ひふみ神示(日月神示)I
なわ・ふみひとの超解釈

 自分の足で歩まねばならん

●天のことは今までは人民には判らなかったのであるぞ。時めぐり来て、岩戸が開けて、判るようになったのぞ。今までの人民であってはならん。地そのものが変わっているのであるぞ。人民は我が強いから一番おくれているのであるぞ。
人民の中では宗教人が一番おくれているぞ。神人(かみひと)とならねば生きては行かれんのじゃ。天地がアメツチとなっているからぞ。天も近うなるぞ、地も近うなるぞ、気つけてありたのに、目さめた人民少ないぞ。今に昇り降りで忙しくなり、衝突するものも出てくるぞ。他人におんぶされたり、車に乗せられていた人民たちよ。もうその時は過ぎているのであるから、自分の足で歩まねばならんぞ。大地をふみしめよ。大地の気が身内に甦るぞ。(扶桑の巻・第15帖)

 この神示を読みますと、「岩戸が開ける」というのは「霊界(天)とこの世(地)の間にパイプが通る」という意味であることがわかります。たとえば最近のスピリチュアルブームを見てもわかりますように、霊界からの通信などがこの世に伝わりやすくなってきています。日本古来の神様や聖母マリアからのメッセージ、あるいは進化した宇宙人を名乗る存在などからさまざまな霊界通信が届くようになっているのは、まさに「岩戸が開けた」ことによるものです。
 ただ問題なのは、パイプは通じてもそこには冷厳な宇宙の法則が働くということです。その法則とは、私が拙著『2012年の黙示録』で詳しく説明しております「類は友を呼ぶ」という法則です。別な言葉で言えば「同じ波長のものだけが通じ合う」ということでもあります。これこそ、この宇宙を貫く大法則ということができます。
 先ほどの神示にも「
近づくものがあるのは呼び寄せたからじゃ」とありましたように、私たちは自らが持つ波長と同じものを霊界(天)からこの世(地)に引き寄せるということです。宗教も、たとえば仏教などは本来そのような教えから成り立っているのですが、宗教人はそれがわからなくなり、葬式のための儀式のように捉えている人が増えていることを批判されているものと思われます。
 まして、現世利益を説いて人を集めるような宗教の関係者は、文字どおり「一番遅れている」人たちと言ってよいでしょう。終末の時代に大切な身魂磨きとは逆の方向に人を導いているのですから、大変罪が大きいということができます。
 「
天も近うなり、地も近うなる」というのは、天(霊界)と地(この世)に住むそれぞれの存在に対して述べられた言葉です。霊界にいるのは私たちの守護神、守護霊を初めとする存在です。日月神示の神様は私たち肉体人間だけに語りかけておられるのではなく、その肉体人間を守護し、導く役割を持っている様々な霊界の存在に対しても語りかけています。このことからも、霊界の非常に高い位置におられる存在からのメッセージであることが読み取れます。
 言葉の意味をそのまま解釈しますと「天と地がそれぞれに接近する」ということで、先ほどの「岩戸が開けた」ことと連動しています。これから終末の大峠にかけて、その傾向はますます強くなっていくでしょう。その結果起こることは、「二極分化現象」です。同じ波長のものが霊界から引き寄せられる結果、その波長がますます強調されることになるからです。既にその現象は社会の至るところで確認することができます。「善悪」の価値基準でも、「貧富」の色分けによっても、世界的に「格差」が広がる一方です。
 「
昇り降りで忙しくなる」という言葉も、日月神示にはよく出てきます。この世界は波長の違う存在が同居していますが、半霊半物質化が進むことによって、本来の波長に応じたレベルの調整が行なわれていくということです。そのことがこの世界に現象として現れるときは、地位や立場の上下が逆転したりするわけで、時には「衝突する」ような形も見られると述べられています。
 「
他人におんぶされたり、車に乗せられていた人民」というのは、今日社会で親の財産や地位を引き継いで裕福な暮らしをしている人たちを想像していただけばよいでしょう。たとえば政治家なども、最近では二世議員たちが親の七光りで高い地位を占めているケースが多く見られますが、これからは自分の足で歩むしかなくなるということです。自分で自分の身魂を磨いただけ、地球のエネルギーが魂に力を与えてくれるということが述べられています。
まさに「自業自得」ということで、自分が蒔いた種だけを自分で刈り取ることができる世の中になるということです。
 
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