コナン・ドイルの心霊学 |
コナン・ドイル 近藤千雄・訳 新潮選書 1992年刊 |
霊界通信
霊界通信 霊界から地上界へ通信が届けられる方法には大きく分けて次の3つがある。 (1) スピリットが語る場合 霊言現象 スピリットが霊媒に乗り移ってしゃべる場合で、日本で「お告げ」とか「口寄せ」と呼ばれているものがこの部類に入る。 直接談話現象 霊媒から出るエクトプラズムという特殊物質で人間の発声器官と同じものをこしらえて、スピリットがしゃべるもので、霊媒から離れた空中から直接声がするのでそう呼ばれている。 (2) スピリットが書く場合 自動書記現象 通信霊が霊媒に乗り移って、われわれと同じ要領で綴る場合で、「おふでさき」と呼ばれているものはこれに属する。 直接書記現象 神と鉛筆を用意しておくと、いきなり文章が綴られるもので、絵画や記号、暗号などの場合もある。 (3) 幽体離脱(体外遊離)による旅行体験記の場合 霊的身体で体験したことや教わったことを肉体に戻ってから自分で綴るもので、次元の異なる世界の事情を、脳を中枢とした意識でどこまで正確に再現できるか問題である。 大工の家に生をうけたイエスは、地球神界でも最高位に位置する大天使が自己を滅却し、波動を極度に下げて物的身体に宿ったもので、霊格は途方もなく高かったが、やはり一人間だったということである。 地上に降臨した高級霊の中でも、イエスほどの高い霊格をそなえたスピリットはそれ以前にもそれ以降もいないし、これからも出ないというのが、高等霊界通信の一致した言い分である。 「スピリットからの通信」と銘うったものを目の前にした時の人間の取るべき態度は、果たしてそれが「銘柄」どおりに純粋な霊的産物であるかを疑ってかかることである。 その理由の一つは、ただの霊媒の潜在意識から出たものにすぎないものが多いからである。通信の純粋さは、どこまで霊媒の潜在意識を排除できたかということにほかならない。いくら高級なスピリットからのものでも、人間の意識中枢を通過する以上は、百パーセントの純度はまずあり得ないことで、高級なスピリットほどそのことを正直に認めている。 油断ならないものに、純度は百パーセントに近いのだが、乗り移っているのが極めて悪質な低級霊で、歴史上の署名人や神話上の神々の名を騙って、いかにもそれらしい態度を装って語る場合である。こういう場合は、本当は失礼に当たるような質問をわざと投げかけてみることである。低級霊ならそのうち腹を立てて去ってしまう。高級霊はいかに試されても絶対に腹を立てない。 もう一つ油断がならないのは、自称霊能者、つまり自分では霊能者であると自負していても、実際は一種の自己暗示にかかっているおめでたい人間が、大人物になったつもりで語る場合で、きまって大言壮語する。それでいて読む人に少しも感動を与えない。最近は、語ることもしないで、ただ書いただけの霊言も多いようである。 死の直後 死の直後 [TOP] 死の直後について私がまず間違いないと見ているのは、次の諸点である。 「死ぬ」という現象には痛みは伴わず、いたって簡単である。そして、そのあとで、想像もしなかった安らぎと自由を覚える。やがて肉体とそっくりの霊的身体をまとっていることに気づく。しかも、地上時代の病気も障害も、完全に消えている。その身体で、抜け殻の肉体の側に立っていたり、浮揚していたりする。そして、霊体と肉体の双方が意識される。それは、その時点ではまだ物的波動が残っているからである。 エドマンド・ガーニー氏の調査によると、その種の現象の250件のうち134件が死亡直後に発生していることがわかっている。物的要素が強いだけ、それだけ人間の霊視力に映じやすいということが考えられる。 しかし上の数字は、蒐集された体験のほぼ半分ということであって、地上で次々と他界していっている厖大な死者の数に比べれば、稀なケースでしかない。 大部分の死者は、私が想像するに、思いもよらなかった環境の変化に戸惑い、家族のことなどを考えている余裕はないであろう。さらには、自分の死の知らせで集まっている人たちに語りかけても、身体が触れても、何の反応もないことに驚く。霊的身体と物的身体との波長の懸隔があまりにも大きいからである。 光のスペクトルには人間の視覚に映じないものが無数にあり、音のスペクトルにも人間の聴覚に反応しないものが無数にあるということまでわかっている。その未知の分野についての研究がさらに進めば、いずれは霊的な領域へとたどり着くという考えは、あながち空論とは言えないのではないかと思うのであるが、いかがであろうか。 それはさておいて、死者がたどるそのあとの行程を見てみよう。やがて気がついてみると、自分の亡骸の置かれた部屋に集まっている肉親・知人のほかに、どこかで見たことのある人たちで、しかも他界してしまったはずの人たちがいることに気づく。それが亡霊といった感じではなく、生身の人間と少しも変わらない生き生きとした感じで近寄ってきて、手を握ったり頬に口づけをしたりして、ようこそと歓迎してくれる。 その中には、見覚えはないのだが、際だって光輝にあふれた人物がいて、側に立って「私のあとについて来なさい」と言って出ていく。ついていくと、ドアから出ていくのではない。驚いたことに、壁や天井を突き抜けて行ってしまう。こうして新しい生活が始まるというのである。 以上の点に関してはどの通信も首尾一貫していて、一点のあいまいさも見られない。誰しも信じずにはいられないものである。しかも、世界のどの宗教が説いていることとも異なっている。先輩たちは光り輝く天使にもなっていないし、呪われた小悪魔にもなっていない。人相や容貌だけでなく、強さも弱さも、賢さも愚かさも、たずさえた生前のその人のままである。 そうした新しい環境での生活が始まる前に、スピリット(霊)は一種の睡眠状態を体験するらしい。睡眠時間の長さはさまざまで、ほんのうたた寝ほどの短時間の場合もあれば、何週間も何カ月もかかる場合もある。 私の推察では、睡眠期間は地上時代の精神的体験や信仰上の先入観念が大きく作用するもののようである。つまりこの悪影響を取り除くための期間であって、その意味では、期間が長いということはそれだけの睡眠時間が必要ということになる。 いずれにせよ、死の直後とそのあとの新しい環境での生活との間には、大なり小なり「忘却」の期間があるということは、すべての通信が一致して述べていることである。 死者のスピリットは、他界直後はしばらく睡眠状態に陥るのが通例である。これは、地上に誕生した赤ん坊が、乳を飲む時以外は眠っているのと同じで、その間に新しい生活環境への適応の準備をしているのである。 ところが、戦争や事故で、あっという間に死んだ場合など、怨みや憎悪といった激しい感情を抱いたままに死んだ場合には、その感情が邪魔をして眠れず、したがって霊的感覚も芽生えないので、いつまでも地上的波動の中でさまようことになる。これを地縛霊といい、その種のスピリットの出す波動が地上の生者にさまざまな肉体的ならびに精神的障害をもたらしていることが明らかとなってきた。 地獄という場所 地獄という名の場所は存在しない [TOP] 全知全能の創造者という概念にとっても冒涜的な、この不快きわまる概念は、もともと誇張的になりがちな東洋的語句から生まれ出たもので、ちょうど野生の動物が探検家の「焚き火」に怯えたように、野蛮な時代の人間を脅しておとなしくさせるには有効だったかも知れない。が、どうやら「地獄」という場所は存在しないことが明らかとなった。しかし、罰の概念、浄化のための戒めを受けるという意味での煉獄ならば存在するというのが、一致した意見である。 善因善果・悪因悪果の法則は厳然として存在するはずである。 ただ、「善」と「悪」の二つの概念だけですべてを片づけてはなるまい。「霊性」の発達程度を基準にして考えれば、発達の遅れたスピリットはそれを促進するのに相応しい環境に落ち着く。それは低い界層かも知れないが、未熟なスピリットには相応しい。それが、体験と上層界のスピリットによる援助と教育とによって、霊性の発達とともに上層界へと進んでいく、ということであろう。 こうした境涯での生活は、刑罰というよりは一種の修養ないし鍛錬であり、病的に歪んでいる魂にとっては「療養」の性格を持つであろう。が、いずれにせよ、それは死後の世界の一側面であって、全体としては死後の生活は地上生活とは比較にならないほど明るく愉しいものであるらしく、それはすべての通信が一致して述べているところである。 「類は類をもって集まる」で、似た性格の者、趣味の共通した者、同じ才能をもつ者が集まって生き生きとした時を過ごしており、地上に戻りたいとは、さらさら思わないという。 すべてのこと すべてのことが知れるわけではない [TOP] 死後といっても、その直後と、しばらくしてからとでは、かなりの違いがあるらしい。つまり死後の世界も段階的に広がりがあり、直後の目を見張るような体験がひと通り終わると、さらに異なる環境が展開する。といって、前の界層と新しい界層との間では、地上界と死後の世界との間よりも、通信・連絡は容易であるという。低い界層から高い界層へは行けないが、高い界層から低い界層へは意のままに行けるようである。 生活形態は基本的には地上生活と同じで、霊的身体による主観と客観の生活であるが、霊体をはじめとして環境を構成している成分が、物質にくらべてはるかに意念の影響を受けやすく、その人の個性と思想が環境に反映しているという。食事や金銭、痛みといった肉体に付随したものがなくなり、精神的なもの、芸術的なもの、思想的なもの、霊的なものが大勢を占め、それだけ進歩も早い。 衣服は実質的には不要なのであるが、地上時代の習慣と、慎ましさと、美的センスが、その人特有のものを身につけさせている。また老若といった地上特有のものが消えて「老い」が若さを取り戻し、「若さ」が成長して大人らしくなり、みなそれぞれの霊性を表現した容姿になるという。 強烈な親和力 強烈な親和力の作用 [TOP] 最大の特徴は親和力が強く作用することで、類は類をもって集まるの譬えの通り、性格の似通った者で共同社会を形成しているという。男女の関係も地上時代の肉体上の「性」による結びつきではなく、あくまでも「愛」という精神的なものによって一緒の生活を送ることはあっても、地上のような子供の出産はないという。 人間社会は原則として血のつながった家族を単位として営まれているが、それぞれの肉体に宿っているスピリットはタテの霊的親和性によって結ばれた霊的家族の一員で、夫婦といえども、親子といえども、必ずしも同じ霊系に属しているとは限らない。全員が別々の霊系に属している場合もあるし、全員が同じ霊系に属していることもある。 その、同じ霊系に属するスピリットの集団を「類魂(グループソウル)」という。その中心的存在を日本的に表現すれば「守護神」で、その守護神の指名を受けて地上のスピリットの責任を担わされているのが「守護霊」である。それがタテのつながりで、この関係は「守護」という用語から連想されるものとは違って、向上進化を第一義とした厳しいものである。 以上が死後の世界の概略である。それも、思い切って簡略にしたものにすぎない。実際はこんなに単純なものではない。おぼろげながらも私がつかんでいる見えざる世界の構図によれば、下は陰うつな暗黒界から上は活動にあふれた光明界まで、果てしなく界層が連なっていて、事実上無限の生活模様が展開しているらしいのである。 地上生活との関連でいえば、地上時代の宗教的信仰は何の意味も持たないということ。あくまでも生活体験によって磨かれた霊性がすべてであるという点では、どの通信も一致している。同時に、「祈る」という行為、より高いものを求めて精神を高揚させる行為を、結構なことであるとする点も、すべての通信が一致している。 死んだことに 死んだことに気づかないスピリットの存在 [TOP] 死後の事情の中で、われわれ人間にとって不思議でならないことが一つある。それは、死んだ直後は、自分が死んでしまったこと、つまり肉体がなくなって別の境涯にいることに気づかない、ということである。地上の日数にして数日たってようやく気づくというのが一般的で、中には何カ月も何年も、例外的には何世紀もの間、ずっと地上にいるつもりでいるスピリットもいるという。 自分という霊的意識体なのであるから、肉体から抜け出たあとも、意識そのものは何ら変わるところがないわけである。しかし、「死んだ」という事実に気づいた時は誰しも当惑し、その当惑した精神状態が、霊界での生活への導入の妨げになることがある。 その意味からも、地上にいる時から死後の実情について基本的な認識をもっておくことが大切なのである。死をすべての終わりと考えている場合、あるいは宗教的信仰がまったく事実からかけ離れている場合には、誰しも死後の体験を、幻影を見ているとしか考えない。信仰が深ければ深いほど、それだけ新しい環境への順応が難しくなる。 霊界にも「もの」 霊界にも「もの」が存在する [TOP] 死後の世界にも、地上の物質に相当する「もの」が存在することは間違いないらしい。それを生み出す「合成化学」というものが存在し、それを専門としている高級霊がいるらしい。彼らにとってはその操作はいとも簡単で、その片鱗は物理実験における「物質化」で見せてくれている。 霊的意識と 霊的意識と肉体的意識 [TOP] 死後に赴く世界が、どこか遠くにあるのではなくて、すぐ近くにある――否、今自分がいるのと同じ場所にあって、われわれも実は睡眠中に何度もそこを訪れている、という事実(先輩霊たちはそう言っている)である。愛する者を失った人が、本当ならそのまま発狂しかねないほどの悲しみに暮れながらも、そのうち立ち直って明るさを取り戻していくのは、実は睡眠中に「その人」と会っているからなのだという。もとより、霊的意識と肉体的意識との切り換えは完璧で、その間の霊的体験の記憶は甦らないが、慰めの情は潜在意識を通して運び込まれているという。 人間を騙して 人間を騙してよろこぶスピリットの存在 [TOP] 残念ながら非常にタチの悪い、冷血ともいえるスピリットによる騙しのテクニックにも対処しなければならない。霊言にせよ、自動書記にせよ、実際に関わったことのある人ならきっと、なかなか立派で真実味のある通信に混じって、意図的に騙そうとする企みをもった通信が届けられることがあることをご存知であろう。 バイブルにも、出てきたスピリットをすぐに信じてはいけない、真面目なスピリットがどうか試しなさいという警告がある。 同じく用心しなければならないものに、歴史上の有名人の名を騙るスピリットの存在である。ミルトンと名のりながらその詩に韻律がなく、シェリーと名のりながらその詩に押韻がなく、シェークスピアと名のりながらその文章に知性がないといった調子で、バカバカしくなるようなモノマネがあるので注意が肝要である。 霊界通信は 霊界通信はぜひ読んでほしい [TOP] 何はともあれ、個性の死後存続を証明する霊界通信を読まれることだ。世間一般の人だけでなく、心霊現象の実在を信じている人でも、読まない人が多すぎる。ぜひとも読んで、真理の厳粛さをしみじみと味わっていただきたい。その圧倒的な説得力のある証拠性に触れてみてほしい。現象的なものから手を引いて、ウイリアム・ステッドの『死後――ジュリアからの便り』や、スティントン・モーゼスの『霊訓』のような珠玉の霊界通信を読んで、その崇高な教訓を学ばれることだ。 他にも、価値は劣るが、高度な内容の通信が数多く入手されている。そういうものを読まれることによって、視野を広げ、人生観に霊的要素を取り入れてほしい。そして、それを実生活に生かしてほしい。 われわれも遅かれ早かれ同じ世界へと進むことになっているということを、信仰や信念としてではなく、今こうして地上に生きているという事実と同じくらい現実味をもった事実として、認識してほしいのである。 そこは、あらゆる「苦」から解放された、幸福そのものの世界である。唯一その幸福を妨げるものは、この短い地上人生の中で犯した愚かしい行為と利己的行為である。地上にあっても、死後においても、「無私・無欲」ということが幸せと向上の基調であるらしいのである。 新しい啓示によって、今この荒れ果てた地上界の彼方に、約束された素晴らしい世界が待ち受けていることが明らかとなった。もう、とうの昔にその峠を越えている。みずから目を被うものはいざ知らず、目をしっかりと見開いている者には、その素晴らしい世界が鮮明に見えている。もはやその事実の認識を妨げるものは何一つ存在しない。 私の同志の一人であるV・C・ディザーティス氏は、大乱の後にいつもささやかれる「救済」は、この度は霊界から地上界への下降の働きかけではなく、地上界から霊界へ向けての上昇の努力によって、両者が融合することによってのみ達成されることになろうと述べている。 死後にも「身体」 死後にも「身体」がある [TOP] スピリチュアリズム思想の根幹である個性の死後存続を具体的に理解する上で基本となるのは、死後も肉体に相当する何らかの身体をそなえているという事実である。材質は肉体よりはるかに柔軟であるが、細かい部分まで肉体と同じものをそなえているという。 むろんそれは地上時代から肉体とともに成長していたもので、肉眼には見えないが、肉体と同じ形体をし、肉体と完全に融合して存在している。死に際して――条件次第では生きている間でも――両者は離ればなれになり、両者を同時に見ることができる 生前と死後の違いは、死後は両者を結びつけている生命の糸が切れて、それ以後は霊的身体のみで生活することになるという点である。肉体は、さなぎが出ていったあとの抜け殻のように、やがて分解してチリと消える。これまでの人類は、その抜け殻を手厚く葬ることに不必要なほどの厳粛さを求め、肝心の「成虫」のその後の事情については、実にいい加減な関心しか示さなかった。 死の現象 死の現象 [TOP] 死に方にもいろいろなケースがあるが、ここでは自然死の場合を例にして、死の現象を見てみよう。 死期が近づくと霊体が肉体から離れる。その時は何の痛みも苦しみもない。そして、肉体とそっくりの形を整えて、死の床のそばに立つ。意識も感情も記憶も、肉体に宿っていた時そのままである。危篤の知らせを聞いて集まった家族や知人の姿が生前そのままに見えるし、泣き声や話し声が全部聞こえる。なのに、そこに立っている自分の存在には誰一人気づいてくれない。 明るく活動に 明るく、活動に満ちた世界 [TOP] 死後の世界に関する情報をまとめてみると、大体次のようなことになる。 まず完全に一致しているのは、死後の世界は幸せに満ちているということである。二度と地上へ戻りたいとは思わない、というのが一般的である。先に死んでいった肉親や知人が出迎えてくれて、以後ずっと生活を共にしていることが多い。といって遊び暮らしているわけではなく、性格と能力に合った仕事に従事している。 生活環境は地上とよく似ているが、すべてが一定の高い波動に統一されており、リズムが同じなので、違和感というものを感じないが、全体として地上環境とはまるで違っている。地上に存在するものは何でも存在する。 目的は霊性 目的は霊性の開発と進化 [TOP] 死後に迎える生活が幸せに満ちたものであるといっても、その目的とするのは、自我の内部に潜在している霊的資質を発達させることにある。行動派の人は行動で、知的才能にすぐれた人は知的才能で、芸術・文学・演劇・宗教その他、おのおのが神から授かった才能を発揮するための仕事にいそしむのである。 知的なものも性格的なものも、地上時代のものをそっくり携えて行っている。年を取ったための衰えは脳の機能の衰えであって、自我に取り入れたものはそのまま残っている。 地上で愛し合っていた者はいずれ再会する。が、地上時代のような肉体関係はないし、したがって子供の出産もない。それでいて、強烈な親和力による深い親密度を実感するという。地上で真実の愛を実感することなく終わった者も、霊の世界へ来て、遅かれ早かれ、霊的配偶者を見出すという。 幼くして他界した子供は霊界で自然な成長をする。それゆえ、たとえば2歳の女の子を失った母親が、20年後に他界して霊界入りした場合、22歳に成長した娘が迎えに来てくれるという。といって、年齢そのものに意味はない。自我の成長度が容貌に表れるのである。老人は若返るのであるから、女性は老化による美の衰えを嘆く必要はなく、男性はからだが言うことをきかなくなったことや、頭脳の衰えを嘆く必要はないわけである。あちらへ行けば、失ったものがすべて取り戻せるのである。 肉体の生涯 肉体の障害は死後に持ち越さない [TOP] 同じことが身体の障害についても言える。その障害のすべてが消滅しているのである。手足は戻り、視力も戻り、知的能力も本来のものが取り戻せるのである。障害を受けているのは肉体だけなのである。霊的身体は決して傷つかない。完全無欠である。 同じことがアザや異常部分、盲目、その他ありとあらゆる障害について言える。それらは決して永遠に背負わされる十字架ではなく、やがて訪れる霊の世界では、すべてが消滅するのである。すべての者が完全な健康体となる――霊界通信は口を揃えてそう伝えている。 「でも‥‥」と、信じられない人は次のような疑問を抱くであろう。 「霊視能力者が描写する死者の霊姿が、老人で古い時代の衣装をつけていたり、髷を結っていたりするが、あれはどういうことか」と。 実は、そうした霊姿は現在のスピリットそのものの姿ではなく、そういう容姿しか記憶していない身内の人や知人のために、そういう装いをして見せたり、霊的能力者の視覚にそういうイメージを投影したものなのである。白髪のままだったり、古い時代の衣装をつけていたりするのはそのためである。 心の通い合う 心の通い合う者が集まる [TOP] 死後の世界は親和力の世界である。親和性をもつ者どうしが結ばれる。口もきかない亭主、ヒステリーの奥さん、そんなカップルはあの世ではいっしょにならない。辛かった地上生活を終えたあと、次の本格的な霊界での生活に入るに先立って、すべてのことが満ち足りて、思いのままになる。美しさとのどかさと妙なる音楽に満ちた環境の中で、心の通い合う者が集まって生活を営む。 美しい庭園、繚乱の花、緑なす森林、豊かに水をたたえる湖水、忠実な動物たち――こうした夢のような環境について、先輩霊たちが、今なお薄汚い家屋で無為に過ごしているわれわれに、生き生きとした情報を伝えてくれることが可能になったのである。そこには金持ちも貧乏人もいない。 職人は相変わらずその腕を生かした仕事にいそしむ。が、それは金を稼ぐためではなく、その仕事が楽しいからである。おのおのがその才能を生かして、共同社会のために貢献する。 いっぽう、高邁な次元からの使者、バイブルにいう「天使」からの指導と援助もある。が、そのすべてを包括して、かのキリストの霊が、あたかも親鳥がヒナを抱えるがごとくに、その影響力を地球圏のあらゆる界層に行使しているという。理性も正義も、親和力も理解力も、その起源はキリストにさかのぼるという。 娯楽もスポーツも 娯楽もスポーツもある [TOP] 喜びと楽しさに満ちあふれた世界である。各種の競技会もあり、娯楽もスポーツもある。ただし、動物に苦痛を与えるような種類のもの(狩りなど)はない。飲食に関していえば、地上のような重々しいものではなく、ただ風味だけを楽しむといった程度のものなら存在する。 しかし、何より大切なのは、この地上と同じく、才能とエネルギーと個性とバイタリティに富む者が――それを正しく行使すればのことであるが――人の上に立つ仕事をするし、無欲性と忍耐力と霊性に富む者は、やはり地上と同じく、魂の質が高いことを示すという。それは、霊界入りする以前の地上での幾多の苦難の体験によって培われていることが多く、それが霊界へ来てからの活性化と促進の原動力となっているという。 地上にある時はその苦難の意義が理解できず、残酷にすら思えることがあっても、霊界に行ってみれば、それなくしては地上生活は不毛で無益であることが分かるものらしいのである。 子供だまし 子供だましの地獄や極楽はない [TOP] 新しい啓示によって、グロテスクな地獄もファンタスティックな天国も存在しないことがわかった。あるのは生命の階段を下から上へと昇っていくという概念のみで、罪人が一気に天使になったり、聖人・君子のような人が、ただキリスト教の信仰を受け入れなかったからというだけで地獄に蹴落とされるような、そんな不条理な話は説かれていない。もっとも、かつての地獄・極楽説は別にスピリットによる啓示だったわけではないから、これをもって新しい啓示と古い啓示との間の矛盾と受け取ってはならないであろう。 しかし、ここで一つ疑問が出てきそうである。死後の世界が存在し、そこがこれまで私が紹介してきたような幸せいっぱいの世界であることを一応認めるとしても、そういう幸せに浴さずにいるスピリットはどうなっているのかということである。が、ここでもそれはこうだと断定的に述べるわけにはいかない。これまでに入手した情報をもとに、おおよその傾向を述べる程度のことしかできない。 と言うのは、地上を去ったスピリットのうちで、われわれの呼びかけに快く応じてくれるのが、死後に幸せを見出した者にかぎられるからだ。 迷えるスピリット 迷えるスピリットの存在 [TOP] しかし、そうした幸せなスピリットが従事している仕事の中に、迷える不幸なスピリットを更生させることが含まれているという話がよく出てくる。そのために彼らは「降りていく」という表現を用いて、低界層のスピリットに自分たちと同じレベルの波動の生活に耐えうるだけの霊性を身につけさせるように援助してやるのだという。それはちょうど、学業の遅れの目立つ生徒のために、上級生が面倒を見てやるのと同じなのかも知れない。 そのことをイエスは、たった1人の罪深き者を悔い改めさせることの方が、99人の善人のことを喜ぶよりも、天界における喜びが大きいと述べているが、これは地上の罪人のことではなく、死後の低界層にいる罪深きスピリットを救出して一段と高い界層へ向上させてあげることを意味しているものと思われる。 ところでこの「罪」とは何ぞやという問題であるが、科学の発達した現代において、近代的道義と公正の感覚をもってこれを考察すれば、中世のあの得体の知れない不条理きわまる化け物のようなものでないことは明白である。現代人は、あんな依怙贔屓(えこひいき)のはげしい神による、みっともないお情けなどは求めない。もっともっと厳しい目で自己を見つめるようになっている。 罪の概念 罪の概念の多様性 [TOP] もっとも、人間の心理をつきつめると、やれば出来るのに努力しようとしない面、知っていながら実行できない意志の弱さ、他人の立派な行ないは賞賛しながら、自分はだらしない態度をとり続ける性格に起因する面が多分にあることは事実である。 が、その反面、生まれついた環境という不可抗力の産物、遺伝ないしは生まれながらの障害に起因するもの、さらには、明らかに身体的性向による罪悪を斟酌した時、積極的な意味での罪は大幅に少なくなる。 考えてもみるがよい。全知全能にして慈悲深き大神が、生まれながらにして障害をもつ哀れな人間が罪なことを心に抱いたからといって、これを罰するということがあり得ようか。 となると、地上でそうした不利な条件のもとに苦しい生活を強いられた者を、死後、さらに地獄へ落として苦しめる必要はないではないかという観測もできる。霊界通信でよくあるのが、意外に平凡な人物が、死後、大変な栄誉に浴していることを知って驚くことがあるという話である。 そこには人間的価値観と霊的価値観との違いがあることを物語っている。となると、身体的特質が不可抗力となって罪深いことをしてしまった場合は、当然、そこに酌量の余地があってしかるべきであって、それは罪を見逃すというのとは別問題である。むしろ善人として生まれ、これといった善悪の意識もないまま、漫然とした人生を送った人間の方が、問題が大きいことも考えられる。 魂をむしばむ 魂をむしばむ罪悪 [TOP] 霊界通信によれば、死後の向上を妨げる罪悪の中でいちばん厄介なのが、上流階級の生活が生み出す罪悪――因襲に縛られ、意識的向上心に欠け、霊性は鈍り、自己満足と安逸にどっぷりと浸かった退廃的生活が生み出すものだという。自己に満足しきって反省の意識をツユほども持たず、魂の救済はどこかの教会か権力にまかせて、自らの努力を嫌う――こうした人間が最も危機的状態にあるというのである。 教会の存在そのものが悪いというのではない。キリスト教であろうと非キリスト教であろうと、霊性の向上を促進する機能を果たしているかぎりは、その存在価値はあるであろう。が、そこへ通う信徒に、一個の儀式、あるいは一個の教義を信じる者が信じない者よりも少しでも有利であるように思わせたり、魂の向上にとって何よりも大切である「刻苦」が免除になるかの如く思わせたりする方向へ誘った時、その存在は有害なものとなる。 同じことがスピリチュアリズムについても言える。実生活の活動を伴わない信仰は何の役にも立たない。尊敬に値する指導者のもとで何の苦もなく人生を生き抜くことは可能かも知れない。しかし、死ぬ時は一人なのである。そのリーダーがいっしょについてきてくるわけではない。そして、霊界入りしたその瞬間から、地上生活から割り出される水準の境遇に甘んじなければならない。霊界通信はそう説くのである。 罰の原理 罰の原理 [TOP] では、未発達のスピリットに対する罰はどういう形をとるのであろうか。それは、要は発達を促進するような境遇に置かれるということである。もしかしたらそれは悲しみの体験という形をとるかも知れない。この地上においても、貪欲で同情心のカケラもなかった人間が、悲哀の体験を味わうことによって、性格が和らぎ、人の心を思いやるようになるということはよくあることである。 外なる暗黒 「外なる暗黒」は中間地帯 [TOP] 現段階では、どういう罪がどういう罰を科せられる、といったことは軽々にあげることはできないが、報いを受ける界層が存在することだけは明らかな事実のようで、霊界と地上界を隔てている中間地帯――パウロが体外離脱現象でのぞいてきたと推察される「第三の天」は、どうやら神秘論者のいう「アストラル界」、バイブルでいう「外なる暗黒」に相当すると思われる。 そこには世俗的欲望にとらわれて霊性がまるで芽生えないまま他界して、そのまま地縛霊として地上圏にとどまっているスピリットが集まっている。金儲けばかりに明け暮れた者、野心に駆られて奔走した者、性の快楽のみを求めた者、等々である。 そうした種類の人間は、いわゆる「悪人」ではない。例のグラストンベリの修道僧ヨハネスが、修道院への愛着が断ち切れずに、今なおその廃墟のあたりをうろついているといったケースもある。 よく騒がれる幽霊現象は、そうしたスピリットがたまたま必要条件が揃った時に、肉眼に映じるほどに物質化したケースである。スピリットがそこにいるというだけでは、姿は現れない。単数または複数の人間がいて、その人体からでるエクトプラズムという特殊な物質をまとう必要がある。立ち合った人が寒気を感じたり髪の毛が立ったりする現象は、心霊法則が作用した時の兆候である。 実はこの中間境の存在の意義について、私がその説明の難しさに突き当たり、何かもっと啓発してくれる資料の必要性を痛感していた時に、偶然の巡り合わせで、まったく知らない方から、1880年に出版された本が郵送されてきた。その中に、自動書記で次のような一節が綴られていた。 スピリットの中には、その中間領域から先へ進めない者がいます。死後の生命のことなどツユほども考えたことがなく、悩みにせよ愉しみにせよ、すべてが地上的なことばかりだった者です。学問や教養とは関係ありません。たとえ学識はあっても、霊性に欠け、ただ知性のみで生きていた者は、それ以上は向上しません。要するに、地上生活という修養の好機の過ごし方を誤って、今、その失われた時間を取り戻したいと思い、地上時代を呼び戻しているのです。こちらではそれができるのです。が、大変な苦痛を伴います。 いまだに金銭欲が消えず、地上時代に遊びまわっていた場所を徘徊する者が少なくありません。その類の者がいちばん滞在期間が長いようです。というのは、必ずしも不幸とか惨めといった意識は抱いていないのです。むしろ、肉体がなくなってさっぱりした気分でいます。霊性の発達したスピリットも一応はここを通過しますが、通過したことに気づかない者もいます。一瞬のことで、休息の必要もなく、次のサマーランドへと進んでまいります‥‥。 死後、安住の地へ行き着くまでにある「空間」を通過するという概念は、多く宗教に共通したもので、ギリシャ・ローマ神話では「川」を渡し舟で横切るという寓話の形をとっている。 ボーダーランドすなわち死の直後の中間境が各民族によってさまざまな形――例えば仏教では「三途の川」――を取るように、その境界を通過したあとにたどり着く環境も、民族によってさまざまに描かれてきた。 ここでいうサマーランドは、何もかも願いの叶う境涯で、パラダイス(極楽)と呼ばれているのがこれに相当する。 サマーランドないしはパラダイスは相変わらず中間境に属し、本格的な死後の世界ではない。骨休めの一時休憩所のようなところで、全体としてさわやかな青味を帯びていることから、「ブルーアイランド(青い国)」と呼んでいる通信もある。 霊界の存在を確信させた出来事 [TOP] 物質科学の発達は「物的証拠」を絶対視する傾向を生んだのは当然の成り行きであったが、それを心霊現象の科学的研究においても適用しようとすると、ある段階から行き詰まってしまう。心霊現象には物理的なものばかりでなく、精神的なものもあるからである。 何しろ影も形もない存在からの通信であるから、たとえ姓名を名のったところで、本当かどうかの判断の決め手がない。そんな時に、何よりも確信を与えてくれるのが、当事者しか知らないプライベートな内容の事実とか思い出である。そのドラマチックな例として、事故死した私(訳者)の長兄の場合を紹介しておきたい。 兄は日本の敗戦の翌日、すなわち1945年8月16日に、学徒動員中にトラック事故で15歳で死亡している。疎開先のことで、家は山を4、5分ばかり登った位置にあり、毎日陸軍のトラックが山すそまで迎えに来る。敗戦の翌日とはいえ、実際にはまだ勝ったのか負けたのか定かでないので、軍はその日もいつも通りの作業を行なうことにした。 兄はいつもただ弁当だけを持参する毎日だったが、その日の朝、母は何を勘違いしたのか、兄を見送ったあとで、ふと「弁当を持たせるのを忘れた!」と錯覚し、大急ぎでおにぎりをこしらえて、兄を追って山を駆け下りた。下りきると、すでにそこにトラックが来ていて、ちょうど兄が後尾から大股で乗り込んだところだった。 駆け寄った母が、「ヒデちゃん、ホラ、弁当!」と差し出すと、兄は「あるよ」と言って、それを差し上げて見せた。母は自分の勘違いだったことに気づいたが、食べ盛りのころなので、「二つくらい食べられるでしょ。せっかくだから持っていきなさいよ」と言って差し出した。 が、兄はまわりの級友たちの手前、恥ずかしく思ったのだろう。「いいよ」と言って受け取ろうとしない。 「まあ、持っていきなさいよ」 「いいっていったら」 そう言い合っているうちにトラックが出発した。母は仕方なく両手で弁当を持ったまま、兄を見送った。それが今生の見おさめになるとも知らないで‥‥。事故の報が入ったのはそれから15分ばかりのちだった。ほとんど即死状態だったという。 それからほぼ10年の歳月が流れて、話は1954年のことになる。私の生涯を決定づけることになる間部詮敦(まなべ・あきあつ)という霊能者が福山市をはじめて訪れた時、うわさを耳にした母が伺った。座敷で先生と挨拶するとすぐに、先生が、 「今ここに一人の青年が見えておりますが、何か手に持っていますね。ほう、弁当だと言っています。お母さんには申し訳ないことをしたと言っておられますよ」とおっしゃった。母はその場に泣き崩れた。間違いなくわが子であることを確信しただけでなく、別れのシーンの自分の最後の姿が、兄の目に焼きついていたことを知ったからである。母にとってこれにまさる「証拠」はなく、それが死後存続を確信する決定的な体験となった。そして、間接的ながら、それが私にも決定的な影響を及ぼした。 |
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