佐藤初女さん、 こころのメッセージ |
小原田泰久・著 経済界 2003年刊 |
佐藤初女さんは、青森県の弘前にお住まいで、岩木山の麓に「森のイスキア」という心と命を感じる施設を建て、そこを訪ねる方々を心のこもった料理でもてなしています。初女さんと森のイスキアは、映画「地球交響曲 第二番」で紹介されたことですっかり有名になりました。そして、全国からたくさんの人が、初女さんに会いにやって来るようになりました。 「初女さん伝説」とも呼べる数々のエピソードがあります。たとえば、初女さんの作ったおにぎりを食べたことで自殺を思いとどまった人がいます。見た目はのりで包まれた丸くて何の変哲もないおにぎりです。おにぎりの中身は梅干しですから、これもけっして特別のものではありません。握り方も、指先ではなく手のひらを使うということが彼女の特徴ですが、それほど特殊だとは思えません。 それでいて、なぜ、彼女のおにぎりを食べると生きる意欲がわいてくるのでしょうか。彼女とかかわった人が、それぞれ自分なりの解釈をしているわけですが、私なりには、おにぎりの中のご飯一粒一粒にまで心を配っている彼女のやさしさ、思いやりが、悩み傷ついた人に生きる意味を思い出させるのではないかと、解釈しています。 「おむすびを作るときは、お米の一粒一粒が息ができるようにと思って握ります」 初女さんの言葉です。 だから、ぎゅっとは握りません。お米が苦しくなってしまうからです。 一粒の米の命にさえ心を配る初女さんの思いが、おにぎりを通して、食べる人に伝わります。 一粒の米は、一人ひとりの人間に重ね合わせることができます。ともに取るに足らないちっぽけな命のように見えるけれども、こんなにも大切にしてくれる人がいると思うと、涙が出るほどうれしくなってきます。そして、「一粒の米が集まっておむすびになり、それを食べた人に生きる意欲と勇気を与えることができる」という感動的な話は、こんな自分でも何か役に立てるかもしれないという希望にもつながってきます。 これからは、個人という小さな力が自分にできることを行動に移すことによって、人と人とのつながりが作り出され、そのつながりによって大きな仕事が成し遂げられるという時代です。小さなご飯粒のつながりによってできあがっているおにぎりが空腹や心の空虚さを満たしていく姿と同じです。小さな力こそが、新しい世の中を作っていく原動力になっていくのです。 「地球交響曲」という映画は、初女さんを語る上では欠かすことができません。 この映画は、世界的な生物物理学者であるジェームス・ラブロック氏の「地球はそれ自体が大きな生命体であり、すべての生命、空気、水、土などが有機的につながって生きている」というガイア理論に沿って、龍村仁監督が製作したものです。 89年に最初の作品が完成し、95年には「第二番」、97年に「第三番」、2001年に「第四番」が発表されました。いずれもオムニバス形式で、自然とともに生きている人たちを紹介しつつ、今、地球という惑星の中で生きている存在である私たち人間にとって、何が大切なのかをメッセージとして発信しているのです。 映画で、初女さんがこんなことを言います。 「漬物が呼ぶんです。この石は重い」 実際に声が聞こえてくるということではありません。漬物石の重さにも注意を払い、漬物が最高の味になるように漬ける。これが、きゅうりなり白菜なり、漬物の材料になっている野菜への心づかいです。野菜のいのちを生かす初女さんの深い慈しみです。それを、彼女は漬物が呼ぶと感じるのです。いつも相手のことに気持ちを運んでいることで、そんな感性が育ってきたのだと思います。 「どんな苦しみの中にあっても神様への愛を見失わなかったテレジアを思うことで、信仰への灯火を燃やし続けることができました」 初女さんが、幼いときの思いを抱いたまま、ずっと子どものような純粋さで生きてこられたのは、もともとの素養というものもあったでしょうが、女学校のときに大病をしたことが大きかったようです。 大喀血をして生死の境をさまよう状況を体験して、彼女は神様と呼べるような心の支えとなる存在を身近なものとして感じるようになったのです。 「ある日のことです。シスターの看護婦さんが私の枕もとに一冊の本を置いていってくれました。『小さき花のテレジア』という本でした」 フランスに生まれたテレジアは、15歳で信仰の世界に入り、神様に尽くすことを無上の喜びとして生き、24歳で短い生涯を閉じました。初女さんと同じように、肺を侵されていました。血を吐き、死と直面しながも、神様への愛を忘れないテレジアの姿に、初女さんは深い感銘を受けたと言います。初女さんが16歳のころの話です。 忌み嫌われるものには、計り知れない巨大なエネルギーが宿っています。病気や事故がそうです。肉体的に障害をもつということもそうでしょう。貧困や孤独も同じです。それをどう受け止めるかで、想像もつかないような新しい人生を作り出します。 ガンという病気は、不治の病として嫌われていますが、ガンと診断された後、どう病気とつき合うかは、大きく2パターンに分けられます。 ガンになった自分を嘆き悲しみ、愚痴を言いながら亡くなっていく人と、ガンと真剣に向き合って、その意味を探り、生き方・考え方を180度変えていく人です。後者は、「神様」「宇宙」「役割」など、表現の仕方はさまざまですが、自分を生かしている大きな力があることを感じ取っている方々です。 「人は一人では生きられません。誰かと一緒なら生きられます。その誰かというのは、実は一人ひとりの中に宿る神様なんです」 初女さんは、だれにも存在価値があるという前提で人と接します。それは、すべての人に神様が宿っていると考えているからです。 だれもが「一人ひとりに神様が宿っている」という言葉をしっかりとかみしめれば、「自分など生きる価値がない」とは思わなくなるのではないでしょうか。 「神様は、私たちの目には見えませんし、声も聞こえてこないのですが、生身の人間、肉体を通して、私たちに働きかけてくださいます」 私たちは、いつも何かに見守られています。導かれています。しかし、そのことがなかなかわかりません。 たとえば、朝起きてから帰宅するまでの一日、事故にも遭わず、病気もせずに過ごすことは、当たり前のことのようにとらえられがちですが、初女さんなら、そこに、何者かによって守られている自分を感じることができるのです。 初女さんの言う神様は、特定の存在を指すわけではありません。人間の力の及ばない大きな力をそう呼んでいるのです。たとえば、地球を自転、公転させているのは、いったい何者なのだろうということです。考えられないほど大きく、緻密なエネルギーでないと、地球という、人間から見ればとてつもなく巨大な物体を、一日で一回の自転、そして一年に太陽の周りを一周させることはできません。もっと大きな太陽系の運動、さらには、宇宙全体を動かしているのは何なのだとなると、もう想像だにできなくなってしまいます。 そんな理屈では説明できない力によって、私たちは生を受け、生かされています。 宇宙を動かすような考えられないほどの力、それが、私たち一人ひとりの人間にも宿っていると考えれば、勇気がわいてきます。 自分を生かしてくれている力があることを感じられる人は、一瞬一瞬を大切にできます。小さなことにも喜びを感じられます。出会った人を大切にできます。 「私は、死を恐れるとか、恐れないとか、そのような気持ちはありません。今を生きることしか考えていません。今を生きることは死につながっているのですから、特別なことを考えずに、今を大切に生きています」 最近、老いること、死のことについて、質問されることが多くなっていると初女さんは言います。 年を取るのは今に始まったことではありません。生まれたときから、人は年を取っていき、寿命がきたら死んでいく。何も特別なことではないというのが初女さんの答えです。 「年に合わせて生きる必要なんかないと思いますよ。大事なのは、自分がどうしたいのかです。 何歳だからこうしなければならないということはひとつもないと思います」 「必ず死に近づいているのだから、私は今を生きることに全力を尽くします」 「今」が続いて「死」を迎えるのだから、「死」は「今」の積み重ねです。だから、死を考えるのでなく、今をどう生きるかのほうが大切だというのです。 「辛いこと、腹立たしいことがあるとき、私はまず自分のそういった思いを強く感じるようにしています。感じることを中途半端にはしません。苦しんで苦しんで、もうこれ以上苦しむことができないというところまでいくと、後は自分ではどうにもできなくなって、神様にすべてをお任せしようという心境になります。すると、必ずそこから這い上がる道が見えてきます」 怒りや悲しみ、悩み、嫉妬といった好ましくないとされている感情は、だれにでも起こってきます。初女さんでさえももつことがあるのですから、私たちにマイナス感情があるのは当たり前のことです。あってもいいけど、それをきちんと消化していくことを考えなければなりません。しっかり事実を見つめて、苦しんでいる自分を中途半端にごまかさないという態度で自分の感情と接していると、必ず打開策が見つかってきます。 これが本当のプラス思考です。 そんなことがあって、初女さんは「祈り」とは何なのか、考えるようになりました。祭壇の前にひざまずいて手を合わせることが祈りなのだろうか。 教会や神社で手を合わせるのが「静の祈り」と考え、それにともなって行動に移すのが「動の祈り」と思っています。だから、生活すべてが祈りと考えています。 生活そのものが祈り、今いるところが聖地。それをどう行動で表せばいいのか、とても難しいことですが、初女さんの場合、一粒一粒のお米と対話しながら、息ができるようにと心配りをしながらおにぎりを作る姿勢が、日常の中の祈りです。石が重すぎて漬物が苦しんでいないか、樽の中の白菜や大根の声に耳を澄ませるのが、初女さんの祈りです。来客があるとき、1時ごろに到着するのだから、きっとお腹が空いているに違いないと、心を込めた食事を用意する気配りが祈りなのです。 「神様は、身近で一緒にいる感じですね。特別ではなくて。祈ったからと言って助けてくれる存在ではありません。試練も神様が与えてくれる。それをどうとらえるかは本人次第。結局は、自分がどうしたいのかが一番です」 祈りというと、たとえばお正月の初詣のとき、神殿に向かってパンパンと柏手を打って、「今年こそ結婚できますように」「お金持ちになれますように」と、お願いすることだと思っている人が多いようです。 果たして、そんな行為が本当に幸運をもたらしてくれるのでしょうか。プロ野球のキャンプが始まると、どこの球団もキャンプ地の神社で必勝祈願をします。全球団が「今年こそ優勝を」とお願いをしているわけです。お祈りごとがすべてかなうとすると、全部の球団が優勝しなければなりません。それとも、強いチームがあったり弱いチームがあったりするのは、祈願した神様の力関係でしょうか。 初女さんという人は、だれよりも神を敬い、神の意思に沿って生きていると、私は思っています。それでも、初女さんの身にも、都合の悪いこと、悲しいこと、辛いことは起こってきます。息子さんが50歳の若さで亡くなりました。悲しい出来事です。実際、初女さんも深い悲しみの中で、最愛の息子さんを見送ったことでしょう。 だったら、初女さんがもっと信心深くなれば、悲しいことは起こらないのかというと、そういうことでもありません。 そもそも、自分に都合の悪いことが起きないようにと願うのは、人間のエゴです。 ある人が言いました。私は神様がいるなんて信じません。なぜなら、私の人生は不幸の連続だからです。もし、神様がいれば、こんなに辛い目に私を合わせるはずがありません。 初女さんは言いました。 「そうじゃないですよ。試練も神様が与えてくれています」 父親の破産、自分自身の大病、ご主人や息子さんとの死別、ほかにもたくさんの苦難を乗り越えてきた初女さんが言うからこそ、とても重みを感じる言葉です。 「底まで行けば自然に浮かび上がってくる」という体験をし、初女さんは、そのたびに起こったことを真正面から受け止めることができる感性を身につけてきたような気がします。辛く悲しい出来事は、その人をより強くしてくれます。成長させてくれます。 雪が溶けるとたくさんの植物が待ちかねたように芽を出します。彼らは雪の下で寒い冬を耐えてきました。その数カ月が、春になったときに一気に伸びる生命力を蓄えさせたのです。辛いことが起こったときに、「嫌だ、嫌だ」と逃げ回っていては、せっかくの成長のチャンスを逃してしまいます。成長しないと、また同じことが起こってきます。それからも逃げていると、また起こります。それが、「不幸が連続して起こる」という現象です。だれが悪いわけではありません。すべては自分が引き寄せたことなのです。 初女さんの素晴らしさは、不幸を喜びにつなげることができるということです。病を通して食の大切さを知り、それを行動で示すうちに、たくさんの人が救われていきます。身内を亡くした体験は、同じような境遇の人に、その事実をしっかりと受け止めさせ、さらに一歩を踏み出す勇気を与えます。 思いつめたしかめっ面が明るい笑顔に変わっていく。これが初女さんの喜びにもつながっていくのです。 すんだことをくよくよと考え、いつまでも悲しみに暮れていては、こんな喜びは手に入れることができません。 毎日毎日、晴れた日が続いたらどうでしょう。晴れるのが当たり前で、太陽を見られる喜びなど感じることができません。雨が何日も続いて、やっと雲が切れて、そのすき間からお日様の光がカーテンのように降りてきたとき、すごく神々しいものを感じます。日の光を受けるしあわせを、体いっぱいに感じることができます。その喜び、しあわせを知っている人は、嵐であろうと竜巻であろうと、受け入れることができるはずです。 どんな人にも、例外なく、悲しいこと、辛いことは訪れます。生きているかぎり、それは避けられないことです。自分で好きで好んで選んだわけではないかもしれません。しかし、その後、ずっと落ち込んで過ごすか、すぐに立ち直るかは、自分で選べることです。 都合の悪いことが起こらないようにと願うことにエネルギーを費やすのではなく、歓迎したくない出来事が起こったときに、どういう受け止め方をして、どう行動するかが、私たちに課せられた重要なテーマです。そして、そんな生き方ができたとき、喜びや悲しみ、しあわせは、ひんぱんに私たちのもとを訪れてくれるようになるのです。 「これからの時代は、何かを求めて走るのではないと思います。流れを感じ取って、その流れに沿って生きていくことが大切なのではないでしょうか」 願えば叶うと言うけれども、初女さんは本を出すことも、映画に出ることも、自分の願望としてあったわけではありません。しかし、結果として著書が書店に並び、映画もヒットし、あちこちから講演の依頼がくるという状況になっています。 これも何かに導かれてのことだろうと、初女さんは感じています。 つまり、願えば叶うというよりももっと深いレベルで動かされている自分がいるということです。自分の意思を超えた大きな力としか言いようがありません。 今までは、目標をもって、それに向かって一目散に走りなさいという教育がありました。人々は、そうやってハーハーと息を切らせながら走ることを要求されてきました。そして、その行き着いた先が、今の不安定な社会です。 私たちにとって確実なのは、今だけです。一秒先はわからないし、一秒前はどうすることもできません。しかし、今という瞬間をどう生きるかは自分で選択できます。このほんのわずかの選択可能な「今」をどう使うか。これが、明日にも大きな影響を及ぼします。 目の前のハードルを跳ぶ前からゴールを見つめるのではなくて、まずは、目の前に立っているハードルを跳ぶことに全力を注ぐことです。また、新たなハードルが現れますが、それも、まずは跳び越えることに集中する。この繰り返しが流れをつくり出して、スムーズに自分をゴールに運んでくれるのです。 |
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