空間からの物質化
ジョン・ダビッドソン 著 たま出版
1994年刊
 
 なわ・ふみひとの推薦文
 この本が述べていることをひとくちに言いますと、本のタイトルにある通り「空間から物質が作り出される」ということです。ただし、その「空間」とは、東洋の哲学がアカーシャ(サンスクリット語の「空」すなわち般若心経に出てくる「空」)と呼んでいる「真空エネルギー」のことを指しています。アカーシャとは、「その中から物質が現れてくる空間」であると言われているのです。つまり、「虚空より百千の事物が生じる」ということです。
  この「空間」の説明がこの本では詳しく述べられています。今日の科学の最先端にある量子論とも対比させながら、空間を構成している波動と粒子の関係も解説してくれています。では、空間から物質を作り出す「力」は何なのか――ということですが、それは「心の力」ということになります。その「心」とは何を指しているのかについては、どうぞ以下の抜粋をご覧ください。それでも納得いかない方は、ぜひ書籍を購入して深みにはまっていただきたいと思います。翻訳に多少難がありますが、お勧めの本です。
 
●内なる世界では、心と物質的に現象化したエネルギーの結びつきが容易に識別できるのに対し、物質界では波動の濃密さのために、内なる世界と同じ原理が働いているにもかかわらず、事物が外面的に現象化するのに時間が余計にかかる。
  われわれが良いことであれ悪いことであれ何かを望むと、その何かはわれわれに向かって接近を開始する。「心に思うことは具体的な行為にほかならない」と古い格言にあるが、同じように「われわれは自分が思うことを慎重に選ばなくてはならない」ともいう。
  いずれにせよ心と物質の直接のエネルギー的結合は、物質的現象化のアストラルとコーザルの両レベルばかりか、物質界(=この世)のレベルの根底にもはっきり存在しているのだ。だが、結果が物質的現象のレベルで明らかになるまでに少し余計に時間がかかるため、われわれは自分がいつどのような事情でそのことの結果に招待状を書いたかをうっかり忘れてしまうのである。
  ミハイル・ネイミの『ミルダッドの書』に当を得た美しい一節があるのでご紹介したい。

  「だから汝の思いの一つ一つがあたかも天空に炎で刻みこまれ、あらゆる存在の目にとまるかのごとく、心して思うがよい。なぜなら事実がそのとおりだからである。だから、汝の行為の一つ一つがあたかも汝の頭上にはね返るがごとく、心して行なうがよい。そして事実そのとおりなのである」

●物質界ではわれわれはみな濃密な物質的肉体を持っており、自分の五感の中に閉じ込められてしまっている。その結果われわれは他人はおろか自分自身の心的・霊的な成長度さえも直接知覚することができないのだ。つまりあらゆる到達レベルの魂たちが、みな外見的には似たり寄ったりの物質的肉体の中に閉じ込められているのである。
  だが、これらの内なる心の諸領域においては、われわれは自分の内的な状態にふさわしい場所へ正確に赴くのだ。つまり個人的により高く、より一層霊的になればなるほど、われわれは自動的により高い領域へと浮上していくのである。
  逆に言うなら、もし物質的な生存期間中の心と感情の中身が凶悪なものであったとすれば、死を迎え物質的肉体を奪われてしまった後で、われわれがその種の凶悪な心的活動が外に現れているような心的世界以外のどこかにいくなどということがありえようか?
  このような世界はすべて地獄的な領域と呼ばれてきた。もしわれわれの心が今生を送る間に、すでに一種の地獄であるとすれば、死後に地獄以外の行き場所などあるはずもないであろう。
  われわれは、ちょうどこの世でやってきたように、自分自身の心の内容から自分の現実をつくり出すのである。だが幸いなことに、このような諸領域でのわれわれの滞在は永久的なものではなく、これらの強烈な否定的傾向が自分の内部に残っている期間に限られている。その後われわれは、必ずしも人間とは限らないが、もう一度誕生を経験することになっている。
  「心」の世界にあっては正義は自動的に働く。われわれは自分の内なる心が連れて行く所に赴くのだ。これは因果律、つまりカルマの法則の一環である。われわれは自分が寝るベッドを自分で整えるのだ。われわれは自分では決してそうとは知らずに、自分自身を罰したり報酬を与えたりしているのである。

●ペルシャの神秘主義者だったルーミーが語るある物語は、われわれの日々の人生を構成するさまざまな現象の根底に潜む神秘的な運命の力を例証してくれる。
 ルーミーが語る物語はこうだ。

  ある朝のこと、国王の寵臣である大臣が市場を歩いていると、死の天使にばったり出くわしてしまった。すると死の天使は、大臣をなんとも奇妙な目つきで見つめるではないか。ぞっとした大臣はあたふたと国王の下に駆けつけ大声で訴えた。
  「どうか私をバクダードへ転任させてくださいませ。私は死の天使を見てしまったのでございますが、あやつが私を見る目つきときたら、もう我慢がなりません!」
 情け深い国王は直ちに彼をバクダードにある自分の宮殿に転任させることにし、手持ちの馬の中で一番足の速い馬を貸し与えた。そして、大臣はすぐさま馬にまたがりバクダードを目指して出発したのである。
  するとまもなくくだんの死の天使が、純粋に儀礼的な訪問ということでひょっこり国王を訪ねてきた。国王はこの機会をとらえて死の天使に尋ねた。「いったいさっきはどうしてあれほど私の大臣を怖がらせたのですか」と。
  すると死の天使はこう答えたのである。
 「私は何もしていない。ただ彼とこの地で会ったことに驚いただけなのだ。というのも、わたしはあの男と今日の午後にバグダードで会う約束があるからだ!」


  このカルマの法則と呼ばれる因果律はわれわれの心も包含している。実を言えば、心こそがこの法則の真の創造者なのだ。

●われわれの一生を通じ、あらゆる出来事や想念や願望や言葉やその他の何もかもが、まるで飛行機のフライトレコーダーのように、われわれの内なる心のエネルギーに大小さまざまな印象を残していく。そして死ぬ時にはわれわれの物質的肉体は死体となってあとに残されるが、生涯の記録であふれんばかりになったこの小さなブラックボックスはそうならない。このブラックボックスから、他のすべての被造物の運命とからみ合ったわれわれの将来の運命が書き上げられるのである。
  まさにこのようにしてわれわれは、妻や夫や子供たちや才能や気質や健康や病や日々の出来事や仕事などあらゆるものを与えられるのだ。
  よく「自分が今やっていることは全くの偶然にすぎない」という言いぐさを耳にすることがある。しかし、われわれが「偶然」と呼んでいるのは、物事が起きる仕組みが自分には分かっていないということにほかならない。偶然が多すぎる場合は、「偶然の一致」とか「幸運」とか呼ばれる。このような場合、われわれはハッとして、自分が気づいていない隠れた関係(=結びつき)が存在するに違いないことを認識する。
  われわれは万物の中に潜む神の「見えざる手」を知覚したりはしない。だが、神の手はは存在するし、自分の意識のレベルを向上させることによって直接体験することができる。それも、向上の度合いに応じてますます光り輝くような素晴らしい形で体験することが可能なのである。いやそれどころか、これを体験することこそが人生の本来の意味と目的にほかならないのだ。そしてこれが真の意味での進化――物質的進化ではなく意識の進化――なのである。
  この内なる力と調和し、一体化することことによって、われわれは「信念」という力を与えられる。そして信念があれば物事を生起させることができるのである。真の意味での信念は、哲学や宗教の理知的な言い回しに対する盲目的な信仰とは違って、万物に潜む内なる存在に集中した心の状態(態度)なのだ。万物を思い通りに動かしている高次の力を認識することによって生まれるものが信念である。
  それは神秘的体験の先駆けであると同時に、そうした体験によってますます増大する。
  信念は、この世界よりも精妙なアストラルとコーザルの諸領域で行なっているのと全く同程度に、この世界でもわれわれの周囲で物事を生起させている。それは遅発性の奇跡を起こす力なのだ。物質的現象化は少し時間がかかることもあるが、物事は確実に信念の力によって生起する。
  また信念は各人の運命と調和してもおり、起こることになっている事柄には同調し、信仰する出来事の一つひとつに自分のわがままな意志を押しつけようと戦ったりはしない。そしてこうしたことのすべては、広範な因果性もしくは緩やかなカルマの法則の文脈に収まっているのだ。

 形成的心

●この世界が「心」の世界であることは極めて明白なことである。あなたがどこを眺めても、何らかの想念(=思い)や感情(=気持ち)に動機づけられたという理由で大勢の人が動き回っている。われわれは想念や感情といった心的過程抜きで行動することはないのだ。
  通りに立って周囲を、あるいは自分の家族を眺めてみるがいい。そうすれば、すべての人間が能動的な心を持っていて、その心が当人のやっていることを指図していることが分かるであろう。この能動的な心はある程度意識を有しているが、実際には無意識な想念と感情の波打つ広大な海の表面の活動しか体現していない。
  また人間が作ってきたあらゆる人工物も心の助けによって作り出されてきたのである。だがわれわれは、自分の想念や感情がどこからくるのかを知っていない。なぜならわれわれの想念や感情が、今生と過去生の双方のさまざまな出来事によってパターン化され形造られながらやって来るのは、この無意識の海からだからである。
  というわけで、われわれは「意識を有する心」と「無意識の心(潜在意識)」を持っていることになる。確かにわれわれは自分の意識的心を実際に体験するし、無意識の働きにもある程度は気づいてはいるが、実はこうしたあらゆる心の働きの背後に一つの仕組みが存在し、それによってわれわれの心はこの物質的現実を作り出してきたのだ。
  われわれの現実を作り出しているのは、一見個別的と思えるわれわれの心の、この深く無意識な「形成的」レベルでの融合にほかならない。つまり、この物質界は心の世界なのである。そしてこの世界で生起する物事のすべては、それに関与したすべての人間の心の創造的影響力を受けて生起するのである。

●(この世界は)人間や動物や植物、細菌を含む全生物の心とカルマがかかわり合ってできている。

人間の心の中にあるものが各自の運命として外的に現れたり、新しいカルマが将来の人生ドラマの舞台に外的に参加するために各自の心に刻みこまれる。

●外的な現実はわれわれ自身の心の中にも存在している。自分の想念や観念が心の一部であることは理解しやすいが、一見したところ非常に堅固そうにみえる物質界が心的世界であるという事実はそれほど理解しやすくはない。
 
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