快癒力
そのイメージを変えれば健康になれる
篠原佳年・著 サンマーク出版 1996年刊 
★ なわ・ふみひとの推薦文 ★
 著者は現職の医師ですが、西洋医学に毒された今日の医療のあり方には批判的です。「医者は病気を治せません。病気を治すのは、あくまでその人自身の力によります。それが自然治癒力です」という考え方は私も共感するところ大です。また、「病気は悪いもの」と考えること自体にも問題があると説いています。本書は、病院や薬に頼り切っている現代人に警鐘を鳴らす良書と言えます。
 
 医者が病気になりやすいのはなぜか

 
医者が病気になりやすく、平均寿命も短いことをご存じですか。医者は病気治しのプロであり、病気の原因も治療法も熟知しています。その専門家が病気にかかりやすいのは、おかしいと思われるかもしれませんが、現実に医師は自分の健康や長寿のためには最悪の環境にあるといっていいのです。
  たとえばガンの専門医は、毎日毎日ガン患者と対面しています。ガンへの恐怖のイメージが医師の心の奥底に深く入り込んでガンになってしまうことが多いのです。波動の理論でいうと、ガンの波動とシンクロ=同調してしまうのかもしれません。
  ある年齢になって「そろそろ成人病に気をつけなければ‥‥」と思うのもよしあしです。健康のために運動をして、食事に気をつけるのはよいことですが、「成人病、成人病」と意識しすぎることは、かえって心のなかに病気の種を植えつけるようなものだからです。
  私がこれまで多くの患者さんに接して思うことは、病気になりにくい人は「病気を意識していない人」なのです。病気のことなんか、まるで眼中にない人は、めったなことでは病気なりません。
  ストレスから胃潰瘍になることはよく知られていますが、胃潰瘍にかぎらずあらゆる病気の原因は、自分自身がつくり出している側面があります。病気になりやすい人と、そうでない人との差は、持って生まれた体質とか運もありますが、最大の原因はその人の考え方にあるといっても過言ではありません。


 
重かった背中の荷物をどう軽くしたか

 
世の中には重い病気の家族を抱えて困っている人もいます。また自分が病気になって家族に迷惑をかけていると、心苦しく思っている人もいることでしょう。どちらも病気治癒によい心理状態ではありません。そこで参考までに私自身のことを述べてみたいと思います。
  私の子供は先天的な病気で言葉をしゃべることができません。そのような子を授かったことで、妻は悩み続けて心の病気になりました。そのうえ、母は私が開業した頃、すでに肝臓ガンに侵されていました。父は医者でしたが、脳出血による半身不随で、自分でトイレにも行けない体でした。
  ふつうはこれだけ病人を抱えると、そのストレスは相当なもので、私自身も病気になって不思議ではないと思います。ところが何の因果か、私は健康そのものでピンピンしています。なぜ私が健康でいられたのか。一時期は私も悩み苦しみましたが、あるとき子供時代に読んだ一冊の本を思い出したのです。その本にはこう書かれていました。

 
神様はその人の背中に背負えるだけの荷物を背負わせてくださる。ただ、その人の背中の大きさに見合ったぶんだけしか背負わせてくださらない
 
それを読んだとき、子供の私は神様にこうお願いしたのです。
  「神様、僕は困った人や病気の人の荷物を背負ってあげたいのです。たくさんの荷物を背負える大きな背中をください」
  そのことをフッと思い出した瞬間、私は納得したのです。わざわざ病気の素質のある嫁さんを探して、病気の子供を選んで、親も病気になって、仕事も難病の患者さんばかりを相手にして‥‥そうか! と思ったら、それまでずっしりと重かった背中が急に軽くなりました。
  よくよく見てみると、子供も妻も私ほど悩んではいないのです。子供は私に会うとニコッと笑います。その子を見て妻も嬉しそうにしています。
  父はよくつまづきますが、いっこうに悩んでいなかった。母が死んで、面倒を見る人がいなくなって施設に預かってもらったのですが、母親が死んでからは生きることに興味を失いました。それでも父としての威厳は失わず、人に「どうこうしてくれ」とは一言も言わず、一人で死んでいきました。
  その1年ほど前に、母は病院で私と弟にみとられて亡くなりました。直前までガンの告知をしなかったこともありますが、母が自分の病気で取り乱した姿を見せたことはありませんでした。
  みんな自分の生を一生懸命に生き、死ぬ時期がきた者は死んでいきました。人間は生まれた瞬間から死を約束されている存在なのだから、自分らしく生きればいい、自分が思った通りに精いっぱいわくわくすることで生きればいいのではないか――そう思いました。
  そうしたら不思議なことが起こりました。自分のことで悩んでいたときはドリンク剤を飲まないと元気にならないし、それでも疲労から気の萎えることがしばしばだったのに、どこからかエネルギーが生まれてきて、私は疲れを知らず、何をやっても楽しいという人間に生まれ変わっていたのです。

 
目には見えない世界も厳然とある

 
私たちは病気について考えるとき、どうしても西洋医学的な考え方をします。たとえば病気になる原因を考えるとき、ひとつは細菌を念頭におく。コレラはコレラ菌、赤痢は赤痢菌、エイズはエイズウイルスによって引き起こされると思っています。
  肥満とか高血圧が成人病を招くというとき、脂肪が体内でどのようになり、血管がどうなるから高血圧になって‥‥と、すべて具体的な説明をされて納得する。そういう思考に慣らされているために「わけがわからないが治る」というような言い方は信用されません。
  「気」などはさしずめわかりにくい筆頭で、信じる人間は信じるが、一般の人はいざとなると検査づけ、薬づけと知りつつ、結局は現代医療の世話になってしまうのが現実ではないでしょうか。
  だが、目に見えない世界というのが厳然と存在するという事実に、もう少し目を向けてほしいのです。その世界を知ることが、病気にならないために、あるいは病気を治すために非常に大切なことなのです。
  (中略)
  いずれにしろ量子理論を総合すると、この宇宙空間にあるあらゆる存在は同一のものから構成されている。そして物質もエネルギーも状態の違いにすぎないことがわかってきました。人間を構成しているものは宇宙を構成しているものとまったく同一であり、原子核のまわりを電子が回っているさまは、太陽のまわりを惑星が回っているのと同じ、ミクロの世界の裏返しがマクロの世界だということになります。
  (中略)
  現代医療の限界を強く感じていた私は、突破口を見いだすため、死んだ人間をも生き返らせると言われている神の化身サイババに会うためにインドにも行きました。「病気とは生命エネルギーすなわち気というものが、形を変えてつくり出した心の影」「私たちは病気を通して生や健康を学んでいる」「病気は熱きメッセージである」。こういう私なりの病気観が確立したのはそのときの経験がひとつのきっかけになっています。
  人間と宇宙が同じ法則によって構成されているなら、人はある心的状態になったときに宇宙の究極の意志である「創造主」から、そうしたことを教わるのだと思います。
  人間は自分のなかにあらかじめすべてを持っている。あるいはすべてを知っている。進化によって明らかになるのではなく、持っているもの、知っていることを、あるきっかけによって気づいていく。そしてその気づきが経験を通してさらに深まっていく。そして人生も深まっていく――。そうでなければ、「病は気から」という思想が何千年も前に生まれるはずがありません。

 病気になるのも捨てたものではない

  自然治癒力という言葉を聞いたことがあると思います。体には、医者や薬の世話にならなくても、きちんと癒すシステムが備わっているのです。病気が治るのが自然治癒力だとすると、病気になるのは自然治癒力が弱まったときということになります。しかし、
病気が治るだけが自然治癒力ではない。病気になるのも、実は自然治癒力なのです。
 
たとえば何か悪いものを食べたとします。食あたりで下痢をする、嘔吐をする。これは見かけは病気です。しかし、私は下痢も嘔吐も自然治癒力だと思います。なぜなら、下痢や嘔吐は、体に侵入した悪い食中毒菌や異物を早く体外に出そうとする作用です。体をもとの健康体に戻そうとする意味においては、このような症状も自然治癒力と考えられるのです。
  こういう考え方をすると、
体が異変を起こしたとき、それをあわててもとに戻そうとするのは間違いであることがわかります。病気をすべて悪者にするのがおかしいのです。病気はどこかバランスがよくないことを教えてくれている。そしてバランスをとろうとしているのです。病気になったら、自分のどこがいけないのかを考えてみるという姿勢が必要です。
  私のところへはリウマチ患者さんが大勢来られますが、私が前から気がついている不思議な事実があります。それは、リウマチにかかった人でガンを患う人はほとんどいないといってよいことです。
  ある病気になることは別の病気を防ぐことであると考えれば、自分の病気への愛情も出てくるというものです。
  「
病気を不運だと考えたり、不当だと考えることは治癒の妨げになる。病気を成長のための贈り物だと見なせるようになったとき、治癒系のブロックがはずれ、治癒が始まるのだ」(アンドルー・ワイル著『癒す心、治る力』角川書店より)
  実際に多くの患者さんに接していると、難病の人で地位、名誉、財産などにこだわっている人は一人もいません。この人たちがとらわれていることは、ただ病気だけなのです。
  病気が治ってしまえばどうなるのかはわかりませんが、少なくとも病気にならなければ「考えない」「わからない」ことが絶対にある。そういうことを考えるチャンスを与えるために病気が与えられるのかもしれないという見方もできます。

 
病気は自己を成長させるよいチャンスといえます。人間は三日生死の境をさまようと聖者になれる、といいます。病気になったら「自分を考えるチャンスが訪れた」と前向きにとらえることです。

 
助けるつもりで命を奪っていないか

  現在の医療現場で行なわれていることを、みなさんはどう思われますか。
  病院だから病気の人を治しているだろう、医学は進歩しているから、いまは治らない病気もやがては治るようになるだろう――もしこう思っておられるとしたら、失礼ですがかなりお人好しの見方といわなければなりません。
  医療現場がやっていることは、そんなことではありません。患者さんに病名をつけて、ほとんど治らない治療を施し、症状は少し和らぐが副作用の恐れのある薬を出し、そしてほとんどの患者さんを治していません。
 
立派に見える医療施設や装置の大半は病気探しの検査に使っているもので、病気治しとはあまり関係ないのです。それでも当事者たちは悪気でやっているわけではなく、彼らなりに精一杯のことをやっていると思っているのです。そういったことに慣れてしまったのです。
  救急の患者が病院に担ぎ込まれると、医師も看護婦も「なんとか助けよう」と必死になります。その場合にだれもがやろうとすることが、症状の安定ということです。呼吸が苦しそうなら、呼吸を整えさせようとします。しかし、これが大変な間違いだとは気づかないのです。
  呼吸が荒いということは肺が一生懸命に息をしようとしていることです。息をするのはそれが必要だからです。体のなかの酸を二酸化炭素として肺から出そうとしている。だから息を止めてはいけないのです。
  ところが息が荒いのは見た目には苦しそうに見える。そこで看護婦さんも家族も「楽にしてやりたい」と思い、酸素マスクをかぶせたりする。酸素を吸うと、当然呼吸回数が減ってくるから、体の酸が出せなくなる。体はアッという間に弱ります。
  見た目は息が穏やかになって「落ち着きましたね」などと喜んでいるのですが、実は患者さんは二度と帰らない旅に出ていこうとしているのです。
  なかには生命力の強い人がいて、酸素マスクをはねのけたりする。そうすると「暴れています」などといって、今度は鎮静剤を打つ。鎮静剤を打たれると筋肉が弛緩して、ますます息がしにくくなる。これでは助けるつもりで、逆に命を奪っているのと変わるところがありません。それでもだれも悪意はもっていない。みんな当たり前のことをしているつもりなのです。「おかげさまで静かな息をしています」「よかったですね。しばらく様子をみましょう」。いくら様子をみても、患者さんが生きようと最後にふりしぼった力を邪魔して削いでしまったのですから、よい結果か出るはずはありません。
  これはほんの一例ですが、
西洋医学というのは、目に見える症状の改善にばかり意識を向けていて、病気の本質というものを見誤っている。いまのやり方を続けているかぎり、病気はほとんど治らないし、それどころか病気になる人はますます増えていくでしょう。私は医者になって20年がたちますが、現在の医療のあり方を根本的に改めることなくして、病人と医療費だけが増え続けるという事態を変えることはできないと思っています。

 
病気をつくることにエネルギーを使うな

  では、どう改めたらよいのか。いま必要なのは、新しい「病気観」というものの確立ではないでしょうか。
  病気は悪いものである。病気は体に起きる現象である。病気は治さなければいけないものである。病気を治すには病院へ行かなければならない。――こういった既成概念はことごとく間違っています。
  病気は決して悪いことばかりではない。病気は体に起きた異変とばかりはいえない。病気は治さなくてもいい場合がある。病気は病院へ行けば悪化する。できたら病院へは行かないほうがよい。――こういう「病気観」も必要だと思うのです。
  気というものにたどりついた私が、その観点から難病の人を大勢あつかってきて、いま「あなたの病気観は?」と問われたら、「病気とは“熱きメッセージ”である」と答えます。病気とはその人の生き方に対するメッセージなのです。だれからのメッセージかといえば、神様でもなんでも、自分の気に入っている者でよいと思います。
  だが、ともかく心と体からなる人間という存在は、生命エネルギーを得て生きている。
だから病気になったら、その症状の裏に隠されている本当の意味を理解することに努めなければならないのです。
  こういう観点に立ってみると、病気に対する既成概念がいかに理に合わないものかがわかってきます。たとえば病気になると元気がなくなります。元気がなくなれば元気を出させようと、栄養をつけさせたり、休息をとらせたりします。
  しかし、病気で元気がなくなるのはエネルギーが足りないためなのでしょうか。みなさんは中学校ぐらいで「エネルギー保存の法則」というものを学習したはずです。エネルギーは永遠に減らない。なくならない。自分のなかにあるエネルギーもまったく同じなのです。
  そう考えると、「気が落ちると病気になる」というのは、たぶん間違いでしょう。気が落ちるから病気なるのではなく、病気にエネルギーを使っているから、見た目では表面の気が減っているように見えるだけなのです。
  病気の人は病気をつくることに相当のエネルギーを振り向けている。エネルギーを病気づくりに重点的に配分してしまっているのです。
  自分のことばかり考えている人も、決して病気に無縁とはいえません。気を外に出さないで貯め込むと、一種の便秘状態になり、それがストレスとなって病気づくりへと向かう。この点、生命エネルギーはお金とよく似ています。
  人生にお金は必要ですが、入ってきたものをうまく配分して使ってこそ意味があります。莫大なお金をひたすら貯め込んだりすれば、泥棒が心配になり、失うことへの不安が生じ、ストレスとなって暗い人生を過ごすことになります。生命エネルギーもこの点はまったく同じと考えられるのです。

 
難病が治るケースはこの3つしかない

  生命エネルギーで特に注意する必要があるのは、エネルギーの総量よりもバランスのほうがはるかに大切だという点です。
  では、気のバランスをとるにはどうすればよいのか。それは病気になった人が治っていく過程から逆算して知ることができます。私の経験によれば、難病が治るケースは次の3つしかありません。第1に「病気をあきらめた人」、第2に「病気を忘れた人」、第3に「人のために尽くした人」です。
  結論から言えば、「病気にエネルギーを使わなくなってしまった人たち」なのです。多くのリウマチ患者さんを診ていて「この人は絶対に治らないだろうな」と思われる人がいました。症状も悪ければ検査結果も最悪。そのうえ、治りたい気持ちが人一倍強く、来るたびに「治せ、治せ」と鬼のような形相でせがむ。難病だけに医師としてこんなつらいことはありません。
  正直いって、会うのがつらかったのです。その患者さんがしばらく来ないと思っていたら、久しぶりにやってきました。彼女の顔を一目見て私は驚きました。顔つきがまるで変わっているのです。穏やかで明るくて笑みさえ浮かべています。
  「元気そうじゃないですか、どうしたんです?」
  すると彼女はこういったのです。
  「先生、もうあきらめちやった」
  検査をしてみると、炎症の程度をあらわすCRPの値がリウマチで最高の数値だったのがマイナスになっている。「治りたい、治りたい」と、それだけを願っても治らなかった人が、あきらめたら逆に治ってしまったのです。
  ある人は相当症状が悪いはずなのに通ってこなくなった。久しぶりに来たので事情を聞いてみると、孫が生まれたそうで「その世話で忙しくて忙しくて、病院に行くのなんか忘れてしまった」というのです。薬もずっと飲んでいないといいます。この人も検査してみと、劇的に快方へ向かっていました。
  また、
自分の病気そっちのけで、人のために尽くすことで、快癒を果たした人もいます。ともかく病気はどんな難病も「あきらめる」「忘れる」「人のために尽くす」の3つを徹底すると、不思議なほどによい結果を生じさせる。この3つに共通するのはいったい何なのでしょうか。
  病気をつくるエネルギーを他のものに転換したのです。その結果、自分の気持ちが楽になって世の中が素敵に見えてきて、毎日わくわく生きられるようになったのではないでしょうか。すっかり明るくなった患者さんを見ていて、私はそう思うようになりました。このような患者さんの気を測定してみると、失われていたバランスが見事に回復しているのです。
  もうひとつ、気を測定していてバランスのとれる心理状態があります。それはブラス思考の状態です。物事をなんでも前向きによいほうへととらえる。こういう思考態度をもつ人も気のバランスがとれています。
  ただ、難病にかぎらず病気の人は、なかなかプラス思考ができないものです。そういう人たちは「あきらめる」「忘れる」「人のために尽くす」の3つのどれかを実行されたらよいと思います。なぜかといえば、治った人はみなそうなのですから。実行すればすべてが必ずよい方向に向かっていくのです。

 健康食品はこう使うのがいちばんいい

  気には先天の気、後天の気の2種類があります。先天の気は親から受け継ぎ、生まれながらにもっている気です。この気には成長し発育していく生命力が備わっている。生まれると黙っていても成長するのはこの気に生命力が宿っているからで、先天の気は「生命力」といってもよいでしょう。
  後天の気は先天の気を維持するためのもので、具体的には栄養や呼吸によって取り入れられる気のことをいいます。私たちが健康で生きられるのは、この先天の気と後天の気がひとつになっているからなのです。
  自然治癒力はこの2つの気のバランスから生じる生命力の発現した姿といってもよいでしょう。つまり私たちが健康で生命が満ちあふれているようなときは、ことさら自然治癒力を意識する必要はありません。自然治癒力が高い低いではなく、それを意識しないですむときがいちぱん健康な状態なのです。
  健康は自然界の営みと個人の生命活動の営みが一致したときに実現します。自然界のすべての営みは、陰と陽から成り立ち、それは互いに作用し合いながらバランスを保っていると考えられます。このバランスの上に個人の健康も成り立っている。だから私たちは気をうまく使ってバランスをとることがいちばん大切なのです。
  気のバランスを保つうえで知っていただきたいことは、世の中には決定的によいこと、決定的に悪いこと、どちらも存在しないということです。
  これを陰陽でいいますと「陰極まれば陽になり、陽極まれば陰になる」。陰陽は属性であって、それ自体に善悪のような判断は下せない。人間のあらゆる営みも同じように考えられるのです。
  病気は一般に「よくないこと」とされていますが、病気になるということは、限りなくひとつの方向へ向かっていた体が極まって臨界点に達したことです。
  それが病気であると同時に、病気の症状はもうひとつの方向、すなわち健康へ向かい始めた証拠でもあります。思い込みが気の流れを低下させ病気にすることがあるように、思い込みひとつで健康になることもできるのです。
  たとえばこういう患者さんがいます。膝が痛いというから私が手当てしようとすると、それを断るのです。
 「先生、私、忙しいので注射だけしてください」
 「今日は薬だけでいいです」
  難病の人ほど注射や薬に頼ります。しかも「治る」と思って頼るのではない。その場、その場の症状を軽減するためだけに頼る。病気そのものは「難病だから治らない」と信じ込んでいる。そういう人間は、その思いどおり一生病気を抱えてしまうことになります。
  それでは「治ってやるぞ」と意気込んでいる人は治るでしょうか。一概にそういえないところが大きな問題です。というのは、そういう人は気が健康に向き過ぎている。これも決してよいことばかりではありません。
  健康にそれだけ気がいくことは「病気になる」ことの裏返しなのです。早い話が病気という言葉を意識しなくても、病気を怖がっているのと同じなのです。
  昨今は健康食品ブームで、いろいろな健康食品が売られていますが、
健康食品を用いている人は「病気へ向かっている」といってもよいのです。
  実際、健康食品にこだわっている人ほど健康を損なっています。気の原則のひとつに「自分のために気を使い過ぎると病気になる」というのがありますが、まさにこの状態になっているのです。
  健康食品を活用することは悪いことではありません。だが「病気にならないために」などとあまり思い入れを強くもたないほうがいいでしょう。健康な人はふだんの食事を「滋養だ、栄養だ」などとことさらに思いません。ただ単純に「食べたい」「おいしい」で食べています。健康食品も「趣味だから」「癖になった」という程度でいいのです。「高血圧にいい」「ボケ防止になる」などと意識すると、かえってよくありません。

 なぜ病気はよくないと考えるのか

 
病気は神様からの熱きメッセージである。私たちはそれぞれ懸命に生きています。だが、その懸命さがいつも正しいとはかぎらない。それは会社や社会と調和しているかも知れないが、人間を生かしている自然や宇宙の法則と合致しているとはかぎりません。
  また自分にとって心地よくても、周囲の人や家族にとっては好ましくないかもしれない。病気になってそういうことに気がつくこともあるはずです。病気になると、これまで見えていなかった「本当の自分の姿」が見えてくるのです。そのことが一番大事なのです。
  あるいは、人はいうかもしれません。そんなこと別に病気にならなくても別の形で教えてくれればいいじやないか。特に難病になることは、学ぶにしてはあまりに大きな犠牲である。それがもし天の意志であったとするならば、天のやり方は残酷すぎる――と。
  ここで私が思い出すことがあります。『後漢書』の有名な言葉で「虎穴に入らずんば虎児を得ず」です。大事なものを得るには命がけでないとダメだということ。病気に縁のない人にはわかりにくいと思いますが、難病で苦しんでいる人に「あなたはいま何がほしいですか」と聞くと、「健康です」とだれもが決まって答えます。
  健康にさえなれば他に何もいらない。あるいはもう助からないのなら「自分を他山の石として、家族は病気にならないように」と願う。欲も得もない高い境地に達しているのです。病気でなければ、金儲けや地位や名誉といった世俗まみれの事柄に情熱を燃やしていたであろう人間が、重い病気になると仏様のように悟ってしまう。その意味で私は「病気というものはすごいものだ」と思うようになりました。

 とにかくいま、好ましい想像をしなさい

 
病気はすべて過去とかかわっています
。過去の食生活、過去の運動、過去の不摂生、過去の思考、過去の感情、過去のあらゆるものが積み重なって現在の自分がある。その自分が現在病気であるとしたら、そうなるような生き方をしてきたということです。
 
そして未来も一部かかわってくる
。不安や心配とは未来に向けられたものだからです。それはまだ確定していない未来を、暗い想像、自分にとっては決して好ましくない想像で満たすことです。だがそこに描かれている想像の世界は、想像という点を除けば現実と変わらない。想像体験によって現在の自分が影響を受けるわけです。
  ここからひとつ大変重要なことがわかってきます。過去と未来は現在とつながっているが、私たちはどこまでいっても現在しか生きられない。過去をもち、未来があると思っているが、そう思うのも現在しかない。どこまでいっても私たちは現在にしか生きられないということは、過去も未来も現在の一部であるということです。
  過去は記憶の倉庫としての現在であり、未来は想像としての現在である。だとしたら現在をこしらえているのは過去や未来ではないか。どちらも意識の世界であるということは私たちの人生はすべて意識によって形づくられていることになり、だったら意識できるいまという時点で、私たちは自分にとってもっとも好ましい想像をするべきではないか。それこそが人生をよりよく生きる唯一にして最良の方法ということになります。
  いままで私たちには大きな制約がありました。それは「過去は変えられない」という制約です。過去はとりかえしがつかない。失敗した過去をもっていれば、その失敗からくるマイナスの影響を引き受けなければならない。そう思っていたはずです。
  だから未来にしか希望はない。だが、その未来も過去も変えられないから、その影響は受けざるをえない。だから唯一の希望もやがては絶望にすり変わってしまう。すべては過去によって規制される。そうやって過去が好ましくない人は、現在も好ましくなく、未来にも希望がもてないという暗い人生を送らなければならなくなっているのです。
  病気治しという奇妙な情熱にとりつかれて、いろいろな世界をさまよったあげく私が得たものは、病気は過去に起因し、過去は変えられるということでした。過去が変えられるなら、病気の原因を変えることも可能である。原因を変えれば結果は違ってくる。世の中で奇跡的な治癒を得た人を見ていると、原因を取り除くことで結果を変えたことに他ならないことがわかります。
  このことは病気治しの重要なセオリーとなることです。これまで私は難病が治るケースをいくつか見てきていますが、難病が治るケースは3つしかないと先に述べました。
  逆に
病気が治らない人、治っていいはずなのに悪化する人にも3つのパターンがあるのです。その第1は「治りたくてバタバタする人」、第2に「治らないと思っている人」、そして第3に「治らないほうがよい人」です。病気に関してはこのパターンで、ほぼすべての人をカバーすることができます。

 
なぜこ4人たちの病気は治らないのか

  第1の
治りたいとバタバタする人」が治らないのは、次のような理由からです。病気になればだれでも治りたいと思います。そのためにバタバタするのは当然といえます。だがそのバタバタの仕方が問題なのです。
 「先生、早く治してください」
 「注射を打ってください」
 「どうすれば治るんですか」
 「治るためなら自分はなんでもやります」
  こういう患者さんは大勢います。そのこと自体は決して悪いことではないように思えます。しかしこの種のタイプの特徴は、病気を治すことよりも、いまの症状のつらさから脱したいという気持ちが強くて、それだけになってしまっていることが問題なのです。
  病気を治すというのは、決して表面にあらわれた症状を消すことではなく、病気を引き起こした根本の原因を探って、それをなくすことです。ところがバタバタ型の人は、根本の原因を除去することには熱心ではないのです。
  ひたすら目先の症状を軽くするほうに意識を集中する。痛いのを「なんとかしてもらいたい」という気持ちはわかりますが、痛みが消えることが「治ること」ではない。「一時的な症状の緩和」と「治る」ことの違いをきちんとわきまえておかねばなりません。
  そのことがわかっていない人が多過ぎるのです。リウマチのような病気は、原因も治療法も解明されていないため、治療といっても症状を和らげる以外に道はないように思われるかもしれません。
  医者のなかにもそう思っている人がたくさんいるくらいですから、患者が思うのもムリはありませんが、リウマチだって快癒しないわけではないのです。治る人は自分のなかにあった原因を自分で除去する。要するに自分を変えたらよいのです。そうすれば治る。医者がわからなくても治ることがあります。
  治ることにバタバタする人は、自分に気を使い過ぎています。気を自分のために使い過ぎると病気になる。そういう気質や性格が、病気を招いたとも考えられるのです。「こんな病気になって大変だ。早く治さなければ」と焦れば焦るほど、病気はますます悪くなるのです。
  治すことに神経を集中しているようで、実際はどうかというと、自分を苦しめることに気を使っている。そのたびにその人の思いのエネルギーがその人の心をゆがめて、よけい病気を悪くしていくのです。
  病気はその人の体の内部から発信された、生き方に対するメッセージです。「あなたの生き方は、病気になるほどバランスのとれていない生き方なのですよ」と体が教えてくれている。だから素直にそれを受けとめて、生き方を変えることを学ばなければなりません。 何も病気を楽しめとはいいませんが、せっかく病気という形でメッセージがきているのですから、じっくりと受けとめてみてはどうでしょうか。
  病気は医学が治すのではない。病気になった人が自分の力で治すのです。だから医学的に原因がわからない、治療法がないといって落胆することはありません。大切なことは自分の意志で自分の意識を変えていくことです。それがあなたの病気を治していくことになるのです。
  治りたいと思うことは必要です。でも決して焦ってはいけない。取り乱すのもよくありません。病気は自分へのメッセージだと思って、その意味するところを考えるように努めるのが、悪化させずに快方に向かわせるもっともよい方法といえます。

 
模範的な病人では病気は治らない

  病気の治りにくい第2のタイプは「
治らないと思っている人
」です。治ると思わないのはなぜか。たとえばリウマチのような病気は、治らないのが定説ですから「治らない」と思うのはムリもありません。
  この病気が難病で治らないことをだれもが知っている。それで自分がその病気に『なった』といわれると、その瞬間から「ああ、もう自分は治らない」と観念してしまうのです。あきらめの境地のようですが、それとは微妙に違っています。
  ガンになって「あなたはガンですよ」と宣告される。「はい、わかりました」と医者のいったことを素直に受け入れてしまうのは、あきらめではありません。判断をすべて医者にまかせたことにほかならない。そこには自分の判断がない。自分に宛てられたメッセージを自分で読まないのです。こういうのも治りにくい人格です。
  同じあきらめでも、病気へのこだわりがなくてきれいさっぱりあきらめるのは、宗教の修行を積んだ高僧のような高い境地で、これと医者がいうがままに病気を受け入れるのとはまったく違うのです。
  自分のなかに病気の「意味」を取り込んだだけで、それを解釈することもせず、ただ医者からいわれたとおりに「治らないんだ」と考える人がどういう態度をとるかというと、医者を頼り、薬を欲しがり、症状の軽減を求めることには熱心になります。
  つまり病気を抵抗なく受け入れてしまうのです。痛くなってもそれは病気なのだから当然である。薬を飲んで楽になるというなら「薬はきちんと飲みましょう」「治療も指示どおり受けましょう」と、模範的な病人になってくれます。
  医者にとってはありかたい患者さんです。だが病気に受け身になってしまうぶんだけ治りにくい。病気はどんどん悪くなっていく可能性が大きい。このタイプは病気になれ親しんでしまう傾向があるのです。
  同じ病気の人に会うと病気の話に花を咲かせる。つねに治らないという意識をもっている。悪いいい方をすれば、「病気が趣味」みたいになってしまうのです。こういう人の気はやはり病気に集中します。
  本当にあきらめてしまえば、気は病気に集中しないはずなのですが、治らないと思う人は自分をいたわって、薬もきちんと飲んで、病院にもせっせと通って来てくれます。だが病気への闘争心はないわけですから、自己免疫力はよい方へは働いてくれず、現在の医療の欠陥である薬害の影響も受けやすいのです。医者に対してあまり素直になってしまうのも考えものだということです。
  病気は医者が治すものではなく病人自身が治すものです。自分で治すということは、医者が施した治療が、病気治しの唯一の方法ではないということです。極端なことをいえば、何もしなくても治ってしまうことがあるわけです。
  そういう奇跡的なメカニズムを人間の体はもっている。心構えひとつで快方へと向かうことがある。ところが治りにくい考え方をしている人には、そういうきっかけがつかめないのです。このことがこのタイプの人が治らない最大の原因といえます。

 
病気になったほうが都合のいい人もいる

  3つ目のタイプは、病気が「
治らないほうが都合のよい人」。これもなかなか治りません。病気になってもだれも喜ばないと思うのは健康な人の考え方で、世の中には病気になったほうが都合のよい人もいます。
  たとえば嫁と折り合いが悪くて、家庭内で身のおきどころがない人とか、仕事がハードだが休めないような人。何かトラブルを起こしてひじょうに立場の悪くなっている人。こういう人は心の奥底で「病気になったらいい」と思っているのです。
  どんな病気になるかは、その人のライフスタイルが決めるのでなんともいえませんが、とにかくこういう人が病気になると、ふつうの人ならすぐに治るような病気でもなかなか治らないことがあります。
  治らない理由は簡単です。心の奥底で「治らないほうがいい」と思っているからです。中高年になると成人病がどっと増えてきますが、なかには「病気になりたい願望」が実現して病気になっている人も何割かはいるはずです。
  病気になったほうが都合のよい人はけっこう多いのです。政治家や芸能人が、何かマイナスのことで世間から注目を浴びる状態になると、病院へ逃げ込む例がありますが、仮病とばかりはいえません。なったほうが都合がよいという心理が、本当に病気をつくる場合もないわけではないからです。
  入院患者で病気が快方に向かって退院できるところまでくると、またぶり返す人がときどきいます。そういう人は心理的な要因を分析してみると、たいてい治ることで何か不都合を抱えている場合があったりするのです。
  老人は病気がちというのが世間の常識になっていますが、必ずしも年齢だけが病気にさせているわけではなく、老人は「やることがない」のも大きいと考えられます。定年後、年をとって暇はいくらでもあるが、自分が本当にやりたいことがない。やることがなくなってくると病気になる人も少なくありません。

 
「治ったイメージづくり」がいちばん効果的

  医者は病気を治せない。医者は患者さんにとって病気を治すためのよきパートナーにすぎず、薬も注射も一時的に患部の痛みを抑えるだけのもの。
病気を治すのは患者さんの内部にある自然治癒力なのです
  では医者は何をすればよいのか。私は「気づきの手助け」だと思っています。具体的には、医師の役目は患者さんにたえず「病気の治ったイメージ」を与えることです。それによって患者さんが「治る」という意識をもてれば、それが何よりも効果のある治療になりうるのです。
  医師のひとことは患者さんにとって、ときに神のひとことなのです。医師の軽いひとことが、患者さんにとっては心を砕く巨大な岩石にもなりかねません。「ガンではないか」と思い悩んでいる人は、医師が眉をひそめるだけで絶望してしまうかも知れないのです。
  だから、医師はただ検査の結果を告げればいいというものではありません。患者さんの心の状態を知ることも大事なのです。私が常に心がけているのは、患者さんに「治ったイメージ」を与えることですが、私の専門であるリウマチではこの方法がいちばん効き目があるのです。

 
生きるエネルギーを上手に配分すること

  治すという立場に立ったとき、「病気を悪いもの」と考えるのはよくないと再三述べてきました。なぜかというと人間の思いはエネルギーだからです。人間は生命エネルギーがあるから生きています。このエネルギーを人間は自分の人生のさまざまなことに振り分けて使っていますが、人生を左右する最大のポイントはこの配分にかかっています。
  エネルギー配分が適切であるとき、その人の人生は物心両面において、すべて順風満帆なはずです。もちろんエネルギーですから総量も問題になります。エネルギー量の多い人と少ない人をくらべたとき、多い人のほうが元気がいいと一応はいえます。だが実際は総量はさほど問題になりません。人それぞれの必要な量が違っていて当たり前なのです。
  このことは気の測定をしてみるとわかります。人間の体の仕組みは極端な省エネが可能で、たとえエネルギー総量が10分の1でも、10倍の人以上に溌刺と生きられる。だから量はあまり問題にする必要はありません。いちばん問題なのはエネルギー配分です。
  病気になるということは、病気づくりにエネルギーを振り向けていることである。悲しい人、つらい人、苦しい人はそういうマイナスの部分にエネルギーを振り向け過ぎているのです。子供時代が「幸せだった」と思える人は、その頃の自分かエネルギーをどんなことに振り向けていたかを思い出してみることです。
  夢、希望、愛、友情、調和、安心、平和、満足、そういったものに満ちていたはずで、それがすなわち幸せの構成要素なのです。そして、そういうものへと自分のエネルギーが振り向けられていた。くったくのない無邪気な時代というのは、みんな幸せに生きられます。ところが20代、30代に入ってくると、エネルギーが違うものに向けられるようになる。競争、失敗、敗北、憎しみ、恐怖、そういうものにエネルギーが向けられるようになる。人生がつらく苦しいものになるのはそのためです。
  なかでも大きいのが病気への恐怖で、子供の頃はまったく心配しなかったことを、年がら年中意識するようになる。すべてが病気づくりへと向けられはじめるのです。また加齢ということが、若さの喪失、肉体の衰えを意識させるようになる。それに加えて実社会での生きる苦労もある。こうして子供時代にいきいき、わくわくするものにだけ向けられていたエネルギーが、使いたくないものばかりに向けられるようになるのです。
  それは仕方のないことだ、というのがこれまでの常識ですが、決してそうではない。大人になっても健康で溌刺と自分の人生を生き抜いている人を見れば、その人たちのエネルギー配分が子供時代と大差ないことがわかるはずです。むしろ大人になって知恵がついたぶんだけ、配分の仕方は上手になっている。同じような境遇でも、人生が180度違ってくるのは、エネルギー配分の仕方によるといっても過言ではありません。
  ではどうすれば人生を幸せに導き、健康も損なわないようなエネルギー配分が適正にできるかですが、それは意識を変えることしかありません。意識の扉を開けて、意識改革を断行する。たとえば病気になったら「病気はよいもの」と考えるのです。
  私は医師として長年病気を治すことに夢中になってきましたが、最近は病気を「憎い敵」とは思えなくなってきているのです。病気になるのはそんなに悪いことだろうか。病気になることはその患者さんにとっては、ものの本質、すなわち自分にとって何が大事なことなのかを気づかせてもらうための、またとない機会なのではないか、と考えるようになったのです。
  私たちはそれぞれのやり方で一生懸命に生きています。しかしその生き方が自然の本来のあり方と調和しているとはいえないかもしれない。自分本意で、自然の法則や秩序を乱しているかもしれない。生命活動はあくまで自然の法則に忠実ですから、そのような生き方は自分の健康にとってはマイナスなのです。
  また、その一生懸命さが自分にはよくても、周囲や家族たちにもよいとはかぎらない。社会にとっても害をおよぼしているかもしれない。そうしたもろもろのことに、ふだんはなかなか気がつかない。病気になることによって気がつくことがある。病気は「神様からの熱きメッセージである」というのはそういう意昧なのです。
  病気がきっかけになって、それまでの人生を軌道修正する人は少なくありません。病気になることで、それまでは気がつかなかった自分の本当の姿が見えてくる。そして、それまでの自分の姿が本来の自分ではないことに気がつく。もしそういうことになれば、病気は決して悪いことではないとわかるはずです。

 
他人への心づかいに徹してみよう

 
病気を治すには、意識を変えることが何よりも必要です
。病院へ行けば医者は薬をくれるし、いろいろな治療を施してくれます。しかし、こうした医療行為が病気を治すと思うのは間違いです。そうしてもらったことによって「治る方向に向かった」という安心感が病気を治すのです。
  つまり病気を治すのにいちばん重要な要素は、その人の意識の転換ということです。では、どう意識を変えればいいのか。それは再三申し上げてきたようにエネルギー配分を適正にすることです。
  私たちはみんな意識をもっていますが、その意識をどこにもっていくかで気のエネルギー配分は違ってきます。たとえば「陽気で明るい性格」といわれる人は、気がそうなるように配分されている。物事を否定的に考えたり、人を恨んだりしてはいないのです。
  気の使い方しだいで病気になったり、病気を治したりできる。ただひとつむずかしいことは、私たちの生きる現実が、そうそうこちらの理想どおりに運ばない点です。むしろ思いどおりにいかないことが多い。そこで気をいかに明るい気持ち、肯定的な気持ちに振り向けようとしても、それができないということが起きてきます。
  実際、いま病気で苦しんでいるのに、ニコニコしたり、未来への希望にわくわくしたりできるか、ということになります。それどころか「この病気は一生治らないのではないか」「これがきっかけで死ぬのではないか」、そんなことまで考えてしまいがちです。
  とくにふだん健康な人は、風邪をひいて高熱を出しただけで、「一巻の終わり」と不吉な予感が頭をよぎることがあります。「病気を悪者にするな」「天からの贈り物と思え」などといっても、実際に病気に苦しむ人にとっては「冗談も休み休みいってくれ!」といいたくなることでしょう。
  だが運命の分岐点はここにあるのです。そう思えないで不吉なほうへ、不吉なほうへとのめり込んでいくような人は、生涯にわたって病気と縁が切れないか、陰鬱で思いどおりにならない人生を過ごさなければならなくなります。
  これを脱するよい方法がひとつあります。それは前にも述べたように「気は他人のために使えば使うほど、増えて自分に返ってくる」というのを利用することです。いまあなたが病気で苦しんでいても、できるだけ他人のために役立とうと考えることです。
  他人への心づかいに満ちた毎日を送っていれば、気は充実して体は必ず健康体へと向かっていきます。他人のために何かをすることは、他人のためではなく本当は自分のためだということです。他人のために何かをするということは、本当は目に見えていない自分にエネルギーを送ることなのです。
  次々と病気に侵される人がいます。私はそういう人を何人も見ていますが、そういう人に共通する特徴は「自分本位」ということです。「自分だけがなぜこんな病気にならなければいけないのか」と本気で腹を立てている。腹を立てて天をのろい、自分の運の悪さを嘆いている。こういう人たちには自分の姿しか見えていないのです。
  自分だけが苦労する、という意識が自分の心をよけい苦しくしているのです。世の中に目を向けてみれば、自分よりもっと悲惨な運命におかれている人だってたくさんいる。そういう人たちにくらべれば、自分は「なんと恵まれているのか」という見方もできる。それをしないのは自分の姿しか見えていないからなのです。
  私が気の治療をしていたときも、こういう人にかぎって治療をさせてくれない。慢性化していて薬も気休めにすぎない。私はそれをなんとか治す方向へ向かわせようと、いわば新しい試みを提案しているのですが、意識が他のものを受けつけないから、そういう治療をいやがるのです。
  そういう人が望んでいるのは、もはや治ることではなくて、目先の苦痛を脱することだけなのです。それでは難病は決して治らない。難病を治すには意識の転換がどうしても必要になります。
  その転換も「治りたい」ではダメです。そこから一歩進めて「治った」とイメージしなければならない。もっといえば、治ってからやりたいことをやっているイメージのほうがより強力です。以前に私の病院を紹介されて来た人たちは、来る前から「あの病院へ行けば治るぞ」と期待に胸を膨らませていた。その気持ちがその人の自然治癒力を高め、体のあらゆる細胞が治癒の方向へと動き出して病気を治していったのです。
 
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