人類を救う 霊性と食の秘密
中矢伸一・著 廣済堂 
 
 宗教家・霊能者たちに見る霊性と食のかかわり

 1991年の5月末に、私は初作『日月神示』を刊行した。このころ、私はまだ「食べ物」が健康や精神に及ぼす影響についてはほとんど関心がなかった。
 そもそも私には、何を食べようが感謝していただくようにすれば問題はないという持論があり、自信を持っていた。というのも、私は元来好き嫌いなく何でも食べる方で、健康診断以外に医者の世話になったというのは、中学生のころ以来、全然ないのである。
 食べ物を無駄にすることが嫌いだったから、自分の分については必ず残さずに食べた。腹いっぱいであっても、捨てられてしまうよりはと胃に押し込むこともあった。
 菜食主義者などというものは一種の贅沢者のことであり、飢餓に苦しむ人々のことなど眼中にない自己中心主義者か、自分の美容と健康のことしか頭にないナルシストがやるものだという偏見を持っていた。
 ところが日月神示を見ると、「臣民の正しい食」としての指示が何カ所も書かれており、「日本人には肉類禁物であるぞ」とか、「臣民の食物は五穀野菜の類である」などと、繰り返し強調されている。困った。私にあの「ベジタリアン」になれというのか。
 日月神示に示された正しき食とは、要するに穀物菜食である。これを実践せよと言うのだ。 それが御神意ならば、即改めよう。私はそう心に決めていた。しかし、内心では迷いはあった。そのため、初作の『日月神示』では、敢えて神示に示された「食」の箇所には触れていない。
 その後、『日月神示』の反響がものすごく、いろいろな人たちとの出会いがあり、それに伴い新たな知識が自然ともたらされることになった。マクロビオティックについて、古代からの日本の伝統食について、アメリカの最新栄養学事情について‥‥等々。
 それらを統合すると、どうやら神示にある「臣民の食」とは、何かの比喩ではなく、そのままの意味らしい。そして、出版社より『日月神示』の続編を依頼された時、次作の中ではどうしても「正しい食」について訴えねばならないと思った。
 こうして1年後に刊行されたのが、『日月神示・神一厘のシナリオ』である。この中で、私は1章分を割いて、「食」に関する神示を軸にその整合性について訴えた。この章を読んだ人で、その日から食を改めたという人がかなり多いことがあとで判り、実に感慨無量であった。

 かつては大本教(正しくは「大本」)でも、開祖・出口なおの「お筆先」を通じて肉食を禁じる神勅が降りていた。そしてあの出口王仁三郎聖師も、魚はある程度認めてはいたものの、肉食の非と菜食の有効性について堂々と説いている。
 したがって、その大本系神示の続編、あるいは完結編と見られている日月神示に、同様の記述があることは当然のことである。むしろ、そうした記述がない方がおかしい。

 他の神道系新宗教はどうか。調べてみると、天理教の中山みき教祖は、ほぼ菜食の慎ましい食生活であった。菜食とか粗食というより、みきの場合は断食が目立つ。常人では考えられないほどの長期にわたる断食を、たびたび行なっているのだ。

 黒住教教祖の黒住宗忠、金光教教祖の川手文治郎の場合は、特に菜食を説いてはいない。しかし、この二人はどちらも大病を患い、医者からもサジを投げられ、死を宣告されるに至ったところで復活するという回生体験をしており、これが立教につながっているという共通点を持っている。当然、大病を患っていた期間というのは、ほぼ絶飲絶食状態に置かれていたはずである。そのように身体の禊ぎが行なわれて後、初めて高級神霊からの啓示が降ろされたわけである。

 水野南北の開運説は、別名「節食開運説」とも言われるように、粗食こそが運を開く最大の秘訣であるとする。美食、大食こそが凶運をもたらすのであり、人は食を慎み、肉食を戒め、奉仕と感謝の心で生きれば必ずや天に通じることになり、運は開き富み栄えるという。

 こうしてみると、人の「霊性」と「食」というものには重要な相関関係があるらしい。霊性というのは科学的な用語ではないけれども、なにか精神の奥底に位置する魂の部分、その輝きの度合い、透明度というものに比例して、いわゆる「霊格」というものの高低が定まってくる。
 霊性が浄らかで透明度が高いということは、波長が精妙であるということであり、霊性が曇っていて、魂の透明度が低いということは、波長が粗雑である、ということになる。波長が細やかであればあるほど、天人、天使といった高級なる神霊たちと交わりやすくなり、反対に、波長が荒々しければ、低級なる霊たち、動物霊や地獄霊といったものと感応しやすくなる。
 その霊性に、日常の食というものが重大な影響を及ぼしているとすれば、まさに大変なことになる。食を正して血を浄めれば、肉体細胞が浄まることになり、それは結局、魂のレベルまで左右する。「身魂磨き」とは、そういうことも含まれているのではなかろうか。
 見方を変えれば、食を改めることで、人は自分の霊性を高めることがたやすくなる。身魂磨きにはずみがつく。自分自身を救うことにつながる。そうした人が増えれば、世界の大難は小難に変わるということになるだろう。

 日本こそ、穀物菜食の宗主国のような国のはずである。その国の国民は現在、過去から受け継いだ尊い食習慣を忘れ、グルメ、美食に走り、暴飲暴食に明け暮れている。
 一方で、正神復権の予兆とともに、マコトの「食」のあり方を説く動きが、小さいながらも始まっている。そうした流れの「とどめの啓示」こそが、日月神示なのであった。だから神示には、「臣民の食」についての指針が出されているのだ。これは日月神示で初めて出されたものではなく、悠久の過去から培ってきた人類の叡智であり、その復活を願う太古の人々からの呼びかけであったのである。

 
欧米において盛んな菜食主義

 西洋における菜食主義の伝統はかなり古い。知られている限りでは古代ギリシャにまで淵源をさかのぼることができる。
 肉食文明が栄えたのは西洋であるが、その反面、菜食主義も絶えることなく現代にまで受け継がれ、欧米各国のベジタリアン人口は東洋と比べて圧倒的に多い。
 菜食を実践する動機は様々のようだ。健康のため、精神修養のため、動物愛護のため、宗教上の理由のため、といったところである。
 欧米は肉食が“極まった”文化圏にあるため、菜食の有効性に目覚める人が多く、そのため菜食者たちはある程度の「市民権」を得ているところがある。
 もちろん、日本の歴史もそうとう古い。
 縄文時代の食生活は、日常の摂取カロリーの約8割が植物性の食物から摂っていたというデータがある。例えば、海岸沿いにある千葉県古作遺跡の縄文人の人骨の炭素と窒素の安定同位体比の分析により、主要食料カロリーの80パーセントを栗やクルミなどの植物で補っていたことが判っているし、内陸部にある長野県北村遺跡の場合も、エネルギーの大部分を木の実に依存していたことが判明している。
 古作遺跡の場合、80パーセントの残りのうち11パーセントが魚介類で、9パーセントが小型の草食動物である。熊、鹿、猪などの大型動物はほとんど含まれていない。
 このように日本人は、縄文時代の頃より、必要なエネルギーの大部分を植物性の食料から摂取してきたのである。
 西洋での歴史も古く、古代ギリシャまでさかのぼる。
 彼らが菜食を実践した理由は、彼らの思考に基づいている。つまり、本当に肉体にも精神にも良い影響を与える「正しい食べ物」は何かということを徹底的に考え、肉食が害を及ぼすものであることを知り、その結論を、様々な秘儀とともに思想的に体系化していったのである。

 ピタゴラスの菜食の教えを受け継いだプラトン

 プラトンの代表的著作といえば、『国家』であろう。彼はこの著作の中で、理想的な国家のあり方を論述している。
 彼の考えた理想国家における食べ物とは次のようなものである。
 大麦粉のパンや小麦粉のケーキ、塩やオリーブ油やチーズで料理した根菜や野菜、エンドウ豆、イチジク、樫の実、ぶどう酒など。獣や魚の肉は、その中にはまったく入っていない。
 彼が肉食を理想国家の中から除去した理由には、現代で言うエントロピーの増大など、環境問題にまで配慮していたことが挙げられる。プラトンは、今から2000年以上も前に、すでに今日の人類社会が直面している危機的状況、すなわち様々な問題が噴き出す未来社会像を予見している。そして、その主な原因を、「肉食」をもとにした奢侈(奢りやぜいたく)にありと指摘していたのである。

 それから人類の歩んだ道のりは、まさにプラトンが懸念した通りのものとなった。
 現代では、肉食文明は洋の東西を問わずに世界を席巻し、肉となる家畜の飼料を生産するために膨大な穀類があてられ、環境に様々な悪影響を及ぼしているだけでなく、慢性的な食料不足を生み出している。
 先進国における食のぜいたくが、発展途上国においては飢餓をもたらしている。一方では食物が有り余り、大量の残飯が捨てられているにもかかわらず、一方では動物飼料のトウモロコシの一粒さえ口にできず、死んでいく人たちがいる。
 しかも肉食は、精神(霊性)に影響を与えて理性を狂わせ、争う心を起こしやすくなる。肉体的にも様々な害を及ぼし、奇病・難病・業病が流行り、医療費は増大し、国民は重い税負担を強いられる。子どもたちの心は荒れすさび、イジメや校内暴力の嵐が吹き荒れる。さらには、出生率の低下が起こって人口の減少という事態になり、遠からず民族滅亡の憂き目にあう。
 ここまで判っていながら、なおも肉食を是とする人(何を食おうが大した問題ではないと言う人)は、もはや正常な思考力を失ってしまっているとしか言いようがない。
 環境問題に関心を持つ人々は年々増えており、熱心に市民の啓発運動を展開している人たちもいる。それはそれで大変に結構なことだと思う。
 しかし、肉食問題を避けて環境問題を説くのは、いわば燃えさかる火事現場にガソリンをかけ続ける放火魔を見て見ぬふりをしながら、家屋が燃え落ちる危険性と消火の必要性を訴えるのと同じである。
 問題の根本はこの放火魔(肉食)にあるのであって、これを除去することが急務の課題であり、最優先されるべき事項であるはずなのだ。

 菜食主義のガンジーの言葉

 私の心にとって、子羊の命が人間の命と比べて、より尊くないなどということは、少しもない。たとえ人間の体のために子羊の命を奪うことが必要だという場合でも、私は気が進まないであろう。ある生き物が、無力であればあるほど、その生き物は人間の残酷さから、人間によって保護される資格を、より多く与えられている。

 それが正しいか誤っているか知らぬが、人間は肉や卵やその類のものを食べてはならないということは、私の宗教的確信の一部である。我々自身が生命を保つための手段であるといっても、それには一種の限界があるべきである。命そのもののためであっても、ある種のことはしてはならない。


 ガンジーの、肉食に対する否定的見解は、このように徹底したものであったが、あまり食べ物の面ばかりに拘泥するのも誤りだ、という意味のことも強調している。

 人間が普通に生きることができる状況であれば、それが成長や病気のいかなる段階であろうとも、またいかなる風土の下であろうとも、肉食がわれわれにとって必要であるとは私は考えない。
 もし我々が他の動物より優れているとするならば、我々人間がより低級な動物たちの世界を真似することは誤りである。

 しかし、人格形成における、あるいは肉欲の克服における、食べ物の重要性を過大評価するのは誤りである。飲食物は、無視されてはならない強力な要因である。しかし、インドにおいてしばしばなされているように、すべての宗教を飲食物の点から判断することは、飲食物に関する抑制をすべて無視して食べるのと同じくらい、誤っている。

 単なるジーヴァダヤー(動物に対するやさしさ)は、我々の内なる「6つの不倶戴天の的」すなわち肉欲・怒り・どん欲・熱狂・高慢・虚偽を、我々が克服するのを可能にしてくれるものではない、ということは覚えておくべきである。
 もし、自己を完全に征服し、善意に満ちあふれすべてのものに愛を降り注ぎ、すべての行為において愛の法に従っている、というような人がいたら、教えてほしい。たとえ、その人が肉を食べる人であったとしても、私は個人的には、その人に、私の尊敬に満ちた賛辞を捧げるであろう。
 他方、毎日蟻や昆虫に餌をやり、かつ殺生はしないけれども、怒りや肉欲で深く染まっている人のジーヴァダヤー(動物に対するやさしさ)は、推奨すべきものはほとんど何も有していない。そのようなジーヴァダヤーは、いかなる精神的な価値をも持たない、機械的な善行に過ぎない。それはもっと悪いもの、すなわち、内面的な堕落を隠すための偽善的な目隠しでさえある可能性がある。


 つまり、ガンジーが唱えているのは、精神(心)こそが物質(体)よりも優位にあるということである。単に健康を保つためとか、絶対に殺生をしないと誓約したから肉食をしない、という理由で菜食を実践したところで、それは表面的なものにすぎない。肝要なのは精神的な部分であり、心の面である。
 自己の欲望を制し、心を常に正しく保ち、強く普遍的な愛を周囲に分け与える。その現れとして、菜食の実践がある。その逆はあってはならないし、またあったところで、それは偽善に過ぎないと、彼は言うのである。
 
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