退化する若者たち
歯が予言する日本人の崩壊
丸橋賢・著 PHP新書 2006年刊 
★ なわ・ふみひとの推薦文 ★ 
 著者は現職の歯科医です。現在の肩書きは「丸橋全人歯科院長」となっています。この本の中で丸橋氏は、戦後における日本人の食生活の急激な変化が若者の退化現象を生み出してきた、と警鐘を鳴らしています。
  敗戦後、アメリカ文化の影響を無条件に受け容れざるを得なかったわが国は、国の文化や食生活にいたるまで、完全に崩壊させられ、アメリカナイズされてしまいました。そのことが、今日の国民の不健康や、精神的に虚弱な若者たちによるまざまな社会問題を生み出す原因になっている、と訴えているのです。
  治療の現場からの分析は大変的確で説得力があります。その著者が、「いまの日本の若者を見ていると、もう取り返しのつかないところまできてしまったのではないかと感じられる。しかし、日本社会はこの異常にあまり気づいていないようで、私の焦りはつのるばかりである」と嘆いています。この著者の“ため息”にぜひ耳を傾けていただきたいと思います。

 はじめに

  「日本人の活力や能力は低下しているのではないか」と、危惧している人は多い。
  とくに若者に対してである。若いくせに元気がなく、動きが鈍く、反応が遅く、耐久力がなく、疲れやすい。さらに、やる気がない。気が利かない。精神的に虚弱で、人間関係や社会との関係から破綻し、脱落する者が増加している。
  不登校生徒やニートと呼ばれる“働かない若者”が社会問題となって久しい。
  しかも、活力や能力の低下という状況を超えると、人格の崩壊に進んでしまい、暴力や非行、犯罪を引き起こす例も多くなっている。その犯罪の内容も、極めて非人間的なものが多い。
  そこで何をなすべきかの議論が百出する。原因が社会環境や教育にあるとして、まず教育のあり方を見直すべしとする意見が主流となっているが、すぐに直接的な効果を上げることは期待できない。
  私は、この問題の本質を、日本の若年層を中心に進行しつつある心身の「生物学的異変」ととらえている。というのも、多くの不登校生徒やゴロゴロしている若者に対して、どのように至れり尽くせりの教育を施しても、そもそも学校に行ったり仕事先に出かけたりする体力、気力がないのだ。
  このように、日本の若者の体力、気力を喪失させた異変の本体は、戦後の日本人に進行している「退化」現象である。

  本書を、3つの視点から読んでいただくと問題が非常にわかりやすい。

  第1は、生物は進化の過程で能力を得るために形態(機能)を獲得し、退化によって形態を喪失すると能力も失う、という原則である。

  第2は、日本人を襲う著しい退化は、戦後の高度経済成長期から、約50年という短期間にあらわれた現象であって、これは人類史上あまりにも短い時間に起きた変化である、という点を明記しておきたい。

  第3は、このような著しい退化現象は、世界に例がなく、近年の日本に突出した現象である、という事実である。


 繰り返された淘汰

  ‥‥(中略)‥‥
  日本においても、縄文人を衰退させ、弥生人が繁栄する。これも淘汰の道のりであった。これは近代でも同様なことが繰り返される。
  アメリカに侵入した白人により、先住民のインディアンは駆逐され、大地という舞台から退場させられた。スペイン人が植民地化したキューバでは、六部族いた先住民が消滅させられた。
  植物の世界も同様なルールに支配されている。キュウリやナスを植えても、雑草を取って手入れをしなければ、その地に適した雑草が繁茂し、キュウリやナスは負けて消滅してしまう。植林したスギやヒノキも、人間が手を引けば、時間とともに元の一次林(もともとその地に原生していた樹種による原生林)に戻ってしまう。

 なぜ日本人の退化が突出して進行したのか

  サピエンス人の知恵があるというDNAそのものが、退化への片道切符の役割を果たしているといっていい。知恵によって文明を発展させ、道具、機器の開発や、農業などの技術開発によって、肉体的運動量を減少させ、楽をして贅沢をすることを可能にした。現代人の骨格、筋肉、咀嚼器官などの退化はそれらの結果である。
  医学や薬学の発展も、自然界の掟に過剰に干渉し、人間優位の関係をつくり出した。その結果、生命の歴史のなかで、自然界では生きることのできなかった個体を生かすことができるようになった。人類のこのような宿命に対し、危惧を表明している学者は何人もいる。
  文明によって肉体労働から解放された結果、現代人の身体的退化は進んでいる。とくに食品加工や料理の技術によって、自然から得られたままの食物をそのまま食べることが減り、咀嚼器官の退化が先行している。
  だが、なぜ日本人の退化が突出して進行しているのか。私は日本人固有の退化の原因を次のように考えている。

 (1) 敗戦後のアメリカ文化の影響

  戦後の日本は、アメリカ文化の影響を受動的に取り入れ、それが進歩的であるとしてアメリカに追従した。その結果、日本の伝統や精神的規範、美意識、食生活までも、完膚なきまでに崩壊させてしまった。文化の形と質が壊れるのと同じスケールで、日本人の形質の崩壊が進んだと、私は考える。
  しかも、私は、アメリカ文化の影響を受けたことが、他の国の影響を受けたことに比べて、はるかに性質の悪い結果をもたらしたと考えている。
  アメリカの支配を受けた国の文化や食生活は、まさに荒廃、崩壊というべき状態となっている。長い歴史に裏づけられ、成熟した形や質を確立しているヨーロッパ文化と、粗雑で大味なアメリカ文化とでは、そこから受ける影響の違いはあまりにも大きいのである。

 (2) 助長された日本人の甘えの精神

  日本は戦後、このようなアメリカの影響を受けたわけだが、アメリカ開拓者の夢である人権思想に、日本人の甘えの精神が容易に傾倒し、重なっていった。戦後日本の、甘やかしが人権尊重と思い込まれる風潮が強まっていったと私は考えている。
  権利とともに必ず責任を重く求められるヨーロッパの人権観に比べ、アメリカ人の人権観には自由を通り越した身勝手さが色濃く、他者の存在への配慮や責任の認識が薄い。
  アメリカンドリームの根幹をなす自由、人権の甘い響きに心酔し、戦後の日本では甘える本人と甘やかす社会がもたれ合い、「優しさごっこ」の二重奏を奏でることになった。 成人式で、奇怪な服装で騒ぐ若者たちと、それに対応する社会の様相などは、このもたれあいを象徴している。良識的で他者に迷惑をかけず、真面目に生きる多くの人々を混乱させ、迷惑をかけて暴れる若者たちに対し、法的に厳しい規制はなく、彼らを報じるテレビは「人権」を尊重し、顔にモザイクをかけている。その実態は、絶対的規範を喪った相対主義による「優しさごっこ」でしかない。それが戦後日本の人間尊重の中身であったと思う。
  権利のみを主張し、責任は省みない日本で、伝統的価値観がなければ、もはや精神の形を守るのは難しい。加えて、優れたもの、強いものを讃えることがはばかられ、弱いもの、不出来なものを過保護にすることが重んじられる風潮に乗り、甘える若者が多くなったのが戦後の日本であった。
  このように、身勝手さや甘えが保護される社会のなかで、文化は瓦解し、食や生活習慣も崩れ、心身の崩壊がもたらされた。

 文化の形と質が崩れて

  「文化の形と質が崩れる程度に人間の形と質も崩れる」というのが私の実感である。
  また、その時代の文化にどの程度支配され、流されるか、つまり、自覚的、批判的に自立し、時代状況との距離を保てるか否かによって人間の形質が大きく左右される、というのも私の見てきたところである。
  したがって私は、「人は認識の程度に病み、認識の程度に治る」ともいっている。
  その時代の文化の影響を受けつつも、各人の食生活やライフスタイルは、その認識の程度によって差が生じる。生活習慣病は、その結果の形や質の異常であるから、認識の程度以上に治すことは難しい。
  日本人の体形や質、能力を見ると、戦前から、敗戦直後、高度経済成長期、最近に至るまで、刻々と変化してきている。この変化の要因は、食生活、歩行量、肉体労働量などいくつか挙げられるが、最もインパクトの大きい要因は、やはり食生活であろう。

 現代日本の劣悪な食環境

  軟らかい物を食べていた徳川家の将軍たちは、当時の庶民とはまったく異なる体になってしまったが、現在の日本では、庶民も徳川家将軍よりもさらに軟らかい物を食べている。
  加えて、江戸時代よりも現在の日本の食環境は、はるかに悪くなっている。農薬や化学肥料を多用して栽培する食材や、保存料、調味料、香料、乳化剤、そのほかの化学物質を添加した食品が主流となってしまっていて、条件はずっと悪くなっている。
  私は、患者や健康教室「良い歯の会」の出席者に、自然から得られた食物を、自然に近い形で、よく噛んで食べることを基本とするように指導しているが、自然な食材が簡単には手に入らないのが現実である。
  日本の状況はあまりにもひどい。農薬、化学肥料、食品添加物が使われているだけではなく、加工食品の原料には安物が選ばれ、増量材でさらに原価を下げようとしている。
  味噌や醤油も、1キロ35円程度の脱脂大豆が使われ、1キロ600円もする丸大豆はほとんど用いられていない。国産無農薬大豆は1キロ900円もするので、ごく一部で、究極のこだわり醤油として用いられるのみである。一般に売られている醤油が脱脂大豆で作られているとは正気の沙汰とは思われないが、それが日本の現実である。
  日本でジュースといえば、だいたい「色つき砂糖水」であるが、外国では果物を搾った本物のジュースが主流である。果物も、日本では消毒を繰り返し、化学肥料を投入し、出荷時にワックスでお化粧されたようなものであるが、外国では自然に近い栽培をされたものがほとんどである。
  ハムやウインナーソーセージなども、日本の物は安物の原料を用い、添加物をたくさん入れて作られている。常温でも腐らないが、食べて安全とは思えない。

 ヨーロッパの食へのこだわり

  私は、ヨーロッパの食が一番伝統を守っていて安全だと思っているが、東南アジア、アフリカ、南米大陸などでも、食は基本的に自然に近いものを食べている。日本の食事情はどうしたのだろうかと、まことに残念である。
  日本とヨーロッパの食へのこだわりは、方向的に逆である。
  日本では、どこまでも原価を落とし、見た目をそれらしく仕上げて、どれだけ利益を上げるかにこだわる。そのために着色料、甘味料、香料、乳化剤、結着補強剤など、考えられるあらゆるニセ物材を用いる。
  ヨーロッパでは、いかに本物であるかにこだわる。用いる科学肥料も最小限である。加工食品の原料にも本物が用いられる。したがって、街頭で売っているサンドイッチやソーセージを買って食べても大丈夫である。
  日本のコンビニエンスストアで弁当を買えば、まず米も野菜も化学肥料、農薬栽培のものと思ってよい。梅干しや漬け物は着色料、保存料添加のものであり、ソーセージも化学物質が多量に入っている。鶏卵はケージ飼いのもので、餌に添加物、抗生剤などが用いられたものである。安全に食べられるものはほとんどないといってよい。バランスも悪く、野菜、海藻、小魚が少なく、脂肪と蛋白質が多い。
  このようなものをほとんどの国民が食べているのであるから、まさに民族的な大実験といえるだろう。
  化学物質が多いからアトピー性皮膚炎や花粉症は増加し、よく噛まないから徳川の将軍より退化した咀嚼器官となってしまう。重い物を持つのを嫌い、運動も不足するので、全身的にも骨格や筋肉の退化が進行している。その結果、体力、気力が低下し、不定愁訴に悩む若者が急増している、と私は考えている。
  また、最近目立っている異様な精神状態の若者の増加原因には、退化のほかにもうひとつ疑わなければならないものがある。環境ホルモンなどの化学物質である。農薬栽培された食品やプラスチック製品など、多くのものに含まれているが、その恐ろしさは想像以上のものになっている。異常な犯罪を起こす若者や、ニートと呼ばれる無気力な症候群など、一昔前はあまり見られなかった集団の発生原因として、化学物質の氾濫を考え直す必要があると考えている。

 敗戦後、短期間で壊れた日本の文化

  私の診療所には、苦痛に耐えかね、生きる力も乏しい状態で訪れる患者が後を絶たない。そのような患者を前にして、私は、なぜ日本人がこうなってしまったのかを日々考え、心を痛めてきた。
  日本人の体が退化の方向に大きく傾いたのは、戦後の極めて短い期間に起きた現象である。敗戦により被占領国となった日本は、それまでの歴史的な連続性が断たれ、大きな断層をつくっにしまった。目本の伝統文化に対する懐疑が生じ、欧米の生活様式を受け入れることこそ、復興につながるとの風潮が広がった。とくに食生活の変化に、日本の伝統文化の変容と崩壊がうかがえる。
  つまり、現在の日本人を襲っている激しい退化現象を根本的に解決するためには、日本人の生活と、それを支える文化や考え方を見直し、必要な骨組みを再建するしかないと、私は確信している。  私は、全人医学的視点から、人間を観察し、診断や治療をおこなってきた。全人医学とは、全人医学の父と呼ばれるヒポクラテスが、すでに紀元前四六〇年頃に体系化している。
  すなわち、病気とは局部のみに原因があって起きるものではなく、全身状態との関連で起きるという医学観である。また、食事や水、空気、環境などの外界との関係でも起きるので、全体をとらえて診断、対処しなければならないと唱えており、現在の医学界にも脈々と受け継がれている。
  その全人医学の観点から、私には、退化した日本人の背景に、現在の歪んだ日本文化が重なって見える。私は歴史や思想史、文化論の専門家ではない。しかし、退化病に深く関わる臨床家の立場から、退化の本質的な原因と思われる近年の日本文化の歪みについて、ぜひ述べておきたいことがある。おそらく、論壇の専門家に比べ、より生物学的視点から、戦後日本の反省点を指摘できると思う。
  すでに述べた通り、それまで持続的、発展的に経過してきた日本人の食生活は、敗戦を境に断層をつくって大きく変化した。ご飯、味噌汁、漬け物、おひたし、納豆か目刺し、といった日本の典型的な朝食は、バターかジャム付パン、コーヒーまたはミルク、ハムエッグ、という献立に変わった。おにぎりはハンバーガーに、お弁当の塩鮭はウインナーソーセージに、緑茶はコーヒー、コーラヘと変わった。畑の作物に与える肥料をまったく変えてしまったのと同じである。そこで生育する作物も人間も当然、形や質が別物のようになってしまう。
  ここで問題なのは、アメリカの占領下で、なぜあれほど安易にアメリカ文化を受け入れてしまったのか、なぜ日本の伝統的なものを古くて悪いものと否定し、捨て去ってしまったのか、という点である。そこをよく理解し、日本人が民族として持続的に生存してゆくための条件だけは確保してゆかなければならないだろう。

 指導者から大衆まで、民族大転向の謎

  食文化やその背景にある日本人の考え方や伝統を断絶させてしまった原因は、指導者から大衆までを含む、戦後の日本民族大転向にあると、私は見ている、鬼畜米英と位置づけた敵視思想から、ほぼ完全な親米、アメリカ礼賛思想へと変わったのであるから、これを転向と呼ぶ以外にはない。諸外国からは理解し難いことかもしれないが、この転向が、当時の戦争指導者から大衆まで、共通して起きたのである。

 甘え、もたれ合い、大衆性

  主体性という防衛戦が薄弱のまま、敗戦によって日本の旧体制は崩壊した。
  政治体制が崩壊したとき、いままでの価値観や習慣、それを支える風土などを守るものがあるとしたら、それは民衆のなかに根づいた思想とか体質と呼ぶべきものである。しかし、日本では、天皇を中心とした暗黙の了解を守ってきた民衆の顔というのは、もともと形の見えない存在であった。
  村社会で必要とされたのは顔なき民であり、主張を持った強い個人ではなかった歴史からも当然の成り行きであった。自己の固有性を持たない者は、外部の枠組みが崩れたとき、思考と行動の規範を持っていないことに気づかされる。内なる固有の規範のない者がとることのできる道は、目前の事情に右往左往して、「いまを生きる」だけの人になることである。
  このような、個性なき状況、思想なき状況で、大規模かつ自然に起こったのが、敗戦後の日本の保守派と民衆の大転向であったと考えている。
  内なる規範を特たない日本の民衆が、敗戦役に歩んだ道は、低俗化しつつ、ますます自己の顔を失い、大衆化してゆく道であった。私は人間の条件は、自分の目で見て、自分の頭で判断し、自分の賞任で行動できる、というところにあると考えている。それができない者が、大衆であると考えるべきだろう。
  大衆には個としての力はない。目先の都合で動き、外部からの力に左右されて動く。目先の都合に関心が集中するため、目先の経済や技術には強い。しかし、外部からの力によって筒単に、「天皇陛下万歳」にも「ハイル・ヒットラー」にも、「毛沢東万歳」にもなる。指導者が中国に向けば大衆も中国に好感を持ち、指導者がアメリカに向けば大衆もアメリカに好感を持つ。
  また、内なる規範を持たない大衆は低俗化す。内なる力によって制御することがないため、歯止めがかからない。日本のテレビの低俗度を見れば一目瞭然であるが、一日中、これほどの劣悪番組が流されている国は他にはないだろう。
  私は外国に行くと必ずテレビをつけるが、テレビを見るとその国の民衆の関心のレベルがよくわかる。どの国にもコントやお笑い系の番組はあるが、日本のように品のないバラエティー番組は見たことがない。それを大の大人が喜んで見るような民族となってしまったのは無念である。このような状況にまで低俗化してしまったから、日本人の学生が海外で低俗な悪ふざけをして咎めを受けるような事件が続発する。
  村社会では徳とされた自己主張のない体質は、社会の枠組みが崩れたとき、低俗化し、甘えの度を増しつつ受け継がれてきている。
  社会的にも内部的にも、かくあるべしという規範がない現在の日本では、何でも許されると考えられるようになってしまった。とくに形を崩すこと、だらしないこと、甘えることが限りなく許容され、それが個性や多様性を重んじているかのように錯覚する傾向を強めている。
  一方、もたれ合い社会から脱出し、個性や強さを持って生きてゆこうとする人間の足を引っ張ろうとずる村社会の体質はまだ受け継がれている。
  歯科医学、歯科医療の世界でも、古いものの見方が権威的に温存され、新しい個性ある発想や方法は圧力を受ける。現状を変えることを嫌い、平均的なレベルを守ろうとする。日本の保守的体質とは、このような性質のものに過ぎないが、案外、現在でもさまざまなところに温存されている。
  このような文化の崩壊、または、溶解現象は、ますます日本人の退化を進行させてゆく。いまここで食い止め、日本を、そして日本人の身心の形と質を取り戻してゆくことをぜひ考えるべきである。

 外見が壊れると本質も破壊される

  私の診療所では、日本航空の客室乗務員と同じように、職員が髪を染めることに内規を定めている。それは、日本ヘアカラー協会(JHCA)の6レベルまでとする、というものである。医療に携る人間が、茶髪や赤い爪で仕事をするのは好ましくない。
  日本民族が日本人の形や精神を失えば、人々の規範が失われると考えるからである。
  ドイツの古都、ハイデルペルグでは、中欧の風景とあまり変わることのない、落ち着いたレンガ色の街並みが保存されている。石畳の道は狭く、敷石も少々でこぼこし、不自由さもある。昔から変わらない家にも確かに不自由さがある。
  しかしドイツでは、ハイデルベルグを近代的に再開発しようなどとは考えない。多少不自由でも、昔からの街を補修し、保存し、住み続ける道を選択しているのである。家のレンガの色が変わっても物理的に破壊されることはない。もし、それを許せばハイデルベルグの街の景観がしだいに変わり、人々の考え方も変わり、食も衣も変わり、結果的には肉体も変わってゆくことになる。これが本質的破壊である。
  茶髪に染めた人には茶髪の精神が宿る。服装、食、礼儀作法というような、細かい、具体的な点でも、あまりに崩した行為には寛容になるべきではないと、私は主張してきた。それが本質的破壊に直結しているからである。
  日本ではこのような本質的な破壊に対して寛容になりすぎている。それが進歩的であり、人権生義的、自由主義的であると錯覚しているのだろう。伝統を守るべきだといえば、古い人間として非難される。目上の人、年長者や親、教師などに対しては、礼をもって接するべきだといえば、封建的だと非難される。
  戦後の日本人は右も左も、保守も革新も、家族制度や家業や故郷、景観といった伝統の基礎から離れることこそ、自由であるかのように誤解してきた。その結果、文化は形なきまでに崩壊し、人間の形も貿も融解してしまったのである。人間とは思えないような若者の増加が、それを示しているのである。

 退化に関する二つの原則

  現在の日本のように、退化傾向の芸者が急増した後には、必ず大きな淘汰の波が襲ってくると私は考えている、。いつまでも現在のように恵まれた環境が続くことはありえないし、自然の法則に人間がどんなに逆らっても、自然の法則が変わることもありえない。いつか揺り戻しが来ると予想される。
  仮に、そのように激しい淘汰の波がすぐに来なくても、社会生活も満足に送れないほどの苦痛を身体に抱えることは、なんとか避けたいだろう。
  そこで最後に、退化の波を乗り越え、身心の力を高く維持して生きてゆくための要点を具体的にまとめたい(この内容は割愛します――なわ・ふみひと)。そのためには、退化に関する次の2つの原則をしっかり理解しておいていただきたい。
  第一は、「生物は極めて保守的である」という原則である。
  簡単に新しい条件に適応することはできないのが、生物の本性である。したがって、食やライフスタイル、生活を取り巻く環境を急激に変えないほうがよい、ということをよく理解しておきたい。
  たとえば日本人の消化器は、大ささや形態、消化液の性質や能力も、他民族のものとは明らかに差異がある。体は小さいのに腸の長さは体の大きな欧米人の二倍もあり、野菜、穀物などを中心とした食物の消化に適しているが、肉の消化には不向きである。おにぎりの消化には適しているが、ハンバーガーの消化には適していない。だからハンバーガーを食べ、コーヒーを飲むとお腹の調子が悪くなる人は多いし、体調不良を感じなくても、結果として、本来の日本人とは異なった体形と能力が出来上がってしまうのである。
  第二は、『使わないものはダメになる』という法則である。
  フランスの進化論者、ラマルクは用不用説を唱え、外界の環境や用不用の結果、獲得した形質が遺伝し、受け継がれるといっている。少なくとも、使わない器官は退化することは明らかである。
  最も退化に弱い咀嚼器官の能力を守るためには、硬い物も好んで食べ、よく咬むことが重要となる。問時に二足直立歩行の姿勢を崩さないためには、しっかりした骨格と筋肉が不可欠で、適度な運動を日常的におこなわなければならない。
 
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