フツーの人が書いた黙示録 
失速編

お金で量ってきた豊かさは蜃気楼でした


 
悲観的な未来しか見えない時代

 情報化社会の今日、一般に出回っている情報をある視点から取捨選択し、丹念につなぎ合わせていけば、これから先に起こることは十分に予測することができます。現代は、それほど便利な社会になっているのです。フツーの人が未来の出来事を予言できる時代になったと言えるでしょう。しかしながら、相当の洞察力を持って情報を処理しないと、ただ悲観的なだけの未来が見えてしまいます。
 例えば今日の地球環境の状態。知れば知るほど絶望的です。人類がこのまま生きながらえることはとても不可能なレベルまで汚染されているのです。そして、地震や洪水、竜巻、旱ばつなど、頻発する異変の数々――。私たちがこれまで理解してきた地球の働きとはまったく違った“何か”が始まっています。
 そういう中で、この人間社会をコントロールし、人類を奴隷化しようとする意図をもった邪悪なエリート集団が存在するという事実も、私たちの心を暗くします。既にお隣の国・中国では、AIによる国民の管理体制が完成しつつあり、今後は他の国へも波及していくことでしょう。オーウェルの『1984年』に出てきた思想警察による国民監視が現実に行なわれるということです。
 このような世界になるとすれば、私たちが描いてきたバラ色の未来はどこにも探し出すことはできません。はたして、これから地球とそこに生息する私たち人類に、どのような未来が訪れるのでしょうか。

 
現代社会はどこで間違いを犯したのか   [TOP]

 人間社会は意図せずして行き過ぎてしまいました。過ちの部分とは、一つは西洋文明が中心となって自然を敵視したこと、つまり、自然との調和をはかるのでなく、征服しようとしたことにあります。次が、人間中心主義で考えてきたこと。自然環境をはじめ地球に棲息する生き物は人間のためにあるとする西洋文明の考え方が間違っていたということです。
 そして、科学の力を過信しての物質本位の考え方が行きづまっています。たとえば人の体を単なる物質ととらえ、その部品としての内臓を修理したり、取り替えたりすれば病気も治せるといった考え方が間違っているのです。

 
資源無駄遣いのすすめをするときではない   [TOP]

 環境汚染問題や食糧・エネルギー問題だけをとってみても、今の延長線上では地球も人類も早い時期にカタストロフィーを迎えるでしょう。日本もしかりです。道路事情から考えても、自動車はもうこれ以上要らないはずです。環境破壊の道具が今以上に売れる必要はありません。それでも、ものが売れないと経済がピンチになるというので、減税をして消費者にお金を持たせ、もっとものを買わせようという発想は、まったく時代遅れの考え方です。もはや「資源無駄づかいのすすめ」をするときではありません。

 
人類の意識のどこが問題なのか   [TOP]

 あらゆる予言書は地球のカタストロフィーを示唆しています。「人類の意識が変わらなければ‥‥」という条件がついていますが。では、いったい人類の意識の何が問題なのでしょうか。貧しい人が富を求めることが、なぜいけないのでしょうか。身の回りに物を揃えて、豊かさを実感することは間違いだったのでしょうか。少しでも楽ができるようにと、便利さと快適さを求めて、さまざまな発明をしたことはいけないことだったのでしょうか。

 
アメリカ型の暮らし方に問題があった  [TOP]

 アメリカが主導してきた大量生産、大量消費、大量廃棄の暮らし方が間違っていたことには、ほとんどの人が気づいているはずです。戦後の日本はアメリカに追随し、モノづくりによって世界第二位の経済大国となりました。そしていま、眠れる巨像といわれてきた中国やアジア諸国が同じ経済成長の道を歩もうとしています。13億とも15億ともいわれる中国の人々がアメリカ型の物質豊かな社会を目指すとき、この地球はどうなるでしょうか。
 どれだけ膨大な資源が消費され、またゴミとして廃棄されていくのか想像もつきません。しかし、世界の経済のメカニズムは、中国をはじめとするそれらの国の経済成長にブレーキをかけるどころか、むしろそれを助け、地球の崩壊に拍車をかけつつあります。
 この現実を見るだけでも、この地球が行きづまっていることが理解できると思います。ところが、いまなおわが国は消費の拡大を追求しなくてはならないメカニズムに陥っているのです。安売りによって無駄遣いを進める消費拡大政策を日本も続けていますが、浪費をあおる経済政策に依存する社会は既に行き詰まっています。

 
私たちはマスコミに飼い慣らされつつある   [TOP]

 西洋科学文明(体主霊従で物質本位)が間違いの源です。いまマスコミの力によって人は豚のように飼い馴らされつつあります。テレビや新聞による誘導、すなわちマインドコントロールによって、人々は問題の深刻さを理解しないように、3S(Sex、Sport、Screen)政策で骨抜きにされています。ほとんどの人はテレビや新聞の提供する情報を鵜呑みにしています。そのため、自分の頭で考える人が少なくなってきました。考える力が退化して、テレビや新聞から得た情報を、安易に「自分の考え」と思いこんでしまうのです。
 あなたが信じていることについて、「なぜそう思うのか?」と自問してみてください。「テレビでそう言っていたから」「新聞で読んだから」「みんながそう思っているから」といった根拠の乏しいものが多いはずです。マスコミが提供する情報は玉石混交で、食べやすく調理された情報にはおかしな素材が入っていることを疑うクセをつけたいものです。そのためには、やはり幅広いメディアから情報を取り入れる習慣を持つことが大切です。

 
金持ちになることが成功と考える異様さ   [TOP]

 いまや世界中に拝金主義が蔓延しています。お金持ちになるためのノウハウを教える書物もたくさん出されています。最近では「いかに借金を踏み倒すか」ということを教える本も出る始末です。何かが狂っているのではないかと思うのは私だけではないと思います。
 お金は真面目に働いて稼ぐものと教えられ、勤勉に働くことに最高の価値を見出していた日本人も、いまは株や投信などのマネーゲームにうつつを抜かすようになってしまいました。少なくとも、ほとんどの人が金もちになることが成功と考えるようになってしまったのではないでしょうか。昔は親が子供を医者にしたがり、最近ではスポーツ選手にしたがるのも、第一の目的はお金である場合が多いのではないかと思われます。スポーツは人々を楽しませるという意味では悪いことではありませんが、しかし、この情報化社会において、一方では今日の食べ物も得られず餓死しかかっている人がたくさんいるという現実から目をそらして、ひたすら自分が金持ちになりたいと願う姿は、どう見てもまともな姿とは思えません。

 
人間がお金に踊らされている   [TOP]

 いま、お金さえあれば何でもできる世の中になってしまっています。そのお金に、人間が踊らされているのです。お金のためであれば魂さえも売る時代になっています。お金で人の命(尊厳)まで売買されています。お金儲けのうまい人が権力を握り、同朋を支配し、悪を働いているのです。そのツケは寸分の狂いもなく巡ってくるでしょう。
 予言によると、お金が不要となる時代が間もなくくると言われています。最近のお金には魔が宿ってしまった感じがします。お金は人間の想念の影響を受けますので、お金に対する人間の考え方が色濃く反映されるのです。お金に感謝することなく、単なるルーレットのチップ並に考える人が増えれば、お金は「人を喜ばせる」という本来の価値を見失い、単なる数字を表す道具としての無機質なものに変わってしまいます。
 「お金が悪いのではなく、使う人の問題だ」といえる時代は終わりつつあるのです。額に汗して稼ぎ、家庭では給料袋のまま仏壇や神棚に供えたりして尊んだ時代のお金と、パソコンや携帯電話によって売買される株や相場商品のようなモノとしてのお金は全く別のものと言えます。わが国には昔から「悪銭身に付かず」という言い伝えがあります。お金の素性によって、つまりどのようにして手に入れたかによって、人の喜びにつながる正しい働きをするものと、人の欲望や驕りの気持ちを助長するだけのものとがあるのです。
 現代の日本では、「あくどい手段で手に入れようとも、金のある方が勝ち」という世の中になってしまっています。それを不自然とも思わない人が増えつつあるのも、まさに終末現象と言えるでしょう。

 
お金が幅を利かせる社会は壊れていく   [TOP]

 「お金に罪はない、使う人間の気持ちの問題だ」という考え方も間違いとは言えません。しかし、どういう手段で手に入れたかを問わないのは問題があります。人を廃人にしてしまう麻薬の密売で手に入れたお金と、有機農法で汗を流して作った農作物を販売して得たお金とは、同じお金ではありますが意味するものは全く違います。しかし、いまはマネーゲームの上手な人や、高い金利で金貸しをしてお金を儲ける人の方が豊かな生活ができる世の中です。
 どんな稼ぎ方をしても、お金はお金で一緒ということであれば、真面目に仕事をして世の中に貢献することを通じて生活の糧を得ている人は、社会的には低い地位におかれ、貧しい暮らしを強いられるかもしれません。これが強いもの勝ちの資本主義の実像です。その資本主義はまもなく崩壊すると言われています。つまり、お金が幅を利かせる社会は壊れていくということです。お金を大事にする生き方でなく、資源(例えば、水資源)やモノを大切にし、無駄にしない生き方へと切り替えて行く必要があるということです。

 
経済成長は本当に必要なのか   [TOP]

  いま、景気が良くならないと企業がつぎつぎに倒産し、大量の失業者が発生するので、やはり経済成長が必要だ、という考えが一般的となっています。景気を良くするにはモノが売れないと困るわけです。では、モノの代表として自動車について考えてみましょう。自動車産業は鉄鋼をはじめとする多くの産業の技術で作られていますから、自動車が売れるか売れないかは景気に大きく影響します。
 しかし、今日日本のほとんどの家庭に1台以上の車が行き渡っています。ということは、車がさらに売れるためには、現在の車を捨てさせて、新しく買い換えさせなくてはならないということです。そのために、車はさらに進化し、付加価値をつけられて世に出されます。
 環境にやさしい低公害車などが普及すれば、それはそれで意味のあることではあります。しかし、排気ガスの面で環境にやさしい車であっても、車をつくるためには電力を初めとして大量のエネルギーが消費されます。また、車が増えれば道路が渋滞しますから、道路を整備しなくてはいけません。公共工事としてなされるその道路づくりが環境破壊の元凶となっているのです。
 このように考えてみますと、はたして経済成長は今後も必要なのでしょうか。というより、これからも経済を成長させることができるのでしょうか。少なくとも、大量消費を推進するために技術革新を進めるという従来のやり方が行きづまっているのは確かです。

 民主主義の弊害が日本を壊している   [TOP]

 私たちは、民主主義は正しいものと教えられてきました。確かに、「民に主権がある」という言葉どおりであれば、それは正しいのかもしれません。しかし、その「民」とは何をさしているのでしょうか。利害の対立する人たちのなかで、多数を占める人の意見が物事を決めるということが本当に正しい決定になるでしょうか。
 企業で革新的な取り組みをして成功した場合、それは「みんなが反対したこと」である場合が多いと言われています。(ソニーが開発したウォークマンも、当初は開発責任者と社長以外の全役員が反対したと言われています)
 これが、人類社会のことであればどうでしょうか。企業の一員よりもはるかに情報量が不足し、またロイヤリティーも低い多くの人が、本当に正しい決定をするでしょうか。私はむしろ「逆」である場合が多いと思います。
 日本にも「衆愚」という言葉があります。目先の自己の利益しか考えない民が多い場合は、民主的な決定は常にエゴを生み、正しい決定を遠ざけてしまいます。
 何よりも問題なのは、決定した側(多数者)の誰一人その責任を問われないということです。「みんなで決めたことだから」ということで、その結果が悲惨なものであっても、それは誰の責任でもありません。マスコミによる意図的な情報操作がなされたとはいえ、先の戦争も国民の多数がそれを望む形で決定されました。その他、自然を破壊するようなダムをつくったり、河川敷を埋め立てたりする決定も、もし多くの人々が賛成をすれば実施されてしまいます。
 今日でも、マスコミの巧みな誘導で大衆の意見を一つの方向に向けるのが、いとも簡単になされています。
 このように、神(絶対)を見失った人間が、大衆(相対)を主人公として絶対視しようとしたのが民主主義なのです。民の一人一人が神に近い存在であれば民主主義は「神主主義」となるでしょうが、民がエゴ(我良し)の集まりであれば、それは悪魔に牛耳られてしまいます(歴史がそれを証明しています)。数の論理は少数意見や、声の小さい者の正しい意見をもはねのける力の論理です。多数決は悪魔の方程式といってよいでしょう。「みんながそう言ってるから」ということで思考停止してしまう人は、これからの時代に生きのびることは難しいかもしれません。

 
家庭の崩壊はなぜ起こったか。   [TOP]

 いま男女共同参画ということで、女性と男性が意味なく区別されていることを改めようという動きが活発化しています。それはそれで結構なことですが、本質的な問題はそれ以前にあるのではないでしょうか。
 いわゆるブルーカラーと言われる肉体労働が中心だった時代には、体力的に比較優位にある男性が職業としての労働を担い、家事を中心とした労働が女性の分野という暗黙の了解がありました。男性が外でお金を稼ぎ、女性が家庭で子どもや老人の世話をすることで役割分担ができていたのです。しかし、今日では職業が多様化し、肉体労働よりも知的な能力を生かす職業が増えてきたことによって、「男性がお金を稼いでくる人」という位置づけは弱くなってしまいました。
 というより、多くの女性が仕事を通じて社会参加を果たすようになったのです。その結果起こった現象は、家庭のなかで育児や老人の世話をするという重要な役割を担う人がいなくなってしまいました。保育所や幼稚園のような施設が誕生し、老人ホームなどが生まれたのにはそのような時代背景があります。
 昔は子どもも老人も家庭のなかで面倒をみてもらえたのです。そして、老人は人生の大先輩として家族から敬われ、経験にもとづいた知恵と知識の供給者でもありました。農業を営む家庭では、農繁期には女性も農作業に従事しましたので、子どもの世話は祖父や祖母といった老人がみていたのです。それは今からみれば理想的な家庭の姿でした。
 女性が家庭を出て外で働くようになってしまったことで、確かに収入は増えたかもしれませんが、子どもの教育や老人の世話をする人がいなくなり、家庭の崩壊現象が始まったといえるでしょう。家庭を守る人がいなくなってしまったからです。もちろん、その責任が女性にあるという意味ではありません。
 平均的なサラリーマンとしての男性は、仕事や仕事仲間とのつきあいで帰宅が遅く、家族が一緒に食事をする機会が少なくなっています。子どもも塾やスポーツで家に帰るのが遅くなり、家庭でのしつけ(家庭内教育)の機会が少なくなりました。
 自らしつけられなかった者は親になっても我が子をしつけらない、ということで、「乱れ」のエントロピーは進みます。女性と男性の役割が不明確になった結果は、めぐりめぐって自分たちに返ってきます。いまは多くの家庭で、老後は老夫婦だけの生活となり、子供や孫たちとは隔離され、心を癒す場がありません。昔は老人の面倒は身内が見るのが筋でしたが、いまはほとんどの家庭にその体制がなくなってしまいました。

 
子どもをしつける役割を放棄した大人たち   [TOP]

 戦後の日本社会が乱れた最たる現象は、@子供が親を敬わなくなった(少なくとも恐がらなくなった。逆に親が子供を恐れている)、A学生(生徒)が師を仰がなくなった(逆に教える立場の人間が生徒を恐れ、こびるようになっている)、B社会が子供をしつけられない(注意をすると親が反発する)――といった点です。
 要するに家庭や学校、社会という子供の教育の場から権威が消え失せて、社会経験のない子供が野放し状態になって手がつけられなくなった、というのが現状です。いじめや校内暴力などを例に出すまでもなく、電車内など公共の場における小・中学生や高校生の傍若無人ぶりには、多くの大人が眉をひそめているはずです。このような子供たちが作る未来社会は、はたして思いやりに満ちたものになるでしょうか?これから日本の社会はますます殺伐としたものになっていくに違いありません。

 
私たちが求めてきた豊かさの正体とは   [TOP]

 私たちはこれまで常に「豊かな暮らし」を夢に描いてきました。その豊かさとは何でしょうか。ひところは新しい電気製品を増やすことが豊かさの証明だったこともありました。その電気製品は、不必要とも言える付加価値をつけて消費者の買い替えを促してきましたが、ゴミ問題など環境破壊を深刻化させることになってしまいました。自動車も長い間豊かさのシンボルとなってきましたが、排気ガスによる大気汚染、高速道路の渋滞、迷惑駐車、エネルギーの大量消費、道路建設による自然破壊、交通事故、廃車によるゴミの増加などなど、解決できない問題が山積みになっています。

 食べ物はどうでしょうか。野菜などの農作物は、農薬の使用により大量生産が可能になりましたが、結果として、食に対する感謝の気持ちを失うことにつながっています。また、季節感を忘れさせる食生活が実現した結果、グルメや美食に慣れ、飽食民族となってしまいました。かつての米不足の時の輸入タイ産米に対する反応で、食べ物に対する感謝の気持ちを失った今日の日本人の弱点が露呈されたような気がします。。
 さらに、旅行・レジャー好きの民族性は、リゾート施設やゴルフ場の乱開発で、深刻な環境破壊を引き起こしています。ともあれ、私たちの身の回りにモノは満ちあふれていますが、日本人の心は貧しくなる一方です。
 欧米型の暮らしを夢見て努力してきた(中流をめざしてきた)結果として得たものは、モノに囲まれていながら豊かさを感じられないという哀れな姿だったのです。
 今日でも、何かのセールで粗品がもらえるとなると、日本人はとにかく行列をつくります。これだけモノに囲まれても、もらえるものはもらっておこうという貧乏性の民族なのです。作家の曾野綾子さんは、「豊かさとは与えることである」と言っていますが、私もその考えには同感です。
 大分前のことですが、ある新聞に、アフリカの難民キャンプでの出来事を伝える感動的な記事が載っていました。それは、特派員として難民キャンプを取材した記者が、後日談として書いたものでした。

 
この記者は滞在中に1人の子供と仲良しになりました。毎日の食料さえ十分に手に入らないキャンプ生活のなかで、その子供には1日に1個、とうもろこしの実がおやつ代わりに与えられていました。子供はそれをすぐには食べずに、野牛の角でつくった容器に入れていたのです。貯まった5個ほどのとうもろこしの実を、毎日取り出しては点検し、まるで宝物のように扱っていたそうです。
 取材が終わり、いよいよお別れの日がきました。短い滞在期間でしたが、情が移り、後ろ髪を引かれる思いで立ち去ろうとする記者のところに、子供が走り寄ってきました。その手には、大切な宝物が2個、記者へのプレゼントとして握られていたというのです。


 この感動的な実話をもとに、記者は「豊かさとはなにか」と問いかけています。
 毎日の食べ物も十分に与えられないこの難民キャンプの子供に比べて、テレビゲームや塾通いに明け暮れている日本の子供たちのほうがはるかに心が貧しいのではないか、と嘆いているのです。経済的な豊かさが実現されたいま、我が国の未来を担う子供たちの間に広がる心の貧困――。これも、もはや修正することのできない終末現象の一つと言えるかもしれません。


(つづく)
 
 [TOP]