コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ |
アイヴァン・クック・著 大内 博・訳 講談社 1994年刊 |
★ なわ・ふみひとの推薦文 ★ |
コナン・ドイルは有名なシャーロック・ホームズの生みの親です。それだけであれば小説家ということになりますが、それ以外にも大変才能あふれた人物だったといわれています。そのコナン・ドイルが、晩年は自分の名声を疑われることも省みずに心霊研究に打ち込んだという話は、日本人の間ではあまり知られていません。死後、コナン・ドイルは霊界から霊媒を通じて様々な通信を送ってくれています。この本はそのコナン・ドイルの霊界通信をまとめたものです。終末の様相も述べられていて、大変格調の高い霊界通信となっています。
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この物質界は、より波動の繊細なアストラル界に包まれている
★★ アイヴァン・クック 肉体が死んでアストラル界に行ったときの私たちは魂となる。 アストラル界に行けば何か新しいものを見ることができるというわけではない。というのは、私たちは眠るときに毎晩そこに行っているからである。眠りは小さな死であり、したがって私たちは死ぬ練習はずいぶん行なっていることになる。つまり、私たちは1年に365回死んでいる。毎日私たちは目を覚ますのであるが、これと同じ確実さで私たちは死から目を覚ます。なぜなら、眠ることも死ぬことも、私たちの存在のごく自然な機能であるからだ。 それでは、なぜ私たちは眠っている間に訪れると言われるアストラル界のことを何も覚えていないのだろうか。じつのところ、私たちは覚えているのである。ただ、その知識を、毎日の生活をしている自分とは別の場所に蓄えているだけなのである。 私たちは自分の住んでいる世界がどのように見えるかということすら理解してはいない。なぜなら、肉体的な感覚はその範囲がきわめて限られたものであるため、見えない色、聞こえない音、感じることのできない香りがあるからだ。 このようなわけで、人間は自分が住んでいる世界についてゆがんだ、不正確な印象を持っている。しかし、この世界にあるすべてが振動しており、私たち自身も他のもろもろの波動に合わせて振動しているということは知っている。これは科学的な事実として受け入れられ信じられている。 したがってもう一歩踏み込んで、私たちのまわりには別な波動があり、それは物質的なものではなく、エーテル界の、またはアストラル界の波動であると考えればよいわけである。 この世界を包み込んでいるいくつかのアストラルの世界があり、それぞれ波動は粗いものから微細なものまでさまざまである。「包み込む」というのは正しい言葉だ。というのは、アストラルの世界は火星や金星のようにはるか離れた惑星ではなく、この世界の補足的な部門というか植民地のようなものだからである。我々の世界をアストラル界はタマネギの皮のように包み込んでいるが、水がスポンジを通して浸透するのと同じように、私たちの世界に浸透している。 アストラルの世界は物質的な世界よりも波動が高く、したがって、より繊細なもので構成されている。人間の命は地上の場合ほど重荷をおわされることはない。というのは、アストラル界で人間が身につける身体は、それを身につける人に負担をかけることはないからである。それは美しく、健康で、喜びに満ちたものだ。これが心霊主義者が大好きなサマーランド(楽しく遊んで休息していられる極楽のような場所)である。魂もここを訪れ(魂は肉体から解放された人間であるが、それ以外は同じである)アストラルの身体に入る。 彼らはすぐに叡智に満ちた存在になったり、霊的存在になったりすることはない。地上で辛い生活をした後なので、まず休息して元気を回復することが必要である。彼らはアストラル界に滞在し、休息を与えられ、時間があっという間に過ぎていく。 しかし大事なことは、アストラルの世界は常に私たちの非常に近いところにあるということである。なぜなら、アストラルの世界は、私たちが意識していようといまいと、この世界に浸透し、日常生活に影響を及ぼしているからだ。 不幸なことに、アストラル界にはもう一つの側面がある。これまでは、より高いアストラルの世界(局面と言った方が正確である)のことを考えてきた。しかし、振動数がもっと遅くて低い、この地球よりも波動が低い世界についてはどうなのだろうか。これは快適な世界ではない。というのは、ここには全人生をこの低い局面に合わせて生きてきた人々が大勢住んでいるからである。これは灰色の、霧がかかった、暗い11月のような世界で、できるだけ早く抜け出したい世界である。 この世界の存在理由とは、まさにそれなのだ。彼らの霊的な努力によって、人々がそこから抜け出すように仕向けているのである。中には11月の霧の世界よりも酷いところさえある。しかし、人々を脅かして善行に導こうとするのはよいことではない。教会は何世紀もの間この手段を使ってきたが、うまくいかなかった。地獄の炎で脅かす説教がはやらなくなったのは、このためである。 サマーランドの生活には、忘れやすくなるという要素、つまり人間の世界から沸き上がってくる苦痛の呻き声、言葉にならない叫び声に対してさえ注意を払わなくなってしまうという側面がある。 しかしながら、コナン・ドイルにとっては、人間の世界のことを忘れたり、自分の責任の重荷を降ろしたり、心を閉じるというようなことはありえなかったのである。かれが地上においてそのために戦った真実についての知識が不十分であることが明らかになって、新しい真実を確立するための献身的な戦いが待っていたのである。 彼は次のように語った。 広い意味で言うと、人間が蒔く思いという種は行動として解釈することができます。しかし、今の私には行動より思いのほうが、より強力であるように思われます。なぜなら、人間が地上の束縛を逃れて最初に直面するのは、自分自身の思いの世界だからです。 人間は地上における生活をしている間の思いや感情を通して、アストラルの世界における自分の家の準備をする。人間は自分の思いの世界、自分で建てた家、環境へと引っ越しをするのである。 聖書の中にある次のような言葉が思い出される。 地上において人間が自らを結びつけているもの(罪や祝福)がなんであれ、天国においてもそのものと結びつけられるであろう。地上において人間が自らを解放したものからは、天国においても解放されるだろう。 ここにも、同じ真実が述べられている。私たちが住むことになる自分自身の思いの世界には、我々の罪や欠点だけでなく、我々の長所も移植されるのである。 幼子のようにならなければ天国の門を入ることはできない 心霊主義が真実であると、なぜ私はそれほどまでに確信をもっているのかと人に聞かれます。私が絶対的な確信をもっていることは、この真実を人々に理解してもらうために、私の性に合っていて金にもなる仕事を諦め、ありとあらゆる不便や損失を被り、侮辱を受けることにも甘んじたという事実によって証明されています。 ★ 以下はコナン・ドイルによる霊界通信です ★ 人間は自分自身のため、即ち、自分の名声を勝ち得るため、この世での成功をおさめるために人生を生きるのではなく、全体のために貢献するような人生を生きなければなりません。すべてを与えるとき、すべてを受け取ることができます。こうすることによってのみ、人間は天の王国に入ることができます。 私の使命は、愚かで馬鹿げたことと、永遠の宝石のような真実との違いを明確に示すことです。真実によって天国が明らかにされ、虚偽は人間を笑いものにするでしょう。人間が知的なプライドを捨てない限り、真実を発見することは不可能でしょう。これに関しては私の友人の中には反対する人がいるかもしれません。しかし、私は強調しなければなりません。「人は幼子のようにならなければ天国の門を入ることはできない」。私はこの真実を何度も何度も強調しなければなりません。 人がすべてのプライドや自己中心主義を捨てない限り、全能の神の力なしでは人間は何もできないことを理解しない限り、傲慢の牢獄を出て自分だけでは何もできないことを理解しない限り、人間は天の栄光に浴することはできないでしょう。 地上での生活に関して言えば、私たちは自分自身の選択によって肉体を持って生まれてくるのだ、と覚えておく必要があります。私たちに内在する選択の権利によって、私たちは地上におけるある状況に志願し、選択します。それは、私たちの本来の自己が、肉体を持った人生において最も貴重な体験をもたらしてくれるであろうことを知っているような状況です。 どんな人であっても、その誕生日、誕生の場所、誕生の状況・環境といったものが、単なる偶然であるなどとは考えないでください。 神聖な計画を知り尽くしているがゆえに、イエス・キリストは次のように言われたのです。 一羽の雀が地に落ちるのも、神の知らないことではない。あなたの髪の1本1本がすべて神の知るところである。 これは真実です。すべての計画は神の御心にあり、神はあなたをその掌に置いておられるのです。 人間はあらゆる体験の中で、自分自身の勇気と努力によって生きていくことを学ぶ必要があります。人間は本来の自分を発見しなければならないだけでなく、自分自身の本性をコントロールしなければなりません。これをするまでは、人間は自分の霊がもっている無限ともいうべき可能性を実現することはできません。 人生のすべての修行や体験の目的は、人間を目覚めさせてこのような可能性を実現することです。 人間には、運命と自由意思による選択の両方が存在しているのです。 一人の人間についていえば、運命とはその人が一生涯のうちに体験しなければならない、そして体験することになるであろう、一連の物理的な体験を意味します。自由意思とは、その人の日常的な物理的生活を構成し、かつ支配する一連の状況、環境、境遇に対して、霊的にどのように反応するかということです。 与えられた境遇に対応する中で、より優しく、かつ親切な人柄になっていけば、人生もその人に対してより優しくなっていくでしょう。逆に、恨みを持ち、同胞に対して厳しく無慈悲な行動をとる人間になれば、苛酷な出来事を自分自身に引きつけ、因果の法則にしたがって、そのような厳しい状況を現実化することになるでしょう。 地球とそれを取り巻く異次元が浄化される 今夜はもの凄いばかりのエネルギーが来ているために、私も足元がすくわれ、一本の藁が暴風に吹き飛ばされるように、私も吹き飛ばされるかもしれません。今、地球に注がれているエネルギーはこのような嵐に例えることができます。この猛烈なエネルギーの放出の過程で、国家的な惨事が引き起こされ、国際的な衝突が引き起こされるでしょう。 しかし、最終的にはこの霊の力によって人類の再建が実現するでしょう。 これと同じメッセージを、私は肉体を持っていたときにも受け取りました。私はただくり返しこう述べるしかありません。 大変動があるでしょう。その結果、現在はてしない海原が広がっている場所に、巨大な新しい大陸が現れるでしょう。そして、それと同じ広さの大陸が海に埋没することでしょう。 もはやその命令は発せられました。すでに神の創造的なエネルギーが活動しているのを見てとることができます。ある人種が、現在の人類よりもかなり先だって進化をとげることでしょう。こうした変化と共に、地球そのものの物質的状態も浄められ、地球を取り巻くさまざまな異次元の局面も浄化されることになるでしょう(編者注・こうした出来事がいつ起きるか、ということについての言及はなく、かなり未来の出来事である可能性がある)。 すべての存在の局面に光の天使と暗黒の天使が住んでいることを、私はすでに説明しました。この事実が何を意味するかおわかりでしょうか。たぶん、皆さんはこれまでは、すべての暗黒の天使は地獄に落ちてそこに住みつき、一方、光の天使は天界の最も高いところまで引き上げられ、神の右手に座っているといったふうに想像してきたのではないでしょうか。これは真実からほど遠い考えで、このために、人間は何世紀もの間、善と悪について誤った考えを抱くという結果になったのです。 知性に溢れた存在たちからなるこの二つの軍隊、皆さんがそう呼びたければ、光の天使と暗黒の天使は、共に手を取り合って仕事をし、一緒に進化する存在であり、お互いになくてはならない存在なのです。そのことに皆さんを目覚めさせることが、今夜の私の使命です。この事実をしっかりと把握して初めて、善と悪の性質について明確に理解できるようになるでしょう。 これまでのところ、人々は、善は常に悪と対決しなければならないものと考えてきました。これほど間違った考えはありません。悪は、人間が善と呼ぶ資質ないしは状態を補足する大事なものであり、悪がなければ善は進化することも存在することもできません。 人間が悪と呼ぶものもまた神の一部であり、人間が神と呼んでいる宇宙の知性は、それ自身のなかに善と悪を含んでいるのです。 現在のところは、善と悪は神の僕として、神の完璧な計画を実現すべく働いているのです。善悪が人間の僕となることこそ究極のあり方です。人間一人一人が自分の物質的な生活、そして個人的な思いに支配された生活よりも高いところに引き上げられたとき、初めて、生命とは一つの巨大な全体であることがわかるでしょう。そのとき、生命とは神の包括的な一つの全体であり、善と悪、白と黒にはそれほどの違いがないということが理解されるでしょう。 これを聞いて、次のような疑問をもつ人がいるかもしれません。 「もしそれが本当であるとすれば、善に向かおうとする衝動は失われてしまうのではないでしょうか。正しいことと間違ったことの間に実質的な違いがないというのであれば、この世界を改善したり、人間が自分自身を高めていく必要はなくなってしまうのではないでしょうか。すべてのものが究極には正されるのであれば、自分の好きなようにやっていけばよいのではないでしょうか」 上昇への道、下降への道 ここで皆さんに思いだしてもらいたいのは、星が天空にかかっているのと同じように、人間の魂は生命の永遠の周期の軌道に乗っていて、眠ることのない神の意識に支えられてその軌道を巡り、かつ、その神の意識の中に保持されている、ということです。確かに、魂はある程度の自由意思と選択する能力を与えられ、それによって善を受け入れたり悪を拒否したりすることができます。しかし、人間の魂はいかなる時であれ、崇高なる魂である神との絆を断ち切る力はありません。そして、神に向かって上昇しようとする力が常に働いているのです。 人間の運命とは、究極的に神のもとに帰ることによって完成するものなのです。と同時に、人間が神のような存在になるためには、高みに昇るだけでなく、最も低いところまで落ち、悪の深い縁まで落ち、最も深い地獄の底を通り抜けて、やがて自分の住む場所となる天界に達しなければならない、ということも確かです。 人がこの深遠な真実を把握すれば、同胞である他の人々を責めることはなくなるでしょう。なぜなら、人間としての完全な魂の達成という素晴らしい目標によって、心は喜びで満たされ、その目標に向かって、他の人々も自分自身も、善や悪を経験しながら努力しているのだということがわかるからです。 人間は地上での生活をする間に、さまざまな内面的な局面で、自分を現実化できるような意識の資質を獲得すべきです。そうすれば、肉体の牢獄から解放されたとき、自分にふさわしい霊界の局面に自動的に移動することができます。 このような未来についてのヴィジョンを獲得し、肉体をもった生活の目的がわかれば、人間のあり方はきわめて整然としたものになるはずです。そして、いかなる形であれ、災難や事故、不正などの犠牲者になったりすることはなくなるでしょう。 人間の生活をよく観察し、人間の魂が霊的な完成に近づくことができるには、どれほどの時間が必要かを子細に検討してみれば、人間がたびたび生まれ変わることの必要性がわかるだけでなく、人生の本当にささいな出来事ですら、きわめて重要な意味を持つことがわかるはずです。 霊の世界においては、すべてが法則、秩序、調和のなかにあります。自然の世界ではすべてのものが厳密な自然の法則にしたがって動いていることに異議を唱える人はいないはずです。その表面だけを見ると、こうした自然の法則は物質的なものにすぎないように見えるかもしれませんが、それはすべて霊的な宇宙に源を発しているのです。 行き当たりばったりのやり方では通用しません。自然は義務を遂行しない人に対してはきわめて厳しいものです。これは霊の世界でも同じで、ほんのささいな行動でもそれにふさわしい結果が生み出されます。これは何を意味するかというと、人間の思いそのものが自分の創造物になるということであり、思いがその人にとっての光の天使や暗黒の天使になるということです。 そういうわけですから、人間がより高い存在の局面から自分自身の人生を見れば、沈んだ気持ち、憂鬱、わがままといった、自分で作り出した精神状態が、いかに破壊的な性質をもったものであるか、よくわかります。 こちらの世界に来て以来、自分が地上の生活で創作したものから深い影響を与えられていることを私は体験しています。というのは、地上にいたとき、私は陰鬱な登場人物や場面などを言葉で創造し、表現したりすることがよくありました。非常に生き生きとした想像力をもっていたものです。喜びに満ちた情景、暖かい家庭のありさま、美しい風景なども数多く描きましたが、私のペンは残酷で、醜悪な犯罪の場面なども描写しました。 このような描写をすることにより、あるべき姿とは対照的な性質によって、一種の教訓を与えられるということを認めるとしても、醜いものや恐ろしいものは人の心に長く残りがちであり、暴力的で不健康な波動が人を満たすことになります。よかれあしかれ私の影響を受けた数多くの男女の人生を、いま、私はじっと見ているのです。 いつの日か、すべての人が、自分自身が作り出したものがどんな効果を生み出したか、美しいものか、それともその正反対であるかを、自分の目で見るという喜び、ないしは恐怖を体験することでしょう。創造したものが架空の人物であれ、その人の行動によって生まれた実際の生活の状況であれ、他の人々の生活に相当な影響を与えるものなのです。 それから宇宙全体に対して自分がどのような貢献をしたか、善なる貢献であったか、それとも邪悪な貢献であったかがわかるでしょう。善悪というよりも、“肯定的”“否定的”という言葉を使ったほうがよいかもしれません。肯定的な波動のみが創造にかかわる波動であり、永遠の波動なのです。否定的な波動は、本来破壊的な力であるために、最終的には苦しみに終わるという結果になります。 こうした理由のために、病んで苦しみにあえぐ現実の世界に、人はたじろぎを覚え始めているのです。苦しみは、人間自身が苦しみの種をまいた結果にほかなりません。しかし、霊の世界にいる私たちには、すべての生命の源である偉大な太陽から光が放射されているのが見えます。このおかげで、人間の進化の歩みは今なお上昇の軌道にあります。 人間を下降させようとする力がいかに強いものであっても、それよりもさらに強い、上昇させようとする力が働いています。人類は自らの内部にある真実の本能によって、神のもとに帰りたいという、深い、内在する願望によって救済されることでしょう。 新しい天国と新しい地球が生まれることを約束します そうです。私たちは約束します。新しい天国と新しい地球が生まれることを。なぜなら、古い地球は今消え去ろうとしているからです。そして新しい天国と地球が生まれるでしょう。それは、人類が神に向かって努力することによって、新しい天国と地球を創造しているからです。神の業は、無知や残酷、誤謬などによるどんな抵抗に出会っても、想像もつかないような完璧な終焉に向かって私たちを進ませるのです。 古い世界は消え、そして、さらに生き続けるでしょう。 地上を支配しているのと同じ法則が、地上の生活の後にくる存在の局面をも支配することになります。地上の人間が神のようになることを願望するその程度に応じて、神の神聖なる愛と力を受けとるべくどれだけ心を開くことができるか、その程度に応じて、人間が住んでいる地球全体の物質的な波動が上げられていくでしょう。 今日の人間が持っている制限された五感にとっては、未来のエーテル界の世界には実体がなく、目に見ることすらできないもののように思われるかもしれません。しかし、このエーテルからなる未来世界は、現在の時間と感覚からなる世界よりも、もっと実質のある現実を包含することになるでしょう。 エーテルの物質からなる数多くの惑星が、すでに太陽系の中にすら存在しているのです。しかし、これらの惑星は人間の目で見ることができず、最も強力な望遠鏡をもってしても見ることはできません。これらの惑星の霊性は非常な高みに達したため、物質的な視力を超えてしまったのです。 人間が低い波動の存在にとどまっている間は、自分自身の能力を超えたところにあるものは認識することができません。濁った水のなかを泳いでいる魚と同じように、死の向こうには異なった存在局面があることも知らず、手探りで前進しているだけなのです。この太陽系のなかにあるエーテルからなる美しい惑星にもまったく気づいてはいません。 物質界の傍らに存在するこの新しい宇宙は、非常に拡大された、振動が加速された意識にしか感知することはできません。ちなみに、この新しい宇宙は、物質的な世界を貫いている死後の存在局面とは別なものです。 地球は太陽系のなかで最も暗い惑星です。ということは、地球に住んでいるあなた方は、今よりも明るい未来を期待できるわけです。私たちに心を開き、死の恐怖を払いのける機会を私たちに与えてくれれば、あなた方は美と驚異と喜びの世界に向かって、もっと勇敢に踏み出すことができるでしょう。 神が人間の魂の進化のために考えた崇高な計画 前述したように、現代の天文学者が何も知らない世界が存在します。その世界は、エーテルでできており、その影響は地上においてもときどき感じられています。地球を取り巻く既知の惑星から出される放射エネルギーが、個々の人間、あるいは人類全体に影響を及ぼします。それだけに、科学的な観点から見て説明不可能な地殻の変動や、地球の激変の原因は、このような強大な力についての知識が得られたときには説明ができるようになるかもしれません。 このように考えてくると、人間は、目に見えない、そしてその存在を認識されていない宇宙における、強大な未知の力によって翻弄される、ただのあやつり人形にすぎないのではないかという疑問が出てくるでしょう。これは、肉体をもった存在としての人間の心、頭脳のあり方からすれば当然の疑問です。 しかしながら、物質性によってもはや束縛されなくなった心ならば、一見したところ大惨事に見えるようなことも、無限の愛が、道を踏みはずした神の子供である人間を完成させるために駆使している、基本的な法則であるかもしれないと理解できるかもしれません。 神の心ははてしなく深く、神の叡智は限りなく広く、人間が肉体をもって存在する局面に住むすべての個々人の人生を記憶し、かつ監督するだけでなく、人間の魂が数え切れないほどの体験を通して進化していくその全行程に浸透しているのです。魂が真に目覚めたとき、人間の魂の進化のために、こんなにも素晴らしい計画を考え出した崇高な神の前にただひざまずいて、その壮大さ、荘厳さを讃えることでしょう。 このような目に見えない、未知の惑星が地球に及ぼす影響はたしかに強大なものですが、こうした力をどのような方向にもっていくか、ということについては、人類全体がその鍵を握っています。これらの力は、人間の生活を高め、より霊的なものにする方向に影響を及ぼすことも可能であり、一方、すべての善なるものを破壊する力となることもできるのです。こうした問題を決定するのは人類全体の集合的な思いにほかなりません。 いま語ろうとしている問題は、とほうもなく規模が広大で、言葉によってそれを包み込むには、私の力が及ばないかもしれないほどのものです。あえてその説明に挑戦しているのは、私の地上での生活の晩年に、来たるべき世界の大惨事、世界の大変革について数多くの予言が寄せられたからです。皆さんに申しあげておきたいのですが、これらの変化が地球にもたらされることは確実です。それは避けることはできません。なぜならば、宇宙のキリスト意識が地球に近づきつつあり、新しい時代が間近に迫っているからです。神の子供である人々が、どうかキリストの偉大な力と栄光が認識できるように、と私は祈るばかりです。 キリストを受け入れずに退ける人々は、ことさら意図的に行なっているのではなく、霊的な進化ができずにいるだけだということを理解する必要があります。したがって、彼らはより低い進化の軌道に戻されてしまい、キリストを認め、歓迎する心の準備ができている人々が歩む道とは異なった道を旅していくことになります。 それでは宇宙的なキリストとは何か、定義してみたいと思います。 霊的に開けた人々であれ、知的に進んだ人々であれ、キリストを本当に理解している人は今日ほとんどいません。そして、ナザレのキリストの神性についての理解が、いまだに混乱しているという悲劇的な状況があります。 物質主義に陥っているという点では、正統派のキリスト教会は、心霊主義教会と同じくらい有罪です。というのは、イエス・キリストを通して提示された神の存在の物質的な側面だけを利用し、キリストを神に祭り上げることによって、キリストを通して示された無限の愛と叡智を認識することができなかったからです。 さまざまな不吉な前兆が世界に忍びよりつつあるのが、すでに見えます。エゴによって支配されている腐敗した体制の土台が揺らいでいるのが見えます。過去の戦争がもたらした苦い果実、そしてこれから起こる戦争がもたらすであろう悲惨な状況が見えます。 人類を絶滅から救うことができるただ一つの存在の前に、いつの日かすべての人間は頭を垂れなければならないということが、悲しみに打ちひしがれ、どうしたらよいかわからず戸惑っている世界の人々に対して示されることでしょう。キリストの救済の力と恩寵ですら、神の前には頭を垂れなければならないのです。 人間が達成できる栄光 宇宙界についてはすでに説明しました。宇宙界から偉大な存在たちが、人類救済の使命を帯びて派遣されてくることも説明しました。 ここでさらに補足しておきたいのですが、人間が進化のこの段階に到達する時点では、肉体をもった生活との関わりは完了しています。というのは、もはや地上に戻る必要はないからです。しかし、霊的な知識をより高めていくという点では、まだまだ克服しなければならない高みが残されています。これらの高山を克服するためには、生きるという経験をさらに積む必要がありますが、その生活は地上のものではありません。 ここで、先に触れた惑星に注意を向けなければなりません。それはエーテルの物質で構成されている惑星であり、より密度の濃いエーテルで構成されている場合には光を発し、ときには天文学者の目にも見えることがあるかもしれません。 地上での“コース”を完了し、さらに進んで、高度に進化を遂げた惑星で、再び存在を開始している魂がたくさんいます。そのために、彼らは高度な進化を遂げている惑星を包み込んでいるさまざまな世界を通り抜けて降りていきます。 しかし、これほどまで進化を遂げた人々も、人間にとって物質の束縛がどれだけのものであるかを忘れ去ることはできず、そのことに同情の気持ちを抱いています。そして人類が非常な苦しみを体験しているときには、彼らの慈悲の光を地上に送ってくれるのです。 すべての病の癒し 私は一人でこの仕事をしているのではありません。たくさんの仲間がいて、私はその一人にすぎないのですが、特定の目的に向けて特別な訓練を受け、多くのことを教えてもらったのです。 過去何世紀にもわたって、病を癒すためにさまざまな方法が実施されてきました。(中略) 病気は、患者の心の状態が原因であると考えられているようですが、ふつうはそれよりもずっと深いところに根ざしているのです。ときには、人の意識から始まり、またときには、潜在意識に由来することもありますが、前意識に始まっていることが一番多いのです。 前意識という意味は、現在生きている人生よりずっと昔の意識の状態という意味です。人間の過去の人生に遡った意識ということです。つまり、数多くの輪廻転生にまで遡る意識のことです。 病気になるもっとも多い理由は、リラックスできないということです。あなた方のほとんどが、意識的にも無意識的にも、糸がピンと張りつめたような緊張した生活を送っています。これは目を覚ましているときだけでなく、眠っているときでも同じです。緊張した心のまま眠りにつくと、あなたの指、肘、膝、脊髄、その他の骨の部分が、心のあり方に応じた緊張を保ちつづけているのです。 なぜそうなるかといえば、だいたい同じような緊張した状態が、日中の生活をほとんど支配しているからです。肉体の緊張は恐れ、心配、抑圧された感情、押さえられた欲望といった心の状態によるものです。 事故の原因は、犠牲者の前意識のなかに隠されているのでしょうか。それとも、人は自分ではどうにもできない災難の犠牲者にすぎないのでしょうか。じつは、事故ですら前意識の自己の深いところに、前もって作り出された不協和の結果なのです。これは非常に厳しい教えのように思われるかもしれませんが、よく考えてみればそうではありません。事故の犠牲者になる魂は、事故にはそれを体験することによってのみ学ぶことのできる教訓があることを、前意識において十分に知っているのです。 外面的な感情(怒り、貪欲、羨望など)ははっきりと何かの病気を引き起こす可能性があると申しあげました。人間は、自分の内面的な心をコントロールできない限り、こうした有害な感情の手綱を操れはしないということを覚えておかなければなりません。ここで再び、健康に関する限り、心の内面的な調和が非常に大切であるという事実に話が戻ってきます。そして、人間の心の調和は霊的な自我が目覚めているかどうかにかかっているのです。 人がどんなものを食べるか、ということは人間の健康に影響を与えるでしょうか。答えは、イエスです。人によってはただちに影響が出ます。だいぶ時間がたってから影響が出てくる人もいます。また、何を食べてもまったく影響を受けることのない人もいます。神の法則を理解した結果、心の平和を達成し、調和のとれた生活を営んでいる人は、食べ過ぎたり、食べるべきでないものを口に入れて自分の体を痛めつけることはないでしょう。 どんな肉体の病気であっても、その背後に横たわっている原因を明らかにしようとすれば、広い領域を扱わなければなりません。子供たちは、病気や苦しみ、あるいは健康や幸せ、その他、人間生活を構成し、かつ人格の形成に資する人生の浮き沈みを体験する覚悟をして、この世に生まれてくるのです。 巨大な愛の心のなかで 人々と国々のあいだの同胞愛の必要性をここで再び強調したいと思います。というのは、人類全体が進化のスピードをあげ、すべての生命を常に支えている宇宙的な霊の力の中で人類全体が息づき、活動し、存在しているのだということを理解して初めて、人類は滅亡から自分自身を救うことができるのですから。 希望を失わないでください。人生における価値観が180度転換する日がくることは確かです。人の状況も、それに応じて変わればよいのですが‥‥。人類は今、非常な苦しみと窮乏を経験しようとしています。それは、人間の命を真に生かしてくれる、より大きな真実を探求するためです。 この単純な真実を語ることは、なんとも簡単なことのように思われます。この真実は、至るところに、あらゆるものの中に存在しているのですから‥‥。しかし、世俗的な心にとって、この真実を見てとるのはなんと複雑で難しいことでしょうか。 同胞愛以外の生き方などというものは、世界が歩むべき道の選択肢として開かれてはいないのです。現在、世界の国々は疑惑と恐怖心の中で存在しています。誰も譲ろうとせず、お互いを恐れています。ビジネスの世界では、一人一人が自分の分け前を確保しようとして、同胞と戦っています。このような生き方は、人間をどこに導いていくのでしょうか。安定でもなければ、永続的な繁栄でもないことは確かです。それどころか、文明がこれまで一生懸命築きあげてきたものすべての崩壊につながることでしょう。 気を取り直して勇気を出しましょう。いつの日か、人類の心が高貴なる気高さを達成するときがやってきます。人間の心を高みに引き上げてくれる真の同胞愛のヴィジョンに目覚めるときがやってきます。そのとき、人間は悟るはずです。すべての命、自分自身の命も他のすべての人々の命も、一つの巨大な愛の心のなかに存在するのだということを。 そのとき、自らを傷つけることなく他人を傷つけることは不可能であると知るでしょう。人を憎み、戦うべく戦争に行くというのは自分自身との戦いに赴くことに他ならないのですから。他人を殺すことは、殺人者にとって霊的な死にほかならないのです。“剣を抜く者は剣によって死す”とは、このような意味です。 これからやってくる新しい人間は、自分の呼吸一息一息が、心に抱く思いの一つ一つが、世界全体に影響を及ぼすことを知るでしょう。神の宇宙にあっては、究極的には死はけっして君臨することなく、人間がひとたび本来の自分を理解し、神を理解するならば、天においても地上においても、死という現実はありえないと理解するでしょう。 新しき人間にとって、初めも終わりも存在しないのです。なんとなれば、新しき人間は、生命は終わることのない“周期”であり、この周期は常に進化し、常に回転し、すべての人間の魂を周期の腕の中に永遠に抱擁してくれていると理解するからです。もしひとりの人が一つの法則を破るならば、神の定めた一つの真実を犯すならば、すべての人間の幸福を脅かすことになるのです。 世界がこのような救済を体験する前に、艱難辛苦を通して同胞との魂の絆の結合をはからなければなりません。現在あなた方の地球には、物質主義によってもたらされた大きな破壊が進行しているのが見えます。これは死にほかなりません。物質主義による死にほかなりません。そして、ついでにいえば、物質主義そのものの死の始まりでもあります。 物質主義はそう簡単には死にません。かくて苦しみが訪れることになります。人間が物質の富の神をかくも長くかつ絶えず崇拝してきたのですから、これはしかたのないことです。人類が非常な苦痛を体験した後に訪れる新たなる始まり、霊的な悟りと理解が達成された、光に満ちた新しい時代の到来が、私たちには見えます。やがて人間の共同体における生活の霊的な基盤が確立されるでしょう。すべての芸術、文化、科学、国政、宗教の活動において、人間は天界の叡智によってインスピレーションを与えられ、導きを与えられることでしょう。 私たちが今話している宇宙的な同胞愛について語るべきことはたくさんあります。悲しいことに、ほとんどの人はこの言葉の本当の意味を理解することができません。それは、たいていの人は子供のときから、他人を犠牲にして隣人を破滅させてでも、自分自身のために戦い、自分を主張するようにと教えられてきたからです。 人間は、人生の目的は自己の個人的な利益の追求にほかならないという誤った信念をもち続けてきました。人生において成功をおさめ、兄弟にうち勝ちたいと望むなら、どのような犠牲を払ってでも、他人より優れた人にならなければなりません。このような生き方は、あらゆる点で同胞愛という宇宙の法則に対して罪を犯すことになります。自分自身のためだけの利益を追求する人は、すべての霊的な法則を破ることになります。人類全体が同じような生き方を選択し続ければ、結果は病める肉体、病める心、混沌と戦争しかありません。 真に偉大な人間とは、自分自身の欲望を追求する代わりに、無限にして永遠の力に身を任せる人です。それぞれの人間の魂は、本来の自己を見いだすために自己を失わなければなりません。自分の力によって力と達成がやってくるという誤った考えを持っている間は、神を見いだすことはできません。 宇宙的な同胞愛を理解する人は、「すべてを捨て、私の後についてきなさい」(キリストの言葉)を文字通り実行することになるでしょう。神そのものである宇宙的な無私を発見するために、すべてを断念し、自分を無にし、自分を放棄しなければなりません。この崇高な瞬間に、人は神と一体になれるだけでなく、自分自身と一体になり、すべての生きとし生けるものと一体になるのです。これこそが贖罪です。つまり、神と一体になることなのです。 人間の同胞愛とはこのことです。 ※ここでいう愛とは、少数の人々に対するやさしさ、親切ということではなく、すべての生きとし生けるもの、私たちが生きている世界、生命そのもの、そして神に対して自分自身を表現するということである。(アイヴァン・クック) ●――訳者のことば (前半部分は割愛) 私はカソリック系の大学で学び、ジェズイットの神父の先生方に教えを受けたのであるが、無神論者をもって自負していたものであった。神は、人間が自分自身の存在を正当化するために便宜的につくったものだ、と心から信じていた。しかし、学生時代に腎臓病を患い、死ぬかもしれないと思ったあたりから、何か別な可能性があるかもしれないと感じ始めたのかもしれない。 結婚して最初の子供が生まれたとき、私ども夫婦はラマーズ法を実践し、出産の場に私は立ち会った。臍の緒を切ったばかりの娘を医者が抱いて、私たちに見せたときのことを私は忘れられない。 真っ赤な顔で泣き声をあげている娘を見た瞬間に、それが自分たちの娘であるという現世的な発想を超えた、ここには一つの魂がしっかりと宿っていて、その命を私たちは親という形で預かることになるのだという思い、すなわち肉体に宿る魂というものを、朧気ながらもこの瞬間に感じたと思うのである。この体験は、肉体を超えた霊魂の存在を、私がなんとなく感じとった瞬間ではないかと思う。 その直後に、出版されて間もない『かいまみた死後の世界』(レイモンド・ムーディ著)を読んだ。これは、著者が150人の臨死体験者にインタビューして、その結果をまとめたものである。 臨死体験者は一様に肉体を離れ、自分自身の肉体をあたかも第三者であるかのように見るという体験をする。その後で、トンネルのような暗い場所を通り抜け、光の存在と出会う。この光の存在は限りない愛に満ちた存在で、やがて臨死体験者は、自分の生涯のすべてを瞬時のうちに回顧する機会を与えられる。その時々の自分の気持ちを思いだすだけでなく、自分のとった行動が周囲の人にどんな影響を及ぼしたか、周囲の人がどのように感じたのかまで、手にとるようにわかる。 これは裁かれるという体験ではなく、自分が生きた人生がどのようなものであったかを、より高次元にいる自分が見るというような感じだという。この後で、臨死体験者は「あなたはまだこちらの世界に来る時ではない」と告げられ、後ろ髪をひかれる思いでこちらの世界に戻ってくる。 この臨死体験者の記録を読んで、肉体と魂は別のものであり、肉体が死んでも魂は生き続けるのかもしれないと思わざるをえなかった。 この5年間に、私たち夫婦は2人の子供をなくすという体験をした。1人は三女の玲で、彼女は致死性小人症という、骨が成長しない病気をもって生まれてきた。いつ死ぬかわからない状態で272日という世界記録を作って彼女は死んだ。 その後、間もなく養子にした星は、わずか生後3カ月で幼児突然死症候群でこの世を去った。私たち夫婦には元気な子供が3人いるが、この2人の子どもの死のショックは大きく、生きることの意味がもうないとすら感じた。 そんな時、カリフォルニア在住の霊能者であるジョアンヌ・スティールワゴン女史を友人から紹介された。彼女は心理学者であるが、異次元との交流ができる人だという。彼女の一つの特徴は霊視ができることである。つまり、ヴィジョンが見える。 妻のジャネットは、悲しみに打ちひしがれた状態で、こう言った。「なぜこのような体験を私たちがしなければならなかったのか、なぜ玲はああいう状態で生まれ、死んでいかなければならなかったのか」、ただそれだけが知りたかったのである。ジョアンヌは、霊視して、こう語った。 「私にはなんのことかわかりませんが、一人の女の子がにこにこして、『お母さん、私の手を見て』と言って、両手を振っています」 ジャネットにはすぐにわかった。玲は致死性小人症であったため、手足が全然成長しなかったのである。それが、今は、あの世に行って手も普通になっているよ、と見せてくれたのである。それから玲は私たち夫婦に「ありがとう」と言っていると、ジョアンヌは語った。彼女は「無条件の愛」を体験するために、あのような身体をもってこの世に生まれてくることに決め、私たち夫婦はその親になる約束をしたというのである。これは一つの約束であるが、かならず守らなければならないというものではない。しかし、私たちがこの約束を守り、彼女をありのままに愛してくれたことに玲は感謝している、というものだった。 玲は生まれる以前に異常があることはわかっていて、生まないという選択もあると医師に暗示されたこともあった。 星からのメッセージは、彼は「悲しみ」という感情を自ら体験するために、私たちの家族のところにやってきて、死ぬことを選択した、というものだった。星を養子にしたときは生後1カ月で、健康そのものの子だった。私たちの家族一人一人は本当に星を可愛がり、楽しい時を過ごしていた。 ジョアンヌを通して星が語るには、彼自身そのように愛情に囲まれた生活の中で、本来の自分の目的を見失いそうになるところだった。そういう状態で突然死んで、別れなければならない悲しみ、そして家族である私たちの悲嘆を経験することが、彼の使命だったと語った。 私たちのことを何も知らなかったジョアンヌを通して語られたこれらのメッセージは、語っている存在が玲であり星であることを示す証拠を伴っていた。 以上述べたような出会い、個人的な体験を通して、私は自分が生きているこの世界をまったく新しい目で見直す必要があると思わざるをえなくなった。まさに「この世の価値を超えた」世界に目を向けざるをえないという状況である。 いったい、この世界はどうなっているのだろう。人間が神と呼んでいる存在はあるのだろうか。もし神という存在があるのであれば、現在この瞬間に世界中で繰り広げられている飢餓・戦争・環境破壊・不治の病をもって生まれてくる人々、ストリート・チルドレンなどなどの人間の悲劇は、どう説明できるというのだろうか。 こんなとき、20年前に読んだこの本の記憶が、まざまざとよみがえってきた。思えば、コナン・ドイルが生前に心霊学者として活動した動機の一つは、とくに第一次世界大戦で愛する夫、息子をなくした人に慰めをもたらすためだった。しかし、それは一つの出発点だった。ドイルがこの本で語っているように、死後も魂は生き続けるだけでなく、人間の魂が肉体を離れた後に行く世界と、私たちが肉体をもって生きているこの世界は、密接なつながりを持っている。医師でもあったドイルは、三次元の世界における病気はすべて癒すことが可能だとも言っている。この癒しは、この世界とあの世界との交流の中で起こるという。 ここで述べられている事実の真実性は、現代の科学では実証できないことかもしれない。しかし同時に、それが真実でないということも証明はできない。そんな事実に直面したとき、私たちに何ができるだろうか。なすべきことは、自分自身の生活、生命のあり方を見直してみることではないだろうか。 私たち夫婦が玲と星の死を通して体験したように、人には誰でも、別な世界を垣間見た経験があるはずである。ただ忘れてしまっているだけということも多い。この本を読むことによって、読者が自分の中に眠っている記憶を呼び起こし、新しい可能性の旅に出ていただけたならば、訳者としてこの上なく幸せである。 (以下略) 1994年10月6日 大内 博 ★コナン・ドイル、著者、訳者のプロフィール★ ● コナン・ドイル Conan Doyle 1859年生まれ。イギリスのエディンバラ大学医学部卒業。開業医となるが32歳で執筆活動に専念。『シャーロック・ホームズ』のシリーズは世界的に有名。歴史小説、科学小説でも知られる。20代のときから心霊学に関心を抱き、長年研究を続ける。1918年以降は心霊主義者として執筆、講演などに活躍。1930年没。 ● アイヴァン・クック Ivan Cooke 1889年生まれ。ホワイト・イーグルの霊媒であるグレース・クックの夫。1936年、2人でホワイト・イーグル・ロッジを創設。長年にわたって、ANGELLUSおよびSTELLA POLARISの編集をつとめ、ホワイト・イーグルの教えに基づいた数多くの本を執筆、かつ編集している。1981年没。 ● 大内 博 1943年福島に生まれる。上智大学外国語学部英語学科卒業後、東西文化交流センター留学生として、ハワイ州立大学院で英語教育専攻。現在、玉川大学文学部教授のかたわら、飢餓を終らせることを目的とするN.G.Oハンガープロジェクト日本代表。著書に『コミュニケーションの英語』、訳書に『英語イディオム「自由自在」辞典』(共に講談社)他がある。 |
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