろしい場所。リンボは洗礼を受けなかった赤ん坊が住むところ。これを教わったとき、地上と天国のあいだで宙に浮く赤ん坊のイメージが頭から離れなかったものだ。ひとつの儀式を受けなかったがために、なぜ赤ん坊が苦しめられることになるのか、私にはどうにも理解ができなかった。
 ありがたいことに、七歳になるころにはそういった誤解もとけ始めた。霊視能力を通じてまったく異なった死後の世界を見たおかげで、私はアストラル界に目を向けることができたのだ。私たちが天国あるいはデーヴァシャンと呼ぶ領域は、驚くべき場所だ。その一方で低い領域、つまり地獄は、思い出すだけでもおぞましい。

 天国の概観

 デーヴァシャンには、多くの界層が存在する。私たちは、自身の精神的発展と人間性によって、それぞれの界層を勝ち得る。それは。はしごをのぼるようなものだ。その横木一本一本をのぼっていくことで、頂上にどんどん近づいていく。ゆっくりと、おそるおそるのぼっていく者もいれば、何を恐れることもなくさっさとのぼる者もいる。やがては、だれもが頂上に到着する。そこに達するまでの過程が大切だ。私たちは、完璧な幸せへと近づくための一歩一歩を十分に楽しまなければならない。ローレンスはよくこう言う。「なぜ急ぐんだい? 時間は永遠にあるんだ」
 各界層に入ったときのことを言葉で説明するのはむずかしい。まず境界線で、あなたの愛する人たちが待ってくれているはずだ。彼らの興奮は、あなたにも手に取るようにわかるだろう。デーヴァシャンの美しさを、新たにやってきた人に見せるのは、一種の名誉なのだ。とにかくその色彩がすばらしい。この世と比べると、すべてのものがずっと生き生きとして、あざやかだ。霊界では、どこもみな実に生気にあふれている。想像してみてほしい。衰退、病気、拒絶など、何ひとつ存在しない世界なのだ。
 あちこちにある庭園は、青々として、エキゾチックで、果てしなく広がっているように見える。私がこの世で目にした庭園の中で、あそこに匹敵するものは、スコットランドのフィンドホーンとサー・ウィリアム(ローレンスの師)が田園に所有する庭園だけだ。
 はじめてフィンドホーンを訪れたとき、カンタロープほどの大きさのバラの花に、私は圧倒されてしまった。いままで目にしたことのあるどのバラよりも、はるかに長い期間にわたって花を咲かせていた。フィンドホーンというのは、ほんとうにすばらしく、不思議な土地だ。霊媒能力を持つすてきな女性アイリーン・キャディが、フィンドホーンに生命を吹き込むよう指導されたのだ。アイリーンは、「精霊」たち――ブラウニー(小妖精)や妖精などが、彼女の庭園を高める方法を教えてくれた――と交信するようにと指示された霊的メッセッージを受け取った。それは一種の実験だったのだが、結果はすばらしいものとなった。そして私にとって、フィンドホーンの神秘は最高にエキサイティングな体験となったのだ。
 息をのむほど美しいアストラル界の庭園には、かつて目にしたことのあるありとあらゆる種類の花と木が満ちている。
 霊界に流れる川の水は、澄みきっている。その一滴一滴が、まるでダイヤモンドのような輝きを放っているのだ。それぞれの界層は、川の流れで隔たれている。私たちは、霊的に成長していくにしたがって、より高次の界層へと進むことになる。界層が高次であるほど、その川の水はさらに澄んでいく。光の明るさも、魂の成長という名のはしごをのぼるにしたがって、強烈なものになっていくのだ。
 この成長が行われるのは、物質界でのこと。物質界で、より善良な人間になれば、より高い霊界層へと移行することになる。ここで忘れてならないのは、天国での居場所は、私たちのこの世での行動によって決められるということだ。
 デーヴァシャンでは、数多くの活動が行われている。あなたも、興味ある分野の活動に引きつけられることになるだろう。たとえば、この世で職業としていた分野について、さらに学んでいきたいという人のためには、霊の教師が存在する。難なくその指導が受けられるのだ。
 この世と同様、家での生活を続けたいと思う隣人たちは、立派な家をつくり出し、そこで暮らしている。この世で暮らした家を霊界で再現させ、そこにいると落ちつくという人は多い(祖母のグレースも、そういった家に暮らすひとりだ)。
 天国にいっても、他界したときのあなたの心の状態は存続している。家を持ちたいと思えば持てるが、別に必要だというわけではない。自分の好きなようにすればいいのだ。腐朽とは縁がない土地なので、霊界の家々は維持に手をかける必要はない。自らが魔力を発しているのだ。

 アート・ギャラリー

 この世で描き出された絵画のオリジナルはすべて、霊界のギャラリーに掲げられている。物質界では、「真の」芸術作品は創作できない。と言うのも、物質界にいる私たち人間は、思考をキャンバス上に移す手段を持っていないのだ。すべてのものは、まず霊界で創作され、それから物質界へと移される。その過程において、どうしても何かが失われてしまうことになる。これは難解な概念なのだが、いずれあなたもデーヴァシャンに展示された偉大なる芸術作品を目にすれば、はっきりとわかることだろう。そこには、私たちがよく目にするような絵が収められている。たとえば、モネやゴーギャンの作品――だがいずれも、あふれんばかりのエネルギーに満ち、驚くほど印象が違う。この世の作品よりも、色彩がずっと強烈だし、物質界とは違って霊界では芸術作品が崩れていくこともない。時間がたっても損傷することのない名作を目にするというのは、とてもエキサイティングな体験だ。
 私は個人的に、ずっとマックスフィールド・パリシュのファンだった。そこでホワイト・フェザーが、彼の作品を見つけ出すのを手伝ってくれたのだ(そのギャラリーはとても広大なので、特定の作品を見つけ出すのには、手助けが必要だ)。私のほうも、アストラル・スクリーンをパリシュの作品に合わせる方法を身につけなければならなかった。霊界で見たパリシュ作品の青は、いままで見たこともないほど強烈な色だった。
 私は、美術館に腰を下ろし、絵画を見るのが好きだ。静のやすらぎをおぼえるし、崇高さ、敬虔さのバイブレーションに浸り、精神的に落ちつくことができる。霊界の芸術作品を目にすると、もともとのインスピレーションはそこで誕生したということが納得できる。つまり、霊界でアイデアが生まれると、この世の中でそれなりの才能を勝ち得た人間のところへ送られるのだ。偉大な才能を完成させるためには、物質界において数多くの人生を歩む必要がある。
 霊界ギャラリーの外には、多くの人々がさまざまなかたちの芸術に忙しく取り組んでいる。教師が、アーティストの作品に目を凝らしながら、指導している。ギャラリーのオーラの中で、芸術の指導が行われるというのは、もっともなことだ。ギャラリーのオーラが、その美しさによって、インスピレーションの熱情を高めてくれるのだ。生徒たちは、名作を鑑賞しては、そこから学び取ることができる。
 あの世でも教育は続く。ただ、机に向かって勉強する必要はなく、ただ作品を眺めればよいだけだ。この世では、興味あるものごとを学ぶための時間が十分ではない。肉体のことを構うのに忙しすぎるからだ。だが霊界ではそんな必要もないので、何に邪魔されることなく作業し、観察することができる。多くの著名なアーティストがほかのアーアイストと知識を分かち合っている。また、中にはどちらかと言えば隔離状態で作業をしようとするアーティストもいる。アーティストの霊が創作活動を行うと、思考の形態が、物質界で受け入れ態勢を整えている才能ある人々へと送り出されるのだ。
 ときとしてアーティストが、すでに他界した著名アーティストと比較されることになるのは、このためでもある。作品に共通性があるのは、物質界における彼らの作品を模倣するとか、そこから影響を受けるとかいうことばかりが原因であるとは限らないのだ(実例はすばらしい師となることはあるが)。どんな種類の芸術にせよ、名作のほとんどは、数多くの人生における準備期間とアストラル界でのインスピレーションが総合されたものなのだ。

 図書館

 ホワイト・フェザーは、図書館にも案内してくれた。そこには、視界のはるか先のほうまで、何百万冊という本が並べられている。原稿のオリジナルと、過去に起こった「真の」歴史のすべてが収蔵されている。
 物質界では、歴史家が出来事に対する各自の解釈によって、記録をとっている。ひとつの歴史的事件を報告する際にも、人によって闘いの描写などにかなりの食い違いが生じる場合もある。だが霊界には、実際の出来事を「正確」に報告した本が存在するのだ。それは、ひとつの出来事に対する、だれかの見解というものとは違う。全人生をかけて過去を再構築しようと必死になっている歴史家にとっては、最高の幸せだ。
 あなたもいずれ、失われたムー大陸やアトランティス大陸の詳しいいきさつを読むことができるかもしれない。ナポレオンの戦い、アーサー王宮、イングランド史におけるアーリンの位置づけ、そしてシッティングブルの最期の瞬間などといった例も、その本棚に眠る書物のほんの一部にすぎない。ちょっと想像してみてほしい。知りたいと思った事柄について、何でも読むことができるという状態を(読む権利を勝ち得た人だけにしか読めない本というのもある。より高次な界層に収められているそういった書物は、初心者には理解できないものなのだ)。もちろん、その天国のような世界では、やりたくないことをする必要もないし、読みたくもない本を読むこともない。あなたの文学的選択や、芸術的趣味をどうこう言う人間などいないのだ。
 あなたは、自分の力で勝ち得た場所で暮らすことになる。心の平静を手にする権利を得た人は、邪魔されることなどない。私たち人間は、幸福についてはそれぞれ異なった理想を抱いているものなので、数多くの選択権が与えられることになる。
 
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