あなたの 夢はなんですか?
私の夢は 大人になるまで 生きることです。

池間哲郎・著 致知出版社 2004年刊
 
 私の夢は大人になるまで生きること

  かつてフィリピンの首都マニラのトンド地区に、スモーキーマウンテンという場所がありました。ここは首都の広大なゴミ捨て場。一日中ダンプカーでゴミが運びこまれ、ここに捨てられていきます。積み重ねられたゴミは自然発火して、いつも煙が上がっています。だから「煙の山」、スモーキーマウンテンと呼ばれいたのです。
  1993年の4月、このスモーキーマウンテンをはじめて訪れました。あたり一面、目も開けられないほどの煙が立ちこめ、吐き気をもよおす悪臭がただよっていました。私はカメラを抱えて走り回り、ゴミを拾う人々のすさまじいばかりの生活環境をファインダーにとらえていきました。
  ピンやスクラップなどのゴミを拾って、それをリサイクル業者に売って暮らしている子どもたちがいました。中には5歳にも満たないと思われる子どももいます。手や足は真っ黒に汚れ、皮がめくれて血だらけ。それでも子どもたちは、一心不乱にゴミを拾っていました。その姿は生きるために必死で戦っているように見えました。
  数人の子どもたちが遊んでいたので話を聞いてみました。全員がゴミを拾うことを毎日の仕事にしている子どもたちです。その中に一人の少女がいました。足の先から頭のてっぺんまで真っ黒に汚れ、ボロボロのTシャツを着た10歳ぐらいの女の子です。瞳がキラキラと輝き、かわいい笑顔が印象的でした。
  私はこの子に聞いてみました。
  「あなたの夢はなんですか?」
  少女はニコニコしながら答えました。
  「私の夢は大人になるまで生きることです」
  この答えを聞いて、グッと胸にきました。笑顔だったから、よけいにこたえました。大人になるまで生きるなんて当然のことだ、と思っていました。そんな当たり前のことが夢だと聞いて、愕然としてしまったのです。
  ビデオカメラマンという職業柄、私は戦場に行ったこともありますし、山岳民族と一緒に暮らした経験もあります。暮らしに困っている人たちをいっぱい見てきました。でも、このとき少女が笑顔で「大人になるまで生きたい」といった言葉が一番胸に痛かったのです。このときのショックが、私にアジアの子どもたちをサポートするという決心を促したと言ってもいいと思います。
  振り返ってみれば、30代後半までの私の人生は中途半端なものでした。真剣に生きたことなど一度もない。努力を重ねて物事を達成したこともない。すべてに適当に生きていました。そんな私にとって、ゴミ捨て場の子どもたちとの出会いは、それまでの生き方をすべて破壊するぐらいの衝撃でした。
  彼らが必死で生きている姿を見て涙が止まらなくなり、ゴミの中で人目もはばからず大声で泣いてしまいました。ぶざまな人生を歩んできた自分が恥ずかしくなったのです。
  同時に「今まで何をしていたのだ」と怒りとも思える感情がわき上がり、「真剣に生きなければ」と心の底から思いました。小さな子どもたちがゴミの中で必死で生きているのに、大の大人の自分が一生懸命生きていない。それは子どもたちに対して失礼だと感じました。
  そのとき私は「自分を変える」ことを決意しました。そして、アジアの貧しい子どもたちと一生つき合っていくことを自分に誓ったのです。
1日に4万人以上
 1日に4万人以上の人々が飢餓で死んでいる[TOP]

  今、世界には約63億の人々が暮らしています。そのうちの約20パーセントにあたる13億人は、日本やアメリカ、ヨーロッパなどの豊かな先進国に暮らしています。 そして残りの50億、約80パーセントの人々は、アジアやアフリカなどの貧しい国々、開発途上国に暮らしています。貧しい国に暮らす人のほうがはるかに多いのです。
  そして、この50億の人たちが今、苦しんでいます。特に11億の人々は食べ物を得ることが難しく、栄養状態が非常に悪い中で生活しています。さらにそのうちの6億の人々は、きょう一日の食べ物すら手に入れることができず、餓死寸前の状態と言われています。
  貧しさで死んでいく人がいっぱいいるのです。食べ物を買うことができない。きれいな水を飲むことができない。小さな薬さえも買うことができない。そんな貧しさが原因で、2秒に1人が死んでいきます。この現実をぜひ知ってもらいたいと思います。
  1日では4万人以上が、1カ月では120万の人々が死んでいきます。1年間では1500万の人々が貧しさを原因として死んでいくのです。
  さらに深刻なのは、亡くなっていく人々の90パーセント以上が子どもだということです。なぜかと言えば、子どもは小さくて弱いからです。子どもたちは本当に信じられないほど簡単に死んでしまいます。風邪をひいた。下痢をした。こんな小さな病気で死んでいくのです。
  日本ではそういうことはあり得ません。われわれは豊かな国の人々ですから、毎日3食、朝昼晩とご飯を食べています。おかずも豊富にあります。栄養のあるものをたくさん食べて、栄養状態が非常にいいから、子どもであっても、体の中に病気と戦う抵抗力を十分に備えています。
  貧しい国の貧しい地域の子どもたちは、1日に3食なんてとても食べられません。1日1食、朝ご飯だけというのが普通です。それも、お椀にご飯を入れて、塩をかけて食べるのです。おかずはなし。塩をかけたご飯だけです。
  こんな粗末な食事しかとることができないから、子どもたちは栄養状態が非常に悪くて、慢性的な栄養不良状態になっています。抵抗力がまったくない状態です。だから風邪や下痢でも簡単に死んでしまうのです。
  この現状をわかってください。よその国の話だと考えないでください。なぜなら、この問題は、私たちの豊かな国とも非常に関係のあることだからです。
世界の2割の人
 世界の2割の人が7割の食料を食べてしまう [TOP]

  世界には約63億人の人々が暮らしていると言いましたが、実は、このすべての人たちが食べていけるだけの食料は存在しているのです。食料が不足しているわけではありません。
それなのになぜ餓死するほど追いつめられる人々が出てくるのでしょうか? それは世界人口の20パーセントにすぎない私たちのような豊かな国の人々が、世界の食糧の70パーセント近くを食べてしまうからです。残った30パーセントの食糧を80パーセントの人々が分け合って食べているのです。だから当然、足りないところが出てくる。一部の人たちがたくさん食べているから、全員に食糧が行き渡らないわけです。
  貧しさとか飢餓という問題の本質は食べ物のあるなしではなくて、その分け方にあるのです。
  そして、豊かな国の中でも日本人とアメリカ人(世界人口の7パーセントにも満たない)が世界で一番ぜいたくな国民だと言われています。「異常なほどぜいたく」だと指摘する人もたくさんいます。
  われわれは本当にぜいたくな暮らしをしているのです。アジアの人たちが見たら、びっくりするぐらいの食事を毎日のようにとっている。日本とアメリカで世界の食糧の4割近くを消費していると言われるほどです。
  日本の中にいると、食卓に並ぶ毎日の食事が当たり前だと思ってしまいます。でも、それは現実を知らないだけです。先進国でもヨーロッパなどの食事は質素です。日本とアメリカだけが飛び抜けてぜいたくなのです。そして、ぜいたくな日本の食卓を支える食糧の多くは、飢餓で苦しんでいる開発途上国から輸入されています。おかしな話だと思いませんか?
  私たちがもっと考えなければいけないことがあります。それは日本人の食卓に出された食糧のうち20パーセントぐらいが残飯として捨てられているという事実です。
  日本で生産される1年間の米の量をカロリー計算すると、年間に生産される米のカロリー量の倍の残飯を捨てているそうです。ある研究機関の調査では、日本人が無駄にしている分の食糧輸入を減らせば、アジアの人々が1億人以上、飢餓から救われるということです。私たちの豊かな食生活は開発途上国の貧しさにあえぐ人々の犠牲の上に成り立っていると言ってもいいのです。
  学校の給食の食べ残しも異常です。びっくりしてしまいます。いつの間にか、私たちは食べ物を大変粗末にするようになってしまっています。ちょっと怖いくらいです。
  かつては日本も貧しい国でした。貧しかったから、一粒の米さえも大事にしようという文化がありました。それが変わってきています。これは子どもたちの責任じゃない。すべて大人の責任です。
  同じアジアの国の人たちでさえ、きょうの食べ物がなくて、毎日多くの人々が死んでいきます。そんな中で、私たちは大量の残飯を捨てている。この食生活をどうするか、大人子どもに関係なく、一人ひとりが真剣に考えるべきだと思います。
  食べることは生きるための基本です。本当に大事なことです。それをよく考えてみなくてはいけません。
お父さんお母さんにもごちそうを
 お父さんお母さんにもごちそうを食べさせたい[TOP]

  ある日、ゴミ捨て場に暮らしている子どもたちを連れてピクニックに行きました。もちろん、弁当は私のおごりです。その中身は彼らが今までに食べたこともないほどのごちそうでした。
  昼食の時間がやってきて、弁当のフタを開けて中身を見た子どもたちは「キャーキャー」と声を出して喜びました。うれしさのあまりピョンピョンと飛び跳ねている子どももいます。
  しばらくして「サアーお昼を食べよう」と言うと、意外なことが起きました。全員が弁当のフタを閉じて、食べてくれないのです。どうしてなのか、私にはわけがわかりませんでした。
  黙って様子を見ていると、6歳ぐらいの少女が私の前にやってきました。そして、今にも泣きそうな顔で「おじさんにお願いがあります」と言うのです。「なんですか?」と聞くと、少女は私にこう言いました。
  「こんなごちそうを私だけで食べることはできません。お家に持って帰って、お父さん、お母さんと一緒に食べていいですか?」
  びっくりしました。お腹が空いているだろうに我慢をして、お父さんお母さんにもごちそうを食べさせたいと言うのです。ほかの子どもたちも同じ気持ちだったようです。結局、誰も一口も食べずに弁当を持って帰ることになりました。
  貧しくても、家族の絆、親子の愛が深いんだなあ、と感心しました。フィリピンだけではありません。モンゴル、カンボジアなどのアジア各地の貧しい地域で、同じようなことを経験しました。心の奥底から親を思う子どもたちとたくさん出会い、そのたびに、なぜこれほどまでに親を思うのかと考えさせられました。
  私にも幼いころに似たような記憶があります。父親が結婚式に招待されると、出されてきた折り詰め弁当に手をつけずに持ち帰ってきました。その弁当を家族みんなで大事に食べました。あのときに食べた、ゆで卵やポークなどのおいしさは今でも忘れることができません。
  われわれは確かに豊かな社会をつくりました。物がありあまり、毎日の食事に困ることもありません。
  しかし、人を愛する心、家族の絆、生きる力など、人間として大切にしなければならないことを忘れがちになっているのではないでしょうか? 豊かさを否定するつもりはありませんが、失ったものの大きさについても考えてみる必要があるのではないでしょうか?
  アジアの子どもたちを見て、そんなことを思いました。
親が生きていくために
 親が生きていくために子どもが売られる[TOP]

  タイの北部、ミャンマーとラオスの国境がすぐ目の前という場所に、山岳民族の村があります。私は山岳民族の貧困の問題についてずっと調べています。そこで、このあたりに暮らすカレン族とモン族の村を訪ねてみることにしました。
  村に入ると、赤や青のあでやかな民族衣装を着た美しい娘たちが民族舞踊を舞い、笑顔で私たちを迎えてくれました。村人はとても素朴な人々なのです。
  私たちは、貧しさの中にも平和な暮らしがあることを願いながら、いろいろな調査をしていきました。すると、高床式の住居が建ち並ぶのどかな農村風景とは裏腹に、ここにも恐ろしいほどの貧しさがあることがわかりました。
  それは子どもたちの姿を見れば一目瞭然です。お腹がふくらんで飛び出している子どもたちが多いのです。ふくらんでいるのはご飯をお腹いっぱい食べたからではありません。ずーっと何も食べていないから、お腹の中にガスがたまってふくらんでいるのです。このままにしていると、やがて目が落ちくぼみ、死んでいくことになります。これは栄養失調の症状なのです。
  このあたりの人々は、ほとんどが農業で生計を立てています。しかし、村人たちの年収は日本円で5万円程度。同じタイ人に比べても、10分の1以下です。そのため、貧困が原因となる薬物中毒や人身売買の問題を抱えていました。特に家族が生き延びるためとはいえ、娘を売らざるを得ないくらい追いつめられた状況には胸が痛みました。この村の多く娘たちが家族の犠牲になり、涙を流しながら売られていったのです。
  タイでは4月から9月いっぱいくらい、雨季になります。雨が降り続き、農業ができません。その間に人々は蓄えたお金を使い果たし、食べ物も食べ尽くしてしまいます。その結果、お父さんお母さんを守るために、そして家族が生き延びるために、娘たちが売られていくのです。とってもかわいい娘たちです。彼女たちは、大体、12〜13歳から売られていきます。日本で言えば、小学校6年とか中学校1年ぐらい。まだ子どもです。
  日本の子どもたちに「親のために子どもが売られている」という話をすると、みんな驚きます。日本の子どもたちは「親が子どもの面倒を見るのが当たり前」だと思っているからです。でも世界の常識はまったく逆。子どもが親の面倒を見る。それが当たり前です。
  タイの山岳民族の娘たちも、親が生きるために、当然のように売られていくのです。
私が訪れたカレン族の村では、女の子たちが17歳までに売られる割合は50パーセントを超えると言っていました。
  この娘たちは、まだ性の意味さえも知りません。でも、自分が何をしに売られていくのかはよくわかっています。売春婦になるのです。そしてエイズという病気にかかって死んでいく可能性が非常に高いことも、彼女たちはわかっています。娘たちが村に帰ってくるのは、エイズが発病して死ぬときです。
  タイのチェンマイで出会った14〜15歳の少女に、「あなたはもしかするとエイズにかかって死んでしまうかもしれないね」と意地悪な質問をしてしまったことがあります。すると、その少女は微笑みを浮かべて言いました。
  「お父さんお母さんのためだから、しょうがないよね」
  彼女は自分の悲しい運命を受け入れているのです。こういう子どもたちを見ると、話をしているだけで涙が出てきます。
お母さん、お父さん
 お母さん、お父さん、私を売らないで![TOP]

  カレン族の村を歩いていたら不思議な家がありました。窓が小さくて、厳重な構えの家です。どういう家なのかと調べていくと、そこには悲しい話がありました。
  村人たちはちょっと前まで、エイズは空気で感染すると思っていたのだそうです。だから、エイズが発病して村に帰ってきた少女たちをこの家の中に閉じこめたのです。それも薬物中毒者と一緒に。そして、一歩も外に出さなかったそうです。
  たくさんの少女たちが、この家で死んでいきました。みんな親のことを思って、命がけで売られていった子どもたちです。何も罪はないのに、ここで死んでいったのです。
  今は村人も、エイズが空気で感染しないとわかっています。だから、家の中はガランとして何もありません。少女たちはやっと家で死ぬことができるようになったそうです。しかし、いずれにしてもむごい話には違いありません。
  タイの貧しい地域や山岳民族の村に行くと、ポスターが貼られているのをよく見かけます。ポスターには「お母さん、お父さん、私を売らないで」と書いてあります。今でも、タイ北部では日本円にして13万円ぐらいで娘が売られているのです。中間業者が3万ほどとって、親に渡されるのは10万円ぐらいです。
  タイの隣の国カンボジアの首都プノンペンでは、5万円出せば女の子を買えます。地方に行くともっと安くて、たったの50ドル。日本円で6千円です。男の子はさらに安くて、3千円で買えます。買われた男の子は大体が工場労働者になります。毎日15時間ぐらい働かされて、ボロボロになってしまいます。
  このようにくわしく説明するのは、こういうことが起きていることをわかってほしいからです。カンボジアもタイも日本と同じアジアの、すぐ近くの国です。そこでこんな悲惨なことが今も起きているのです。
おかゆ1杯
 おかゆ1杯と一切れの魚の夕食[TOP]

  タイの首都バンコックから車で30分ほどのところにアユタヤという町があります。その町にワットサーキャオというお寺があります。このお寺は孤児院を兼ねています。3歳から15歳までの子どもたち、男の子が1600名、女の子が400名、ここで暮らしています。
  孤児院といっても、ここの子どもたちのほとんどには親がいます。預けられている子どもの大部分は、タイで最も貧しいイサーン地区や山岳民族の出身です。村にいては食べて生きていくことができない。ならば、子どもを飢えで苦しませるよりは、あるいは娘を売春婦として売るよりはいいだろうと、親は身を切るような思いでこの寺に子どもを預けるのです。
  ただし、ここで親子が別れ別れになると、もう二度と会えないそうです。彼らは遠い山からこの町までやってきます。バス賃、電車賃で2万円ぐらいかかります。年収が5万円しかない人たちですから、2万円は大金です。だから親が帰ってしまうと、もう会うことはできないのです。
  いくつかの親子別れのシーンに出会いました。母親がいなくなって泣き叫ぶ少女がいました。お父さんが帰ってしまって、小さな荷物を抱えて呆然と空を見上げている兄弟がいました。
  中でも特に強く胸に残っているのは、若い山岳民族のお父さんが子どもと別れる場面です。子どもを愛する気持ちは、私たちとまったく変わりません。お父さんは手を組んで、ポロポロポロポロと涙を流し続けていました。別れがつらいのです。息子のほうを見ると、もう別れることを感じているようで、お父さんにべったりとくっついて離れません。でも2人は引きはがされて、そして別れていきました。2人とも大声で泣いていました。
  ワットサーキャオはこのように、親子が別れていく場所なのです。このお寺の財政状況は非常に厳しいようです。お金がありません。炊事、洗濯などの家事仕事はすべて子どもたちが分担しています。年長者の子どもが年下の子どもを実の兄弟のように面倒を見ていたのが印象的です。
  食事は朝と夜の2食だけ。夕食の光景を見ると、日本の子どもはきっとびっくりするでしょう。おかゆ1杯と魚が一切れだけ。お代わりはできません。お腹が空いてもお代わりができないから、子どもたちは食器をなめるようにして食べていました。
甘えられる親
 甘えられる親がいる、それが一番の幸せ[TOP]

  ワットサーキャオでもう一つ気づいたことがあります。それは家族で暮らす大切さです。私は貧しい国のホームレス状態になった子どもたちをたくさん見てきました。そして、この寺に来てよくわかりました。ここのお寺の子どもたちには、悲しそうな顔をしている子が多いのです。
  ゴミ捨て場の子どもたちは、今日死ぬかもしれないという大変な状況で生きています。でも、あの子たちのほうが目がキラキラしていて明るいのです。なぜなのでしょうか? それは家に帰るとお父さんお母さんがいて、甘えられるからです。片親でもいいから、子どもが甘えられる親がいることが大事なのです。とくにお母さんがしっかりしていると、子どもはどんな苦しい状態であっても安心しています。
  ワットサーキャオでは勉強することができます。住むところもあります。ご飯も一応食べられます。でも、子どもたちは親に甘えることはできません。だから悲しそうな顔をしている子が多いのです。
  親の存在というのは、子どもたちにとってとても大きなものです。とくに貧しい地域ではそうです。だから、子どもたちは親の面倒を見ることを当たり前だと考えるのでしょう。こうした地域に行くと、親子の絆というものの大切さがよくわかります。親のありがたさを身にしみて感じます。
「お父さんになってください」
「お父さんになってください」と少年は言った[TOP]

  貧しい国の都会に行くと、親のいない子どもたちがシンナーを吸う姿によく出会います。なぜシンナーを吸うかというと、その意味は日本とはまったく違います。快楽を得るためでも、覚醒状態を味わうためでもありません。彼らにとってシンナーは「一番安い食事」。ご飯の代わりなのです。
  たとえば、プノンペンなら日本円で10円ほどあれば1食ご飯が食べられます。タイのバンコックなら35円ぐらいで食事ができます。でも、そのお金さえもない子どもたちは、3日も4日も何も食べずにいることになります。
  ではどうするのでしょうか? ご飯を食べるにはお金が足りないけれど、シンナーならばビン1本5円ぐらいで売っています。彼らにも買える値段です。シンナーを吸うと神経が麻痺して感覚がおかしくなります。お腹の中に何も入ってなくても、空腹感に襲われない。だから、ご飯の代わりにシンナーで空腹をしのごうとするのです。
  シンナーを吸うと、まず歯が抜けてボロボロになり、やがて脳が冒されて死んでいきます。周りにそんな人たちがたくさんいるから、この子たちはよくわかっています。でも、ひもじくて苦しくてたまらないから、シンナーを吸ってしまう。これも大変な悲劇です。
  タイ南部のスラタニという町の中心部から車で1時間ぐらい山の中に入ったところに、スラムから来た子どもたちが暮らす保護矯正施設があります。ここでは5歳から15歳までの少年を預かっています。
  この施設では50人ぐらいの少年たちが薬物依存症から立ち直るために懸命にがんばっていました。薬物中毒症状との戦いは大変です。苦しみ、もだえ、地獄ような戦いが続きます。禁断症状は言葉にできないほどの苦しみだそうです。
  8歳ぐらいの少年が私になついてきました。薬物中毒のせいなのか、体はやせ細り、手足はひょろひょろと鉛筆のように細くなっていました。肩車をしたり、抱きしめたり、空中に高く放り上げたりして遊びました。手をつないで畑にも行きました。すると全身をピッタリとくっつけて甘えてきます。たとえひとときでも、父親の愛情を私に求めているのが痛いほどわかりました。
  1週間ほど施設に滞在して、いよいよ別れの時がきました。少年は私の手を握り、耳元に口をつけて小さな声で言いました。
  「僕のお父さんになってください」
  そういう少年の目からは涙がこぼれていました。私も涙が流れてしかたありませんでした。少年は、板きれに麻のひもを通しただけのネックレスを私にくれました。精いっぱいのプレゼントのつもりだったのでしょう。
一度でいいから
 一度でいいから、お腹いっぱい食べてみたい[TOP]

  私がカンボジアを初めて訪ねたのは1998年の秋のことでした。20年間も続いた内戦が終わり、やっと国民生活も落ち着きを取り戻したころでした。
  朝、プノンペン市内を散策してみると町には活気があり、人や車の往来も激しい。この国が確実に発展していることが実感としてわかりました。
  町を歩いて気づいたことがほかにもあります。路上で生活している人々の多さです。道路沿いの壁にブルーシートを縛りつけて屋根にしただけの住居に暮らしている家族がかなりいます。ストリートチルドレンと呼ばれる、親のいない子どもたちが道ばたで眠っていました。泥にまみれた手足は傷だらけ。シンナーなどの薬物が入ったビニール袋をくわえている子どもも見かけました。この国の貧しさを目の前に見せつけられたように思いました。
  プノンペン市の郊外にステン・ミエン・チャイと呼ばれている地域があります。ここは百万都市プノンペンのゴミ捨て場です。フィリピンのスモーキーマウンテンと同様、広大な敷地に入ると煙がモウモウと立ちこめ、目が開けられないほどでした。そして、吐き気をもよおす強烈な悪臭。
  目を凝らして見ると、多くの人が煙の中でゴミを拾っているのが見えました。何か食べられそうな物、お金に換えられそうな物を探しているのです。手には引っかき棒を持って、真っ黒になってゴミを拾っていました。ここでは大人も子どもも関係ありません。
  カメラを抱えてゴミ捨て場を歩いていると、8歳ぐらいの少年に会いました。足の先から頭のてっぺんまで真っ黒。足は裸足で、手を見ると爪がめくれ、傷だらけです。
  この少年と仲良くなりました。そして「あなたの夢はなんですか?」と、いつものように聞いてみると、彼は少しはにかみながら答えました。
  「一度でいいから、お腹いっぱいになるまで食べてみたい」
  これはよく耳にする言葉です。
  この男の子も、生きるために懸命に働いていました。夜明けから日没まで、1日10時間近く、ずっと働くんだと言っていました。ピン、空き缶などをゴミの中から拾い集め、お金に換えて暮らしているのです。しかし、1日中働いても稼ぎは日本円で50円にも満たない。1食を食べるのがやっとです。
  日本の子どもたちは、ここに連れていくだけで泣いてしまうでしょう。とても働けません。だから、働いている子どもたちの姿を見ると自然に頭が下がってしまいます。
  ゴミ捨て場を歩いていたら、一人の少女と出会いました。ゴミの中で空き缶を黙々と整理していました。彼女はまだ4歳です。ここでは4歳の少女でも働かないと生きていけないのです。彼女にはお母さんがいます。でも、お母さんがいくら一生懸命働いても、人間一人が食べる分さえも稼ぐことができません。だから、この少女が生きようと思ったら、自分で働くしかないのです。
  子どもたちは明るくて非常に元気そうに見えます。でも、皮膚病、目の病気、内臓の病気、いろんな病気を持っています。病気のない子はいません。
  ここの子どもたちは靴が買えません。カンボジアで中古の靴が100円ぐらいで売られています。でも、その靴が買えないのです。だから裸足か草履でゴミの中に入っていく。するとガラスや鉄くずで足を切ってしまって、そこからばい菌が入って感染症、破傷風などの病気で死んでしまう。そういう子がたくさんいます。
  一方に、物があふれ、食べ物さえも粗末に扱い、ありがたさを知らない豊かな国があるかと思えば、もう一方には一日中ゴミの中で働いている子どもがいる。一度もお腹いっぱい食べたことがなく、いつも死と隣り合わせで生きている子どもたちがいる。このことを豊かな国の人たちになんとかわかってほしいと思います。
みんなが暮らせる家
 みんなが暮らせる家がほしい[TOP]

  私が初めてモンゴルを訪ねたのは6年前のことでした。貧しさのために親から捨てられた子どもたちが、寒さをしのぐために暖房用の温水が通るマンホールの中で生きていると聞き、足を運んだのです。
  80万都市のウランバートルは世界で一番寒い首都です。冬はマイナス30度が当たり前。外で眠っていたら確実に凍死してしまいます。
  この町では、郊外の火力発電所で石炭を燃やして電気を起こしています。そのときに一緒にお湯を沸かし、沸かしたお湯を送水管で町に運んで、ビルや建物の暖房に使っているのです。
  その暖房用のお湯が通るマンホールが町のあちらこちらにあります。地上はマイナス30度ですが、マンホールの中は10度前後まで上がる。ここなら生きていられるのです。
  親から捨てられ、住む家のない子どもたちが、寒さをしのぎ生き延びるためにはマンホールの中で暮らすしか選択肢はない。こうしたマンホールで暮らす子どもたちは“マンホールチルドレン”と呼ばれています。
  彼らの暮らすマンホールに実際に入ってみました。ひどい場所です。生きるためとはいえ、あまりのひどさに言葉を失ってしまいました。汚水がいっぱいたまって、ゴミが散乱して、息ができないほど臭い。懐中電灯で照らすと、たくさんのネズミとゴキブリがバーッと散っていきました。
  子どもたちはマンホールの中で横になって寝ているのです。私にその格好をして見せてくれました。これは動物ではありません。人間です。それも子どもたちです。人間がまともに生きられる環境ではないのです。
  マンホールチルドレンの実態を知るために、モンゴルの子どもたちのために活動しているモンゴル児童人権センターの児童保護施設に行ってみました。そこにはわずか6畳ばかりの部屋と3畳ほどのキッチンの家がありました。家は傾き、天井は穴だらけで、すきま風が入り込みます。
  そんな小さな家に13人もの子どもたちが暮らしていました。その中にいた8歳の笑顔のかわいいサイハンという少女が印象に残りました。
  半年ぐらいして2度目にモンゴルを訪ねたとき、またサイハンに会いました。私の顔を覚えていたらしく、ニコニコと笑顔でそばにやって来ました。すぐに仲良くなって、「サイハン、何かほしいものはないですか。おじさんが買ってあげるよ」と言うと、サイハンは真剣な表情で答えました。
  「おじさん、私はほしいものは何もありません。でも、一つだけお願いがあります。どうかみんながちゃんと暮らせる家をつくってください。冬になっても寒くない家を建ててください」
  私の手を握り、泣き出しそうになりながら訴えてきました。
  本当はサイハンにもほしいものはいっぱいあると思います。でも少女は、自分のことではなく、みんなのことを第一に考えたのです。兄弟のように暮らしている仲間のことに心を向けたのです。
  お金も何もないから心も貧しいと思うのは大間違いです。人間としての優しさや生きる力のたくましさ、人を愛する心は、貧しさの中で生きている子どもたちのほうが深くて大きいとさえ思うことがあります。そういう子どもたちに接すると、日本の子どもたちが人間として最も大切なことを忘れているのではないかと心配になることがあります。何でもありすぎて、大事なものを失っているのではないかと不安になります。
  サイハンの仲間を思う心、8歳の少女の大きな愛と深い優しさから、私たちは学ぶことがたくさんあるはずです。
お父さん、僕を捨ててくれてありがとう
 お父さん、僕を捨ててくれてありがとう[TOP]

  15歳のエルデネは前髪だけを茶髪にした、おしゃれな少年です。
  エルデネは遊牧民の家族とウランバートルから遠く離れた大草原で、牛や馬などの家畜と暮らしていました。貧しいけれど、父や母に愛された平和な日々でした。
  しかし数年前にモンゴルを襲った大寒波がエルデネの運命を変えてしまいました。マイナス60度もの信じられない寒さだったそうです。家畜が寒さのために凍死してしまい、エルデネの家族も暮らしていけなくなりました。
  食べ物がなくなり、一家は餓死するほど追いつめられました。父親は悩みに悩み、10歳のエルデネを都会に捨てることを決断しました。
  父親はエルデネを連れてウランバートルにやってきました。そして、国立デパートの前に連れてきて、彼の両手を握りしめ、涙を浮かべて言いました。
  「お前をここに置いていく。草原にいては餓死するだけだ。都会ならなんとか残飯を拾ってでも、物乞いをしてでも生きていくことができるかもしれない。寒かったらマンホールにもぐりなさい。お前を置いていくほうが、生きていける可能性が高いのだよ」
  父親はそう言うと、息子を置いて背中を震わせながら去っていきました。
  エルデネは父親の言うとおり残飯を食べ、マンホールに暮らし、生き延びました。その当時の生活について聞いても、あまり口を開きません。死ぬほど大変な思いをしたのでしょう。
  彼は今、ウランバートルの保護施設に暮らしています。彼のえらいところは、将来の目標を定めているところです。大学の先生になりたいというのがエルデネの夢です。その目標に向かって必死になって勉強しています。夜になると荷物運びなどの仕事をして、進学のためのお金を貯めています。
  10歳のときに親に捨てられたことをエルデネはどう考えているのでしょう。彼は私に言いました。
  「お父さんが僕を捨ててくれたことに感謝しています。家畜が凍死してしまい、食べる物もなくなった。そのまま遊牧の暮らしをしていたら、自分は死んでいたかもしれない。だから、お父さんがウランバートルまでやってきて僕を捨てたことに感謝しているのです」
  まるで何事でもないかのように話してくれました。
  愛するからこそわが子を捨てる親がいる。親に捨てられても「感謝している」と言う子どもがいる。モンゴルには、豊かな国に暮らす家族よりも、ずっと強い絆で結ばれた家族がいました。
私の夢はお父さんお母さんを探し出して
 私の夢はお父さんお母さんを探し出して幸せにすることです[TOP]

  ガントヤはまん丸顔に一重まぶたの細い目をした愛くるしい少女です。明るく素直で優しいガントヤの周りには、いつもたくさんの友達が集まっています。
  しかし、その明るさとは裏腹に、ガントヤのこれまでの境遇は私たちが想像もできないほど悲しいものでした。ガントヤは8歳のときに貧しさが原因で親に捨てられました。親は生きていて、どこか遠くの街で暮らしている、とガントヤは聞いています。
  ガントヤにはマンホールの中で暮らした経験もあります。右耳は上のほうにネズミにかじられた跡が残り、不自然に折れ曲がっています。
  ガントヤに何気なく尋ねてみました。
  「ガントヤ、あなたは大きくなったら何になりたい? あなたの夢はなんですか?」
  すると少女は信じられないことを口にしました。
  「私の夢は早く大きくなって、お父さん、お母さんを探し出して幸せにすることです」
  と、びっくりするぐらい真剣な表情で言ったのです。私は、「えーっ?」と聞き返してしまいました。8歳のときに捨てられ、悲惨な体験をした少女が、捨てた親を助けたいと言うのです。とても信じられない言葉でした。
  それだけではありません。ガントヤはさらにこんなふうに言いました。
  「お父さんお母さんが今どこでどのような暮らしをしているのか、ご飯をちゃんと食べているのか、とっても心配です」
  そう言って声を詰まらせ、ボロボロと涙を流し始めました。
  驚きました。もし私が幼いころ親に捨てられていたなら、心の底から親を憎んでいたと思います。一生、親を恨み続けたことでしょう。しかし、この少女は自分を捨てた親を憎むのではなく、今も深く愛し、早く大人になって幸せにしてあげることが夢だと言うのです。自分のことよりも親を心配しているのです。
  親に捨てられたモンゴルの少女から、私は人間の大きさと優しさを教えられました。この少女の大きな愛に比べて、自分自身が小さく思えました。ガントヤが一日も早く、お父さん、お母さんとめぐり会い、そして共に幸せに暮らす日がくるようにと、心から思っています。
貧しくてもみんな真剣に
 貧しくてもみんな真剣に生きている[TOP]

  アジアの子どもたちの大変な状況をお伝えしてきました。でも、実を言えば、私は日本の子どもたちのほうが心配です。日本には物はいっぱいあります。毎日三食のご飯が食べられます。飢えに苦しむということは考えられません。
  私が心配するのは心の内側の部分です。内面がとっても不安定なように思えます。貧しい子どもたちというのは、お金がないだけで、内面は意外としっかりしています。もしかすると長生きはできないかもしれないけれど、毎日を一生懸命に生きています。だから、目がキラキラと輝いていて明るいのです。こういう子どもたちとつき合って、感動させられた経験が何度もあります。
  5年前にモンゴルで出会った5歳ぐらいの少年の話です。彼は道を一人で歩いていました。ボロボロの恰好だから、マンホールで暮らしているのだなとすぐにわかりました。 そのとき私は1枚のガムしか持っていませんでした。だから、呼び止めてガムを手渡し、私のそばに座らせて話をしました。するとこの子は、1枚のガムを小さくちぎり出したのです。どうするのかと思って見ていると、しっかり5等分にしました。
  この子は4人のお兄ちゃんたちと1つのマンホールの中で暮らしているのです。私が会ったときは、そのお兄ちゃんたちはそばにいませんでした。だから一人で食べてしまっても、誰にも何も言われないでしょう。それでも丁寧に5等分に小さくちぎって、みんなを呼んで、分けて食べ始めたのです。自分が生きることだけで精いっぱいのはずなのに、仲間をとっても大事にしています。
  カンボジアにも大変な子がいます。その女の子の右足は義足です。10歳のとき、お父さんお母さんの畑仕事の手伝いをしていて地雷を踏み、右足を失ってしまいました。今は中学3年生。とっても成績優秀です。英語の通訳になることが夢だと言って、一生懸命英語の勉強をしています。
  でも、彼女の家庭は貧しいから、高校に行きたくても行けません。お父さんは彼女がとても成績優秀だと知っています。だから「畑を売ってもいいんだから、お前は勉強をしなさい。高校に行きなさい」と進学をすすめました。そうしたら、この少女は答えました。
  「本当に心の底から勉強がしたいし、大学までも行きたいです。でも、私にとっては勉強することよりも、お父さん、お母さんを楽にさせることが大事です。だから私は働きます」
  これはすべて目の前で交わされた会話です。この言葉を聞いたときにもまいってしまいました。こんなに優しい子がいるのです。
  われわれはこの子の教育支援をしようと思っています。なんとか支えてあげて、彼女の夢をかなえさせてあげたいと思っています。
足を失ったから一生懸命
 足を失ったから一生懸命生きることができた[TOP]

  カンボジアで出会ったある夫婦の話をします。奥さんはリンナという名前で、30歳です。リンナさんは10歳のときに地雷を踏んで、右足を付け根から失いました。
  子どものころはとても成績が優秀だったけれども、家が貧乏だったから、9歳ぐらいのときに自分の考えで学校をやめて、自分の住んでいるのとは別の州の農場まで働きに出たそうです。その農場で働いているときに地雷を踏んで、右足を失ったのです。
  リンナさんは、親を助けるために働きに出たのに、これでは逆に迷惑をかけてしまうと、死ぬことさえ考えました。たった10歳の子どもなのに‥‥。
  リンナさんはずっと「死にたい、死にたい」と思っていたけれど、ある日、たとえ右足がなくても一生懸命に生きなくてはいけないと決意したそうです。
  それから彼女は、学校に行っている友達の教科書とか古い本を全部集めて、必死になって勉強をしました。今はパソコンも使えるし、洋裁もできて、お店もやっています。そして4人の子どものお母さんでもあります。
  あるときリンナさんが私に言いました。
  「私は地雷を踏んで足を失ったことに感謝しています」
  びっくりして「なぜですか?」と聞くと、こう答えました。
  「私は右足を失ったからこそ、一生懸命生きることを意識できました。真剣に生きることができるようになりました。だから、今の幸せがあるのです」
  なんと立派な言葉なのかと、感心しました。
  リンナさんの旦那さんのオーンさんも立派な人です。彼も20歳のときに地雷を踏んで、右足を失いました。足を失ったあと、オーンさんも自殺しようとしたそうです。1年近く自暴自棄の日々でしたが、ある日、生きることが大事だと気づいたと言うのです。そして「生きてやる!」と決めたのです。
  そして、ここからが彼のすごいところです。
  オーンさんは「どうせ生きるのだったら健康な人よりもたくましく生きてやる」と決めて、体を鍛え始めました。義足をつけて、陸上や重量あげを始めたのです。今、かれは33歳になりますが、100メートルを13秒台で走ります。そして、なんとフルマラソンも走れるようになりました。
  私はオーンさんのように地雷で足をなくした人たちを日本に連れてきて、マラソン大会に出場させることを考えています。戦争の恐ろしさを伝えると同時に、どんなことがあっても一生懸命生きることの大切さを日本の子どもたちに伝えたいのです。
  どんな苦しい状況でも、あきらめないで生き抜いている人たちと出会うと、心の底から感動します。真剣に生きようとすればなんでもできるのだ、と思います。それを日本の子どもたちに知ってもらいいたい、見てもらいたい。そう思っています。
エピローグ
エピローグ 〜 一生懸命に生きること、それが最高のボランティア   [TOP]

  ボランティアには大事なことが3つあります。そのことをよくわかってほしいと思います。
  一つ目は、「理解する」ということです。知るということがとても大切なボランティアになります。貧しさが原因で毎日4万人以上の人たちが死んでいく。1年間では1500万人が死んでしまう。そのほとんどはなんの罪もない子どもたちです。それをよくわかってください。
  二つ目は、「少しだけ分けてください」ということ。100パーセントの愛はいりません。1パーセント、いや0.1パーセントでいいのです。
  私は餓死した赤ちゃんを抱いたことがあります。1リットルのペットボトルぐらいの大きさになって死んでいました。せっかく生まれてきたのに、すぐに死んでしまったのです。なぜかと言えば、お母さんがご飯を食べていないから、栄養不良でおっぱいが出なかったのです。ミルクを買えばいいと思うかもしれません。1カ月で300円もあればそれも可能でした。でも、それっぽっちのお金もなかったのです。だから、赤ちゃんは死んでしまったのです。
  ベトナムではマラリアで死ぬ子がいました。40度ぐらいの高熱で死んでいきます。
  薬は120円で買えるのに、それが買えない。私のカンボジアの友達は、100円の靴が買えなくて、割れたビンを裸足で踏んでしまって死にました。
  私たちにとっては小さなお金でも、それがないために死んでいく命がいっぱいあります。それをよくわかっていただきたいと思います。100円がなくて死んでいく人々がたくさんいるのです。私たちがこのような問題にちょっと心を向けるだけでも、間違いなく多くの命が助かります。優しい心をほんの少しだけでいいから、一生懸命生きようとしている子どもたちに分けていただきたいと思います。
  三つ目は、私が最も伝えたいこと。それは、一番大事なボランティアとは、誰のためとか、人のためとか、世の中のため、社会のために何かをすることではない、ということです。一番大事なボランティアは、自分自身がまず一生懸命生きること。私はそう思います。
  子どもたちの話をして、映像を見せて、かわいそうだから助けてちょうだいと言っているのではないのです。誤解しないでください。そういうことではありません。私が言いたいのは、あの子どもたちは、たとえマンホールの中に暮らそうが、ゴミ捨て場の中で暮らそうが、一生懸命生きているということです。どんな状況であろうとも必死になって生きている。だから大事にしたいと言っているだけなのです。
  ありあまるほどの食べ物がある恵まれた環境の中で暮らしている私たちですが、そうした豊かさが私たちに「命の尊さ」や「生きることの大切さ」を見失わせているのではないかと感じています。だからこそ、日本中の子どもたちがアジアの貧しい子どもたちから真剣に生きる大切さを学んでほしい。そして一生懸命生きることの大切さに気づいてほしいと思っているのです。
  だから、一番大切なボランティアは自分自身が一生懸命に生きることなのです。一生懸命生きる人じゃないと、本当の命の尊さはわかりません。真剣に生きる人じゃないと、人の痛みや悲しみは伝わってこないと思うのです。誰かのため、人のためではなく、自分自身が懸命に生きる。それが私たちにできる一番大事なボランティアなのです。
  理解すること、少しだけ分けていただくこと、そして自分自身が一生懸命生きること。この3つのことを心からお願いしたいと思います。
 
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