チベットの生と死の書

ソギャル・リンポチェ・著 講談社
★ なわ・ふみひとの推薦文 ★  
 全600ページを超える大著です。『チベットの死者の書』の内容をベースに、死後の世界について、そして輪廻転生について書かれた本ということができます。膨大な内容ですので、ここではカルマに関して述べられた部分のみをピックアップしてみました。
  このカルマについての記述は、私が拙著『2012年の黙示録』で述べていることを裏付けする内容となっています。臨死体験者による「全生涯のパノラマ的回顧」の部分を読みますと、神が仕組んだ人生の目的とは何なのかということが理解できる気がします。
  死後の世界が存在することについてはまだ半信半疑だという方も、じっくり読んでいただきたいと思います。最後に出てくるアインシュタインの言葉も、人生の意味を的確に表現していて大変味わい深いものがあります。
 
カルマ

  転生の背後にある真理、転生をうながす力、それがカルマと呼ばれるものである。西洋ではカルマは運命や宿命と誤解されることが多いが、宇宙を支配する絶対に誤ることのない因果律と考えるのが正しい。カルマという言葉は本来「行為」を意味するものであり、行為のなかにひそむ力であると同時に、行為がもたらす結果でもある。
  さまざまなカルマがある。国際的なカルマ、国家的なカルマ、都市のカルマ、個人のカルマ。すべてが複雑な相互関係にあり、悟りにいたったものだけがその全容を理解する。
  平易な言葉でいうと、カルマは何を意味しているというべきだろう? それは、わたしたちが身体で、言葉で、心で行なうことが、すべてそれに応じた結果をもたらすということを意味している。
  「たとえわずかな毒であっても、死をもたらすことがあり、たとえ小さな種であっても、大樹に育つことがある」とは、師たちのあいだで語り伝えられた言葉である。それをブッダはこう言い表す。

  悪行を、単にそれが些細なものというだけで見過ごしてはいけない。小さな火花ひとつで、山ほどもある積みわらを焼きつくすことができるのだから。ささやかな善行を、それが恵みをもたらすことはあるまいと、見過ごしてはいけない。小さな一滴の水の雫(しずく)も、やがては大きな器を満たすのだから。

  わたしたちの行為の結果は今はまだ熟していないかもしれない。だが、いつか必ず、ふさわしい時と場所を得て、それは成熟する。普通わたしたちは自分のしたことを忘れる。そしてはるか後になって、その結果がわたしたちに追いついてくる。その頃にはそれを原因と結びつけることはできなくなっている。

  わたしたちの行為の結果は遅れてやって来る。来世になることもある。そして、その原因をひとつに特定することはできない。なぜなら、どんな出来事も、ともに熟した多くのカルマのきわめて複雑な複合体であるからだ。そのためわたしたちは、物事は「偶然」起こると考え、すべてがうまくいくと、それをただ「幸運」と呼ぶ。
  また、人間一人ひとりの個性の違い、その驚くべき違いを満足のゆくように説明するのもカルマである。同じ家に生まれても、同じ国に生まれても、似た環境に育っても、すべての人が異なった性格を持ち、まったく異なった出来事に出会い、異なった才能や性向や運命を持つのである。
  ブッダが言ったように、「今のあなたはかつてのあなたであり、未来のあなたは今のあなた」なのだ。パドマサンバヴァはさらに言う。「過去世の自分を知りたければ、今の自分の状態を見ることだ。来世の自分を知りたければ、今の自分の行ないを見ることだ」。
  つまり、来世でどのような誕生を迎えるかは、現世における自分の行為の質によって決まるということである。ただし、行為がどのような結果をもたらすかは、ひとえにその行為の裏にある意志や動機によるのであって、行為の大小によるのではない。

 善き心

  つまり、来世でどのような誕生を迎えるかは、現世における自分の行為の質によって決まるということである。ただし、行為がどのような結果をもたらすかは、ひとえにその行為の裏にある意志や動機によるのであって、行為の大小によるのではない。これは決して忘れてはならない重要なことである。

  そう、それは動機にかかっているのだ。良い動機、悪い動機、それがわたしたちの行為の結果を決定するのである。シャーンティデーヴァは言った。

  この世にある喜びという喜びは
  他の幸せを願う気持ちからやって来る
  この世にある苦しみという苦しみは
  己の幸せを願う気持ちからやって来る


  カルマの法則は不可避であり不過謬である。そのため、わたしたちが他者を傷つけるとき、わたしたちは自分自身を傷つけているのであり、他者に幸福をもたらすとき、自分自身の未来に幸福をもたらしているのである。ダライ・ラマは言う。

  あなたが――怒りといったような――自己本位な動機をおさえ、他人に対するいっそうの思いやりやあわれみを育てようとするとき、それは最終的には他のどのような手段がもたらすよりもはるかに多くの利益を、あなた自身にもたらすことになるのです。
  そこで、わたしは時々、賢い利己主義者はこの方法を実践すべきだと言ってみます。愚かな利己主義者はつねに自分のことを考えています。しかし、その結果は望ましいものではない。賢い利己主義者は他人のことを考え、できるだけ人を助けます。そしてその結果、彼ら自身もまた利益を受けるのです


  生まれ変わりの事実からひとつの本質的な意味を引き出すとすれば、それは、思いやりを育てなさい、ということになる。生きとし生けるものがいつまでも幸福でいることを願う思いやりを、その幸福を守り育ててゆくべく行動する思いやりを、やさしさを、実践しなさい、ということなのである。ダライ・ラマは言う。「寺院など必要ない。難解な哲学など必要ない。私たちの脳が、私たちの心が寺院なのです。やさしさが、わたしの哲学なのです」

  つまり、カルマは宿命論的なものでも予定説的なものでもないのである。カルマとは、わたしたちの創造し変化する能力をいう。それは創造的なものなのだ。なぜなら、なぜ、いかに、行動するかを決めるのはわたしたちなのだから。わたしたちが未来を変えるのだ。未来はわたしたちの手のなかにある。わたしたちの心の手のなかに。

  チベットでは、「悪行にもひとつ良いことがある。それはあがなえるということだ」という。そう、つねに希望はあるのだ。人殺しや極悪な犯罪常習者であっても、変わることができ、彼らを犯罪に導く条件づけを乗りこえることができるのである。

  何であれ今起こっていることは過去のカルマの反映なのだ。そのことを知っていれば、本当に知っていれば、苦しみや困難に見舞われても、それを失敗や破局と見ることはなくなる。あるいは苦難を何かの罰であると思ったりすることもなくなる。自分を責めたり、自己嫌悪におちいることもなくなる。くぐり抜けてゆかねばならない苦痛を、過去のカルマの完成、過去のカルマの結実と見るようになるのである。
  チベットでは、苦しみは「過去のカルマをきれいに掃きだすほうき」だという。ひとつのカルマが完了したことをむしろ喜ぶべきなのだ。「幸運」すなわち良いカルマの結実は、上手に利用しないとまたたくまに過ぎ去ってしまうかもしれないし、「不運」すなわち悪いカルマの結実は、実は成長のためのまたとないチャンスなのかもしれないということを、わたしたちは知るべきなのだ。

  カルマの働きを見るのは難しいだろうか。ただ少しばかり自分の人生を振り返ってみるだけで、何らかの行為の結果がはっきりと見えてくるのではないだろうか。腹を立てたり人を傷つけたことが、結局は自分にはね返ってこなかっただろうか。そこであなたは苦く暗い思い出と自己嫌悪の影をいだいてたたずまなかっただろうか。その思い出と影がカルマなのだ。習慣も、恐れもまた、カルマによるものだ。過去のみずからの行為の、言葉の、思いの結実なのだ。
  自分の行為を子細に見て、真に行為に気づいていると、やがて行為のなかで繰り返されている一定のパターンがあることに気がつくだろう。わたしたちが悪しき行為を行なっているとき、それは苦痛と苦難に向かっているのであり、わたしたちが善き行為を行なっているとき、それは最終的には幸福をもたらすのである。

 責任

  臨死体験の報告が、実に的確な驚くべき真理の証となっているのに触れて、わたしは非常に深い印象を受けてきた。多くの臨死体験に共通した要素のひとつであり、さまざまな考察を呼んできたものに「全生涯のパノラマ的回顧」がある。この体験をした人々は、一生の出来事を細部にいたるまできわめて鮮明に思い出すだけでなく、みずからの行為がもたらしたあらゆる結果をも見るようなのだ。事実彼らは、自分の行為が他者におよぼした影響と、他者のなかに引き起こした感情――それがどんなに不快であれ、衝撃的であれ――をつぶさに体験するのである。

  わたしの一生のすべてが次々と浮かんでは消えていったのです。それは恥ずかしいことばかりでした。というのも、かつてのわたしの考え方は間違っていたようなのです。……わたしがしてきたことだけではなく、それが他の人々におよぼした影響も見えるのです。……人が考えていることも、ひとつとして見落とすことはないのです。
 (レイモンド・A・ムーディ・Jr 『続・かいまみた死後の世界』評論社)

  一生がわたしの前を通りすぎてゆきました。……そこでわたしは、一生のうちに感じたすべての感情をもう一度感じたのです。そして、その感情がわたしの人生をどのように左右していたかという基本的なことを、わたしの目に見せてくれました。わたしが人生でしてきたことが、他の人々の人生をも左右して……。
 (ケネス・リング『霊界探訪』三笠書房)

  わたしは自分が傷つけている相手でもあり、自分が喜ばせている相手でもあったんです。
 (レイモンド・A・ムーディ・Jr 『光の彼方に』TBSブリタニカ)

  それは、わたしが思ったり考えたりした思考のすべてを、今一度完全に生きなおすことだったのです。口にしたすべての言葉、行なったすべての行為をです。さらには、ひとつひとつの思い、言葉、行ないがおよぼした影響をです。すべての人への影響です。わたしが気づいていたかどうかに関係なく、わたしの近くに、わたしの影響がとどく範囲にいたすべての人への……。さらには、ひとつひとつの思い、言葉、行ないがおよぼした天候や植物や動物たちへの、土や木々や水や大気への影響です。
 (P・M・H・アットウォーター『Caming Back to Life』)


  これらの証言をごく真面目に受け止める必要があると思われる。それはみずからの行為や言葉や思考が持ちうるあらゆる意味に気づくための助けとなり、それによって私たちはより前向きに責任を引き受けるようになるからである。
  多くの人がカルマの実態に脅威を感じることをわたしは知っている。彼らはその自然の法則から逃れるすべのないことを理解しはじめた人々である。カルマなどといったものを一切軽蔑し、それを公言する人もいるが、そういった人も、心の奥深くではみずからの否定に深い疑念をいだいているものなのだ。日中は、あらゆる道徳に対する恐れを知らぬ侮蔑もあらわに、これ見よがしでがさつな自信をもって振る舞っていても、夜一人になると、その心はしばしば暗く沈み、不安におびえるのだ。
  東洋と西洋の両方がそれぞれに、カルマの理解から生じる責任を回避するための独特の方法をあみだしてきた。東洋では、カルマは人の助けに手を差し伸べずにすますための口実として使われる。人が苦しんでいると、それは「あの人たちのカルマ」だからどうしようもない、というのである。
  一方、自由思想の西洋社会では、人はその反対の手を使う。カルマを信じる西洋人は過度に敏感で、用心深くなりがちで、誰かを手助けすることは、その人が「みずからけりをつけなければならないこと」を邪魔立てすることになる、というのである。
  われら人間の何という逃避と裏切り! しかし、それもカルマなら、人を助けるすべを見出すのもカルマなのだ。わたしの知人のなかには資産家も何人かいるが、怠惰と利己主義が助長されて、富が彼らの命取りになることもあれば、富によって他の人々を真に助けるチャンスをつかみ、それによってみずからを助けることもある。
  自分が行為と言葉と思考によって選択権を行使していることを決して忘れてはならない。そして、選びさえすれば、わたしたちは苦と苦の原因に終わりをもたらし、わたしたちの真の可能性を、仏性(ぶっしょう)を、目覚めさせることもできるのである。この仏性が完全に目覚め、無知から解放され、 不死の心、悟りにいたった心とひとつになるまでは、生と死の巡りに終わりはない。そのため師たちは言う。今のこの生で自己にできるかぎりの責任を負わなければ、苦しみは先々の生にわたって続いてゆく。それも数限りない生にわたって続いてゆくことになる、と。
  だが、カルマの法則に従い、わたしたちのなかに慈しみとあわれみの善き心を目覚めさせてゆけば、心の流れを浄め、心の本質についての智恵を徐々に目覚めさせてゆけば、わたしたちは真の人間になることができるのである。そしてやがては悟りにいたるのである。
 アルバート・アインシュタインは言った。

  人間は「宇宙」と呼ばれる全体の一部なのです。時間と空間のなかに限定された一部なのです。人間は自己を、自己の思考や感覚を、他から分離したものとして体験します。――それは意識の視覚的錯覚とでもいうべきものです。この錯覚は、わたしたちを個人的な欲望と、ごく身近な幾人かの人間への愛情に縛りつけている、一種の牢獄なのです。わたしたちの課題は、すべての生きとし生けるものを、自然のすべてを、その美しさのままに包み込むまでに慈しみの輪を広げ、わたしたち自身をこの牢獄から解放することにあります
 
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