属国日本
Born on the Planet of the Apes
副島隆彦・著  五月書房
1999年新装版
 
 
 《 幕末・明治期編 》
 日本はイギリスの開国戦略に従って、倒幕から開国に到ったのである。


 
日本に開国を迫ったのは、幕末の1853年と1854年に来航したペリー提督率いるアメリカ合衆国インド洋艦隊である。
 浦賀まで来たどころか、実際には江戸湾深く入り込んで、たびたび威嚇砲撃(ペリーとしては礼砲のつもり)を行なっている。「開国と通商交渉に応じないならば、実際に江戸城を砲撃し、陸戦隊を上陸させる。上海からあと10隻軍艦が来るぞ」と幕府の交渉役人を脅したのである。ペリー艦隊の軍事力で、江戸城は本当に崩れると誰にも分かった。当時は江戸城の裏まで海だった。
 ペリーが、日本側を交渉の場に引きずり出して、上手に「友好条約」と「通商条約」を結ぶ過程は、『ペリー提督日本遠征日記』(木原悦子訳/1996年/小学館)の中にあますところなく描かれている。

 
変わることのない“日本に対する基本認識”

 ペリーの航海日誌のきわめつけは、やはり次の記述であろう。これが全てを如実に語っている。

 
しかしそれでも、日本国内の法律や規則について、信頼できる十分な資料を集めるには長い時間がかかるだろうし、領事代理、商人、あるいは宣教師という形で、この国に諜報員を常駐させねばならないことは確かである。それに、なんらかの成果をあげるには、まず諜報員に日本語を学ばせなければならない。
     (『ペリー提督日本遠征日記』木原悦子訳/小学館


 この「日本に諜報員(スパイ)を常駐させねばならぬ」という一文が、米日関係の現在をも、明確に規定している。現在の日本研究学者たちの存在理由もここにある。ペリーは何度も「日本人は(他のアジア人に比して)ずる賢く狡猾な国民であり、交渉をずるずると引き延ばす技術にたけている」と書いている。これはおそらく現在にも通じる我々の特徴であろう。
 そして、この狡猾であるという日本観は、当時の外国人たちの共通認識であり、現在のアメリカの政治家や官僚たちの基本認識である。
 日本はアメリカからこの30年間、貿易摩擦でヤイのヤイのと言われ続けである。日本はアメリカの要求に従って、世界基準にまでさっさと規制緩和と輸入自由化を達成しなければ済まないのである。
 あれこれ非関税障壁を作ったままで外国製品の輸入を増やさず、その一方で自動車や先端工業製品の輸出ばかりやっていると、いつかひどい目にあうのである。つい6年前のバブル経済破裂こそは、「日本がどうしても世界のゆうことをきかないのなら」ということで、ニューヨークの金融界が仕掛けて日本の余剰資金(おそらく総額1千兆円)を奪ってしまった事態だったのである。

 
アメリカ主導からイギリス主導への移行

 日本に遠征艦隊を派遣して日本をねじ伏せて開国を約束されたのはアメリカだが、この直後、アメリカは南北戦争という大きな内乱内戦を抱えてしまって、1870年まで外交問題に手が回らなくなる。そこで、アメリカ主導からイギリス主導に移った。
 イギリス全権公使のラザフォード・オールコック卿及びその後任のハリー・パークス卿と、その側近の外交官アーネスト・サトウの3人が、日本をどのような方向に持って行くかの青写真を1862年に作ったのである。
 その30年前に、ヨーロッパは日本を学問的に真っ裸にするために、ドイツ人のシーボルトをオランダ商館勤務医として派遣した。シーボルトは医学を教えるのと引き換えに、弟子になった者たちを使って日本の事情の一切を調べ上げた。
 1829年に帰国する際に、当時の最高の国家機密であった日本地図(伊能忠敬が実測して完成させたもの)を持ち出そうとして国外追放処分になっている。結局シーボルトが持ち出した日本地図の写しを、なんとアメリカ海軍のペリー提督がちゃんと持っていたのである。

 
グラバーの役割とジャーディン・マセソン商会

 全ての謎は1862年(文久2年)に集中して起こっている。この年に幕末維新史すべてにとって最大の秘密がある。
 この年、品川御殿山に建造中であったイギリス公使館を、長州藩の過激派武士たちが襲撃して燃やしている。当時、日本から金銀が流出して激しいインフレが起こっていた。正当な商取引に見せかけて、結局は文明人の方が数段悪賢いわけだから、外国商人たちが日本商人をだまして巨利を得ていたのだろう。さらには日本を政治的にも乗っ取ろうとした。
 この外国人どもを殺害(天誅を下す)しようとしていたのが長州藩の武士たちである。襲撃に加わっていたのは、その後「維新の元勲」と呼ばれた者たちである。高杉晋作、伊藤博文(俊輔)、井上馨(聞多)、久坂玄瑞、品川弥二郎らである。
 ところが、それから半年後には、この伊藤博文(俊輔)と井上馨(聞多)の2人は、なんとイギリスに密航して、ロンドンに留学しているのである。実は彼らはすでに開国派だったのだ、という説になるのだろうか。
 伊藤博文らは、18年後の1881年に再びイギリスに渡り、今度は「日本帝国憲法」をつくるための作業を行なっている。そして伊藤博文は、他の維新の元勲たちが次々と暗殺され、あるいは病死していった後の年功序列で、初代の総理大臣になった人物だ。この日本国家を代表した人物の経歴に分からないところがあるというのはおかしな話だ。
 おそらく、伊藤博文や井上馨は、イギリス公使館襲撃の直後に、急激に思想大転向して、開国論に転じ、イギリス人(おそらくアーネスト・サトウ)に説得されて、イギリスの軍艦に乗せられてロンドンまで渡ったのだろう。藩を脱藩することでさえ死刑であった時代に、どうしてイギリスにまで渡ったのか。その旅費1万両は、長崎の商人グラバーが立て替えたらしい。
 高杉晋作はその前年に、すでに上海まで行っているという記録が残っている。大村益次郎も上海に行っている。最もよく上海に行っているのは、五代友厚(薩摩藩士)である。
 上海にあったのは、ジャーディン・マセソンという大商社である。この会社は現在でもイギリスで4番目ぐらいの大企業であり、中国の権益を握りしめてきた商社である。このジャーディン・マセソンの日本支店とでも言うべき商社がグラバー商会である。おそらく、彼らはすべてフリーメーソンの会員たちであろう。私は陰謀理論を煽りたてる人間ではないが、この事実は日本史学者たちでも認めている。この上海のジャーディン・マセソンが日本を開国に向かわせ、自分たちの意思に従って動かした組織だと、私は判定したい。

 
長崎代理店・グラバー商会

 グラバー商会が、上海のジャーディン・マセソン商会の日本の窓口であったことは明白である。グラバーは輸出用の再製茶業から長崎での事業を出発させたが、やがて武器と軍艦の取引が大部分を占めるようになる。
 (中略)
 1970年8月、明治維新政府の誕生と同時に、グラバー商会はわずか10万ドルの負債を理由に倒産している。おそらく、ジャーディン・マセソン側が、統幕運動で果たした武器商人としてのグラバーの暗躍を重く見て、他のヨーロッパ諸国からの疑いの目をそらすために、グラバー商会を倒産させてイギリスの日本管理戦略をさとられないように、あとかたもなく消してしまったということだったのだろう。
 その後、蒸気船のための石炭を採掘していた高島炭鉱をはじめ。グラバー商会の資産と経営は、最終的に岩崎弥太郎の三菱財閥に引き継がれている。明治維新と呼ばれた大変革期も、その実質的な原動力はこのあたりにあった。即ち、イギリス政府とジャーディン・マセソン商会の連携による日本改造計画の遂行であった。

 
五代友厚・ジョン万次郎・坂本龍馬の動き

 グラバーは1859年9月に上海から長崎にやって来た。65年には、五代友厚と森有礼をもロンドンに送り出している。
 1862年8月には、薩摩藩が生麦事件を起こしており、翌年イギリス艦隊が薩摩まで懲罰攻撃に出かけている。このときに五代友厚は自ら進んでイギリス艦隊に藩船3隻とともに投降している。すでに話は、裏でついていたのである。だから薩摩藩は、このときからイギリス戦略に乗せられる。同年に四国艦隊下関砲撃が行なわれ、占領された。このとき実質的に下関は自由港と化して、幕府の統制と支配を脱して、商人や藩自身が外国商人とものすごい額の取引を行なっている。商船を相手に藩自らが金貸し業を行なって巨利を得て、これが統幕運動の資金となった。
 あとひとつ注目すべき動きは、ジョン万次郎と勝海舟、坂本龍馬、後藤象二郎をつなぐ線である。ジョン万次郎は漂流漁民であるところをアメリカの捕鯨船に救けられ、アメリカ東部で英語の教育を受けたのち、10年後の1851年に帰国している。土佐藩に出仕したあと幕府の翻訳方として召しだされ、ペリーのあとのハリス公使との交渉の通訳として使われている。ジョン万次郎はおそらくハリスに、日本側の幕府の老中たちの密談の内容を知らせただろう。
 60年に幕府使節が、条約の批准書を交換するために咸臨丸でサンフランシスコに渡ったときに、万次郎も幕府海岸操練所教授として加えられている。ここで勝海舟や福沢諭吉と同船している。
 土佐で坂本龍馬はジョン万次郎に教えを乞うている。その紹介で、62年に江戸に上り、勝海舟の門を叩いたのである。63年には神戸に海軍操練所が開かれ、勝海舟が軍艦奉行となり人材を育成している。翌年、その行動が幕府に睨まれて操練所が閉鎖されたあと、坂本龍馬は子分らを伴って長崎で亀山社中(海援隊)を作っている。
 脱藩浪人に過ぎない坂本龍馬らがなぜ長崎で海運業を行なえたか。ここもグラバーとジョン万次郎の線で支えられていたからだろう。坂本龍馬は、65年から資金的に困って薩摩藩に頼っていたので、対長州藩説得のためのエージェント(代理人)になっていたと解釈すべきだろう。
 坂本龍馬は、薩長同盟(66年1月21日、京都の薩摩藩邸で、西郷隆盛と木戸孝允が合意した攻守同盟6カ条)を仲介した幕末史上の重要人物とされる。しかし、一介の脱藩浪士が何の後ろ楯もなしに、このような政治力を持てるだろうか。背後にはやはり、ジャーディン・マセソンとその日本対策班であったグラバー、それにイギリス外交官たちが控えていたと考えるべきである。

 
アーネスト・サトウという日本研究戦略学者

 66年6月には第二次長州征伐の最中に、フランス公使レオン・ロッシュと、イギリス公使のハリー・パークスが薩摩で会談して、日本をどっちが取るかで最後の火花を散らしている。薩長同盟が成立するためには、武器と戦艦を、薩摩藩名義で長崎で買って長州の下関に届けなければならない。前年の65年7月末に「胡蝶丸」で7千挺のライフル銃が長州に届けられた。65年12月には、坂本龍馬配下の上杉宗二郎が、武器を満載した薩摩藩名義の桜島丸(ユニオン号)を長州に運んでいる。
 井上馨がこの件で木戸孝允(桂小五郎)に「ごほうびに上杉がイギリス行きする資金を藩から出してほしい」と働きかけている。66年1月に上杉は、長崎からグラバーの船に乗せてもらって出航しようとして海援隊の仲間たちに発見されて切腹している。どこか不思議な事件である。ちょうどこのとき、坂本龍馬は京都で西郷・桂と薩長密約を成立させている。
 このようにグラバーの影がちらつく中で、軍需物資の長州への支援計画が着々と進んでいる。坂本龍馬が船艦を何隻も動かして、薩長両藩に対して軍事援助を何度も確約しているのは、背後にそれだけの戦略を練った人々がいたからだ。
 サトウは、土佐藩の重役の後藤象二郎および藩主の山内容堂と協議したあと、船で長崎の方へ回っている。おそらく倒幕のための諸藩連合の、同盟関係の共同軍事行動の最後の確認に行ったのだろう。

 
ジョン万次郎という男

 実は、坂本龍馬や後藤象二郎が、土佐でジョン万次郎に会って話を聞き、「世界がどのようになっているか」を知ったその前年に、薩摩の名君で42歳になったばかりだった島津斉彬もジョン万次郎から話を聞いている。帰国の際、沖縄に上陸した万次郎は、鹿児島に46日間もとどめ置かれ、そのあと長崎奉行所で取り調べを受けている。
 これは、ペリーが来航する2年前である。ジョン万次郎の帰国は、まるで、あらかじめ申し合わせたようなタイミングの良さである。このように、幕末期の重要人物たちは、ジョン万次郎という人物を中心につながってゆく。そして、彼が幕府に召しだされて通訳として江戸に行くにつれて、この人脈のつながりも移動してゆく、このとき、万次郎は「アメリカ・イギリスによる日本の開国戦略」を、これぞと思う人間には次々に打ち明けていっただろう。ここで、ジョン万次郎の系統の人間たちが、インナー・サークル(内部の秘密を知る人々)として形成された。
 ジョン万次郎の動きが一番活発なのは、1865年(慶応元年)である。前年から薩摩に招かれて航海術を指導していたのだが、65年の2月には長崎にいて、土佐藩、薩摩藩、長州藩のための軍艦の購入の仲介をしている。その後、上海に2回、高杉晋作らを連れて行っている。
 坂本龍馬は、1862年に勝海舟邸を訪ねている。おそらくジョン万次郎からの紹介状をもらって会いに行ったのだと、私は推測する。「自分は開国派のインナー・サークル(内部の秘密を知る人間たち)の一員である」と勝海舟に信じさせることができたことによって、この時から勝海舟に弟子入りできたのだ。そうでなければ、すでにこの時幕府の高官になっていた勝海舟が、坂本龍馬のような脱藩浪人というお尋ね者の危険な人物に気楽に会うはずがない。殺し屋である攘夷論者の過激派たちがウロウロしている時代に、わざわざ自分から簡単に姿を現すはずがない。よっぽどの人物からの紹介がなければ、自分の家に招き入れるはずがないのだ。
 勝海舟は、その2年前に幕府使節の随員として咸臨丸でサンフランシスコに行ったが、その船にジョン万次郎と同乗している。勝海舟はこのとき、万次郎から世界の真実をたくさん教えられたことだろう。

 
坂本龍馬の動きの背景

 明治新政府の合議政体の青写真となったのは、坂本龍馬が書いた「船中八策」とされるが、このアイデアはアーネスト・サトウのものを下敷きにしたものである。
 1864年7月の禁門の変で、クーデターを仕掛けた長州藩が京都から敗退した。その煽りで神戸の海軍操練所が閉鎖され、所長の勝海舟は疑いを持たれて江戸に戻された。そこで坂本龍馬は塾生を引き連れて船で薩摩藩へ行っている。これもグラバーやサトウの意向を薩摩側に伝え、最新兵器や船艦をイギリスがどんどん供給(軍事援助)するという内容の確認のためであったろう。そして、長州に対しても同様の援助をすることが話し合われただろう。
 このあと太宰府にいた三条実美卿に会い、尊王攘夷派の公家の勢力を結集するよう説得している。このとき桂小五郎が既に藩内クーデターを起こして長州藩の実権を握っている。桂小五郎は西郷隆盛が薩摩から下関に出てきて、グラバーからの武器援助と秘密同盟の話に入ることを首を長くして待っていた。
 坂本龍馬は桂小五郎とは江戸の斉藤弥九郎道場で14年前から知り合っている。このとき2人とも20歳ぐらいであった。桂小五郎は藩の責任者としてとにかく武器弾薬がほしかった。4カ月後には第二次長州征伐が始まるのだから、その準備で大わらわである。伊藤博文と井上馨が7千挺のライフル銃をグラバーからもらって薩摩藩名義の船で帰ってきたのはこの7月である。高杉晋作もこのあと帰ってきた。だから、この65年の5月の時点で、イギリス主導の薩長合作は実質的にできていたと考えるべきだ。
 西郷隆盛はなかなか来なかった。いらついた木戸孝允(桂小五郎)は坂本龍馬と中岡慎太郎を怒鳴りつけた。このとき坂本龍馬は木戸孝允に「武器弾薬を積んだ蒸気船(武装商船)を一隻、長州藩に与える」という保証を与えている。いったい、坂本龍馬がなぜこのような発言ができたのか。

 
育てられた親イギリス派の日本人

 イギリスは坂本龍馬だけを工作者として使ったのではなく、五代友厚や伊藤博文をも別個に動かしている。前年8月の四国艦隊下関砲撃事件にしても、17隻の連合艦隊が一撃で長州藩の砲台を破壊して、陸戦隊を上陸させて占領したのである。フランス、オランダ、アメリカの軍艦と日を置いて交戦し、次々に砲台を占拠されている。それぞれたった半日の戦闘である。それぐらい日本の軍事力は弱かった。
 この事件の講和交渉を進めるために、あわてて伊藤博文と井上馨がロンドンからイギリス軍艦で帰国している。この2人は交渉用の人材として育てられたのだから、そのために帰国させられたと言うべきだ。
 薩摩藩の場合も、その前年の「薩英戦争」の処理のために五代友厚が育てられていたのだろう。イギリスはこの頃から日本人の若者たちを自国に招き寄せては、親イギリス派の人材として育成することを行なっていたのだ。
 イギリスはアヘン戦争で中国を屈服させて開国通商させるときにも、親イギリス派の中国人の人材を育てておいてから武力を行使した。そしてその後の中国にイギリスが植民地(租界)を開いてゆく様子を、日本人の高杉晋作のような人物を上海に連れて行って見せたのだろう。

 
兵器こそが薩長連合を成立させた

 この下関砲撃の翌年の7月に幕府による第一次長州征伐があったのだが、この戦争も実態は小競り合いに過ぎない。長州藩の方が近代火力や軍艦の点で幕府側よりも強かったから負けなかっただけのことである。
 このようにして、1865年には長州は坂本龍馬や伊藤博文を介してグラバーから船鑑弾薬を大量に受け取っている。この事実があってはじめて、翌年の薩長連合が成立したのだ。
 このあとの第二次長州征伐の際に、高杉晋作が組織した奇兵隊が強かったのは、やはりイギリスの日本戦略に従ってグラバーが大量に上海から輸入した鉄砲大砲の類があったからだ。進んだ軍事技術の前には、旧式の鉄砲大砲は太刀打ちできないのである。
 日本人は自分たちの力で国内改革をやってきたと思いたいだろうが、真実は、この幕末維新期でさえ、当時の世界帝国イギリスの描いたシナリオの通りに歩かされたのだとする方が正しいだろう。
 この時期から日本はイギリス及びアメリカの支配下に入ったのである。そのことを明瞭に自覚していたのは、五代友厚(後に大阪堂島の商工会議所を開き、株式市場などの資本主義国としての経済制度を作っていった人物)と大村益次郎と坂本龍馬と伊藤博文と井上馨である。だから、彼らはインナー・サークル(本当の秘密を知る人間たち)であった。その周辺に公家の岩倉具視やら木戸孝允やら西郷隆盛やら、それに大久保利通と後藤象二郎がいた。

 
最終段階で切り捨てられた坂本龍馬

 坂本龍馬が襲撃され暗殺されたのは、翌67年旧暦11月15日である。寄宿していた京都河原町の近江屋という醤油屋で、中岡慎太郎と一緒に殺されている。
 この前月の10月13日には、将軍徳川慶喜は「もう幕府はもたない」と自覚して先手を打って大政奉還を宣言し、翌14日に朝廷に奉請している。京都にいた40藩の代表を二条城に集めて、「自分がこのまま諸大名の頂点に立ち、諸侯会議という合議体制に移行させよう」としたのである。これに対して薩長の倒幕派は、公家たちを動かして同じ14日に、朝廷から「倒幕の密勅(秘密の勅許状)」をもらっている。これで薩長は一気に軍事クーデターを起こすことを決め、薩長出兵協定を結んで戦艦隊も関西に到着している。
 この動きの中で坂本龍馬は殺されたわけだ。どうも坂本龍馬は、この武力倒幕路線に最終局面で反対しており、「幕府が諸侯会議を開くというのだから、それでいいではないか」という考えだったようだ。それでこの緊迫した時期にインナー・サークルからはずされたのではないか、とも考えられる。
 既に坂本龍馬はイギリスにとっては切り捨てるべき段階に来ていた。67年4月には、高杉晋作も結核で死んでいる。

 
大村益次郎と後藤象二郎

 インナー・サークルのもうひとりの重要人物は大村益次郎(村田蔵六)である。大村益次郎は長州藩士だが、宇和島藩主・伊達宗城に招かれ、蘭学や兵学の教授となり、軍艦を建造したりしている。61年には上海に行き、長州藩のために武器弾薬を購入している。66年には長崎でグラバーから兵器を購入している。
 大村益次郎は、かつて長崎留学生のときシーボルトの娘オイネとつき合っており、早い時期から「秘密の仲間」に入っている。軍監という司令官の役職について、68年1月、倒幕軍を率いて江戸攻めに向かう直前に、大村は長崎のグラバー商会に陸揚げされていたアームストロング砲21門を入手している。これは、この当時、世界最新鋭の強力な兵器で、これが鳥羽伏見の戦いの勝敗を決めたのだ。幕府軍は士気が上がらなかったので負けた、とふつうの歴史書には書いてあるが、そんなことはない。戦闘はより強力な武器を持つ方が勝つのだ。倒幕軍の総大将は西郷隆盛だが、軍事力を直接動かしたのは大村益次郎であって、江戸に入ったあとも、上野の彰義隊の抵抗をこのアームストロング砲で一気に片づけている。西郷隆盛も大村益次郎の戦闘指揮の前に頭が上がらなかったという。
 政治の流れを大きく背後で動かしているのは、軍事力とそのための資金である。
 一体グラバーの背後に、日本を属国にして管理していくためのどれだけの策略がめぐらしてあったのか。まるで日本人だけで、それも情熱に燃えた下級武士たちの力で明治維新ができたと考えるのは、底の浅い歴史認識である。
  後藤象二郎は、五代友厚の仲介でグラバーから船を買ったり、オランダのハットマン商会からライフル銃を買ったりした。結局、これらの努力は翌年の68年の戊辰戦争に間に合って、薩長土肥の連合軍の中で重きをなした。この土佐商会の中にいたのが、後に三菱財閥を築いた岩崎弥太郎で、晩年のグラバーの面倒を見たのもこの岩崎である。現在の三菱グループが、世界企業戦略を持って大きくなったのも、このとき以来の人脈からだろう。

 
伊藤らのイギリス再訪

  以上のように、1962年という年を境に、討幕運動の内部に大きな連携のネットワークができたようである。
  明治維新で本当の戦乱があったのは、68年の戊辰戦争の半年間ぐらのもので、あとは散発的な殺し合いがあっただけだ。伊藤博文らは、1881年に憲法を作るために再びイギリスに渡り、ロスチャイルド家の世話を受けている。ロスチャイルド家は当時の世界中の最新情報を握っていただろう。大きな意味ではそこが世界の最高司令部だったのである。ロスチャイルドにしてみれば、極東の新興国の日本の場合は、誰を押さえておけば上手に管理できると“上からの目”で全て見透かしていたはずである。
 ロスチャイルドは、「日本にはイギリスのような最先進国の政治制度は似合わない」として、プロイセン(プロシア)ぐらいがちょうど良いだろうと勧めて、プロイセンの憲法学者グナイストやシュタインを紹介する。このグナイストに家庭教師をしてもらって作ったのが明治憲法である。
 
なわ・ふみひとの解説 ★
 こうして、鎖国を続けていたわが国に、イギリスの手によってついに「くさびが打ち込まれた」のです。もっと単刀直入に言えば「スパイが植えつけられた」ということです。私たちが幕末から明治維新にかけて文明開化の橋渡しをしてくれたと信じてきた人物たちの多くが、実はイギリスの奥の院に住む世界支配層(ロスチャイルド)の手先(グラバーなど)によって手なづけられ、操られたエージェント(代理人)だったということです。
 徳川幕府に大政奉還を迫り、鎖国政策を解かせた力は、坂本龍馬や伊藤博文らを巧妙に操ったグラバーなどのイギリス商人たちだったことがよくわかります。そして、その手口は今日でもまったく変わりません。
 「内部で争わせて、支配せよ」というのが彼らのやり方です。幕府側にはフランスが、薩長の側にはイギリスが武器や戦術の提供を行ない、あわよくば両者が激突して、ともにボロボロになることを期待していたのです。それは「大江戸炎上」という形で実現する一歩手前まで行きましたが、薩長側(官軍)の総大将・西郷隆盛と幕府側代表の勝海舟の会談によってどうにか避けられたのです。
 しかしながら、その後に生まれた明治政府の中心となったのは、この2人ではありませんでした。それは密航してイギリスに行き、洗脳されて帰ってきた伊藤博文や井上馨らだったのです。坂本龍馬に至っては、倒幕の戦争を回避する策を口にしたために、何者かによって殺害されてしまいます。 詳しい内容は、ぜひ『属国・日本論』を購入して深みにはまっていただきたいと思います。
 このあと、日本は西洋の先進諸国を見習って急速に近代化を進める過程で、やがて日清戦争、日露戦争という2つの戦争を経験し、ついに第二次世界大戦へと導かれていきます。そこにも、政府や軍部に埋め込まれたエージェント(代理人)つまり、“世界支配層”の手先たちの、実に巧妙な活躍があるのです。首相を務め、中国への泥沼戦争のきっかけをつくった米内光政や、海軍の総大将として日本海軍を意図的に壊滅へと導いた山本五十六らの見事なスパイぶりには目を見張ります。
 そして敗戦後の日本が、“世界支配層”によって完全に属国として扱われているのは言うまでもありません。現在の日本の政財界やマスコミなどに巧妙にばらまかれているエージェント(代理人)が誰なのかについてはある程度推測できますが、今日の日本の政治がそれらのスパイたちによって操られているのは間違いないと見てよいでしょう。

 
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