断食・少食健康法

甲田光雄・著 春秋社 1990年刊
 
 少食こそ健康法の基本

  少食実行者の体験報告を聴いて感ずることは、少食こそ健康長寿への基本であり、「慢性難病」を根治に導く秘訣であるということです。
  彼らの元気な姿を見ると、“少食”の関門をくぐることなしに難病を克服することは不可能ではないか、といいたくなります。最近の健康法ブームでは、ニンニク健康法、アロエ健康法に始まり、玄米菜食健康法、生野菜食健康法等々、じつに多種多様の健康法が紹介され、宣伝されています。これらの健康法の書物を読んでみますと、どれもこれもその効果の素晴らしい面が強調されており、どんな病気でもそれを実行すれば治ってしまい、また無病長寿が約束されるように錯覚してしまいそうです。しかし、私にいわせていただくなら、「いかなる健康法を実行するにしても、少食を守れないものは結局健康になることができないであろう」ということです。西式健康法の創始者西勝造先生もその著『西医学健康原理実践宝典』の結びで、次のように過食を戒めておられます。
  「未だ私は、過食して重症の回復したものを知らない。云々……」と。
  「少食に病なし」とはまことに真なるかなです。世間には、健康法という特殊なものは何一つ実行しておらないのに病気らしい病気をせず、八十、九十の坂を無事に越え、見事長寿をまっとうする人がおられます。これらの長寿者の食生活を調べてみると、だいたいにおいて少食と粗食の習慣が見受けられるようです。長寿村として有名な、山梨県の棡原(ゆずりはら)における古老たちの食生活を調査された古守豊甫先生の著書『長寿村棡原』の中にも、少食、粗食が長寿の秘訣ではなかろうかと強調されております。

 少食の功徳

  動機は何であれ、厳しい少食をある期間実行し、その少食にも慣れてくると、もはやそれが特殊な食生活であるという観念が薄れてきます。
  「少食に病なし」というのも、それが終生の習慣になってこそ価値が現われてくるのです。単なる思いつきや一時的な戦略としては後が続かず、またもとの大食、飽食に戻ってしまうのが常のようです。大切なことは「少食の習慣」を身につけることです。少食の実行も、この域にまで進まないうちはまだ本物とはいえません。というのも私たちの運命を左右するものは、その人の身についている習慣に負うところが大だからです。「習慣が運命を刈り取る」といわれているとおりです。
  さて、こうした少食実行者の体験を聞く機会が多くなるにつれて、少食実行の功徳というべきものが次第に明らかになってきました。それらを列挙してみたいと思います。

@ 少食で治病力が高まる
  第一に挙げなければならないことは、体内にある自然治癒力が高まり、いろいろの病気が好転するということです。慢性胃腸病、慢性腸炎をはじめ、リューマチ、糖尿病、筋無力症等もみな難治性の病気です。(中略)

A 少食は長寿を約束する
  世界の三大長寿村の一つ、南米のエクアドルにあるビルカバンバ村では、千人足らずの人口の中で百歳を越える古老が9人もいるというのですが、彼らの食事内容を調べてみる
と、じつに少食かつ粗食だということです。
  老人たちは1日1200カロリー前後の低カロリー食で、それも肉や卵などの美食ではありません。食事内容の大半は小麦、トーモロコシ、馬鈴薯及びバナナにブドウといった穀菜果物食です。しかも彼らは決して家の中で安静にしているわけではありません。朝早くから激しい肉体労働に従事しているのです。してみると、長寿の秘訣は少食で、しかも身体をよく動かすということが重要な条件であるといえそうです。

B 便通がよくなり宿便も排泄される
  少食実行者の報告で興味深いと思われるのは便通と、便の量です。
  まず少食を実行し始めてしばらくすると、便通が以前よりずっとよくなってきたことを自覚するようになります。これは腸の蠕動運動が少食の結果として活発になってきたことを示しています。大飯を食べると、トコロテン式に便を押し出すことができるように錯覚している人もあるようですが、このような考え方からは少食で便通がよくなるという事実を理解することができないでしょう。しかし、少食で確かに便通がよくなるのです。反対に大食こそ便秘の原因です。このためついに宿便を大量腸管内にためてしまうことになり、それがいろいろな病気を惹き起こす因になるのです。
  現在当院へ入院し、西武健康法の全般的な実践に加えて、断食療法も行なっておられるK夫人は、2カ月余りの間に、2日、5日、5日の計12日間の本断食を完了されました。その間に、バケツ半分余りも宿便が排泄されたので、本人はもう驚きあきれておられるのです。「宿便が溜っていると聞いてはいたが、まさかこんなに沢山溜っているとは考えていませんでした」と。
  ところが、このK夫人は案外便通がよくて、入院前は少ないときで1日1回、時には1目2回の排便をみることもあったのです。ですから、本人にしてみれば、それほど便秘しているとは考えられなかったわけです。断食をして、はじめて大量の宿便を知ったのでした。
  では、どうしてこのように大量の宿便が溜ったか、それはK夫人が平素大食の習慣があったからであります。大食によって、送り込まれてくる大量の食物を処理しなければならないため、胃腸は過労に陥ります。それにもかかわらず過食を続けていると、次第に胃腸の力が衰えてきます。そのため、完全な排泄が不可能になり、腸管の一部に便が停滞してくるのです。このような生活が長期間続けば宿便の量が次第に増えてくるのは当然のことです。バケツ半分にも余る大量の宿便がこうして溜ってしまうことになります。
  一方、少食にすると、胃腸の負担は軽くなり、したがって機能は完全に発揮されるようになりますから、消化吸収も排泄能力も一段とよくなってきます。事実そのとおりなのです。もちろん少食といってもその質が問題になるのは当然です。白米食と玄米食とでは同じ少食でも、玄米食の方がはるかに便通がよくなるということは既に多数の実証例で明らかです。しかし玄米食が便通をよくするといっても、もしこれを大食すれば、もちろん便秘に陥り、宿便を溜めるもとになります。この点、玄米食者も注意を要します。

C 頭脳明晰となる
  昔から「馬鹿の大食い」といわれていますが、これは確かに当を得た格言であると思います。
  これを医学的に考察してみると、やはり宿便が大食によって腸管内に大量停滞する結果智慧の回らない人間になってしまうということでしょう。頭痛、頭重あるいはフラツキ等の症状は、腸管内の便や、ガスと密接な関連があるようです。それゆえ、宿便の大量保有者は当然頭脳が鈍ってくるものと考えてよろしい。
  一方、断食療法を行なった学生や児童たちが、その後において急に成績が向上したという報告を受けることが少なくありません。同様、少食を続けると次第に宿便が排除され、それにつれて頭脳も明晰になってきます。少食実行者が一様に「最近頭が冴えてきた」と報告されるのをみてもわかります。そして、たまに大食した翌日は頭が急に鈍くなってしまうのを自覚するようになります。そのためいよいよ少食の素晴らしい効能を理解することができるようになるのです。
  少食で頭脳が明晰になるということは、つまり記憶力や判断力がよくなるということです。50歳を過ぎると誰でもまず、記憶力の衰えを嘆くようになります。これがひどくなると、60歳そこそこではや老人ボケになってしまい、そしてついに恍惚の人の仲間入りをすることになります。ときどき恍惚の老人が当院へもやってこられます。この人たちのほとんどが例外なく餅やメン類の大食家であり、甘党、かつ平素あまり生水を飲まないというタイプです。
  このような人たちを前にすると、年はとっても若者に負けない若々しい頭脳の持ち主でありたいものだとつくづく考えさせられます。それには動脈硬化症を予防するのが最も肝要です。とくに脳動脈の硬化を防ぐことです。
  動脈硬化症といえばコレステロールとか中性脂肪が問題になるということを読者の皆様は既にご存知と思います。すなわちステーキやとんかつ、卵やハムのサンドイッチ、饅頭にぜんざい、あるいはケーキといった白砂糖入りの食品を過食したり、酒やビール、ウイスキーなどを飲み続ける人たちは、まず動脈硬化症の候補者といってよいでしょう。それにひきかえ、玄米、生野菜、及び海藻類を主とした少食主義者は、動脈硬化症にかかる可能性が非常に少ないのです。このことは、長寿村棡原の老人やビルカバンバ村の超老人たちの実態調査などからも納得されるところです。
  しかし、反対論はいつでもあるものです。横山大観氏のごときは90歳以上の長寿をまっとうしましたが、生前は酒豪でほとんど飯らしいものは食べなかったということです。また私の義兄などは生来病気らしいものとは何一つ縁がなく、若い時から大の甘党で、毎日のように饅頭やケーキ類を食べております。しかし、それによって健康を害ねる様子が少しもみられません。
  以上のような例をだして少食長寿論に反対する人がありますが、しかしこれらは特殊なばあいと知っておくべきです。大酒を飲み続けたり、甘いものを人並み以上食べていても長寿を得ることができるような人は、よほど体質がよく生まれついているのです。
  しかし、このような特殊な人のことを一般化して考えてはならないと思います。体質の悪い虚弱なものが、そのような真似をすれば、たちまち健康を害ねてしまうことは火を見るより明らかです。

 仏教による食事観

  僧侶が食事に臨んで起こすべき5つの想念、いま永平寮において、すべての僧が合唱する「五観の偈(げ)」を参考までにかかげ、彼らの食事観を窺うことにしましょう。

   五観の偈

 一つには功の多少を計り、彼(か)の来処(らいしょ)を量る。
  これからいただく食事がこのお膳に供されるまでに、どれだけ大勢の人たちの手を経て来たかを考え、その人たちの労苦に対し、心から感謝する。さらに、これらの食物を育んでくれた日光、空気、土、水などの自然の恩恵にも感謝する。

 二つには己が徳行の全欠を忖(はか)って供(く)に応ず。
  この食物をいただく自分はどれだけ人のお役に立つようなことをしてきたか。
  果たして本当にこの食物を受けるに値する資格があるだろうかとよく反省してみる。

 三つには心を防ぎ過(とが)を離るるは貪等(とんとう)を宗とす。
  私たちは食事に際し、ついより好みし、おいしいものはもっとほしいと貪りの心を起こし、味ないものには愚痴をこぼし、腹を立てたりする。この貪、瞋、痴の三毒でついに地獄、餓鬼、畜生の三悪道に陥ってしまうものであることをよく反省する。

 四つには正に良薬を事とするは、形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為なり。
  これからいただく食事は、飢えや渇きをいやし肉体が枯死しないための良薬として考えればよい。そうすれば貪りの心や愚痴や瞋(いか)りの心も起こるはずがなかろう。

 五つには成道の為の故に今此の食(じき)を受く。
  私達が食事をいただく最終の目的は成道せんがためである。すなわち、まことの道を成し遂げるために食事をいただくのであって、決して食わんがためではない。

  このように仏教の食事観は、徹頭徹尾もののいのちを尊重するところから出発しています。そしてこのような生活こそ、じつは真の健康と叡智を生む道であると説いているのであります。すなわち、他のいのちを大切にするということが、そのまま己れの生命を最もよく生かす健康法でもあるわけです。ここに宗教・医学一体の考えが説かれているのをみることができます。
  したがって私たちが、人間としての業から他の生物を犠牲として生きているのだということを自覚するなら、犠牲になってくれた生物のいのちをよりよく生かしきってゆく生き方をするのでなければ、彼らに対して相済まぬわけです。ということは、なるべく少なく食べて、彼らのいのちを完全に私たちの血となし肉となし、より高次のいのちへと同化すべきだと思います。それなのに、おいしい御馳走がだされたからといって口からでるまで飽食し、ゲップを吐いて苦しんだ挙句、下剤を服用して大量の糞便としてそれを押し流してしまうというのでは、自分の胃や腸を悪くするだけではなく、犠牲になってくれた生物に対しても申し訳ないではありませんか。しかし、このような罪深いことを毎日くり返している人がいかに多いことでしょう。
  しかし、天はこのような横暴を決して許すはずがありません。飽食が自らの運命を台無しにしてしまうということは、既に医学的にも明らかとなってきました。してみると、たとえ「高僧」、「名僧」の善知識であっても、飽食の生活を続け、多数の生命を無駄に犠牲にしている限り、仏罰を蒙ることは必至です。いかに熱心に念仏を唱え、題目を唱えようとも、結局その罪は自ら刈り取らなければなりますまい。ということは必ず何らかの病を得て苦しむことになると思います。私たちはいまここに、仏教の食事観に従って、できる限り少食を守り、犠牲になってくれる他の生物を最小限にくいとめるような生活をすることが、じつは医学的にも健康と長寿を約束する食生活であったことを悟るべきであります。ここに、宗教と医学が少食という具体的な場で一体となることができるのです。
  すなわち、「食事即仏道」ということができるわけです。したがって仏道で説かれている慈悲の教えの実践者たらんとするものは、まず少食を実行することによって真にその資格が与えられるというべきでしょう。
  一つには、少食によって毎日くり返す殺生をできるだけ慎しみ控えること、これが。生きものに対する慈悲の心であります。
  二つには、少食によって完全に消化吸収された栄養できれいな血液をつくり、これを全身の四百兆にも及ぶ各細胞に供給することにより、組織は生命力に満ちた活動を続行することができます、これすなわち、四百兆の細胞に対する愛の行為であります。
  三つには、少食によって腸内の腐敗発酵がとまり、腸内細菌叢に住みよい環境を与えることになります。これも腸内細菌叢への愛の行為であります。
  さらに四つには、二杯食べる飯を一杯半に減らし、これをカンボジアやインドの飢餓に苦しむ人々に供養として与えるなら、これも慈悲の行為となりましょう。
  以上のことから、「少食即仏道」となるわけです。
 
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