運命の法則 |
つよく生きる知恵 |
原田豊實・著 三笠書房 1986年刊 |
生かされて生きる
――生かされて、生きる
という何とも言えない喜びに満ちた生き方は、そうやすやすとやってくるものではない。 いくら口で言っていても、病気をしたり失敗したりすると、すぐ崩れる。神も仏もないものだと言ったりする。 人間というものは、葦のように弱いのである。そのことは、長い人生を経てきた人はだれでも経験し、知りつくしている―― 仏教者である霊感の詩人・坂村真民師のことばである。戦前は朝鮮で学校の先生をされ、戦後も松山郊外に住み、高校の先生のかたわら、詩を作り続けてきた人である。 真民師は、縁あって愛媛県の大乗寺とい禅宗の僧堂で禅に参じ、仏縁を結んだのであるが、大きな船にのって己れを任せて生きてゆく喜びの目が開き、世界が変わったのだという。 『詩人・向上』誌にこう記されている。 一寸先は闇だったものが、一寸先は光となった。二度とない人生を意義あらしめ、自分は自分なりに、どんなに小さくても自分の花を咲かせて、世を終りたい自覚と決意が生まれてきた。守られているありがたさ、生かされているうれしさ‥‥ かくして、詩作一本の生活に専念されて、15年になる。しかもその詩作は、他の詩人と異なり「生かされて生きる」自分のご恩返しのために、月刊『詩国』を発願したというのである。 真民師は若い時から体が弱く、かつては失明寸前にまで追いこまれたり、3人の医者からガンと診断を下される悲劇も続いた。 「延命の願」という必死の願いの詩がある。 わたしは延命の願をしました まず始めは啄木の年を越えることでした 第二の願をしました それは子規の年を越えることでした それを越えた時 第三の願をしました お父さん あなたの年齢を越えることでした それは私の必死の願いでした ところがそれも越えることができたのです では第四の願は? それはお母さん あなたのお年に達することです もしそれも越えることができたら 最後の願をしたいのです それは世尊と同じ齢まで生きたいことです これ以上は決して願はかけませんから お守り下さい (啄木27歳、子規36歳、父42歳、母73歳、世尊80歳) こうして、今日まで生きてきたことを考えると、自分で生きてきたとは全く考えない。 「大いなるもの――それをわたしは大詩霊さまと呼んでいるが――に守られ導かれて生きてきたという体験が、わたしの信仰になっているのである」というのだ。 このような不思議なおん守りによって、視力も回復し、医者か宣告されたガンも手術をせずに治ったというのである。 生かされて生きるということは、任せきって生きるということであり、任せきって生きるということは、自分を無にして生きるということであり、自分を無にして生きるということは、自分の志す一筋の道にいのちをかけ、更には他のために己れの力を傾け尽すということである。 とは、師の魂の雄叫びだ。 われわれが「任せきって生きる」ことは、余程の動機がなければできないことである。 しかしながら、真民師によれば、 「心を切り変えれば、いますぐ即座にできることである」と断言されている。 まさに「即身成仏」(生きているまま、居ながらにして仏になること)とは、この境地である。「この世界は一心にあり」ともいうが、任せきるという心一つの転換が、ガラリと人生を変えるということだ。 仏教伝道文化賞を受賞の紀野一義氏の『生きるのが下手な人へ』(光文杜刊)に、「はるかなるものの叫び声」に生きる真民師が登場している。 この詩人は毎朝3時に起きる。坐禅し、読経し、戸外に出て天を仰ぎ、大詩霊に向ってひたすら祈るというのである。その詩に曰く。 わたしがいちにちのうちで いちばんすきなのは あのみめいこんとんの ひとときである わたしはそのこんとんのなかに みをなごこみ てんちとひとつになって あくまのこえをきき かみのこえをきき あしゅらのこえをきき しょぶつしょぼさつのこえをきき じっとすわっている てんがさけび ちがうなるのもこのときである めいかいとゆうかいとのくべつもなく おとことおんなのちがいもなく にんげんとどうぶつのさべつもない すべてはこんとんのなかに とけあい かなしみもなく くるしみもなく いのちにみち いのちにあふれている 最高の生きがいは、まさにこの時にありというのである。 |
★ なわ・ふみひとのひとくち解説 ★ |
「身魂磨き」の視点からお勧めしたい本ですが既に絶版になっています。Amazonで古書が数冊出ているようですので、関心をもたれた方はご購読ください。買って損はされない本だと思います。
ここにご紹介した中に出てくる坂村真民の「延命の願」は命乞いともとれます。神様に命乞いをすれば、その願いは叶えてもらえるのでしょうか。私はそうは思いませんが、坂口真民のすばらしいところは、その命を「大詩霊」という神様に捧げ、「生かされて生きる」自分のご恩返しのために、詩作一本の生活に専念したところにあるのです。 自分の「命」を何に使うかということが身魂磨きのためにはもっとも大切なポイントで、ただ生きながらえて子供を育て、孫をかわいがるだけの人生であれば、それは「鮭やミミズと変わらない」と揶揄されることにもなるのです。 「自分は大いなるもの(=神様)に生かされている」という自覚を持てば、人生で起こる一つひとつの出来事に一喜一憂する必要はなくなり、一見不運と思えるような出来事も「すべて今の自分に必要なことが起こっているのだ」と感謝して受け入れるようになれるのです。それが、「(大いなるものに)任せきって生きる」ということであり、「自分を無にして生きるということ」だと真民はその詩の中で伝えてくれています。 「自分を無にする」という意味は、「我欲から離れる」ということです。生きていくなかで起こる出来事にあれこれ注文をつけず、そのまま受け入れながら、自らの志すところに向かってひたすら努力を続ける姿勢と言えるでしょう。しかも、それは自分のためではなく「他のために(=世の中のために)」自分の力を傾け尽くすという心の姿勢が大切だということです。 そのことをまとめたのが真民の次の言葉でした。真民の「魂の雄叫び」として紹介してあるこの内容は、人が人としてその魂を磨く上での要諦がコンパクトにまとめられています。 生かされて生きるということは、任せきって生きるということであり、任せきって生きるということは、自分を無にして生きるということであり、自分を無にして生きるということは、自分の志す一筋の道にいのちをかけ、更には他のために己れの力を傾け尽すということである。 |
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