人生の価値
私たちは、どのように生きるべきか
飯田史彦・著 PHP研究所 2001年刊 

 プラス思考とマイナス思考

  たとえば、あなたが高等学校や大学に入学するために、第一希望から第三希望まで三つの学校の試験を受けてみたところ、第三希望しか合格できなかったとします。このような事態に直面した時、私たちは無意識のうちに、一般的に「マイナス思考」と「プラス思考」と呼ばれる次の二種類の考え方から、どちらかを選んで対処することになります。

  マイナス思考‥‥自分の行く手をさえぎる壁(問題)を前にして、絶望してしまう。現実の悪い面に着目したり、今後の展開についても、悪い方向へ進むだろうと考える。

  プラス思考‥‥自分の行く手をさえぎる壁(問題)を、何とかして乗り越えようとする意志を持つ。現実の良い面に着目したり、今後の展開についても、良い方向に進むだろうと考える。

  人間として生きるかぎり、ときにマイナス思考になってしまうのは当然のことであり、現実には、マイナス思考とプラス思考の間を行ったり来たりしながら毎日を送るというのが、ごく普通の生活だと言えるでしょう。マイナス思考とプラス思考の間で思い悩むことは、いかにも人間らしい、健全な悩みでもあるのです。
  ところが、世の中には、「どうしてもプラス思考ができず、マイナス思考ばかりにとらわれてしまう」という方々や、「プラス思考でがんばってはいるけれど、いまひとつ充実感が乏しい」と感じていらっしゃる方々も少なくありません。その根本的な原因は、いくらプラス方向に考えようとがんばっても、その前提として、「挫折」や「不運」の存在を認めてしまっているからです。(中略)
  また、「プラス思考で生きる」ということは、「挫折をものともせず這い上がり、不運に立ち向かいながら生きる」ということでもあるため、意外にも、「プラス思考」を口癖にする人々の中には、いつも120%のエネルギーを使おうとして、疲れきった顔で生きていらっしゃる方が少なくありません。マイナス思考も疲れますが、がむしゃらなプラス思考で生きることも、負けず劣らず疲れてしまうというわけです。

  そこで、単なるプラス思考を超えるために、「挫折」や「不運」という概念を用いない発想法として、私がご提案するのが「ブレイクスルー思考」です。(中略)
  この「ブレイクスルー思考」の基本は、「私たちは決して挫折することはなく、不運に見舞われることもない。一見、挫折のように見えることも、不運のように感じられることも、実はすべて順調そのものだ」という大前提です。
  このように考えるためには、これまでのような、「目の前の壁(一見無価値のように思える問題や障害物)をプラス思考で乗り超える」という物の言い方の根拠となっている枠組みそのものを変えてしまわなければなりません。つまり、次のようにして、「壁そのものに価値があるのだ」と考えればよいのです。

  @「マイナス」「プラス」という見方をしないで、「すべての物事はプラスであり、本質的にマイナスなものは存在しない」と考える。

  A「目の前の壁」(無価値な問題)を解決することが、乗り越えることになる」と考えるではなく、「目の前の壁そのものに価値があり、価値のない問題など存在しないのだから、その試練(価値ある問題)に挑戦するだけで、もう乗り越えたのと同じくらいの価値がある」と考える。


  したがって、「ブレイクスルー思考」とは、このような意味であると言えるでしょう。

  ブレイクスルー思考とは、「すべてのものごとには意味と価値があり、表面的には失敗・挫折・不運のように見えることも、すべて自分の成長のために用意されている順調な試練である」という信念を持つことによって、「その試練に挑戦するだけで、もう乗り越えたのと同じくらいの価値がある」と考えながら、人生のあらゆる試練を楽しみながら乗り越えていこうとする思考法である。

 物質主義の世界

  さて、「世の中には、本質的にマイナスなものは存在せず、すべてのものはプラスである」と考えるためには、いったいどうすれば良いのでしょうか。少なくとも、私たちが心の奥に持っている「プラスかマイナスか」という価値判断を、いったん捨ててしまわなければならないことは明らかです。
  私たちが持っている価値判断の基準のほとんどは、生まれてから今までの間に、親や先生や知人など周囲の人々や、テレビ、新聞、雑誌などの情報源によって、「これがプラス、これがマイナス」と、明に暗に教え込まれてきたものです。
  たとえば、少なくとも多くの先進国では、一般的に「合格はプラス、不合格はマイナス」、「生存はプラス、死はマイナス」、「健康はプラス、病気はマイナス」、「お金がたくさんあることはプラス、お金がないことはマイナス」、「地位が高いことはプラス、地位が低いことはマイナス」、「安楽はプラス、苦労はマイナス」などの価値基準がたくさんあります。(中略)
  しかし、何とかして現状からブレイクスルーを果たしたいと願う人にとっては、そのような「これまでの価値基準」とは違う、何か別の基準を参考にすることが大いに刺激になります。そのような、私たちの価値基準に刺激を与えてくれるもののひとつ(これがすべてではありません)として、いわゆる「スピリチュアルな観点」があります。

  「スピリチュアルな観点」とは、‥‥(中略)‥‥私たちがふだん大いに活用している「物質主義的な観点」(人間は肉体という物質であり、物質のみで構成される世界に生きていると仮定し、物質的な豊かさを追求する観点)とは全く違う価値基準です。
  物質主義的な観点のみで生きてしまうと、物質的成功こそが順調な人生として意味や価値をもたらすため、物質的成功を追い求めることばかりに必死になり、物質的に成功していない人は、「無価値な人生を送っているかわいそうな人」となります。肉体という物質の喪失である「死」は無価値なもの、肉体という物質の機能不全である「病気」は不運なもの、物質的成功をもたらす「地位」から遠ざかってしまう「不合格」は挫折となり、それらに意味や価値を見出すことは困難です。
  しかも、物質主義的な観点だけを活用して生きてしまうと、「人間は、ある親のもとに偶然に生まれ、偶然の積み重ねである人生を生き、ある時に偶然死ぬ」という考え方が大前提となります。
  この前提のもとでは、人生における物質主義的な失敗は「価値の喪失」となり、世の中には、順調で幸福な人生を送っている人もいれば、不運で無価値な人生を送っている人もいるということになってしまいます。以上のような、物質主義の限界を超えるためには、スピリチュアルな観点を応用しながら生きることが有益なのです。
  ただし、スピリチュアルな観点は、これのみに偏りすぎたり、使い方を誤ると、物質主義的観点をまったく無視した、不自然な社会生活にあこがれてしまう危険性があります。私たちが人間として物質世界に生きているかぎり、物質世界で人間として生きるにあたって必要な社会的役割を果たし、社会的な規則に従わなければなりません。この物質世界では、仕事をしてお金を稼ぎ、人間関係のしがらみに縛られながら、社会生活を通じて学ぶことにこそ、大きな意義があるからです。

 人生を変える5つの仮説

  仮説1
  人間はトランスパーソナルな(物質としての自分を超えた精神的な)存在である。

  私たちは、ふだん、「自分」という言葉によって、一個の肉体としての物質的な自分をイメージします。(中略)
  その際に、「自分」という言葉で表しているのは、自分の肉体と、その脳が持つ「顕在意識」(自分の意識のうち、自分自身で自覚できる部分)のことを指す場合がほとんどです。しかし、近年の心理学や人間学では、「人間は、トランスパーソナルな(物質としての自分を超えた精神的な)存在である」という新たな人間観が、ひとつの研究分野として確立されてきています。
  この人間観は、「人間は、心の奥で、ほかの人間や生物をはじめ、地球や宇宙のあらゆる存在と、精神的につながっている」という表現によって、やさしく言い換えることができるでしょう。人間は、それぞれの「潜在意識」(自分の意識のうち、ふだん自分自身では自覚できない部分)のところで、自分以外のあらゆる存在と、無意識のうちにコミュニケーションをはかりながら生きている、という考え方です。

  仮説2
  人間の本質は、肉体に宿っている意識体であり、いわば研修所(修行の場)である物質世界を訪れては、生と死を繰り返しながら成長している。

  たとえば、アメリカ代替療法協会会長のグレン・ウィリストン博士は、人間の潜在意識(心の奥)に潜んでいる記憶を、催眠の技法を用いて顕在化させる(思い出させる)「退行催眠」の呼ばれる研究を行ない、数多くの被験者たち(実験台になった人々)の分析をもとに、次のように結論づけています。

  私は、「誰もがこれまでにたくさんの肉体を持ち、さまざまな場所、多種多様な環境で、数多くの人生を経験してきたのだ」と、何のためらいもなく断言することができる。そして、それらの人生はすべて、「意識体」としての私たちの成長の過程なのである。(以下略)

  このような仮説を、人生を前向きに生きるための道具として活用すれば、死の恐怖から解放され、人生を「一時的に来訪している研修所」として、客観的に見ることができるようになります。しかも、現在の人生を、過去の人生・未来の人生との関係の中に位置づけることにより、今回の人生で起きる出来事や出会う人を、さまざまな長期的な関連性の中でとらえながら、何事に対しても奥深い意味を見出すことができるようになるのです。
  少なくとも、死が自分の終わりではなく、「意識としての自分」という生命は永遠に存在し、さまざまな理由のもとで、愛する人々とかぎりない出会いを繰り返していくのだと仮定することによって、私たちは、人生で最も基本的な恐怖である「死」から解放されることができるのです。

  仮説3
  人生とは、死・病気・人間関係などのさまざまな試練や経験を通じて学び、成長するための学校であり、自分自身で計画した問題集である。したがって、人生で直面するすべての事象には意味や価値があり、すべての体験は、予定通りに順調な学びの過程なのである。

  たとえば、カナダのトロント大学社会学部のイアン・カリー教授(故人)は、生前、4000人以上もの人々に対して、退行催眠の実験を行ないました。その研究成果は、カリー博士が膨大な実験データにもとづいて導き出した次の結論に集約されています。

  人は、送るべき人生を選ぶのか? また、無意識の深いレベルにおいては、人はどのように人生を選択したかを覚えているのか? 人は、なぜ今、地球に存在しているというのかということを、知っているのか? そしてこの知識に、催眠状態で接触できるのか? (中略)
  もし、なぜ生まれたのかとか、どうして地球上のこの体に入っているのか、などと、普通の意識状態で質問されたら、ほとんどの人は何の考えも浮かばないだろうし、多くの人は質問自体がばかばかしいと思うだろう。しかし、催眠状態ではそれと異なり、被験者たちは答えるのである。どうやら、知っているようなのだ。


  このようなカリー博士の結論は、たいへん衝撃的なものです。人間を深い催眠状態へと導いて、心のフタを取り去り、ふだん意識していない潜在的な知識や記憶を探ってみると、「人は、自分が送るべき人生(生まれていくべき両親)を、自分の意志で選んでいる」「人は、自分が送るべき人生を、自分の意志で選択(計画)している」「人は、なぜ自分が、いま、ここ(地球)に生きているのかという理由を知っている」ということがわかるのです。
  このような仮説を、人生を前向きに生きるための道具として活用すれば、すべての責任を自分に求めることによって、かえって「誰のせいでもないのだ」「自分はほかの人から被害を受けているわけではないのだ」「すべてのことは、自分のために起きている、順調な出来事なのだ」という、安堵感・納得感を得ることができます。
  そして、思い通りにならないことにも大きな意味や価値があることを知り、人生の目的が「成長」であることを理解すれば、一部の人しか得ることができないような快楽、物質的成功、地位、名誉、金銭などが真の目的でないことに気づくことができ、人生での精神的な成功が、誰にでも保証されるのです。
  このように考えれば、私たちの人生から、挫折や不運や失敗という言葉が、すべて消えてしまいます。たとえ、その時点で挫折や不運や失敗のように見える出来事であっても、長い人生計画の中では、どうしても必要な経験であったり、あとで考えると幸運であったりするものばかりなのです。

  仮説4
  人生では、「自分が発した感情や言動が、巡り巡って自分に返ってくる」という、因果関係の法則が働いている。この法則を活用して、愛のある創造的な言動を心がければ、自分の未来は、自分の意思と努力によって変えることができる。

  前述(仮説2)のウィリストン博士は、次のように結論づけています。

  因果関係の法則は、完全なる正義である。そこには交渉の余地などなく、金や権力や地位などによって、人間に序列をつけることもない。結果は、常に、直接的に、原因から生まれたものであり、よい結果がでることもあれば、悪い結果がでることもある。しかも、最後の審判の日がいつか訪れるのではなく、どの一日も、どの時間も、常に審判の時なのである。
  因果関係の法則と運命とは、決して同義語ではない。運命とは、何かどうにもならない力にがんじがらめにされている状態を指し、一方、因果関係の法則は、私たちの態度しだいで、素晴らしい未来を私たちに与えてくれるものなのである。


  このような仮説を、人生を前向きに生きるための道具として活用すれば、「人生は自分の意志によって創り上げるものであり、いつでも望ましい方向へと転換させるチャンスが開かれている」という希望を持つことができます。たとえ、予定通りの厳しい試練に見舞われたとしても、自分の言動によって、その試練の結果として生じる現実を、大きく変えることができるからです。

  仮説5
  人間は、自分に最適な両親(修行環境)を選んで生まれており、夫婦や親友のような身近な人々は、過去や未来の数多くの人生でも、立場を交代しながら身近に生まれている(いく)。

  このような仮説を、人生を前向きに生きるための道具として活用すれば、「愛する人との別離」という大きな恐怖から解放され、人間関係を、長期的な視野と深い考察によってとらえることができるようになります。

  さて、これら5つの仮説にもとづいて、前述した「第三希望の学校しか受からなかった」という現象を解釈してみると、どのように説明することができるでしょうか。
  ブレイクスルー思考の人生観からみると、「第三希望の学校に入学することになった」という事態も、「長い人生の中では、予定通りに順調な出来事」であるはずです。言い換えれば、「自分は、人生のこの時期に、どうしても、その学校に入学する必要があったからこそ、それ以外の学校には受からなかったのだ」ということなのです。まかり間違っても、第一希望や第二希望の学校に入学するわけにはいかない、何らかの理由があったのです。
  その理由は、人と場合によって異なりますが、「その学校に入学することによって、出会うべき人に予定通り順調に出会うことができる」とか、「将来、人生の目的や使命を果たすために不可欠な知識・経験を、その学校で身に付けることができる」などの理由です。たとえ、今の自分には予想できなくても、後から考えると必ず、「なるほど、だから自分は、あの時、あの学校に入学する必要があったのだな」と、納得できることでしょう。  
 
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