自然に学ぶ 共創思考 |
石川 光男・著 日本教文社 1993年刊 |
★なわ・ふみひとの推薦文★
私にとりまして「我が意を得たり」と言える本です。冒頭のエスカレーターの話、つづく「薬で熱を下げることの問題点」も、私が長年にわたって実践していることです。 「個」を重視するあまり「つながり」が希薄になって、今日の殺伐とした社会が生まれたという分析もその通りだとうなずけます。ではどうすればよいのか――という点は、ここでも提案がされていますが、わたしたち人間に与えられた喫緊の宿題ということが言えるでしょう。決して法律をつくって律することではなく、一人ひとりが気づき、自ら生き方を変えることが大切なのです。 |
● エスカレーターに乗る理由 ● 「楽」を選ぶ〈ものさし〉 私たちは、自分で気がつかずに、さまざまな価値観やものの見方を土台として生きています。そして、多くの場合、自分の生き方を支えている価値観が何であるのかを意識していませんし、自分が無意識によりどころとしている価値観の意味を問いつめることもありません。 たとえば、階段とエスカレーターが並んでいると、大部分の人がエスカレーターを使います。なぜでしょう。 それはエスカレーターの方が楽だからではないでしょうか。 つまり、「楽かどうか」という一つの〈ものさし〉をあてがい、「楽はよいことだ」という価値基準にしたがってエスカレーターを選択しているわけです。私たちが日ごろの生活で使う〈ものさし〉には、よい方向と悪い方向の色分けがしてあります。 でも、本当に「楽はよいこと」なのでしょうか。「疲れるよりも、疲れない方がよいにきまっている」というのは、感覚的な答えで、論理的な答えではありません。つまり、無意識的に「楽」な方を選択する自分の価値観の意味は、自分でもよくわかっていないのです。 人の体は歩くことによって健康を保てるようにできています。歩くことによって血液循環がよくなり、動脈硬化を防ぎ、血圧も低くなり、カルシウムも効率よく骨に定着します。しかも、階段を上がるのは平地を歩くのにくらべて3倍ぐらいの運動効果があるのです。 厚生省(現在の厚生労働省)が、30歳以上の約7500人を対象に万歩計をつけて、歩く歩数と血液中のコレステロールや血圧との関係を調べたところ、よく歩く人ほど動脈硬化を防ぐ“善玉コレステロール”の値も高く、血圧も総じて低いことが判明しました。 歩かなければカルシウムが逃げる また、骨がスカスカになり、骨折しやすくなる骨粗鬆症という病気が国民病として注目されています。現在日本の患者は450万人。その数は年ごとに増加しています。骨粗鬆症の予防にとって大切なのは、カルシウムの摂取と運動です。食生活の欧米化によって、肉類・油脂類がふえて、脂肪のとりすぎの傾向が強くなる一方で、カルシウムだけは大きく不足しているのが現代の日本人の一般的な傾向です。 このように、日本人はカルシウム不足の傾向が強いのですが、とくに気をつけなければならないのは、日常生活のこまめな運動が不足すると、カルシウムはどんどん体外に排泄されてしまうということです。運動というと、テニスや水泳のようなスポーツを連想する人が多いのですが、運動というのはけっしてスポーツだけを意味するのではありません。歩くことも立つことも立派な運動なのです。 アメリカが有人宇宙飛行にふみきったころ、宇宙飛行士たちは体内のカルシウム不足に悩まされました。どんなに摂取しても、尿などに排泄されてしまったのです。原因は日常的な動作が不足するためであることがわかりました。宇宙飛行士たちは長時間椅子にすわりっぱなしで、あまり体を動かすことができなかったのです。人間は「立つ」「歩く」といった日常的な動作で体に刺激を与えてやらないとカルシウムが体に定着しないのです。 寝たきりではボケます フトンの上に横になるのはもっとも楽な姿勢ですが、この状態を2〜3日続けただけでも、筋肉をはじめとして体の諸機能の低下が起こります。この状態を長く続けると、心臓が小さくなり、酸素摂取能力が低下し、起立性調節障害がおこります。 順天堂大学の青木純一郎教授は、これを「安静の害」と呼んでいます。安静の害は体だけの問題ではありません。寝たきりの状態が長く続くとボケ老人になる確率がきわめて高くなります。3カ月以上も寝たきりの生活をすると、およそ50パーセントの確率で老人性痴呆症を誘発するといわれています。 このように考えてくると、「楽」はけっして無条件に肯定すべき絶対的な価値観ではないことがわかります。ときには楽をしたり休息したりすることは、もちろん大切なのですが、いつでも「楽」な方を選択するという無意識的な判断によりかかって生活することに問題があるのです。 「楽」はタダでは得られない 私たちが「楽」で「便利」な生活をするためには、車やエレベーターなどの機械をつくり、それを利用しなければなりません。工業製品をつくったり、機械を動かしたりするエネルギー源は石油・石炭などの化石燃料ですが、大量の化石燃料の使用によって排出されるガスによる大気汚染や地球の温暖化が大きな問題となっています。 化石燃料の使用による環境破壊に対して大きな責任を負わなければならないのは、日本を含む先進工業国です。世界の人口の約25パーセントの先進工業国は、化石燃料や原子力発電によって、商業エネルギーの約80パーセントを消費しています。地球の温暖化ガス生産の約70パーセントは先進工業国からのものです。 私たちが、あまりつらい思いをせずに「楽」をして生きることができ、「便利」で豊かな生活を楽しむことができるのは、貴重な天然資源を大量に消費しているためですが、一部の人間が「楽」をするために、地球全体と世界中の人々に迷惑をかけているという犠牲の上になりたっていることになります。「楽はよいことだ」という一方的な価値判断は、このような意味においてもなりたたないことになります。 ● なぜ熱を下げるのですか? ● 熱を下げてもかぜは治らない かぜをひいて「熱っぽい」と思うと、たいていの人は体温をはかります。体温が38度ぐらいあると、「大変だ。熱を下げなければ‥‥」と考えて、すぐにお医者さんか薬屋さんに走る人が多いようです。 私たちは、いつのまにか「熱はこわいものだ」と思い込み、「解熱剤で熱を下げる」ことを当然の行為だと思いこんでいます。熱は本当にこわいものなのでしょうか。たしかに、熱のためにひきつける子供や、重大な合併症をおこすおそれのある場合には、薬で熱を下げる必要があるかもしれません。 でも、ウイルスによる一般的なかぜならば、解熱剤にたよらなくても、いったん出た熱は3日ぐらいで自然に下がっていきます。たいていの病気は、自然に治っていくまでの固有の期間をもっています。たとえば、水ぼうそうやおたふくかぜにかかったら、治るまで1週間ぐらいはかかります。お医者さんでも力ずくでこの期間を短縮することはできないのです。 ところが、かぜで熱がでた場合は、力ずくで熱を下げようとします。そして、かぜの一つの症状でしかない発熱を力ずくで押さえ込むことで、かぜが治ったと錯覚しがちです。でも、それはウイルスによって引き起こされた生体内の変化がすべて正常になったことを意味するものではありません。本当にかぜが治るためには、やはり一定の期間が必要なのです。 免疫の働きを助ける発熱 かぜのもとになるウイルスが体内に入ると、免疫の機能が働いてウイルスとの戦いが始まります。私たちのからだの中に入った外敵と戦う働きが免疫ですが、体内の免疫機能は2つに大別することができます。 1つは体液防御機能で、体内に進入した外敵の90パーセントを撃退します。この防御機能を突破した残りの10パーセントの外敵と戦うのが、細胞免疫の機能です。かぜをひいて熱が出るのはこの段階です。 免疫細胞たちは病原菌と戦いながら「サイトカイン」と総称される物質を放出します。ガン治療などでよく話題になるインターフェロンはこの仲間です。サイトカインは脳の視床下部に情報を送って、発熱や食欲減退、眠気などを起こさせます。かぜをひいたときによく経験するこの現象は、免疫機能を有効に働かせるためにプラスになります。 つまり、発熱というのは免疫機能をうまく働かせるために必要な現象なのです。ですから、解熱剤を使って力ずくで熱を下げるのはけっして利口な方法とは言えないのです。 「熱なんてこわくないんだ。熱よりも解熱剤の乱用の方がずっとこわい」という医師もいます。薬には副作用があります。よく効く薬にはそれだけ副作用を生じる可能性があることを覚悟しなければなりません。 また、熱でからだがダメになるほどの高温にならないように、熱を抑える働きもからだの中にはそなわっているのです。 力ずくの技術の限界 熱を怖がり、力ずくで熱を下げようとする考え方は、これまでの文化のなかに定着してきた1つの常識、つまり1つのものさしに過ぎません。医学という学問自体が、このようなものさしに従って解熱剤を研究し、それを使用してきたという事実、そして、このような「ものの見方」や方法論が軌道修正を迫られているという事実は、これまでの科学技術の考え方に限界があるということを物語っています。 力ずくで人間の都合のよいように自然をコントロールしようという考え方は、近代科学技術の大きな特徴です。そのもっともよい例は近代農法です。大量の殺虫剤と除草剤は、力ずくで害虫と雑草を殺そうという考え方に基づいて作り出された化学薬品です。 農薬をつかった農地の土のなかにはバクテリアがほとんどいなくなります。自然の森林のなかでは、土1グラムあたりおよそ10億個のバクテリアがいると言われています。土のなかの微生物によって有機物は分解され、無機物となって植物の栄養源となります。ところが、枯れた植物や動物の死骸の処理をするバクテリアを殺してしまった近代農法の土は、微生物のいない「死の世界」なのです。 バクテリアのいない土のなかでは、作物の栄養を作り出すことができませんから、大量の化学肥料を与えなければなりません。化学肥料と農薬によって育てる近代農法には多くの問題があります。 第一に、作物の表面についた農薬や、作物のなかに取り込まれた農薬は、少しずつ人間の体内に取り込まれるということです。微量であるために、すぐに個人の生死にかかわる問題とはなりませんが、長い間に少しずつとり続けた結果が何をもたらすかは明らかではありません。少なくとも人類に利益をもたらさないことは明らかです。 過去に大量に使用された殺虫剤などの化学物質は、自然のなかでの食物連鎖を通じて、いろいろな種の動物に、奇形、病気、あるいは種の絶滅をもたらしています。太平洋のはるか沖合を回遊しているイルカやシャチでさえ、高濃度の化学物質で汚染されているという報告があります。農薬に代表される化学物質が、地球上の生態系に大きな影響を及ぼしているというのが第二の問題点です。 第三は、近代農法によって育てられた作物は生命力が弱いということです。農薬と化学肥料によって育てられた野菜は、これらを使わない自然農法による野菜にくらべて、病気にかかりやすく、害虫に弱いのです。生命力が弱いから、ますます農薬が必要となります。近代農法は生命力の弱い植物を食物として供給することを意味します。 ● 小さくなった〈ものさし〉 ● 流されていると〈ものさし〉が見えません 時代が変わると人々の価値観は大きく変わります。私たちは自分の意志で自分の生き方を決めていると思っていても、基本的にはまわりの多くの人々の生き方や価値観の平均値にあわせて流されているにすぎない、ということです。 まわりの人と同じ価値観で生きていると、自分の生き方を支えている価値観の本質が見えてきません。そのもっとも良い例は、人間の経済活動や文明を支えている価値観の本質に、人類が気がつかなかったという歴史的事実です。 人類は長い間、「人類の福祉」という目的を掲げて経済活動を行ない、「人類のための文明」をつくることになんの疑問も感じてきませんでした。ところが、よく考えてみると、これは人間の都合だけを考えた「人類中心主義」なのです。要するに、「個人中心主義」や「国家中心主義」の〈ものさし〉が少し広くなって、「人類中心」という価値観に置き換わっただけ、ということになりそうです。 ところが、私たちは自分自身が「人類中心主義」という価値観にどっぷりつかって生きていることにはなかなか気がつきません。環境問題が表面化するまで、「人類中心主義」という文明の本質とその限界に、だれも気がつかなかったのです。 足下の地球がボロボロになっているのに、自分の幸福、自分の仕事、自分の会社で頭がいっぱいの生活を送っている人は、自然とのつながりのなかで生きることの重要性を見失っている人です。 「もっと、もっと」の個人主義 個人中心主義も、国家中心主義も、人類中心主義も、一種の自己中心主義です。民主主義は一人ひとりの価値判断と、それにもとづく行動の自由を尊重するという個人主義を基礎としています。資本主義社会の活力を生み出す原動力となったのは、個人の自由な活動が生み出すエネルギーです。一方、自由主義経済には貧富の差が大きくなりやすいという欠点があります。 個人的な自由を尊重するという価値観には、個人的な欲望を無制限に引き出してしまうという欠点があります。人間の欲望には際限がありません。資本主義社会はその真理を巧みに利用して、人間の欲望を無限に刺激することによって成立していると言っても過言ではありません。 次々と新製品や新型の商品を開発して欲望を刺激するという資本主義経済は、それほど必要でないものを買い込んだり、まだ使える品物を捨てて新製品と買い換えたりするという安易な生活を習慣化するように仕組まれています。 そのような生活が、貴重な地球の資源をムダに使い、ゴミの山を増やして、自分で環境を汚し、自然に迷惑をかけているのだということに、多くの人は気がつきませんでした。モノ・金・セックス・名誉などに対する欲望を「もっと、もっと」と無限に追求することによって、結局自分の人生を泥沼に引きずり込む人も少なくありません。 人間の欲望の無限の解放という自由は、環境破壊という点からみても、人間の生き方という点からみても、大きな限界を抱えているということに気がつきます。 自分という存在からの判断 自由が定着した近代社会の中では、個人中心主義が一般化し、それにもとづいて個人的欲望の無限の追求が行なわれています。人々は物質的豊かさを求めて欲望の充足をはかってきましたが、その本質は「便利・快適・効率」です。それらの価値を一方的に追求することに、さまざまな限界がつきまとうことは、すでに述べたとおりです。 近代ヒューマニズムの倫理観では、個人という存在を重視する生き方であると言ってよいかもしれません。個人的存在重視という考え方は、人と人との絆を薄れさせます。核家族化、ひとり暮らしの老人の増加、親子の絆の希薄化、子どものいじめの増加などがそれを物語っています。 個人の判断で流される社会 近代社会は、個人の集合体としての社会という考え方をとるようになりました。したがって、社会の意志も個人の意志の合計ということになります。これが民主主義の本質ですが、ここでは個人の個別価値が優先するため、社会がどちらへ向かうかという方向がはっきりしません。すなわち、社会はかなり自己中心的な個人的価値観によって、右にも左にも流れることになります。その時代の一般的な通念や常識によって、どこへでも流される社会が形成されるということです。 自己実現の三条件 人のまねをしないで自分らしく生きることは、自己実現のための第一の条件だと思います。自分の夢や、自分の本当にしたいことを見つけて、その実現に向かっている人はイキイキとしています。 生物はみな個性を持っています。自分の短所も長所もみな個性です。自分に与えられたすべてを素直に認めたうえで、自分の本当にしたいことをするのはすばらしいことです。 そのような生き方は、他人のまねをしたり、他人から言われてなすべきものではありません。自分の努力で探し、自主的に行動を起こさないといけません。そのような意味で、自己実現の第二の条件は「自分から」進んで生きることではないかと思います。 けれども、「いのち」という視点から見ると、人と人、人と自然との「つながり」が欠如しています。「何をしたいか」という内的動機だけが優先して、「何をしなければならないか」という空間的・時間的役割認識が欠けています。 生物としての人間は、人と自然の「つながり」のなかで、全体の秩序形成に役立つという役割を潜在的に与えられています。自分がこの世で果たすべき役割、すなわち「使命」を見定めるという視点が欠如すると、「自己実現」は単なる「自己満足」に終わってしまいます。したがって、「いのち」を活かす「自己実現」の第三の条件は、「まわりのために」生きることだと私は思っています。 それは封建時代のように、まわりのために犠牲になったり、全体主義のように、個人が部品化されて、機械的に一定の役割を果たす生き方とは異なります。自分の長所と特質を活かした「自分らしさ」を、社会と自然と文化という3つの環境のために、積極的に役立てる生き方を、自ら進んで行なうことを意味しています。 「いのち」を活かす「自己実現」とは、自分という存在を超えて、より大きな秩序形成のために自分を活かす「共創」の生き方を意味しているのです。 |
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