癒すこと、癒されること
加納眞士・著  学研
1996年刊
 
 

 すべては、ひとつ

 誰かの見た場所や記憶を自分でも感じられたり、行ったことのない場所を知覚できるのは、すべての生命が竹の根のように地面の下でつながっている証明だと思う。
 人は、自分とはまったく関係がないように思える他人でも、すべてつながりあっている。それが、どれほど遠くにいる人でも、たとえ地球の反対側にいる人でも、スペースシャトルで宇宙にいる人とでもある。

 地球に住む私たちは、地球の多くの生命との絆の中で生きている。ただ、動物を殺して食べているだけだと思う人がいたとしても、殺される動物にも命のあることは知っている。命を食べるということは、自分の中にひとつの命が入ることである。かつてネイティブ・アメリカンたち先住民は、動物でも植物でも生き物の命を奪うときには、自分の中でその命が生きると信じていた。
 それは、ある意味で真実だったのだ。すべての命が鎖のようにつながりあっている。命とは、意識である。

 地球とあなたの関係も同じである   [TOP]

 地球の変動を警告してきた先住民たちは、人間のテクノロジー崇拝が地球環境をここまで汚して追いつめてきたのだと指摘している。だが、それは表面的なことで、本当は人の心が病んでいるために、地球も曇りはじめているという注意の呼びかけだった。
 彼らは「人間が変われば、地球は変わる」と言う。それは、「人間が癒されれば、地球も癒される」と置き換えられる。

 地球環境を考えるときには、地球が実際に生きている巨大な生命体であることを前提にする必要がある。
 生きている命であるから、地球にも生命のエネルギー・フィールドであるオーラは存在する。環境汚染は地球の霊体を傷つけていくのである。

 個人の悲しみが地球を曇らせていく   [TOP]

 子どもがひどく悲しい思いで泣いていると、親はもっと悲しくなるように、人間が苦しみ、嘆いていると、地球もそれ以上に苦しんでしまう。世の中には目を背けたくなるほど悲惨な事故が、これでもかというほど続いている。災害で亡くなる人も悲しいが、一番哀しいのは、テロや戦争などの殺戮行為によって、人が人を殺すことである。
 でも、どうか悲しみすぎないでほしい。あなたが悲しむと地球が嘆くのだ。悲しみは人間の免疫力を低下させる。すると、地球の免疫機能である環境の浄化力も弱まってしまうのである。悲惨な事件を見ても、その中に希望を見出す努力をしてほしい。

 人間は、自ら悲しいものや恐ろしいものを選択して見てしまう傾向がある。それは、自分からわざわざ不幸を選択するようなものである。あなたの心の環境が、地球に影響していく以上、あなたが悲しめば地球も悲しみ、それが火山活動や地震につながるかもしれない。先住民の感覚では、それは当たり前だという。
 あなたが幸せで健康でいることが、地球の変動を最小限度に抑え、地球の自然浄化力を回復させていくのである。

 「多数決の原理」というフィールド   [TOP]

 価値観のフィールドは、いわばその人の感じてきた歴史観であり、人生観である。では、価値はいったいどこからきたのか? それは、「多数決の原理」という、数の多い意見が正しいとされる間違った思いこみからである。
 多数決の原理は民主主義によって支えられてきた。民主主義は、ひとつの理想的な政治システムかもしれないが、それは理性と知性が兼ね備えられて初めて完成するシステムなのだ。ガリレオのように真実を告げても、判断する権力者や大衆の目が開けてなければ、多数決の原理は真理を抹殺してしまう。少数意見を駆逐する民主主義は完全ではない。
 日本のマスコミは、コマーシャリズム(商業主義)の上に成り立っているために、多数決の原理を優先しやすい。購買者の最大公約数を意識した記事が多すぎるように思う。人々は、真実のもの、真によいものを求めている。だが、情報が多すぎて、どれが本物なのかを判断できない。そのために、広告宣伝の多いものが「よいもの」と思わせられてしまうのだ。価値観のフィールドはそういう中で生まれてくる。

 「自我」のフィールド   [TOP]

 「自我」こそは、もっとも気づきにくいフィールドである。
 ある講演会で主婦の方からこんな質問を受けた。
 「望み通りに子どもは希望の学校に入学できました。夫も出世をし、家も建てることができました。それは、長い間、私の望んでいたことでした。でも、ある日、自分は幸せではなかったと気がついたのです。これは、どうしてでしょうか?」
 それは、魂の喜びに沿って生きていなかった自分に気がついたからである。よく、人は自分の希望通りになったら自分は幸せになれると思っている。だが、そう思うのは、「どの自分」なのだろう? 人は、自分だと思い込んでいる“自我”によって、幸せというものを判断していることが多い。自我とは世間の価値観の中で育ててきた人格のひとつにすぎない。だから、自我の範囲で喜びを得ても、魂の望む本当の幸せにはつながらないことがある。
「幸せになるために」は、ヒーリングの目的である。だが、人に、この道が正しいと言うことはできない。「あなたはこうすべきだ」とか、「自分はこうしてきて幸せだったから、あなたも同じようにすれば幸せになれる」と言っても、人によって価値観は違うからだ。
 自分の生まれてきた目的や魂の目的に添わない限り、本当の意味での幸せは得られない。人には、それぞれに生まれてきた目的がある。ただひとつ、すべての人に言える共通した目的は、自分の中にある愛を表現するために生まれてきたということである。自分のできる形で世の中に愛を表現していくことだ。そうすれば、どんな生活をしていようと、どんな境遇にあろうと、心からの満足が得られる。だだ、愛の表現も「自我」を通すと自己顕示欲にすり替わってしまう。

  「カルマ」という言葉のフィールド   [TOP]

 昨今、「カルマ」という言葉をよく耳にするようになった。
 カルマというものをとても恐ろしいもの、何か特殊な法力でも使わなければ解決できないものと思わせて高い金銭を要求する、そういう自称宗教家もいるらしい。
「私は業が深いですから」と、自分がカルマのために悲劇の人生を歩いているかのように錯覚する人もいるが、人間としてこの地球に生まれている限り、皆ある修行をしているのだ。(中略)
 人はみな旅路の途中である。カルマとは、自分で自分を高め進化させるための、「自分に課した宿題」である。この地球という星に何度も生まれ変わり、「今回は前回できなかったことをしよう」――そう約束して生まれてくることをカルマというのだ。
 しかも、その「宿題」はあなたがとうてい解決できないものでは決してない。自分でその時々の自分のレベル(魂の成長段階)を見ながら宿題を出しているのだから、自分で解決できないはずはないのである。学校で自由研究というのがあるように、今度はこれをクリアしようと決めるのは自分なのだ。

 他人はあなたのカルマを解くことはできないのだ。それがどんな霊力のある高僧でも、ヒマラヤに住むという聖者でさえもである。もっとも、そういう方たちは、人が自分で決めたカルマには決して干渉しない。なぜなら、家庭教師が子どもの代わりに宿題をしてしまうのと同じことになるからである。
 「自分で解決できないことは一切起こらない」というのが、大宇宙の法則である。

 環境問題にもフィールドがある   [TOP]

 ネイティヴ・アメリカンの有名な酋長の言葉に「どうして、空気を売ることができるのか?」という警告があるが、いったい誰が領土という概念を作ったのだろう? 人間という自分だけの土地など、地上には本当はどこにも存在しないのに。
 人間は、地球から水も空気も大地も平等に貸し与えられていることに気がつかなければいけないぎりぎりの時代を生きている。
 多くの人は「地球環境を守ろう」という。しかし、本当は地球が人間を守ってくれているのだ。

 ネイティヴ・アメリカンたち先住民は、自分たちにだけ都合のよい生き方は選択してこなかった。生きていくために動物を殺さなければならないときも、必要な分だけしか採らなかった。そして、食べる前には感謝の祈りと、自分が死んだら大地にこの身を捧げるからという約束を忘れなかった。彼らには人も鳥も動物も植物や樹も同格であり、大地や川は自分たちを守ってくれる聖なるものだったからである。
 イギリスのジェームス・ラヴロック博士のガイア理論は、火星の大気の構成要素をシミュレーション中、それに比べて地球の二酸化炭素が、ある一定量から増大しないことに疑問を持ち、地球がそこに生きる生物たちのために自らの環境を制御してくれているのではないだろうか、と考えたところから生まれた。彼はそれを、ギリシア神話の大地の女神ガイアになぞらえてガイア仮説を発表したが、先住民たちは数万年も前から、地球が一個の巨大な生命体であることを知っていたのである。

 人間は、地球は自分たちのものだと思い込んできた。だが、本当は人間が地球のものなのだ。環境問題でも、「人間にとっての環境」という、自分たちの生活を優先して考えている限り、本当の解決はできないと思う。
 よくも悪くもあなたの意識の変化が地球を変化させるのである。人間の意識は、地球を救えるくらい強いものがあるのだということを知ってほしい。自分を守ってきてくれた地球をもう一度思い出して、そして自分は地球にどんなお返しができるのだろう、ということを考えてみてほしいのだ。

 障害や病気も気づきのきっかけになる   [TOP]

 あなたやあなたの身近な人の中に、金銭的な苦労をしていたり、身内に重い病の人をかかえている方がいたり、あるいは生まれつきの障害を持って苦しんでいる人はいないだろうか?
 はたから見てどんなにその状況がたいへんであっても、人間には本人が乗り越えられない困難はこないということを信じてほしい。自分が解決できないことは自分の身には起こってはこないのだと。
 「どうしてこんな悲惨な目に自分が遭わなければいけないのだ?」と叫びたくなる人もいるかもしれない。人間を物質的に限定して見ているかぎり、体の不自由な人や病気で苦しんでいる人を本当に癒すことは難しい。
 しかし、真実の目で見れば、すべての現象には意味がある。あなたに今起きていることは、あなたにとっての意味があるのだ。
 病気も、自分に何かを教えてくれているものだと考えたとき、病気という「恐れ」のフィールドは消えていく。その瞬間から、あなたが本来持っていた自然治癒力が活発に働きはじめる。
 身体の障害を持つ人のことや周囲の人の苦労を考えると、簡単に言うことはとてもできないけれども、それでもその人の身に起こっていることには必ず大きな意味があると信じて欲しい。
 人の何倍も苦しむ人には、同時に何倍もの力と勇気が与えられている。
 特別な使命と条件を自ら選ぶ魂もある。どうか、心身が健康でないことを「カルマのせいだ」と恐れないでほしい。通常では得られない何段階もの進化を得るために、本人が自ら望んだ条件の場合もあるのだ。そういう魂は、目には見えないが、多くの精霊が寄り添うように付き従っていることがほとんどである。
 同情するのはたやすいが、その人に寄せられるべきは、同情ではなく、勇気を讃える賞賛と敬意と心からの祈りである。情に流されない強い愛だけが、真にその人を助けることができるのだ。また、そういう人を家族や友人に持った人は、菩薩の役目を担った人かもしれない。

 感謝の心とヒーリング   [TOP]

 「貧者の一灯」という言葉を聞いたことがあると思う。仏教の説話で、説法を聞きにきた人が、聖者のために油で明かりを灯すのだが、昔は油が高価だったために、お金持ちはいくらでも明かりを灯すことができたが、貧しい人は食べるものを節約しなければ油を買って明かりを灯すことはできなかった。それでも感謝を奉仕という形で表そうとした気持ちが一灯になった。心のこもった一灯と、形だけの一灯は、明かりとしては同じでも価値が違うということを諭したものである。

 仏典の「貧者の一灯」の本当に意味は、自分の何かを犠牲にすることを奨めたものではない。人が自分の中に、汲んでも汲みきれない無限の愛があることに気づき、それを引き出すきっかけを創るということである。犠牲には苦しみが伴うが、愛には感謝を伴う喜びがある。
『聖書』に「裕福なる者が天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」とあるのは、お金持ちのように財力のあり余った人は慢心しやすく、何も持たない自分の中に無限供給があることに気づきにくいという意味である。自分でも貧しいのに、病気なのに、苦しいのに、それでも他人のために何かをしてあげたいと思った瞬間に、その人の中の無限の扉は開く。
 お釈迦様が洪水の後に、弟子たちに「被害に遭った人の家に托鉢に行きなさい」と言う説話がある。弟子たちは困惑して、今日は托鉢に行っても米はおろか一粒の麦もないでしょうと答える。すると、お釈迦様は「おまえたちはいったい何を学んできたのか。裕福な人に施しをしてもらうことを托鉢だと思ってきたのではないか。一番苦しい状況のときに、それでも人は自分の中に無限の力があるのだという自覚を引き出すのが托鉢ではないのか」と諭したという。

 光の意識と闇の意識   [TOP]

 「黙示録」にいう「天使たちが、ラッパを空中に吹き鳴らす」の本当の意味は、長い間誤解されてきたような「最後の審判」という怖い言葉に暗示される「裁き」のことではなく、古く固まった脳=意識の中に新しい意識が注がれて、超意識を呼び覚ますということなのだ。(中略)
 ハルマゲドンは最終戦争のことではなく、人の中の古い意識と新しい意識の交代をいう。いわば意識の最終選択である。あなたを縛ってきた古い価値観から解放され、新しい自由な価値観を得るという意味なのだ。
 ハルマゲドンは、ネイティヴ・アメリカンたち先住民の伝承にある「聖戦」と同じである。彼らが地球の変動を「浄化」と呼んでいるのは、地球が地震や火山活動、津波や洪水などの自然の力で(実は、それらの変動も天災ではなく、人間の身勝手が引き起こした人災なのだが)大地や大気に染みついた人々の「悪い汚れた」意識を洗い浄めるからである。
 そのとき、これまで互いに憎しみ合い、差別し合い、争っていた人や社会は、大自然の異変の前にそれどころではなくなり、人々の間に謙虚さと自然を畏敬する心が取り戻されるだろうという。

 ハルマゲドンは「光の意識」と「闇の意識」の選択と解釈するのが一番適切だと思う。もし、第3次世界大戦が起こるとしたら、人の心が闇に傾いた結果だろう。
 地球にいる知的生命体が肉体を持った人間だけではないように、人間や地球を取りまく宇宙的な意識体は、できれは人間を無傷のままで進化させてあげたいと願っている。母親がよちよち歩きの子どもが転んでケガをしないかと心配するように。

 闇の見分け方   [TOP]

 闇の意識の特徴は、低次元の物質的レベルに人を固執させようとすることである。お金や地位、名誉、財産などを求めさせる欲の心を操るのだ。人間を物理的な限界に縛りつけておきたいからである。
 反対に、光の意識は人を物質や経済の奴隷から解放する。人間がそれらの主人であることを自覚させるのである。富や名誉があっても幸せではない人がいるのはなぜか、ということに目を向けさせる。
 だが、闇はいつも光に化けたがる。巧妙に「平和」や「魂の進化」という言葉を唱える。
 しかし、見分け方はとても簡単である。「争う心のあるところに高い意識はない」という宇宙の法則があるからだ。もし、あなたを誰かと争わせようとしたり、親や兄弟、その他、親しい人との間に不調和を作らせようと言葉巧みに誘ったり、人を区別し、排除させたりするような言動が見えたなら、それは光をまねた巧妙な闇の意識である。
 また、あなたの中の孤独から生まれたコンプレックスを刺激するように、「あなたこそ特別な人です。他のレベルの低い人のために祈ってあげてください」と言ったり、共通の敵を生み出して団結を誘ったら、それも闇の意識なのだ。

 闇の正体   [TOP]

 闇から身と心を守るには、闇の正体を知ることだ。闇の正体は、人間の「恐れ」「嫉妬」「憎しみ」「人と比べる心」を生み出した「欲の気」の集合体である。
 そして、闇には実体がない。大切なことなので、繰り返したいと思う。「闇には、実体がない」――それを忘れないでほしい。闇や悪は、存在はするが「実在」ではない。砂漠に現れる蜃気楼のようなものだ。そのことを知られるのが、彼らにとっては一番恐ろしい。
 しかし、人の「恐れ」が闇に力を与えると、闇が物理的に働くこともある。
 それこそが向こうの手である。暴力を生活の手段にしている人たちと同じように、自分の存在を恐れさせたいのが闇である。
 逆に言うと、恐れない者には闇は何もできない。闇には、物理界に働きかけられる能力が、自分からはひとつもないのだ。闇に力を貸すのは、肉体を持って物質的にも霊的にも関わっている「人間」である私たちだということを心に留めてほしい。

 愛だけが、闇をも癒す   [TOP]

 映画の『スターウォーズ3〜ジェダイの復讐』でも、闇の皇帝が主人公ルーク・スカイウォーカーを苦しめ、憎悪を駆り立てようと謀る。闇や悪を憎めば憎むほど、人はかえって闇の領域に近づくことになるからである。しかし、ルークは「許し」を持って、闇の力にうち勝つのである。
 「僕は戦わない」と。
 何度もいうように、闇は認めた瞬間から大きくなる。いつも自己主張したがるのが闇の特徴である。これからは人や場所に闇を感じても「そこに闇はない! 光が足りないだけだ」と唱えよう。そして、「どうか、この方に愛が満ちますように」と祈ってあげてほしい。
 では、闇が一番嫌いなものとは何だろう?
 それは「無私」の心と「無償の愛」である。人間は、愛を表現するために生まれてきている。そのためには、愛の本質をもっと学ぶ必要がある。「愛を学ぶことは、この地上で一番難しい学問である」と言ったのはエドガー・ケイシーだった。「最後に愛が勝つ」は本当に永遠の真理である。

 自らの中に師を持とう! それが光の選択の第一歩である   [TOP]

 この地球にいま生きている人たちは、それぞれに特別な使命をもって生まれてきたことを知ってほしい。ところが、その使命を忘れて自分を無力な存在だと錯覚してしまっている人たちは、不安になると自分を導いてくれる存在を求めたがる。そして、自分の行動や疑問を断定的に指示し、解決してくれる人に依存してしまう。時には、その人の助言があなたを楽にしてくれるだろう。
 だが、人に依存し続けると、自分のレーゾンデートル(存在意義)の喪失と使命の放棄につながる。すべては、あなたという「自分」への自己過小評価のせいである。
 どうか、自らの中に「師匠=マスター」を持ってほしい。人間は皆、内側に高い意識を持っている。師の意識は、常に自らを高い次元の波動帯に高めようとする。「愛」の本当の意味を学ばせ、魂が進化する方向に人を望んで導くのである。

 お釈迦様も「他を拠り所とせず、自らを拠り所としなさい」と説いている。それは、人の自主性と内なる光を大切にする言葉であると同時に、他の人を盲目的に崇拝する危険性を教えてくれる。本当にすぐれた指導者なら、自分を拝むことよりも、人々が自らの意志で直接天とつながることを何よりも喜ぶに違いない。

 人が自分の中に師を持ったとき、自分を含めた世界がすべてある意志の下に「生かされている」ことが理解できるようになる。そのとき、隣り合う人の中にも、自分の中の師と同じ尊い姿を見るのだ。内側に師を持つと、本当の謙虚さを持つようになり、自然に頭を下げられるようになる。

 人の痛みを知る「弟子」の意識   [TOP]

 自らの中に師を持つことの大切さは、人間が本来、進化していく生命であることを教えている。だが、人間はまだ弱いところもある。それを「弟子」の心と観る。弟子は、未だ至らない未熟な心である。
 弟子の意識は、いつも自分への責任を回避するために、周囲の意識に迎合したがる。そのために、世の中にいくつもあるフィールドに進んではまってしまう。時には、人々の集合無意識の暗い部分が生み出した「闇」に引かれて落ちてしまったりする。
 だが同時に、弟子の意識は自分の中の弱さを知っているために、人の痛みや辛さも理解できる。「どうしてこんなことができないんだ」と叱られている人の哀しさに共感できるのだ。
 人は、「悟り」を求めて旅をする生命体である。師の意識を自らの中にいつも表すようにしたい。そして、弟子の意識は自分を闇に落とすのではなく、自分と同じように弱い存在に対して温かさを持てる通路にしたい。

 リ・イン・カーネーション(輪廻転生)   [TOP]

 この星は、野蛮で未開な星であると嘆いた人たちがいる。多くの感情が絡みあった人々の憎しみを根本から解決する方法は、もはや人類が新たな次元の意識に入る以外にはありえない。それは「転生の事実」を知ることだ。
 日本人は幸いにして、「転生」を信じてはいなくとも概念としては理解できる民族である。人間は死んだら塵になって何も残らない、すべて無だと考える人は少ない。それは、日本に根付いた仏教や日本人の魂に刻まれている神道的な概念がそういった考え方を受け入れるからだ。
 これは人類が次の段階に進めるかどうかの「進化」の最大の課題なのである。「転生」の解釈なくして、地上に真の平等はない。
 そして、愛の本質も転生を通してのみ理解できるのである。

 何より、人が転生を繰り返すのは自己の魂を進化させていくためであることを知った。「魂の進化」とは、認識の領域の拡大であり、自分を含めたこの世のすべての現象や出来事にはことごとく原因と意味があることを知り、自分の認める力を狭くさせていた偏見をなくしていき、愛の本質を知っていくことである。それは、宇宙の本質を理解することでもある。

 子孫の意識の進化の波動は、先祖の意識にも伝達されていく。それが霊界と呼ばれる固定振動数の波動帯の世界で修行する各個の魂を浄化の道や進化の道へと助けることになるのである。よく、「一人悟れば、九族救われる」というのはそのためである。
 
 
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